第35話 一日の終わり
手持ちの酔い止めが尽きるまで、四人はジェットコースターを乗り回した。ビーグルの背に乗る低空飛行は、つかの間の癒しになった。四十三メートルから後ろ向きで降下したときは、正吾も腹の底から声を出した。
「ラストに回してよかったね。今日はもう満足」
小夜の揺れる膝が、恐怖を物語っている。彼女を支える晃太朗も、心なしか顔が白い。けろっとしているのは朝陽だけだ。
疲れきった面々の耳に、大号泣が聞こえてきた。
「こわかったよぉぉー!」
「しょうちゃん、身長が伸びるの楽しみにしていたのに、思ったより怖かったな。食べたいって言ってたチュロス、あそこにあるぞ」
「食べりゅう」
泣き叫ぶ子どもの声は、昔の自分を思い出させる。背をさすってカートを指差す親の姿に、正吾は目をそらした。
「しょーご、まだお腹空いてるの? さっきアンガス牛のサーロインステーキを食べてたよね。コブサラダも、ガトーショコラも。珍しくブラッドオレンジなんて、こじゃれたカクテル頼んじゃってさ」
正吾の態度が、チュロスを食べようか我慢しているように感じたらしい。ダイエット週間を掲げていた朝陽は、正吾を恨めしげに見上げる。
「肉料理は酒を頼みたくなる。ちゃんとノンアルコールにしたんだ。運転手としての責務は忘れていない」
腹ぺこなのは、おでんしか食べていない昨日のツケが来ただけだ。四百グラムでは空腹を紛らわすことが難しかった。
正吾は自分用の土産に買っていたチョコクランチを、こっそり口に入れた。噛み砕く音が響かないように、溶けるまで沈黙を貫く。ホワイトチョコレートの甘みをじわじわと味わった。
「ショーの開演まで四十分前だよ? 朝陽以外、疲れきっちゃって。これじゃあ、いい席を取るのは無理そうだね。目と鼻の先なんだけどな」
「早歩き、頑張る」
「プロジェクションマッピング楽しみだね。小夜」
晃太朗は歩きつつ、三角形のイヤーカフをつけた。光のショーを見るだけなら、装飾品をまとう気になれる。アトラクションに乗るときは、吹っ飛ばないか心配だったはずだ。
コートのポケットで動く右手を見て、正吾は察した。いい雰囲気になってからプレゼントを渡すつもりなのだ。そうと分かれば、朝陽とともに距離を置こう。借りは早めに返したい。
正吾は歩を早める。目的地で、朝陽はぴょんぴょん跳ねていた。
「しょーご! 早く早く!」
ポーカーフェイスは剥がれなかったが、正吾の心は荒波が打ち寄せていた。
ミニスカートの中身が見えやしないか。キュロットだから平然としているだけか。思惑が読めない。
答えを返すのに時間を費やしすぎては、何度目か分からない罪を重ねてしまう。正吾は一般論を説くことにした。
「誰かにぶつかったら、朝陽も危ないだろう」
「ごめんって。プレミア席でも場所取りしないと、いい席なくなっちゃうからさ。こっちの方が空いてるかな」
朝陽に誘導されながら、小夜と晃太朗から遠ざかっていることに気がついた。正吾の思考は、朝陽によって塗り替えられていたのだ。マフラーの毛が鼻をくすぐる。
「いいね。その顔。ダブルデートの特典は、てんこ盛りじゃなきゃ」
フラッシュが発光し、正吾は肩を震わせる。赤や緑、金色に輝くツリーを撮るべきだ。街中に流れるクリスマスソングを口ずさむ、見ず知らずの人々が紡ぐハーモニーを。マフラーで顔を隠す姿なんて、どこに需要があるのか。
美しいものは正吾以外の全てだというのに、小さな太陽は唐変木を照らして止まない。実の親から与えられなかった言葉を、惜しげもなく降り注ぐ。
「ユニファに連れてきてよかった! また来ようね! しょーご!」
朝陽の顔が華やぎ、正吾は目を覆った。長時間のパソコン作業でさえ負担を感じなかったが、眩しすぎて目がくらみそうになる。
「しょーごにとって彼氏彼女の関係性は好きくないのに、朝陽のこと彼女って言ってくれて嬉しかったよ。 啖呵切ってくれたお礼、ちゃんと言ってなかったね。ありがと!」
「気をつけろよ。一人きりにさせると、ろくなことが起きないんだ。初めて会ったときも、自分がいなかったら無理やり連れ去られていたかもしれないんだぞ」
正吾の言葉に、朝陽は両手を合わせていた。唐突な祈りのポーズは、意図が掴めない。
「それは、ずっと二人きりでいさせてくれる解釈でよろしいか?」
あごに手を添えられ、正吾は身構えた。
「ち」
「ち?」
聞き返した朝陽の目は、笑っていなかった。
「違く……ない。心配したのは事実」
正吾は顔を背けた。ウールの繊維が鼻に当たって、こそばゆい。
「くっかわ! スクショのタイミングミスって、ショックなときの気分だよぉ。いい感じに見下ろされてるのに、中身は愛しかないってゆーね。はぁ。堪んねーな、おい」
低い声に正吾の首がぴくりと動いた。知らない朝陽の顔があった。乙女ゲームのときのテンションと、違う人格が混ざっている気がする。飛び出しそうな心臓を抑えるために、心の中でお経を唱え始めた。
「あっ。しょーご見て見て! プロジェクションマッピング始まったよ!」
広場は、ステンドグラスのような幻想的な空間に一新される。三十分ほど待たされても、朝陽は元気だった。
「歌声がいい。絶対プロのオペラ歌手いるって」
「そうだな」
目まぐるしく変わる背景に、正吾は朝陽の手を取っていた。空を舞う天使は、自分達にも微笑んでほしい。
「天使。幼稚園のときの劇で、私もあんな衣装を着てた! 洗濯で持って帰ったときに、着て見せたんだよね。思い出した! あのとき、初めてキスしたの。天使は愛を届けるんだよって」
真後ろの席で、小夜が晃太朗と見つめ合っていた。晃太朗はポケットからイヤーカフを出し、小夜の耳につける。
「遅いよ。俺の天使。堕天したときに記憶を消されたんじゃない?」
「もう忘れないよ。あのときより成長してるかどうか、キスで確かめて」
大輪の花火が打ち上がる中、それぞれのカップルは早い聖夜を楽しんだ。
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