第四話
視界が開ける。左頬に何やら固い感触がした。薄目で見てみるとそれは駅のベンチのようだった。いつの間に駅で寝てしまっていたのだろうか。重い目蓋をゆっくり開くと、電灯の鈍い光が目に痛かった。電灯?
僕は飛び上がる。あの廃駅に、電灯が点いている。しかもベンチをよく見ると、何だか新しめだ。その他にもホームのコンクリートや、屋根の支柱が記憶のものよりずっと綺麗に見える。どうして? 思考がまとまらない。
「来ちゃったんだ、こっちに」
ふと隣から声がした。振り向くと、そこには彼女がいた。あの頃と同じ姿勢で、じっと海を見つめている。でもその瞳には、その表情には、それ以上の感情の色が見て取れた。
「まさか来るとは思ってなかった。というか君は、ここに来るべきではないの。でもなんでかな。また君に会えて、すごく嬉しい」
彼女はこちらを向いてそう言う。あの頃よりも少し無邪気な笑顔をしていた。でも今目の前にいるのは間違いなくあの彼女で。この数日間焦がれていた彼女で。会いたかった。でもどうして。というかいなくなっていた間何をしていたんだ。そもそもここは一体何なのか。言いたいことは山ほどある。でも。
「僕も、嬉しいです。すごく」
結局オウム返しの言葉しか出てこなかった。いざと言う時に頭も舌も回らない。だけど、それこそが僕の一番言いたい言葉であるようにも思われた。
「ありがとう。本当はもっと再会を喜びたいんだけど、私にはやらないといけないことがある。君がここに来たからには、私は私のことを君に伝えなければならない。それは義務でもあるし、純粋に私自身の感情としても伝えたい。いいかな?」
彼女は切な表情で僕を見つめた。僕は軽く頷く。僕の返事を受け取った彼女は一度ゆっくりと瞬きをして、遠らかの星空を見つめた。そして小さく息を吐いて、言葉を紡ぎ始める。
「私にはね、幼なじみの男の子がいたんだ。歳は三個下。母親同士が仲良くて、その子とは小学生のころから仲良しだった。ただその子は、すごく身体が弱かった。私の前では気丈に振る舞ってはいたけれど、酷く苦しそうにしている様子を何度も見かけた。実際、外で遊び回ってるのなんて見たことなかったし、できなかったんだろうね。だから私たちが遊ぶとなれば必然屋内の遊びになるんだけど、あの子は特に絵が好きだった。しかも独特なのが、自分で絵を描くより、私が描いてるのを見てる方が好きだったんだよ。あの子が何かモチーフを選んできて、私がそれを描く。その様子をただじっと眺めてた。それだけで面白いの? って私が訊いても、屈託のない笑顔でうん、って言うんだよ。それで絵が完成すると、毎回本当に喜ぶの。お姉ちゃんは本当に絵が上手いって。その絵をいつもプレゼントしてたんだけど、あの子はいつもそれを眺めてた。ずっと、何度も。今考えれば、学校にもろくに行けなかったあの子にとって、それだけが唯一の娯楽で、私だけが唯一の友達だったんだろうね。私としても、あの子の裏表ない言葉で自分の作品を褒められることは嬉しかったから、私が高校を卒業するまでこの遊びは続いた」
そこまで言って彼女は一度口を閉じた。そして軽く口を開いて、また閉じる。数秒じっとうつむいて、空を見上げた。ようやく口を開く。
「そこで満足していれば、それでよかったのにね。どうして間違えちゃったのかな。私はね、欲を出しちゃったの。もっとちゃんと絵を勉強して、もっと絵が上手くなれば、あの子はもっと喜んでくれるんじゃないかって。それだけじゃない。そうすれば、もっと多くの人を私の絵で元気づけることだってできるんじゃないか、とも。だから私は、都会の美術大学に行くことにした。第一志望に合格することも出来たし、それを伝えたらあの子は自分のことのように喜んでくれた。この町を離れる日なんか、頑張って駅まで歩いてきて、直接見送りしてきてくれたんだよ。本当に、あの頃が私の人生の絶頂だった。そこで気づければよかったのに。
そして美大に入って、絵を勉強して一年ちょっと、それで私が気づいたことは何だったと思う?私はね、あの子のためにしか絵を描くことは出来なかったんだよ。ただ授業で絵を描こうと思っても、全然手が動かない。時間に追われてようやく描いたと思えば、先生に媚びるような絵ばかり。あの町にいたときのように、あの子の隣にいたときのように、純な気持ちで絵を描くことが出来なかったんだよ。私は酷い思い上がりをしていた。私の絵があの子を支えていたんじゃない。あの子が、私の絵を支えてくれていたんだ。そんなことを気づくのに、私は一年以上も掛かったの。馬鹿みたいだよね。だから私は、二年生の夏で美大を辞めて町に帰ってきた。私はただ、あの子のためだけに絵を描いていようと思った。でも、そんなの今考えれば都合が良すぎるよね。一度あの子を捨てた私が、もう一度あの子に救ってもらおうだなんて。
私が町に帰ってきたときにはもう、あの子は亡くなっていた。持病の発作で、突然。そこには、灰になったあの子と何にもなれない私だけが残っていた。それからはずっと、それこそ魂の抜けたように生活していた。そしてあっという間に、その年のお盆がやってきた。死者が帰ってくる日。でも、その日にあの子は帰ってこなかった。当たり前だよね。本当に帰ってくるはずがない。そんなこと最初から分かりきってたんだよ。けれど、なんて言うのかな。それで再認識しちゃったんだ。あの子との夢のような日々は、もう決して帰ってこないことを。今まで現実として理解できていなかったものを、理解しちゃったんだよ。それが、私の背中を押す最後のきっかけとなった。ホームの先へと、私を投げ出す一押しに。それで私はあの盆入りの日、あの駅で死んじゃった。それ以来、廃駅になってからも、あの駅は私のために取り壊されないでいる」
彼女はゆっくりと口を閉じた。その動作はまるで舞台に立つ役者のようで、それでいてとても自己完結的な所作でもあった。僕は何も言えない。下手な感想のひとつですらこの場所には不必要だった。彼女は涙が落ちるような速さでこちらを向く。
「それから私は毎年、あの年に町に帰ってきたのと同じ日から盆入りまでの間だけ、そっちの世界に帰ることが許されている。それで私はずっと待ってたの。何十回もの夏を通して。それでやっと今年に、待っていたものが来た。それが何だと思う?」
彼女の瞳は僕を見つめる。それは以前のような色ではなかった。まるで瞳の奥の奥まで透いて見えるようで、その先にある彼女の感情が僕を動揺させた。
「私は、君を待っていたんだよ。何にもなれずに死んだ私を、何かにしてくれる君を待っていた。君は私を、あなたの居場所にしてくれた。だから私は、もうそっちの世界に、そっちの駅に戻る必要はない。ありがとう。私の願いを叶えてくれて。とても嬉しかった、とっても」
やめてくれ。そんな、お別れみたいな言葉を言わないでくれ。
「そしたらもう分かるでしょう?こっちの世界は、こっちの駅は、あなたがいるべき場所じゃない。あなたが私を求めてここまで来てくれて、きちんと君にこんな話をできたのはとても嬉しいけれど、あなたにはまだあちらの世界で生きてほしい。大丈夫。お盆のうちはまだ電車が通じてるから、次の電車に乗ればきちんと帰れる」
やめてくれ。僕は。
「僕は、あなたとこの世界にいたい。あんな世界は嫌いだ。あっちの世界に、僕の居場所はないんだよ。僕の居場所は、あなたの隣にしかない。それなら僕は、帰る必要なんてないんです」
どうしてあっちに帰る必要があるのだろうか。その理由が、僕が生者であるというだけなら、こんな命なんていらない。彼女とこの世界で、ずっと絵を描いていられるのなら、どんなに素晴らしいだろうか。僕が僕の居場所にいられるのなら、それはどんなに素晴らしいのだろう。
「いいえ。君の居場所はあっちにもあるんだよ。だって君は、私とは違うから。君は、自分のために絵を描けるのだから」
彼女は、小さな子どもをなだめるようにそう言った。やっぱり僕は相変わらず、彼女の言葉の意味を理解できない。
「どういうことですか」
「一度言ったでしょう。私の隣を君の居場所にすることに、私の許可なんて必要ないって。それと同じだよ。君は君が決めた場所を、君の居場所にすればいい。君がそこに座って、そのスケッチブックを広げたならばもう君の居場所になるんだ。だってそうでしょう? あなたは自分のために絵を描けるのだから、『誰かのため』みたいに、自分以外の要因に縛られることがない。だから一度、あっちの世界で君の居場所を作ってきてごらんよ。私の横に来るのは、それが終わってからでもいいよ」
彼女はそう言って、いつの間に拾ってきたのだろうか、僕のスケッチブックを持って笑う。ずるい人だ。そんなこと言われたら、反論のしようがないじゃないか。僕は負け惜しみみたいに、答えの分かりきった質問をする。
「じゃあ僕があなたのところに行くまで、待っていてくれますか」
彼女は一瞬あっけにとられたような顔をして、またすぐ笑顔を作る。
「うん。待ってるよ。ずっと」
僕もつられて笑う。その先にこんな幸福が待っているのなら、あっちの世界で生きていってもいいかなと、そう思った。
「じゃあ電車が来るまでに、もうひとつだけお願いがあります」
「意外と図々しいね」
「図々しく生きてみろと誰かさんに言われたんです。最後に一枚、あなたの絵を描かせてほしいんです」
僕のその言葉に、彼女は少し頬を赤らめて頷いた。最後に鼻を明かせられたみたいで、少しだけ誇らしかった。
それから、僕はスケッチブックの最後の一枚に彼女の絵を描いていった。人物を描くのは初めてだったから苦戦したけれど、不思議と苦痛ではなかった。画用紙に鉛筆を走らせるその行為は、まるで僕たちの無言の対話のようだった。そしてようやく、彼女の絵が完成した。僕はそれを見せる。
「んー悪くはないけど輪郭がぼやけてる。髪の陰影とかももうちょっと気をつけた方がいいね。あとは骨格がぐちゃぐちゃだから、ちゃんとモチーフを見よう」
「酷評ですね」
「やっぱり自分は綺麗に描いてほしいからね。でも」
「空白のパズルは埋まっていますか?」
「うん、きちんと見つけたみたいだね」
そして自然と、二人の間に笑みが降りる。すると、遠くの方から甲高い警報音が聞こえてきた。お別れの合図だ。背後から電車の近づいてくる音が聞こえる。
「じゃあ、こっちに戻って来るまでに絵の練習もしておいてね。今度はもっと綺麗に私を描けるように」
「善処します。それまでちゃんと待っていてください」
「もちろん」
背後で電車のドアが開いた。僕は振り返ってそれに乗り込む。さよならはお互い言わなかった。きっと、もう僕たちには必要なかったから。
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