第三話

 次の日、彼女は消えていた。ホームのベンチには、二人分のスペースが空いている。ホームにも、線路にも、男女兼用のトイレにも、彼女の存在の跡すら残っていなかった。そして彼女を探そうと狭い駅舎の中を見渡したとき、僕は黒板に書かれた言葉に釘付けになった。


「ようやく電車が来たの」


そしてその言葉の下に、彼女の写真が飾られてあった。額縁の中で笑う彼女の色は白黒で、これじゃまるで遺影の―

 そこまで考えて、言いようもないほどの吐き気が喉を逆流した。なんで、なんで、なんで。そんな訳がない。だって彼女は昨日まで僕の隣にいただろ。彼女の声音も、肌の色も、その笑顔も、全部覚えてる。覚えてるはずだ。

 でも。目の前にある写真は厚く埃を被っている。その上にある言葉はほとんどかすれていて、もうずっと昔に書かれたみたいだ。これを見逃していた?そんなはずない。こんなものがあったら、最初にこの駅に来た時に気づいたはずだ。どう考えてもこの写真が置かれたのは、この言葉が書かれたのは、その後だ。でも、それがこんなに風化しているわけは―

 気持ちがまとまらない。心の中で言葉が氾濫して渦巻いているけれど、どのひとつも声にならない。結局吐くようにして咳き込んだだけだった。

 しばらく駅舎のベンチに寝転んで咳と動悸を落ち着かせて、僕はホームへと戻った。ここで待っていたら、彼女は今に戻ってくるかもしれない。彼女さえ戻ってきてしまえば、さっき見たあれこれなんて全てどうでもいいんだ。全部忘れてしまって、いつものように彼女の隣で絵を描こう。

 そう思いながら僕はホームのベンチへ腰掛ける。だけど、なぜだか全くといっていいほど落ち着かない。この夏毎日座っていたベンチなのに。寂れた線路も、その側で凜と咲く花も、空と海の青さも、普段と何も変わらないのに。ただ、隣に彼女がいないだけなのに。まるで見知らぬ土地にひとり放り込まれたかのように感じる。

 僕は気を紛らわせようとスケッチブックを取り出す。鉛筆を握って、その先端を白紙に向ける。今日はあの入道雲を描こう。いつものように、いつものように。

 そう強く念じても、どうして、手が動かない。指先がぷるぷると細かく震えるばかりで、アタリすら描けない。どうしてだよ。今までは、ずっとひとりで描いてきただろ。描けよ。描けよ。

 結局僕は、線の一本も描けなかった。廃駅が夜に呑まれて、僕はベンチを立つ。そしてスケッチブックから紙を一枚破いて、置き手紙を書いた。もうスケッチブックには、画用紙が残り一枚しか残っていなかった。


 薄ら明かりの朝が僕の目蓋に差し込んだ。僕は布団から這い出してカーテンを開ける。今日はほとんど一睡も出来なかった。昨日のことに、今までのことに、全く整理がつかない。僕はこれからどうしたらいいんだ。あの駅で彼女を待ち続けるのか。それとも探しにいった方がいいかもしれない。いや、そもそも彼女は探しにいけるところにいるのか?距離的な話ではなくて、もっと根本的な問題として。だって彼女はもしかしたら、この世にはもう―

 僕は頭を軽く振って脳裏にまとわりつく思考を振り払う。彼女のことを一切忘れてしまうという選択肢が僕にないのなら、家の中で考えていても仕方がない。ともかく朝ご飯を食べたら外に出よう。考えるのはそれからだ。

 寝間着から着替えて居間に出ると、祖母がちゃぶ台の前でお茶を飲んでいた。僕に気づくと、少し驚いたようにこちらを向いた。

「もう起きたんかい?」

「うん、ちょっと眠れなくて。朝ご飯食べていい?」

「はいよ、すぐ準備するからね」

そして五分後には、ちゃぶ台の上にご飯と味噌汁と昨日の残りの煮物が並んでいた。手を合わせて、丁寧に、でも急ぎめに食べ始める。

「ねぇ、今日はこれ食べたらすぐ出かけるからさ、お昼ご飯はいらないよ。適当に買って食べる」

僕は味噌汁をすすりながらそう言った。軽い事務連絡のつもりだった。でも祖母は手に持っていた茶碗をゆっくり置くと、重苦しく口を開いた。

「あの駅に、行くのかい」

僕も箸を持つ手が止まる。祖母にそのことを言ったことはなかった。

「どうして、知ってるの?」

「この前聞いたんだよ、前田さんに。一週間くらい前、あの駅の近くを通る用事があったときに、ここらへんでは見ない若い男の子が、ひとりで何かしゃべってる声が聞こえたって。最初は独り言かと思ったけれど、ずっと聞いてると何だか誰かと会話してるようで。でも相手方の声は聞こえないし、そっと駅舎からホームを覗いてみても、その男の子以外誰もいないどころか電話をしている様子もない。前田さんは恐ろしくなってしまったって話してたよ」

思わず息が詰まる。その男の子は紛れもなく僕だ。でも、そんな訳はない。彼女がいなくなったのは昨日だ。一週間前は普通に彼女は駅にいたし、僕たちはふたりで会話していた。そんなこと、疑いようもない事実だ。祖母の言うことが、何も理解できない。

「ねぇ、あんたは本当に不憫な子だよ。親が離婚して、しかもすぐ再婚だなんて。それはあたしの娘に問題があるよ。それはあんたの問題じゃないし、あたしはあんたの母親の母親として責任を感じてる。でも、ひとりで背負わないでくれよ。そんなに追い詰められるほどに。何もない空間に向かってしゃべるくらいなら、あたしにでも相談してほしかった。大丈夫。まだ間に合う。隣の街にいい先生を知ってるんだよ。中村さんとこのお嬢さんも、昔都会の仕事でノイローゼになったときにお世話になったって。今日その先生の病院に行こう。予約は取ってあるからさ。ばあさんはいつもあんたの味方だよ」

祖母はそう言って僕の手をつかむ。しわがれたその手は震えていた。そのことが、僕には理解できなかった。なんで僕が異常者扱いされているんだ?僕はただ、絵を描いていただけなのに。あの人と、一緒にいただけなのに。なんで。なんで。なんで。もう何も分からない。僕は祖母の手を振り払う。朝ご飯を半分も残したまま、ちゃぶ台の側から立ち上がる。早く行かないといけないんだ、僕は。そのまま玄関へ向かおうとすると、祖母がまた僕の腕をつかんだ。

「行かないでくれよ、後生だから」

その力はさっきよりもずっと弱かった。簡単に振りほどけるはずだった。一刻も早く彼女を探しに向かいたかった。でも、色々なことを諦めてばかりいた僕の身体は、終ぞ前に進むことはできなかった。


 それから三日間、僕は祖母の家から外に出なかった。祖母は、病院に連れて行かない代わりに、もうどこにも行かないでくれとのことだった。だからその間は、ご飯とお風呂と一、二時間ほどの睡眠以外の時間を、全て客間でひとり過ごしていた。そしていつの間にか今日はもう盆明けの日だ。カーテンから漏れ出ていた夕陽もその光を弱めていき、部屋には夜の色が満ちてしまった。

 どうしてこんなことになってしまったのだろう。僕はどこで間違えたのか。間違えたなんて思いたくはなかった。彼女と出会ったことを。彼女と過ごしたあの駅での時間を。

 あるいはもう、その思考自体が間違っているのか。あの人は、最初から存在なんてしていなかったのか。どこかで僕はもう狂ってしまっていて、あの人の妄想を生み出してしまっていただけだったのか。あの廃駅は、あの人の隣は、はじめから僕の居場所なんかじゃなかったのか。そんな破滅的な思考さえ頭をよぎった。実際、彼女の存在を証明できるものなんてありはしないのだろう。

 いや、あるはずだ。僕は立ち上がって、部屋の隅にうちやっていたスケッチブックを手に取る。ここ数日触っていないだけで、もう軽く埃を被っていた。手で少し払ってからページをめくる。そこには様々な角度から描かれたあの廃駅の風景があった。一枚、また一枚とページをめくるたびに、彼女の表情が、言葉が、鮮明に思い出される。ここは彼女がほめてくれたところだ。ここは逆にアドバイスをくれたところ。この波の様子はだいぶ細かく描き込んだから、彼女はとても驚いていたようだった。やっぱり、彼女がいないわけない。こんなにはっきりと彼女の様子を思い出せるのに、それが唯の妄想な訳がない。彼女に、会いたい。

 その時、ふすまが開かれた。暗い客間に、居間の明かりが真っ直ぐ滑り込んでくる。その明かりの前には祖母が立っていて、両手で固定電話の子機を握っていた。

「電話。あんたの母親から」

祖母は心配そうな声でそう言う。あの日以降祖母は余計僕に気を遣っていた。正直今は電話になんて出たくなかったけれど、いたずらに祖母に気をもませるわけにもいかなかった。僕はスケッチブックを抱えたまま、電話を取る。

「…もしもし」

「もしもし。代わったわね。連絡なんだけど、今日のうちに荷物まとめて明日帰ってらっしゃい」

「そんな急に、どうして」

「いいじゃない、別にそんな田舎じゃやることもないでしょ。明後日にお父さんの弁護士仲間の方がうちにいらっしゃるそうなのよ。それに間に合うためには明日のうちに帰ってこないと」

「そんなの、僕には関係ないでしょ」

「関係あるわよ。弁護士先生たちはうちがどんな様子なのかも見にくるのよ。それで家族円満に思われなかったら、お父さんのメンツに関わるの。いい、前の父親とは違って今のあなたのお父さんは立場の高い人なんだから、そこのところちゃんと理解しなさい。わかったね」

そう言って電話が切れた。耳を離すと、祖母が不安そうに僕の顔を覗き込んでいる。そして僕の脳裏には、母親の顔、そして父親とやらの顔も浮かんできた。みんな僕のことを、哀れむような目つきで見つめてくる。みんな、みんな、僕のことを何も知らないで。


 気づくと僕は電話を投げ捨てて、玄関を飛び出していた。田舎の夜は明かりもなく、ひんやりとした夜の空気が町を包んでいる。祖母に追いつかれる前に、僕はただ遠くに向かって走り出した。

 十分ほど走りつづけただろうか、さすがに息が切れて、僕は立ち止まる。息を整えてから顔をあげると、目の前にはあの廃駅があった。無意識にここへ向かっていたのか。ふらふらとした足取りで、駅舎へ向かう。三日間来なかっただけなのに、なんだか酷く懐かしいような気持ちがした。黒板の方はなるべく見ないようにホームへ抜けると、そこには昼とはまったく異なる様子の空と海が見えた。あのどこまでも純粋な青色は鳴りを潜めて、鈍重な藍色、黒と言ってもいいかもしれない、が視界を覆っていた。ホームの方は、電灯がついていないせいかあまりよく見えない。でも、もしかしたらその闇に隠れて、彼女がいるかもしれない。そんな、最後の淡い希望をもって僕は歩みを進める。でも、ベンチには誰もいなかった。いや、あるいはもっと先には。もう一歩先の暗闇には。そう思いながら踏み出した僕の脚は空を切った。そこはもうホームの端だった。バランスを崩して、線路へと転がり込む。一瞬の後、背中に鈍い痛みが広がった。雑草が伸び放題だったおかげか思ったよりは痛くないけれど、それでもなかなかの高さだ。起き上がる気力も起こらない。

 何だよ、もう。何もかもが嫌だ。僕は色々なことを諦めてきたのに。上手く生きられるように努力してきたのに。どうしてこうなるんだ。あまりに理不尽じゃないか。それか、むしろ順当な仕打ちだとでも言うのか。諦めてばかりの人生には、こんな惨めさがお似合いだってことか。もう、疲れた。

 その時。遠くから甲高い音が聞こえた。カンカンカンカン、と規則的に鳴っている。踏切の警報音? 僕は身体を起こした。その音に混じって、地鳴りのような低い音も聞こえてきた。しかもそれは、かすかに近づいてくるようだ。立ち上がって、音の聞こえてくる線路の先を見つめる。緩やかに曲がったカーブの向こうから、蛍のような小さな光がふたつ、並んでこちらに向かってくる。それらはどんどんスピードを上げて迫ってきた。僕は動けない。その光が電車のヘッドライトだと気づいたときには、もうそれは僕の目と鼻の先まで近づいていた。途端、視界がブラックアウトした。

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