第二話
次の日もあの人はそこにいた。相変わらず、空と海はどこまでも青色で、入道雲はいやになるほど眩しかった。彼女は昨日と同じ姿勢で海を見つめ、その肌は作り物と見紛う白さをしている。この駅の中だけ、時間が止まってしまっているみたいだ。僕は彼女の隣に座る。
「こんにちは」
「こんにちは」
僕たちはまるで当然であるかのように挨拶をした。まだ出会って二日目なのに。それでもなぜだか、そのことに疑問を感じていない自分もいた。
「今日も絵を描きに来ました。完成したらまた見てもらえませんか」
「うん、もちろん。待ってるよ」
彼女はこちらを向いて微笑む。軽く弧を描いたその唇に、何だか少し恥ずかしくなってしまった。
その後は、またホームの中に静寂が降りた。たびたび、鉛筆がスケッチブックの上を走る音が鳴るだけ。でもその静寂は不思議と気まずいものではなかった。部屋の電気を消した後の静けさのように、あるいは音楽が鳴り止んだ後の空白のように、それは自然なものであるように感じられた。隣の女性も、この青い後景に完全に溶け込んでいた。
そして今日も、三時間ほどかけて絵が完成した。今回はちょっと攻めた画角で、雑草の茂った線路脇にすらっと伸びる、淡い紫色の花を中心に描いた。たびたび潮風になびいてその形を捉えることが難しかったけれど、なんとかその凜とした雰囲気を画用紙に落とし込むことが出来たように思う。僕が彼女に声をかけると、彼女はゆっくりとこちらを向いて、少し身を乗り出して僕の絵をのぞき込む。彼女の頭がすぐそこまで近づいて、僕は目のやり場に困ってしまう。とっさに遠い入道雲を見やった。
「なかなか面白い構図だね。でもよく描けてるよ」
涼やかな声で彼女はそう言う。変に緊張してる僕が馬鹿みたいだ。
「ありがとうございます。何か改善点とかありますか?」
「そうだね、強いて言うならちょっと線がブレてるかな。見えないところもちゃんと想像して描いてみるといいよ。でもやっぱり一番は」
「ジグゾーパズルのピース?」
「そう」
彼女は頷く。やっぱり簡単にはそれは分からない。スケッチブックをにらんでも、そこには何かが足りないことしか分からない。空白の正体が、僕の頭の中で雲のように浮かんでは消えていく。僕の絵には、僕には何が足りないのだろう。
「けれどそれを抜きにしても、本当に上手いと思うよ。絵画教室とか、部活動とかやってるの?」
唸る僕に、彼女はフォローを入れてくれた。僕は首を振る。
「いや、特に習ったりは。ただ絵を描くのは昔から好きなんです」
小学生の頃から、一番ノートの減りが早かったのは自由帳だった。少なくとも体育よりは、図画工作の時間を楽しみにする小学生だったように思う。
「独力でここまで描けるのなら、たいしたものだと思うけれど。部活動もしてないのは、ちょっともったいない気もするな」
「いや。なんていうかな、そういうノリじゃないんですよ」
「ノリ?」
「そうです。僕の高校って、あんまりそういう雰囲気じゃなくて。文武両道こそ高校生らしいんだって感じです。僕の友達も、絵を描くなんてオタクっぽいよなって言ってて。だから諦めました。親もいい顔しないし。弁護士の息子はもうちょっと利発であるべきらしいです」
僕は諦めがいいんだ、昔から。ずっと好きだった絵を好きだと言うことすら諦められるくらいには。そうやって言葉にしてしまえば悲しい限りだけど、この性格のおかげで他人と無難にやり過ごせているのだから、長所ということにしている。
「そう、なんだね。なら仕方ないか」
「え?」
ちょっと拍子抜けの返事に、思わず声が漏れてしまう。
「どうしたの?」
「いや、てっきり慰められるかと」
「慰めてほしかった?」
「そういうわけでは、ないけれど」
経験として、そういうことを言ったら基本慰められると予想していた。それは理不尽だね、周りの人は不躾だね、と。その慰めに心がこもっているかは別として。でもそう言ってしまえばやっぱり僕は慰められたかったみたいで、ちょっときまり悪い。なんとなくうつむくと、彼女はかすかに笑って言った。
「だって君は、そのノリみたいなものと上手く付き合っていくことにも価値を置いているんでしょう?私にはよく分からないけれど。それなら私は、下手な慰めでそれを否定したりはしないよ。だから君は、そのままでもいいのだと思う。君がそう決めたのなら。でも」
「でも?」
「君はここでは、私の前では、絵を描いてもいいんだよ。絵を好きだと言ってもいいんだよ」
そう言った彼女の頬は染まっていた。夕陽のせいかもしれないけれど、それを言及することに意味はなかった。
「まあそんなこと、私が許可するようなことでもないけどね。君がそう決めたなら、それで全部だよ」
僕は視線を逸らして、軽く頷く。その動作がいかにも子どもっぽくて自分でもあきれてしまうけれど、この自分の気持ちに対して適切な言葉が見当たらなかった。胸の中に浮かんでいた雲みたいなものが、ひしと質量を手にしたような感情。でもそれは、後ろ向きなものであるようには感じられなかった。
それからあの廃駅は、僕にとっての居場所になりつつあった。彼女の隣に空いた一人分のベンチのスペースが、僕のための場所であるように感じられた。それはもしかしたらただの錯覚かもしれないけれど、少なくとも家や学校の中では感じられない感覚だった。
そして彼女も同様に、僕の心の中に居場所を占めつつあった。僕がこの廃駅に訪れる理由は、次第に絵を描くだけではなくなっていったように思う。その後に彼女と話をすることが、僕にとっては欠かせないものとなりかけていた。僕は彼女に色々なことを話した。学校の友人は親友とは言えないこと、両親が離婚したこと、新しい父親とそりが合わないこと、祖母は優しいけれど僕に何だか気を遣っていること。こんなに自身の内面を人に見せることなんて今までにはなかったけれど、彼女に対してはなぜだか抵抗がなかった。彼女は、現実に対する影響力というか、現実に干渉する力が他の人に比べてあまりに少ないように感じられたのだ。僕の言葉は、全て彼女の深い瞳の中に吸い寄せられて消えていくようだった。それはまるで、白い雲が青空の奥に消えていくように。でもそのあり方は、僕にとっては心地良いものだった。
けれどやっぱり、彼女に関して僕が踏み込めないことも多々あった。一度、彼女を驚かせようと思って早朝から廃駅に向かったことがある。昼頃僕が駅に着くと、いつも彼女が先にベンチに座っているので、その先回りをしようと思ったのだ。でもその日も、彼女はそこにいた。まだ陽も明けて間もないのに、彼女は普段と同じ姿勢でほの暗い地平の先を見つめていたのだ。どうしてそんなに早くいるのかと訊くと、私は待たないといけないから、とだけ答えた。彼女は何を待っているのか、なぜ待っているのかまでは、僕には訊くことができなかった。
そんな生活が日常になって、三週間ほど過ぎた。僕は普段のように駅のベンチに座って、横には彼女がいる。この夏毎日を共にしてきたスケッチブックは端がよれて、使用感が目に表れている。ぱらぱらと中身をめくっていると、もうほとんどのページが埋まっていることに気がついた。なんとなく達成感がある。そしてそのうちの一枚に、隣の彼女が目を留めた。
「なに、これ」
彼女が指をさす。そこには割り箸の脚が生えたなすときゅうりの絵がある。
「ああ、これは今日家で練習として描いてきたんです。もうお盆だから、祖父がそれに乗って帰ってこれるように、って祖母が作ってました」
精霊馬って言うんだっけ、確か。あんまりそう言った風習には詳しくないけれど、風情があって僕は結構気に入っている。すると彼女はスケッチブックから目を離して、「そっか、もうお盆か」とだけ呟いた。こちらからは彼女の表情はよく見えなかったけれど、その声音はいつもよりか細いように感じられた。
「死んだ人は、そんなものには乗ってこないよ。死者を運ぶのはもっと絶対的で、無機的なもの」
彼女は、今度はこちらを向いてそう言った。その瞳は切実だった。僕にはその瞳の意味が分からなかった。
そしてその後は同じように絵を描いて、彼女に見せて。やっぱり何かが足りないという意見で一致して。一時間ほど雑談して、空の色が変わり始めたので僕は帰る準備をした。今日も普段と全く変わらない流れで一日が過ぎて、彼女も普段と同じような様子だった。だけど何かがいつもと違うような感覚もあった。そんな違和感を抱えたまま僕はベンチから立ち上がって、駅を抜けようとした。
「ねぇ、私は」
背後から声がした。彼女がこちらに振り向いていた。
「…ううん、やっぱり何でもない。言いたいこと忘れちゃった」
少し間を置いて、彼女は呟いた。その間には、今まで見られなかった逡巡みたいなものが感じられた。それは純粋に僕の興味を惹いたけれど、かといって追及する言葉を僕は持ち合わせていなかった。僕は結局、「思い出したらまた教えてください」とだけ返した。彼女は何も言わなかった。
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