第一話

 祖母の家に、もといこの海辺の町に来るのも随分と久しぶりだ。ここ二、三年は色々なことが忙しなかった。中学を卒業して、高校に入学して。身長が少し伸びて、でも体重はあまり増えなくて。名字が変わって、住む家すら変わったけれど、大きくなったその家に僕の居場所はなかった。お母さんと、新しいお父さんと呼ばれる人のためだけにあるあの家から抜け出して、僕は夏休み初日から祖母の家へと転がり込んだ。この町にだって何か楽しいことがあるわけでもないけれど、息が詰まるようなあの家でなければどこだって良かった。きっとあの人たちも僕がいなくてせいせいしているだろうし、祖母の作るお萩は美味しい。

 そんな僕の、ここでの唯一の娯楽は、目に映る様々の風景を描くことだった。田舎町の素朴な原風景だって、見慣れてしまえば殺風景だけれど、くすんだ色をした東京よりはよほど鮮やかに目に映る。それらと向き合いながら、自分の意識を真白なスケッチブックに向けているその間だけ、僕は僕自身を取り囲む面倒なあれこれを忘れられるような気がした。

 だから僕にとって絵のモチーフはさほど重要ではなくて、ある程度難易度があって時間がかかるものであれば何でも良かった。だけれど、いや、だからこそか。なかなか良いモチーフが見つからない。先の三日間はぶらぶら祖母の家の近所を歩いていればぴんとくるものが見つかったけれど、この何もない田舎町ではめぼしいものは描き切ってしまった。そこで今日は、ちょっと足を伸ばしてこの町のメインストリートを西へ進んできた次第だ。まあ、メインストリートと言ってもあるのは町役場くらいで、あとは家やら田んぼやらお地蔵さんやらがまばらに並んでいる。比較的道幅が広いからその名を冠していられているだけの道だ。

 

 いや、もしかしたらそれだけではないのかもしれない。僕がそう気づいたのは、二十分ほど歩いて、もう周りには生活の影がひとつも見えなくなった頃だ。このメインストリートの西の果て。空き地と海に囲まれたそこには、ぽつんと廃駅が建っていた。道路の延長線にちょうど駅舎の入り口が重なるようになっていて、その木造の駅舎を抜けた真正面に海が広がっている。そしてもう使われなくなった線路が、海岸線に沿って駅から左右に延びているのが見える。

 このメインストリートは駅に続く商店街だったのか。だけど駅自体はもうずいぶんと前に廃止されてしまったのだろう。駅舎は見る限りぼろぼろで、駅の名前さえ確認できない。おそらく駅前広場や商店街があった場所は全て空き地になっていて、田んぼと家しかない祖母の家の周りの方がまだ栄えていた。

 どうしてこの駅舎だけ取り壊されていないんだろう。それが少し気がかりだったけれど、それよりも、海沿いの朽ちた駅という題材は僕の絵に最適であるように感じた。その上ここならきっと人も来ない。僕はメインストリートの端のさらに向こう、駅舎の中へと足を踏み入れていった。


 駅舎の中は、予想通り、といった感じだった。左手には駅員さんがいたと思われる窓口があったけれどもちろん人気はない。右手の壁沿いにある木造のベンチは、その背後の窓から差し込む日光のせいか、日焼けして傷んでいた。そして正面の壁には黒板がある。僕には想像もできないけれど、携帯電話もなかった時分、駅で待ち合わせるための連絡手段として使われていたらしい。一応証拠として、かすれた文字で様々な約束が書かれている。これらの約束が果たされたのかどうかは、今や確認するすべはない。

 僕は黒板から目を逸らして、その横にある出口へと目を向けた。ここからホームへと繋がっているのだろう。僕は、もう誰も拒まない改札を抜ける。


 視界が青くなった。上半分は空の青。下半分は海の青。そのふたつの青は違う色味をしていたけれど、もとは同じ色であるように錯覚した。最初はただ純粋な青色だけが存在していて、その後で上半分に白色を、下半分に黒色を少し混ぜたみたいだ。これらはずっと先の地平線で交わり、その色を曖昧にしている。その景色をずっと眺めていると、空と海が別物である方がおかしいようにも感じられた。

 僕はこの錯覚に少しめまいがして、ピントを手前に合わせる。そこには海に向かいあうようにホームがあった。単線の線路に沿ったホームに、簡素な作りをした屋根が影を作っている。その影の下には、ベンチがひとつ。その安っぽい青色が背景の色といやに不釣り合いだったけれど、僕の注意はもはやそこに向いていなかった。僕は、そのベンチに座っている女性に釘付けになった。

 その人は海を向いていた。表情は見えないけれど、背筋をぴんと伸ばして、首を前に向けて動かない。つばの大きな麦わら帽子から栗色の長い髪が伸びて、風に合わせてふわりと揺れている。全身を白いワンピースが包み、腰回りに細いレザーベルトが巻かれていた。礼儀正しくそろえられたひざに置かれたふたつの手は陶器のように真白で、今にも消えてしまいそうだ。この空間においてあまりに異質で、それなのにあまりに自然なその人の様子に、僕は目が離せずにいた。

 ふと、その女性がこちらを振り向いた。当たり前に、こんなにじろじろと見つめられては視線を感じるのも当然だ。女性は僕を認めると少しだけ驚いたように口を半開きにして、軽く微笑むと身体を少しずらした。ベンチには一人分の空白が出来ていた。ベンチに座りたいのだと思われてしまったらしい。何だか気まずくて仕方がないけれど、ここでそのまま去っていくのも逆に不自然だろう。僕は観念して、ベンチの端に浅く腰掛けた。


 それからどれくらいの時間が経っただろう。時計を確認していないので正確には分からないけれど、きっと五分も過ぎていない気がする。僕の目の前にそびえ立つ入道雲は、ベンチに座ったときからほとんど位置を変えていなかった。でも、僕の体感としては三十分は優に超えている。隣に人がいる状態じゃ絵なんか描けないし、ましてや知らない人と二人きりなんて。気まずさが胸の中で水銀のように対流して、僕は耐えきれず横目で女性の方を流し見た。女性は先ほどから姿勢も変えず、海の方を見つめていた。その瞳は濡れたように黒く、ただ空と海との風景だけを映し続けていた。そこからは、奥にあるはずの感情や意図みたいなものが読み取れない。その様子はこの空か、あるいは海によく似ていた。

「こんなところで、何をしてるんですか」

思わず言葉が零れた。その言葉は彼女の瞳へと吸い込まれていくようだった。彼女は視線を動かさないまま口を開く。

「待ってるの」

「何を?」

「そんなの、決まっているでしょう」

「電車、ですか」

彼女は肯定も否定もしなかった。その代わり、ふとこちらに顔を向けた。純粋に、綺麗な人だと思った。

「この駅に、電車は来ませんよ」

僕は何だか照れてしまって、逆に目線を海の方へと向ける。視界にはもう何十年も使われていないだろう錆びた線路が見えた。

「そんなの関係ないの。私はただ待っているだけ。電車が来ようが、来まいが」

そうですか、とだけ僕は返す。この問答の間で、この人の内面をわずかにも垣間見ることが出来なかった。ならきっと、僕がさらに何かを訊いたって、彼女に関して本当に理解できることなんてないのだろう。この諦めの良さは、僕の数少ない長所だと思っている。

「ねえ、あなた、絵を描くの?」

すると、今度は彼女の方から話しかけてきた。彼女の視線の先には、僕が手に持つスケッチブックと、鉛筆の入ったペンケース。何だかその様子があからさまに絵描きという感じで、いやに気恥ずかしかった。

「はい、まぁ。一応」

「どんな絵を?」

「風景画、とかです」

「もしかしてここに来たのも、絵を描きに?」

僕は軽く頷く。それを見て、彼女は少しだけ目を細めると口元をきゅっと結んだ。それは一瞬だったけれど、ほんのわずかに彼女の感情みたいなものが読み取れるような気がした。

「だとしたらじゃましてごめんなさい。私のことは無視していいから、お好きに描いて」

「いや、別に大丈夫です。他のところを探すので―」

「私も昔、絵を学んでたの」

僕の半分上がっていた腰を、その彼女の言葉が引き留めた。

「だから私は、あなたの絵が見てみたい。それは、だめかな」

僕はベンチに座り直す。僕の心の中を探してもきっと、この彼女の言葉を否定する動機は見つからない。


 それから僕は三時間ほど、スケッチブックの四枚目に鉛筆を走らせていた。さすがに女性をモチーフにするのは恥ずかしいので、彼女の反対を向いて、空と海との地平へと消えていく線路を描いた。僕がスケッチブックに向き合っている間、彼女は僕の絵をのぞき込むこともなく、ずっと海を見つめていた。普段は周りに人がいる状態では全く絵に集中できないのに、今日ばかりはなぜだか一人の時と同じように集中することができた。

「完成しました」

僕がそう言うと、彼女は僕の方へと向き直した。いつの間にか太陽は西の空へと暮れかかっていて、彼女の白い頬を茜色に染めていた。

「すごい、とても上手く描けてる」

「あ、ありがとうございます」

ストレートな褒め言葉に、動揺した返事をしてしまった。恥ずかしくなって目線を合わせられずにいる。

「ここの波の具合もきちんと黒の濃さで描き分けられているし…あとこの線路の描き方もいいね。全部均一に描かずに細かな違いを丁寧に表現してる」

さすが絵を学んだことのある人だ。僕が力を入れて描いたところを的確に見抜いている。でも、この絵には。

「でも、この絵には何かが決定的に足りていない」

彼女はそう言った。さすがに少しびっくりしてしまう。

「僕も全く同じこと考えてました。やっぱりわかりますか」

「うん。それが何かわかる?」

「いや、全く。何が足りないのか分からないから、だいぶ困りました」

「それは、真白なジグゾーパズルのピースなのだと私は思う」

ふいに彼女はそう呟いて海の方へと向く。夕陽の端が地平に掛かっていた。

「例えばあなたは、全ピースが真っ白なジグゾーパズルを解いているの。きっととても難しいだろうけど、ひとつ、またひとつとピースを埋めていく。たくさんの時間をかけて、あなたはようやく残り一ピース、というところまでこぎつける。でもそこで、最後の一ピースをはめないとしたら? 一ピース分だけ空いた真っ白なジグゾーパズルを、真っ白な背景に飾ったら、どうなると思う?」

「……空いたところの背景も白色だから、遠目からじゃピースが足りていないってことに気がつかないかもしれないです」

「そう。他の人は未完成なジグゾーパズルを見て、完成していると信じて疑わない。あなた以外の、全ての人が。でもあなたは手に、残りの一ピースを持っているの。確かな質量と確かな感触をもって。そのピースこそが、この絵に足りないもの。あってもなくても誰も分からない、でも確かに存在している。そんな空白があなたの絵には必要なのだと私は思う」

 酷く難解な話だ。でもきっと、それは彼女のせいではないのだという気もする。彼女は独特な感性の中に生きていて、世界にある言葉がそれに追いつけていないのだ。たぶん。だからこんな比喩を使わざるを得ないし、それはどうしても不完全になる。彼女の言葉には、どうもそのような雰囲気が感じられた。どちらにしろ、普通の感性に生きる僕は完璧には理解できない。

「その空白が何なのか、僕にはわかりません」

そっか、と彼女は呟く。その表情は先ほどと変わらないようだったけれど、海に反射した夕陽は、彼女の表情を物憂げに見せた。

「でもそれを、僕は理解したい」

僕はそう続ける。彼女はこちらに向き直していた。

「どうせ完全に理解することなんてできないです。でも、理解しようとしたい。僕の絵には決定的に足りないところがあるのに、それを分かっているのに、理解しようとしないのは気持ちが悪い。僕はこの絵を通して、僕自身を理解しようとしたい」

僕は絵を描くことを通して、自分自身を見つめてきた。僕は諦めが良いから他人への理解なんてとうに諦めていたけれど、せめて自分だけは理解しようとしていたいのだ。僕にとって絵を描くとは、そういう行為だ。

「私は待ってるよ、この駅で。明日も」

すると彼女はこう言った。空と海は夜の色になりかけていた。

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