美しかった妻の体を、あらかた食べ尽くしてしまった後。私は血にまみれたままの姿でベッドに入り、眠りに落ちていた。あらゆる感情が一気に爆発してしまった後の、途方もない疲労感もあっただろうが。それは、私の内臓が、私の内なる欲望が。ようやくにして満ち足りた、満ち足りてくれたからこそもたらされた、底のないほどの深き眠りだった。そのまま目覚めなくともおかしくないくらいの、まさに死んだようなその眠りから、私を呼び覚ましたのは。これ以上ない腹部の不快感だった。


「うおおおお!」


 私は思わず両手で腹を押さえ、叫び声を上げた。これまでに感じていたような、ふるふると痙攣するとか、そういうレベルではなかった。腹の中で、私の内臓が、上へ下へとまるで小躍りするかのように跳ね回っていたのだ。「うおおお! ぐう……」例えようもないその痛みに、私はベッドに横たわったまま嘔吐した。それでも内臓は、その動きを止めなかった。内蔵が激しく動き、腹の内壁に鈍い音を立ててぶつかる度に、私は何度もうめき声を上げていた。もう、内臓そのものが、自らの意思を持っているとしか思えない動きだった。


 そこで、私の脳裏にある考えが浮かんだ。もし、私の内臓が、私の想像通りに。気の狂った私の頭の想像通りに、独自の意思を持ってしまったというのならば。それは一体、何がしたいんだ。何を訴えようとしているんだ? 私は苦痛に転げ回りたくなるのをなんとか我慢し、ベッドの上で仰向けになり。体をまっすぐに伸ばし、自分の内臓の意図するものを読み取ろうとした。そして、気付いた。



 こいつは……私の内臓は。「そこから」出たいんだ!


 服を脱いで裸になり、体を仰向けにして横たわっていると、私の腹部が、内側からの圧力により、ぼこんぼこんと何度も膨らむのが見えた。腹の中で、内臓が下から上へ、つまり私の腹の内壁に向かって、あたかも体当たりをするかのように繰り返しぶつかっているのだ。それはまぎれもなく、閉じ込められているその場所から解放されたいという意思の表れだった。


 ようやく私は理解した。これだったんだ。あの作家仲間の言っていた、未開の地の長老が外部に持ち出すのを禁じていた、「新しい生命が宿る」とは。彼自身の言葉である、成すべきこと、果たすべき使命とは、まさにこの事だったのだ。


 もはや疑いようもなく、私は自分とは全く違う命を体内に宿していた。そして私はその事に対し、なんら悔やむ気持ちは起きなかった。作家仲間を恨む事も、浅はかにも軽い気持ちであの水を飲んでしまった自分に腹を立てる気にもなれなかった。今の私を支配していたのは、そういった自責の念ではなく、あるひとつの使命感だった。


 私は、こいつを、


 なぜかもうその事に、怖れはなかった。むしろ、自分がその使命を帯びた事に対し、誇りのようなものさえ感じていた。よくぞ、私を選んでくれた。この崇高なる使命に。私は、自分がこの世に生まれ、これまで生きてきた意味が、全てこの日、この時のためにあったのだと確信していた。あの作家仲間に出会い、謎めいた水を飲み。そして生肉を食らい続け、更には妻の体までも貪り食った事が。今ではそれら全てが、必然だったのだと思えた。それはみな、私がやらなければならない事だったのだ。そして、今。私はこの使命を、やり遂げなければならない。例えその事により、自分の身がどうなろうとも。


 私は、枕元にあったペーパーナイフを右手に握ると。あまり深く刺し過ぎないよう――跳ね回る内臓を、新しい命を傷つけないよう気をつけながら、自分の腹部にその刃先を突き刺した。「うぐう!」新たな痛みが私の全身を駆け抜ける。刃先の刺さった部分から、真っ赤な血が滲み出る。しかし私は痛みをこらえ、ナイフの柄を、両手で更に強く握り締めた。私がこれからしようとする事の意図を感じ取ったのか、跳ね回っていた内臓は、腹の下の方、背中側にへばりつくようにじっとしていた。それを確認した私は、握ったナイフを、刺した箇所から刃先を抜かずに、そのまま一気に腹の下方まで押し下げた。


「ぐおおおおお!」


 私の腹は、肋骨の下辺りから、臍を通過し、性器のすぐ上の部分まで、パックリと切り裂かれた。あまりの激痛に、私はこらえきれず、持っていたナイフを床に落とした。だが、まだだ。このままでは駄目だ。私は痛みに震える両手の指先を、腹の切れ目の中にずぶっと差し入れ。そして、ありったけの力で、その裂け目を左右に押し広げた。


「ぐがあああああ!」


 もう、気を失わずにいるのが不思議なくらいだった。押し広げた腹の裂け目から、どくどくと血が溢れ出している。出血の多さのせいか、裂け目を押さえている両手にも、徐々に力が入らなくなり。少しずつ視界もぼやけ始めた。


 その、時。


 私の、血にまみれた腹の裂け目から、ごぼごぼと音を立てて。私の胃が、腸が、いとしい私の内臓たちが。その姿を現し始めた。まるで、土の中から草木の新芽が立ち上がるかのごとく。私の内臓は、ゆっくりと、永い眠りから醒めたかのように、私の目の前にそそり立った。血に濡れ、かすかにぷるぷると震えるその姿は、生まれたての赤子を思わせる初々しさを感じさせ、同時に何か言い知れぬ神々しさをも湛えていた。


「おおおお……」


 これが、新しい命か。私が宿した生命か。私は震える両手を、まるで我が子を抱くかのように、立ちはだかる内臓の両側にそっと添えた。そして、内臓は――私のすぐ目の前で、頭をもたげるように胃がそびえ立ち、胃の下ではそれを支えるように肝臓がどっしりと居座り。その背後に、大小の腸がうねうねと静かにのたくっている――その姿勢のまま、横たわる私の顔を見下ろしていた。それはあたかも、私の事を目のない顔で見つめているかのようだった。


 私はしばし、私の内臓と見つめ合った。成すべき事はわかっていた。ただ、ほんの少し名残惜しかっただけだ。自分の一部を失ってしまうという喪失感ではない。例えるなら、成人し一人前になった我が子が巣立っていくのを見送るような心境と言うべきか。私は、自分の中で生まれ、そして育まれた命に、ひたすらに感動していた。


 それからほんのわずか、何か切ないような感覚に捕らわれた後。私は再び、床に落ちていたナイフを拾い上げ。残っていた最後の力で、胃と食道が繋がっている部分を切断した。もう、その箇所に痛みは感じなかった。すでに痛覚も麻痺し始めているのだろう。切断された食道の断面からは、たちまち血が滴り出したが。胃の傷口の方は、まさしく内臓の自らの意思によって、その断面を「めりっ」と内側にめりこませていくのが見えた。それで、胃からの出血は止まった。


 私は安心し、半ば朦朧とした意識のまま、手探りで大腸の最後尾を探し。そして、肛門との接合部を切断した。おそらくそこも、出血はしないだろう。私の腹の裂け目には、とめどなく血が流れ続けているが。こいつは、もはや私から完全に独立した内臓は、もう血を流す事もない。大丈夫だ。私は自分の口元に、自然と微笑が浮かんでいる事に気付いた。


「さあ……」


 私は力ないかすれた声で、私の内臓だったものに語りかけた。さあ、行けよ。私の思いは、私が産んだ新しい生命に伝わった。内臓は、一瞬立ち去るのをためらうかのような素振りを見せ――それはおそらく、私へのささやかな感謝の表れだったのだろう――そして、くるりと向きを変え。胃を先頭にして、小腸や大腸、肝臓を引き連れながら、私の腹からぬるぬると抜け出し。私の足元、ベッドの向こう側に落ちていった。「ぐちゃっ」と、何か柔らかいものが床に当たる嫌な音が響いた後。やがて、ずる、ずる、と足を引きずるような音が、ベッドから遠ざかっていった。


 その音が聞こえなくなる頃、ようやく使命を終えた私は、かすかに口元に微笑を湛えたまま。未だかつて経験したことのない満足感と安堵感に満たされつつ、ベッドの上で、ゆっくりと目を閉じた。


                        

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貪る さら・むいみ @ga-ttsun

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