4
やがて、夜がやってきた。
野良猫を食べ尽くした後と全く同じ状態で座り込んでいた私の耳に、玄関のドアをがちゃりと開ける音が聞こえてきた。
「ただいまぁ」
続いていつも通りの、あっけらかんとした、まるで邪気のない妻の声が、耳の中に飛び込んできた。三日振りに聞く妻の声に、私は思わず涙を流しそうになった。それはほんの少しだけ、私を現実に引き戻し。同時に、「助けてくれ!」と叫んで妻にすがりつく、自分の姿が頭をよぎったが。それもわずかな間だけだった。助けを乞うイメージは、私の内なる欲望によって一瞬にしてかき消された。私は立ち上がり、ほとんど自分以外の意思によって動かされている夢遊病者のように、ふらふらと台所へと向かった。
「なに? なんか臭くない?」
ヒールを脱ぎ、部屋に上がった妻が、くんくんと鼻を鳴らしている。この二日間というもの、生肉を食い散らかし、あげく動物の死骸までが放置されている部屋の中は、おそらく異様な臭気に満ちているのだろう。台所から玄関に向かった私は、何か怪訝そうな顔をしている妻と対峙した。
「ただいま……え、ええ? あなた、その格好どうしたの? お腹、ひどいの? 医者に行ったの?」
腐臭に近いだろう部屋の臭いに続き、目の前に立つ私の変わり果てた姿を見た妻は、驚き、呆れ、まじまじと私を見据えた。外見そのものは変わっていないはずだが、この二日間夢中で肉を食らい続け、シャワーも浴びていない、今朝も目覚めてから顔すら洗っていない私の姿は、妻にとってさぞかし衝撃的だったに違いない。それゆえ妻は、私の手元にまでは気付かなかった。たった今台所から持ってきたばかりの、私の右手に握られた包丁にまでは。
私は、私を見つめて呆然と立ち尽くす妻に、正面からすっと歩み寄り。そして、手にした包丁を、妻の柔らかな下腹部に突きたてた。
「うっ」
予想もしなかった激しい痛みに、妻はほとんど声にならない呻き声を上げ。驚いたように、私を見つめた。私はそんな妻を見つめ返しながら、包丁の刃先を更に妻の体の奥深くへと差し込んだ。
「あううう!」
妻はたまらず私から逃れようとしたが、私は左手を妻の首にぐいっと回し、それ以上離れる事を許さなかった。それから、引き寄せた妻の腹に、胸に、二度三度と包丁を突き刺した。鋭い刃先が自分の体に刺さり、そして抜かれる度に、妻は切なげな声で呻き。とめどなく流れ出す鮮血で、着ていた白いブラウスを真っ赤に染めていった。やがて、執拗に襲い掛かる刃から逃れようともがく力が弱まり、妻の体は膝からゆっくりと崩れ落ち始めた。そして、崩れゆく間際、訴えかけるような視線を私に向け。
「なぜ……?」
と、ひと言だけ呟き。妻は、どさりと私の足元に横たわった。それきり何も言わず、もう二度と私と目を合わせる事もしなくなった妻の体を、そっと抱き起こした時。私の両目から、どっと涙が溢れ出した。全身を妻の赤い血で濡らしながら、ただわんわんと泣き続けた。泣きながら私は、妻の体を抱きかかえ、バスルームへと運んでいった。
浴室の白いタイルの上に、妻の体を静かに横たえ。私は妻の、まだ暖かいぬくもりを残した頬に、そっと手を置いた。売れない小説ばかり書き続け、満足な収入さえなかった私に、何一つ文句を言わなかった妻。そして、ついさっき酷い姿に成り果ててしまった私を見てさえも、それを非難するどころか、まず最初に体調の心配をしてくれた彼女。
私にとってあまりに、信じ難いほどに、出来すぎた女房だった。それを今更ながらに実感していた。本当は台所に行って包丁を手にした時に、自分の胸を刺すつもりだった。自分が、自分の内なる欲望がこれから「しようとしていること」を、止めるために。だがやはり、私のヤワな思いより内なる欲望の方が、数段勝っていた。私はもう、この欲望の命じるままに動くしかない、それだけの存在になってしまったのだ……。
私は妻の頬に手を添えたまま、自分の顔を彼女の美しい顔に近づけ。その柔らかな唇に口付けた。その時、私の唇が、妻の唇を感じた途端。かけがえのない伴侶を失った喪失感の影に潜んでいた、私の内なる欲望が爆発した。
私は片手で妻の額を、もう片方の手で顎を押さえ、強引に妻の口を開き。その隙間に自分の舌をねじ込んだ。私の舌先は、妻の口の中で、もう反応することのない彼女の舌を捜し求め。遂に求めるものを探し当てた瞬間、私はそれに噛み付き。そして、噛み切った。
「ううううう!」
たちまち私の口に広がる、生暖かい血の味。獣ではなく、紛れもない、人間の血。そして、人間の生肉。その味わいに、ぬくもりに、その歯触りに。私はしばし恍惚となった。それから、くちゃくちゃと妻の舌を口の中で噛みしだき、存分に味わった後、その肉片をごくりと飲み込んだ。それを待ちかねたように受け取った私の内臓は、買って来た生肉を食べた時とは比べものにならないくらいに、跳ねるように躍動した。それはあたかも、悦びのダンスを踊っているかのようだった。これが、私が予感していた、内なる欲望の求めるものの最終形だった。自分と同じ種の、ついさっきまで生きていた同類の生肉。それこそが求めていた究極のものだった。
次に私は、妻の着ていた、血まみれになったブラウスを脱がし。更に、下着を剥ぎ取った。まだ三十代前半で、子供も産んでいない妻の裸体は、本人が意識してスポーツクラブ等に通っていたせいもあるだろう、未だ均整の取れた美しい姿を保っていた。私はたまらず、妻の豊かな膨らみを持った乳房にむしゃぶりついた。両手でその弾力に溢れた丸みを揉みしだきながら、乳首を中心とした部分に食らい付き。そのまま、食い千切った。
その味わいは、私が求めていた「肉」ではなく、正確に言えば脂肪の塊と言うべきものだったが。私はほのかな甘みが口の中に広がるのを感じ、その予想もしていなかったとろけるような甘さにまた涙した。それから私の舌は、甘みを帯びた塊の一部に、おそらくは自らの死を恐れ、覚悟し、萎縮していたのであろう、小さく縮こまった妻の乳首を感じ取り。その部分をまるで名残を惜しむかのように、上下の歯で少しだけコリコリと弄んだ後、ようやくゴクリと飲み込んだ。
こうして私は、内なる欲望の命ずるままに、妻の体にむしゃぶりついていった。妻のなめらかな腹に、腰に、下腹部に。繰り返し口付けをしながら、その部位を噛み千切った。遂には傷口に手をねじ込み、その臓物までも。私が、妻の体のあらゆる部位を、少しずつ味わいながら口にする度、両手で肉片を引き千切る度に。妻の美しかった体は、見るも無残な姿へと変貌していった。その事がまた、私に涙を流させた。
他の何ものでもなく、間違いなく私の手によって、崩壊していく妻の裸体。そして、崩壊したその部位を食らい、消化していく事に、自分がこの上ない喜びを感じているという事実。この、我が肉体を抉り取られているかのような痛みと、そして妻の肉体が与えてくれる至上の悦びに、私は気も狂わんばかりだった。いや、もうとうの昔に正気は失っているのかもしれない。こうやって号泣しながらもなお、妻の体を貪り続ける事をやめられないのだから。
私の体はもう、私でありながら、私ではなくなってしまったのだ。それだけは狂った頭の中で、なんとか認識出来た。それが認識出来た途端、私はなぜか大声で笑い出した。まさに狂気に満ちたその笑いを、私は止める事が出来なかった。笑いながら私は両目からとめどなく涙を流し、そして引き千切った妻の肉片を食らい続けた。食らいながら私は、自分が完全に狂ってしまった事を自覚していた。
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