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それから、どのくらいの時間が経ったのだろう。いつの間に眠りについていたのか、目覚めた時にはっきりとした時間の感覚は取り戻せなかった。窓を覆うカーテンの隙間から差し込む日の光から察するに、どうやら日付が変わり、しかもすでに昼に近い時間帯のようだった。今日の夜には、もう頼子が出張から帰ってくるという日だ。しかし、妻の事をあれこれ考えている余裕はなかった。目覚めて間もない私の頭の中を、突然稲妻のようにひとつの意思が貫いたのだ。
肉が、喰いたい。どうしようもないほどに。相変わらず私の内臓から命令の如く発せられたその欲求に、私は逆らう術はなかった。昨日買い込んで来た後、冷蔵庫に詰め込んでおいた生肉を取り出し、温めもせずそのまま食らいついた。一口齧る度に感じる肉の感触が、更なる欲望を駆り立てた。ただもう夢中で食い漁っているうち、私はあれだけ大量に買い込んだとてつもない量の肉を、気がつくとすっかり食べ尽くしてしまっていた。
しかし、驚いた事に。私の内臓は、それでもまだ満足していなかった。更なる肉を体内に取り込む事を求めていたのだ。すでに昨日から、一人の人間が食す量としては桁外れと言ってもいい肉を食べているのに。これからまた買出しに行かなくてはならないのか、でも昨日行った店にさすがに二日続けては行けないだろう。今日はもっと遠出をしなきゃならないかな……そんな事を考えながら、私が腰を上げようとした時。
冷蔵庫から出した肉の臭いを嗅ぎ付けたのであろう、あの野良猫がまた部屋の中に入り込んで来ていた。部屋いっぱいに散らばった空のパックに鼻を近づけながら、どこかに食べ残しはないかと探している猫を見た途端。私の中で、何かが弾けた。先ほど、買い込んだ肉を食べ尽くしてなお感じていた食欲が求めていたのは、肉の「量」ではなく。その「質」だったのだと、私は瞬時に理解した。昨日の昼頃から、ほぼ丸一日に渡って肉を食らい続けてきた私の内臓は、睡眠を取っているうちに、更なる変貌を遂げていたのだ。
私の視線は、部屋の中をのんびりと歩き回る野良猫を捕らえた。その視線に気付いた猫も、私の方にちらりと顔を向け。私と猫は、一瞬目が合い。私から発せられる殺気を感じ取り、野良猫は咄嗟に逃げようとしたが、私の動きの方が早かった。猫の首ねっこをひっつかんだ私は、私から逃れようと暴れもがく、小さな体を押さえつけ。そして、右手でがしっと猫の頭を掴むと、その首を一気に背中向きに捻じあげた。「ぐきっ」と、私の腕の中で、首の骨の折れる音が響き。猫の体はびくびくっと一度二度痙攣した後、ぐったりと動かなくなった。
私はまだ体温が残る猫の死骸を両腕に抱え、ほんの少しためらったが、やはり自分の奥底から湧きあがる欲望には勝てなかった。私は丸みを帯びた野良猫の腹部に、がぶりと噛み付いた。最初は猫の体毛が口の中いっぱいに広がり、思わずむせかえりそうになったが、それでも食らいつくのをやめなかった。やがて、猫の腹を食い破った歯の隙間から、つい先ほどまで猫の体中を駆け巡っていた生暖かい血が流れ込み、私の口を満たし始めた。
「うおおおお!」私は思わず叫び声を上げていた。叫びながら、食らいついた猫の腹を噛み千切った。今の今まで生きていた、まさに新鮮そのものの、「生の肉」。その感触に、その味わいに。私は狂喜し、陶酔した。私は我を忘れ、抱えた野良猫の体に噛り付いていった。
哀れな野良猫の、さほど多くない肉を食い尽くし。私は再び放心状態に陥っていた。そして、今や自分の内臓が、今までとは全く違うものに変貌してしまった事を、自覚せざるを得なかった。そう、あの「秘宝の水」を飲む以前とは。乱雑に肉を食い荒らされ、ほとんど骨だけになってしまった野良猫の死骸を見ても、生き物を殺してしまったこと、それも自分の欲望を満たすためにやってしまったことを、悔やむ気持ちは起きなかった。そして、その生き物の肉を、本当に自分が食べてしまったのだということも。ただ、自分は何か違うものに変わってしまったんだという事を、ぼんやりと認識するのみだった。
そして、私は。変化し続けてきた、その欲望が求めるものをエスカレートさせ続けてきた私の内臓が、いよいよ変化の最終段階を迎えている事を悟った。ここまで来た以上、それは避けられないものだった。わずかに残っていた私の理性は、それを頑なに否定しようとしていたが、今や私を完全に支配しつつある内なる欲望の前には、それも無駄な抵抗であった。
最後の無駄なあがきとして、床に放り投げたままになっていた携帯電話を拾い上げ。あの「水」をくれた作家仲間に再び電話してみたが、やはり呼び出し音が虚しく鳴り続けるだけだった。しかし、それもまた当然の事だと思えた。もし彼が、私と同じくあの水を飲んだあいつが、私と同じような状態になっているのだとしたら。電話の呼び出し音に、答える気など起きるだろうか……?
私はため息を付きながら、携帯を再び「ぽい」と床に放り投げた。と、床に転がった携帯が、「ぶるるるる……!」と激しく振動を始めた。私は「はっ」となって、慌てて携帯を拾い上げ、着信の表示を見た。
「も、もしもし……?!」
その番号は、先ほどかけたばかりの、あの「作家仲間」の番号だった。私は夢中で、電話の向こうに呼びかけた。そして、重苦しい沈黙の時が、少しの間続いた後。「彼」のかすれたような声が、携帯の向こうから聞こえて来た。
「やあ……何度か電話もらってたみたいだけど、なかなか出れなくてすまん。どうだい? その後……」
その言葉をひと言でも聞き逃すまいと、携帯を耳にぴったりと押しつけてはいるのだが。その声は何か、かすかにエコーがかかったようで、遥か遠くから聞こえて来ているような気がした。
「どうだって、その……君は、大丈夫なのか? あれ以来、その、何かこう、体調に変化はないのか……?」
私は自分の身に起きていることを、どう説明すればいいのかわからず、極めて曖昧な聞き方をしてしまった。しかし彼は、そんな私の様子を
「ああ……すこぶる、快調だよ。まさに、『生まれ変わった』気分だ。自分がこうなることは運命であり、定められた未来だったと思っている……」
運命? 定められた未来?? ……私は彼の言うことが理解出来ず、とりあえず今の私に関わりのありそうな、「生まれ変わった」という点について詳しく尋ねた。
「いま君が言った、生まれ変わった気分ってやつ。もしかするとそれは、あの『水』を飲んでから、そんな風に感じるようになったのか? そして……それは、君が今『食べているもの』にも、関係しているのか?」
その問いかけも、具体的な事項はあえて避けた内容になっていたが。彼はもちろん、私の言いたいことを、それで十分に理解していた。
「食べているもの……そうだよ。その通りだ。俺は今、これまで人類が到達し得なかった領域に、足を踏み入れている。こうなることは、俺に与えられた使命だったんだ……」
こちらが抽象的な問いかけをしたのだから仕方ないのかもしれないが、運命だとか使命だとか、彼の返答はさっぱり要領を得なかった。私は思い切って、今度は聞きたいことを明確にして、彼に質問を投げかけた。
「君の言ってることは、よくわからないが。つまり、その……あの『水』を飲んでから、無性に食欲が沸いて来てたりしないか? それも、ただ腹いっぱいになりたいというのではなく。やたらと、『肉が食いたい』という思いに駆られていないか……?」
内心、緊張で胸をバクバク言わせながら問いかけた私の言葉に、彼は再び沈黙した。携帯の向こうに彼がまだいるのかどうかすら不安になり、「おい……」と私が呼びかけようとした時。ようやく彼が、重い沈黙を破った。
「そう……俺の体は今、肉に満たされている。新鮮な血と肉に満たされ、俺の体には、はちきれんばかりの生命力がみなぎっている。……君もそうなんだな? 肉のことを聞いて来たということは。君も、欲望のままに肉を食らい続けているんだな……?」
彼にそう聞かれて、私はどう返答したらいいのか迷ったが、ここまで来て誤魔化しても仕方ないと思い、「……ああ」と簡潔な返事をした。
「……そうか。君もこの、『崇高なる使命』に選ばれたんだな。その光栄さを、じっくり噛み締めるといい。君も、いずれわかるよ。自分のすべきこと、成すべきことが……」
何か陶酔したような彼の言葉に、私は慌てて聞き返した。
「いや、私のすべきことって、いったいなんなんだ。私は一体、どうすればいいんだ? このまま、延々と肉を食らい続けるだけの存在になってしまうのか。この状態から逃れる術はないのか? 君は、これからどうするつもりなんだ……?!!」
気が付くと私は、携帯を持ったまま「はあ、はあ」と荒い息をついていた。勢いに任せて、言いたいことを全てぶちまけてしまったような、そんな気分だった。そして彼は、私のその数々の問いかけに対して。それが「ごく当たり前のこと」のように、言葉を返して来た。
「……俺は、成すべきことをする。君も、そうしろ。もう、そうするしかないんだ……」
そこで通話は「プツッ」と途切れ、その後はただ、「ツー、ツー……」という乾いた音が聞えて来るだけだった。私はガックリと力尽きたように、床に手を付いた。「秘宝の水」の持主である彼も、恐らくどうすればいいのかわからなかったに違いない。元々が、村にも長老にも黙って「くすねてきた」ようなものなのだから。
これがきちんと「譲り受けたもの」だったら、今の状況に対する対処法も聞けたかもしれない。だが彼の目的は、「それを、持ち帰ること」だった。だから詳しいことも聞かずに、こっそりと持ち帰って来た……。運命とか使命を果たすなどと言っていたのは、無責任に持ち帰り、自分と私に飲ませてしまったことへの、自戒の念なのかもしれない。……つまり彼は、本当は「成すすべなく」、自分の命を断とうとしているのかも……?
いずれにせよ、唯一の「頼みの綱」は、失われた。ならば、私は……。私も、私の「成すべきこと」を、するしかないのか……?
そこで私は、右手に持ったままだった携帯を投げ捨てようとして、メールの着信が幾つかあるのに気付いた。雑誌の編集者からのメールは見る気がしなかったが、ひとつだけ、私の興味を引いたメールがあった。それは、妻の頼子からのものだった。
「予定通り、今日の夜帰ります。お腹、良くなった? ご飯ちゃんと食べてる? 頼子」
その簡素な文面を、その意味するところを、繰り返し自分の中で反芻しながら。私は部屋の中で壁にもたれ、座り込んだまま。じっと、「その時」を待った。
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