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そして、翌朝。私はいつになく爽快な気分で目を覚ました。驚くべき事に、昨夜寝付くまでしつこいくらいにまとわりついていた腹の違和感は、すっかり消えうせていた。それどころか、体中に充実感というか、力がみなぎっているような気がする。これは、あの作家仲間の言っていた、「体に生命力が満ち溢れる」ってのもまんざら嘘じゃないのかもなと。昨夜までの不快感はどこへやら、私は現金にもそんな事を考えていた。
すると、消え去ってくれた不快感の代わりに、今度は私の胃腸が急激に空腹感を訴え始めた。まあここ何日か、まともに食事をしていなかったのだから無理もない。昨夜炊いたご飯がまだ炊飯器にあったよな、それに冷蔵庫には納豆があったはずだ。私はこの久々に味わう空腹感を満たすため、とりあえず納豆ご飯をかき込む事にした。
……だが。どんぶりによそったご飯の半分も食べないうちに、私は箸を置いてしまった。空腹が満たされたわけではない。いやむしろ、少しも食べ物を腹に入れたことで、ますます空腹感に拍車がかかったような気がする。ただ、お腹に入れたものに、満足出来なかったのだ。私が食べたかったのは、これではない。「私が」というよりは、「私の胃が」と言った方がいいだろう。その場しのぎの納豆ご飯などでは、私の胃が訴える空腹感を満たす事など出来なかった。私の胃は、それがまるで私の本質であるかのように、強欲にあるものを欲していた。
「……肉だ!」
私はそれに気付いた途端、いてもたってもいられなくなり。部屋を出ると、アパートの外に置いてあった自転車に飛び乗り、近所にあるコンビニへと向かった。
コンビニの棚には見慣れた弁当が幾つも並んでいて、もちろん鳥の唐揚げや牛丼など「肉系」の弁当もあったのだが、私の興味はそちらには向かなかった。ご飯のおかずとして添えられた程度の肉の量では、体の内部から湧きあがる欲求を満たせるとはとても思えなかったのだ。私は弁当の棚の横、並んでいた惣菜の中で肉類のものを片っ端から買い物かごに放り込み、その場でパックを開けて口の中に入れたくなる衝動をなんとか抑え、再び自転車を飛ばしてアパートへと戻った。
部屋に入ると、私はパックのビニールを開けるのももどかしく、そして遂には箸を持つ事さえ煩わしくなり、レンジで温めたばかりの肉を素手で掴むと、無我夢中で口の中に詰め込んだ。口いっぱいに広がる肉汁の味、そして食道を通過し胃に至る時の得も言われぬ感触。その快感に、私は思わず涙しそうになった。これだ、私の求めていたものはこれだったんだ! そういう思いが体中に満ち溢れた。私はもう手を使う事もせず、直接パックにむしゃぶりつき、肉を食い漁った。いつの間にか理性などはどこかへ吹き飛んでしまっていた。ただ、肉を食らう快感だけが、私を支配していた。
買い込んで来た肉をほんの数分で平らげ、私はようやくひと心地ついて、まだ肉汁のついた手でタバコに火をつけると、ふう……と大きく煙を吐き出した。そして、気分が落ち着いたところで部屋の中を見渡すと、その壮絶なる食べっぷりに我ながらびっくりしてしまった。
惣菜を入れてきたビニール袋は床に投げっぱなし、中身を食べ尽くした幾つもの空のパックが、床やテーブルの上に無造作に転がっている。いくら腹が減っていたとはいえ、これはちょっと酷過ぎる。まるで家畜が部屋の中に上がりこんで、手当たり次第にあるものを食い散らかしたかのような、そんな光景だった。そういえば、帰ってから食べるのに夢中で気にもしなかったが、直接肉を掴んだ手も、パックにむしゃぶりついた口の周りも、食べ終わってから洗いもせず、汁にまみれてベトベトのままである。
私はついさっきまで自分がしていた事に、今さらながらに驚いていた。どう考えても、これは普通じゃない。とても自分がやった事とは思えなかった。いや。実際これは、私が私の意志でやった事なのか? 私自身の意思ではなく、何か別のもの――私以外の何かが私にやらせたものとしか思えなかった。
それでは、「私以外の何か」とは、いったい何なのか。それはやはり……今は欲望を満たせたせいか、大人しくなっているが。今朝目覚めた時からずっと私を突き動かしていた、私の腹の中にあるもの。私の内臓。私の胃。貪欲に肉を求めていた、そいつらに支配されていたのではなかったか。そして私は、その時初めて、何か戦慄に近いものを覚えた。もしかしたら、これがあの「秘宝の水」とやらの効果なのか……?
と、その時。私は近くに何者かの気配を感じて、はっと部屋の隅を見た。そこにいたのは、いつのまに上がり込んできたのか、近所にいる野良猫だった。妻がいる時はすぐに追い出されてしまうので寄り付かないが、妻の留守中に私が一人で食事をしていると、そのおこぼれにあずかろうと、こうして図々しく部屋の中に入ってくるのである。私も普段はそんなに量を食べる方ではないので、猫が来る度に何かしら自分の食事を分け与えていたのだ。そのうちに、いつの間にか私の部屋に平気で入り浸るようになってしまった。
しかも、猫が欲しがるだけ食べ物を与えていたせいか、野良猫にしては随分と丸みのある体型になってしまっていたが。しかし今日は、買い込んできたものを私があらかた食べ尽くしてしまったのがわかったのか、もの惜しそうに散らかった空のパックをペロペロと舐めていた。私はしばらく、ただぼんやりとその猫の様子を眺めていた。いいなあお前は、そうやってのんびりとしていられて……。そんな事を考えながら。すると。
それまで大人しくしていた私の内臓が、再び「どくん」と動き出した。その意味が、私にはすぐにわかった。驚くべき事に私の内臓は、再び食欲を訴えていたのだ。いや、さっきあれだけ大量に食べたのだから、さすがにまだ空腹感は満たされていた。それは、腹が空いているという欲求ではなかった。「食べたいものは、これではない」そういう衝動だった。
とりあえず先ほど食べた惣菜の肉類で、空腹感だけは満たせた。だが、本当に食べたかったのは、こんなものではない! そういう強烈な思いが私を支配し始めた。もう、先ほど私をちらりと襲った戦慄はすっかり消えうせていた。私は再び、自分の内臓の命ずるまま、部屋を飛び出していった。
アパートの駐車場には、普段妻が通勤に使っている車も停めてあるのだが、日頃の出不精がたたって、私はすっかりペーパードライバーになってしまっていた。日常の買い物なら、近所のコンビニで十分事足りるせいもあったが。今私が求めている「肉」は、コンビニで買える類のものではなかった。私は息を切らしながら自転車を漕ぎ、駅前の商店街へ向かった。
まずは駅前のスーパーに自転車を停め、地下の食料品売り場へ直行し。だだっぴろいスペースの中で、肉関係の売り場を血まなこになって探した。何段にも渡ってずらりと並んだ肉類のコーナーを見つけた時には、喜びのあまり声をあげそうになってしまった。棚の上でその艶々とした肌色の表面を剥き出しにされている生肉の前で、私は今ここで人目もかまわず並んだ肉にむしゃぶりつきたい、いっそのことこの棚に向かってダイブしたいという思いにかられたが、わずかに残っていた理性がどうにかそれを食い止めてくれた。
そして目に入った肉類を全て買い占めたいという欲望もなんとか我慢し、とりあえず普通より少し多めなくらいの肉を買い込んだ。それから私はスーパーを出て、少し行ったところにある肉屋へと自転車を走らせた。あまり一箇所で大量の肉を買い込むのは、不自然に思われそうな気がしたからだ。ここでもやや多目かなという量の肉を買い、私はようやく帰路に着いた。
部屋に戻った私は、そのまままっすぐにキッチンを目指し、買い込んで来た肉のパックを取り出した。そして、今は滅多にしなくなった料理をしようと、フライパンをガスレンジの上に置き。生肉を包んでいたビニールを破り、素手でがっしと肉を掴んだ瞬間。そこで、私の理性の糸はプツンと切れた。
紛れもない、剥き出しの、「生」の肉の感触。その手触りを感じた途端、手のひらから、指先から、突如として電気がほとばしり、体中を駆け巡ったかのようだった。私はためらいもなく、掴んだ生肉に、そのまま噛り付いた。何も調理をされていない、何の味付けもなされていない、まさに「肉」そのものの味。歯ざわりのいいように加工される前の、噛み切られるのを抗うかのような歯応え。噛み締める度に、口の中に広がっていく肉汁。これこそ私の、私の内臓が求めていたものだった。私は口いっぱいに頬張った生肉をぐちゃぐちゃと噛みしだき、ごくりと一気に飲み込んだ。
荒々しく噛み砕かれたそれが、食道を通過し、胃に到達した時。私の胃は感動に打ち震えるかのようにふるふると痙攣した。その痙攣は、昨夜まで感じていた不快なものではなく、私にとってこの上なく心地よいものだった。まっさらなままの生肉を食らい、消化していく事が、今の私には至福の喜びであったのだ。私はたまらず、買ってきたパックを次々に開け、片っ端から食いついていった。そうやってただ夢中でむしゃぶりつきながら、私はいつしか涙すら流し始めていた。ずっと欲していたものにようやく出会えた、その感動に。
こうして私は、気がついた時には、買ってきたばかりの肉を全て平らげてしまっていた。その少し前に、コンビニで買った幾つもの惣菜を食べ尽くしていたにもかかわらず。私の内臓は、どこまで貪欲になってしまったのだろうか? しかし、それを本当に実感したのはその後だった。すでに普段一日に食べる量よりもはるかに大量の食物を腹に入れているはずなのに、私の内臓はまたしても飢えを感じ始めていた。まだ足りない、まだ食べたいと訴えていたのだ。食べれば食べるだけ快感を得られる事を覚えてしまった、あの生肉の味を。
私は再び自転車に乗り、今日三度目の買出しに出かけた。さすがに一日に何度も肉ばかり買っていては怪しまれると思い、さっき行ったスーパーと肉屋には寄らず、いつもは行った事のない隣町近くのスーパーにまで足を伸ばし。それからまた何軒もの店を回り、買えるだけの肉を買い込んだ。一体どれだけの量があれば、自分のこの欲求を満たす事が出来るのか見当もつかなかったのだ。
そして、アパートに戻った後の私は、ただもう肉を食らうだけの存在と化していた。ある程度の量を胃に入れれば一時的には満足するものの、しばらくするとまた体が肉を欲し始めるのだ。それはまさしく、生肉に対する禁断症状のように思えた。そして私の内臓も、このとてつもない肉の量に全くひるむことなく、次々と消化と吸収を繰り返し続けていた。
もはや、生命力が満ち溢れた、生まれ変わったなどという表現ではとても言い表す事は出来なかった。まるで自分が何か違うものに変貌してしまったかのようだった。
やがて陽が落ち、夕闇が近づいてくる頃、私は今日何度目かの「食事」を終え、呆けたように壁にもたれかかっていた。ひとときの快感を味わい尽くした後の虚脱感とでも言うか。締め切りの迫っている原稿に手をつける気にもなれなかったし、それ以前に部屋中に散らばった肉の食べかすを片付けようという気力さえ湧かなかった。
ただひとつ、気になったのが。私に「秘宝の水」をくれた、あの作家仲間。彼は今、どうしているのだろうか? そう、あの時彼も、私と同じ様に、あの水を飲み干していたのだ。もしかしたら彼にも、私と同じ様な変化が起きているのではないだろうか。そして、この水を手に入れたという南米の村で、もっと詳しい事を聞いているかもしれない。何か、この状況に対処する術を知っているんじゃないか。
そんなかすかな希望を込めて、彼の携帯に電話をかけてみたが……呼び出し音が鳴り続けるだけで、相手が出る気配はなかった。彼もまた、私と同じく、ひたすらに肉を食らい続け。同じ様に、言い知れぬ虚脱感に襲われているのだろうか。それとも……? 私は電話を切り、自分の携帯を空のパックが散らばった部屋の床に放り投げた。
そして私は、もう深い思考を巡らす事の出来なくなった頭で、ぼんやりと妻の事を考えていた。出張から帰ってきてこの部屋の惨状を見たら、頼子はなんて言うだろう。いや、部屋の様子より、今の私自身の姿を見て愕然とするかもしれない。朝方最初の買い出しに出かけたまま、ろくに顔も洗っていない。手も顔も、そして着ている服にも肉の脂がベットリと染み付いている。特に私が常日頃から綺麗好きだというわけではないが、妻の留守中に部屋を乱雑にしておくなんていうことは今までなかった。
そして私自身も、例え外に出る用事がなくとも、部屋にいていつ誰が訪ねてきても恥ずかしくないような格好をするよう心がけていた。それが自分を養ってくれている妻に対する礼儀だと思っていたのだ。それなのに……しかし、それでも私の頭は、それ以上の事は考えられなかった。今はただ、ひたすらに肉を求め続ける、私の内なる欲望に従うしかなかった。
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