貪る

さら・むいみ


「じゃあ、行って来るね。あさっての晩には戻るから。……お腹の具合、大丈夫?」


 今日から三日間の出張に出かけるというその朝、玄関でヒールを履きながら、妻の頼子が心配そうに私に言った。私は右手で軽く自分のお腹を押え、思わず苦笑いした。


「ああ、なんとか大丈夫だろう。気にしないで、行って来いよ」

 実は、ここ二・三日続いている腹の不調の原因は、自分ではなんとなくわかっていたのだが。それを言うとますます頼子が心配するだろうと思い、その事は黙っていた。それでも頼子はまだ不安げな面持ちで、寝る時にお腹は冷やさないでね、酷いようだったら医者に行って診てもらうのよ? と念を押し。ようやく私たちの住むアパートの部屋を後にした。


 いつものことながら、頼子のまるで母親のような言い草にやれやれと思いつつ、一方ではそれも仕方ないかなと納得している自分がいた。一応作家という肩書きはあるけれど、ほとんど安定した収入を得られない、売れない小説ばかり書いている私に比べ。頼子は一流とまでは行かなくとも、それなりの実績と信用のある企業で管理職を勤めており、二人の生活はほとんど妻である頼子の収入に頼っているのが現状だ。ぶっちゃけた話、私は頼子に養ってもらっているのだと言っていい。


 それでいて、部屋にいることが大半の私が、頼子に代わって「主夫」を勤めているというわけでもない。妻の留守中に夕食を作っておこうと試みたこともあったが、帰って来た妻に「もう、無理しなくていいから」とあっさり却下されてしまった。頼子に言わせると、私の料理の腕前は、ただ食材を無駄にしてしまうだけなのだそうだ。それに気付かない私の味覚も、主夫としては失格という事なのだろう。それ以来、せめて食事の後は洗い物をと心がけてはいるのだが、結局妻の方が手際が良く、志半ばでその仕事も奪われてしまう羽目になるのだった。


 それでも、妻はそんな生活になんら不満を言うことなく、それどころか先ほどのように、私のちょっとした体調の変化にも気を使ってくれている。間違いなく、私には不釣合いな、出来すぎた女房だと言えるだろう。私自身、頼子が何を好き好んで私のような男と暮らしているのか疑問に思うくらいだ。


「あなた一人じゃ暮らしていけないでしょ? ほっとけないもの」というのが頼子の言い分なのだが。これがいわゆる母性本能というものなのだろうか。いずれにせよ、今の私が小説を書き続けられているのも、全て頼子のおかげであり。その頼子が私より年下でありながら、常日頃から私に対して母親のような言動を取るのも致し方なしというわけなのである。



 しかし。それにしても、ここのところ続いている腹の不快感には、ほとほと参っていた。いわゆる腹を下したとか消化不良とか、そういった感じではない。なんというか、私の胃や腸が、何かを訴えるかのように、腹の中でふるふると軽い痙攣を起こすのだ。三日前くらいまでは、それは時たま感じるくらいで済んでいたのが、昨夜あたりから急に酷くなり、今では落ち着いている状態より痙攣を起こしている時間の方が長いような気さえする。


 これはやっぱりあれがいけなかったんだな……あんなものを腹に入れるなよと、胃腸が私に訴えかけているんだなと。私は片手で腹をさすりながら、この不調が始まる原因になった夜の事を考えていた。



 それは、腹の調子が悪くなる前の晩、私が作家仲間の男と、安い居酒屋で飲んでいた時のこと。そいつが旅行の手土産にと取り出したものが、そもそもの発端だった。


 そいつも私と同様、懲りもせず売れない小説ばかり書いているのだが。私の書いているものが、日常生活のちょっとした出来事を書き連ねた、一般的に言えば地味な私小説のような作風なのに比べ。彼の書く作品は――嘘か本当かは定かでないが――とにかくハッタリを十分に効かせた、世界中の未開の地を旅して遭遇した「驚くべき真実」の体験レポートのような内容なのだ。昔テレビで流行った、「川口探検隊」の小説版みたいなものだと表現した方がわかりやすいかもしれない。


 誰もがネット上で、家にいながらにして世界中のあらゆる情報を手に入れる事が出来る現在、彼の手法はいかにもアナログで、時代遅れなものに思えた。しかし彼に言わせると、それこそが「男のロマン」なのだそうだ。そういうもんかね……と、私は特に反論するでもなく受け流していたが。ホームページやブログなど、誰もが気軽に自分の日常を書き連ねる事が出来る今の世の中で、取り立てて面白い事があるわけでもない日々の生活を小説に書いている私が、彼に対し何か反論出来るはずもなかった。そういう意味で、私達は時代から取り残された似たもの同志だとも言えた。


 彼がこれまで書いてきた小説のうち、どこまでが本当に体験したものかはわからないが、それでも一応本を書く前には、ちゃんと現地まで取材に行ったりしている。全部が全部、頭の中で勝手にこしらえた作り話ではないというわけだ。


 なんでも今回は、これまで足を踏み入れた事のなかった南米の奥地にまで足を伸ばし。そこで知り合った村の長老から、「秘宝の水」なるものをもらってきたというのである。正直、かなり眉唾ものの話ではあったが、酔いも手伝ってか、私はその話に少なからず興味を示してしまった。それで彼はますます勢いに乗り、私に向かって得意のハッタリ話をかまし始めた。



「それでだ。その長老が言うにはな……まあ俺も、長老の言ってる事が全部理解出来たわけじゃないんだけどさ。なんせ今まで誰も訪れた事がなかったような土地で、まともな通訳がいるわけじゃなかったし。


 で、長老様の仰るには、この水は『生命の源』だってことなんだよ。これを飲んだ者は、新しい生命を生み出す事が出来る、とかなんとか。ようするに、この水を飲む事によって、まるで生まれ変わったように、体に新鮮な生命力が満ち溢れるってことだと思うんだけどな。


 それを聞いて、ぜひ俺もその水を飲んでみたいと申し出たんだけど。これは村に古くから伝わる秘宝だから、外部の人間に分け与える事は出来ない、そして村の外に持ち出す事もまかりならんって言うんだ。だからといって、はいそうですかと素直に帰ってくるわけにもいかないだろう? だから、日本に帰る前の晩、皆が寝静まった頃を見計らって、ちょいとばかしお宝を頂いてきたってわけだ」


 この話を聞き、私は「秘宝の水」の事よりも、そいつが取った行動の方に驚いてしまった。


「頂いて来たって……それって、早い話がくすねて来たってことだろ?」


 私の問いに、そいつはなぜそんな事を言うのかといわんばかりに反論した。


「くすねるって、人聞きの悪い事を言うなよ。もし、そんなありがたい魔法の水が実在するんだったら、それを広く世に知らしめるのが俺の役目なんだ。使命なんだよ。俺はその使命を果たしただけなんだ!」


 何が「使命」で、何が「果たしただけ」なんだかわからなかったが。それでも、その「生命力に満ち溢れる水」という話は、私の好奇心をそそった。最近の私は、ろくに外出もせず運動不足なせいもあるだろうが、毎日仕事に出かけ生き生きとしている妻に比べ、何か老け込んでしまったような気がしていたのだ。正直な話、近頃は夜の生活の方ももうひとつという按配だった。だからといって、精力剤の類を買ってまでというのも、なんだか照れ臭い。しかしその事が理由で、私がダメ元でいいからこの魔法の水ってやつを飲んでみたいという欲求にかられたことは否定出来なかった。


 そんな話をちらっとしたら、そいつは我が意を得たりとばかりに、私の肩にぐいっと手を回し。うんうん、わかるわかるという様に頷きながら、


「そうだよな、あんな別嬪さんの奥さんがいたらなあ、幾つになっても喜ばせてやりたいと思うよなあ……」と、私の耳元に囁いた。そうなんだ。私には身分不相応なくらいの美人の妻に、しかも養ってもらっている私にとって。何かお返しが出来るとしたら、そういう事くらいじゃないか? 小説だって、この先劇的に売れるようになるとは思えないし。今思えばその時の私は、相当に酔いが回っていたのだろうが。


「いいよ。この世に二つとない大事なものだが、お前だけは特別だ」


 書いているジャンルこそ違え、売れない作家同士の奇妙な連帯感とでも言うか。そいつは持っていたカバンから、大袈裟なくらいに慎重に、小さなガラスの瓶を両手で取り出し。その中に入っていた透明な液体を、私が熱燗を飲んでいたお猪口に注いだ。「さあ……」そいつは自分のお猪口にも同じ様にその液体を満たすと、私に向かって差し出した。


 その「水」は、見かけは普通の水と何ら変わらないように見えた。心なしか少し濁っているような気がしなくもなかったが、それは人里離れた南米の奥地から持ってきたんだという先入観のせいかもしれなかったし、またいい按配で回っている酔いのせいかもしれなかった。


 お猪口をそっと鼻に近づけて、少し臭いを嗅いでみたが、先に入っていた酒の臭いの方が強くて、水そのものの臭いまでは感じられなかった。彼が適当な事を言って私を騙し、そこら辺の水道水を飲ませようとしていたとしても、私には全くわからなかっただろう。注がれた水を前にして、私が躊躇していると思ったのか。そいつは自分のお猪口を私の鼻っ面に突き出し、高らかに叫んだ。


「俺たちの未来と、美人の奥方に乾杯!」


 そいつが言ったのと同時に、私達はお猪口をかちんとぶつけ。そして私は覚悟を決め、「秘宝の水」をぐいっと一気に飲み干した。



 ……やはり、どう考えてもあれが原因だった気がする。ただでさえ海外に行ったら生水に気をつけるのは常識なのに、どこかわからぬ未開の地から持ち帰った水だ。生命力がみなぎるどころか、あの日以来腹の不調に苦しむはめになってしまった。まあ、自業自得と言ってしまえばそれまでなのだが。軽々しく乾杯をしてしまった作家仲間のあいつも、今頃私と同じ様に腹の違和感を感じているのだろうか。


 もしこのまま不調が続くようなら、あいつに電話してみるのもいいかもな。そんな事を考えつつ、結局その日は違和感の消えることなく、ほとんど食事も取らずに床に着いた。ほんとにずっとこんな状態だったら、妻の言った通り、病院に行った方がいいのかも。このままじゃ集中して原稿を書く事も出来ないし。相変わらず腹の中で、胃腸がふるふると痙攣する感覚を覚えつつ。私は寝苦しさに何度も寝返りを打ち、やがていつしか、眠りに落ちた。


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