第26話:篭絡

「ぐ、グレイス様?」


 不意を突かれたクリスが文字通り目を丸くする。


「貴方とお話したいことがあるんですけど、お時間よろしいですか?」

「わ、私にですか……? 人違いではありませんか……?」


 国防聖堂の巫女が、儀典聖堂の一武官に何の用だとクリスは困惑する。


「いえ、人違いではありません。クリス=カーディナル一等武官とお話したいんです」


 彼女とは真逆に、ソエルはまるで台本でもあるかのように淀みない口調で喋る。


「人違いでないのであれば構いませんが……」

「それは良かった。では行きましょう」

「えっ、ちょ、ちょっと……待ってください! い、行くってどこへですか!?」


 自らの手を掴んで引っ張り出したソエルをクリスが慌てて制止する。


「もちろん天永宮の私の部屋にです。立ち話もなんなので一緒にご夕食でも」

「そ、それは流石に……」


 さもそれが当然であるかのように振る舞うソエル。


 一方のクリスは突然の誘いにさらなる当惑の感情を強める。


 話があると言われれば、通常この場での短い立ち話だと彼女は思っていた。


 それが急に夕食を一緒に、それも部外者の立ち入りが禁じられている天永宮でとなると話は大きく変わってくる。


「ダメですか……? 貴方とは一度、お話をしたいと思っていたのですが……」


 ソエルがまるで子供のようにしゅんと落ち込む。


 それがクリスをますます困惑させた。


 神託能力の高さだけで祀り上げられた陰気な女性。


 それが国防聖堂の巫女ソエル=グレイスに対して、ほんの数分前までの彼女が持っていた印象だった。


 しかし、今目の前にいる黒い髪の巫女は中身だけが挿げ替わった別人のように見えていた。


「いえ、ダメというわけではありませんが……たかが武官の私が巫女様とお話するようなことなど……」

「お話するのに身分なんて関係ありませんよ。私もたかが巫女ですし」

「み、巫女の立場をたかがなんて言ってはダメですよ! どこで誰が聞いているか……!」


 クリスがソエルの言葉を遮りなら辺りを見回す。


 教団の象徴であり、王族と同じ神託能力を持つ巫女。


 それを軽んじるような発言は神の意志である教典に反する行為であり、法によって罰せられる。


 本来ならクリスはそれを処する立場であるが、目の前の女性があまりにも危ういので衝動的に庇ってしまっていた。


「この後、何か用事でもあるんですか?」

「いえ、特に用事はありませんが……」


 もし母が自分を認めてくれたなら久しぶりに食事に誘おう。


 そう考えていたクリスは、ちょうどこの後の予定を全て白紙にしていた。


「なら問題ありませんね! 行きましょう!」


 再びソエルがクリスの手を取る。


「わっ! ぐ、グレイス様! 分かりました! 付いていくので離してください!」


 巫女相手に強く抵抗することも出来ず、彼女は為されるがままに引っ張られていった。



 *****



 ――天永宮、巫女ソエル=グレイスの居室。


「ごちそうさまでした~」

「ご、ご馳走様でした……」


 空になった皿を前に二人が一礼する。


 本当に食事と他愛のない雑談だけで終わってしまった……。


 食事を終えても尚、クリスの中から当惑の感情は消えなかった。


 それどころか更にその感情を膨れ上がらせていた。


「美味しかったぁ……。クリスさんのお口には合いましたか?」

「はい、とても美味しかったです」

「それは良かった。料理人の方にも後で伝えておきますね」

「その、グレイス様……一つ、お聞きしてもよろしいですか?」

「はい、なんなりと」


 朗らかな笑みを浮かべるソエルを見据えながら、クリスは少し大きく息を吸った。


「どうして私を……儀典聖堂の人間をこの場に招いたのですか?」


 意を決したクリスは、此度の誘いの核心について切り込んだ。


 国防聖堂と儀典聖堂。


 国防と祭事という一見関係性の薄い両者だが、内外から犬猿の仲として知られていた。


 その大きな理由の一つが、祭事の警備に係わる問題。


 元々、祭事における警備の任は国軍が兵士を出向させる形で行われていた。


 しかし、重要な警備任務を一手に任されて増長した国防聖堂は次第に祭事の内容にも口出しするようになってきた。


 その影響力が更に増大し、取り込まれることを恐れた儀典聖堂は自ら警備隊を組織。


 以後は祭事から軍に関わる者の一切を排し、運営の全てを一手に取り仕切ることになった。


 以降もなんとかして祭事に軍関係者を捩じ込もうとする国防聖堂と、その要求を跳ね除け続ける儀典聖堂の対立は続いている。


 深く踏み込んだクリスが、ソエルの目をじっと見据えながら答えを待つ。


 ここまでは柔和な対応を続けてきたが、相手は国防聖堂の長の一人。


 自分を懐柔してから、永劫祭に関わる何らかの要求を通そうとしているのかもしれない。


 そう考えるのが儀典聖堂の人間としては妥当な判断だった。


 しかし、ソエルの口からは彼女が全く予想もしていなかった答えが飛び出した。


「クリスさんとお友達になりたかったんです」

「お、お友達……?」


 これまで張っていた気持ちが一瞬にして緩んだような声がクリスの口から漏れ出る。


「はい、若くして一等武官にまで上り詰めた女性なんてすごいじゃないですか。そんな方と是非、お近づきになりたいなと」


 満面の笑みが浮かぶ顔には欠片ほどの邪心も無い。


 掛け値なしの本心から言っているのがクリスには分かった。


 故に彼女はますます混乱した。


「確かに私は研鑽に研鑽を重ねて、若くしてこの立場を掴んだという自負はあります。ですが、永劫樹の巫女の立場と比べれば平凡極まりないというか……少なくともグレイス様の方からわざわざお近づきになられるほどの立場では……」

「そんなことありませんよ! 他の一等武官の方よりも半分くらいの年齢で! しかも女性だなんて、すごすぎます! 憧れます!」


 ソエルは目を煌々と輝かせながら、机の上に身を乗り出しそうな勢いで言う。


 やはり掛け値なしの本心から言っているようにしかクリスには見えなかった。


「あ、ありがとうございます……。ですが、やはり巫女の方が比べるのも失礼なほどすごいといいますか……」

「巫女なんて運ですから」

「う、運……!?」


 クリスは絶句した。


「はい、ただ人よりも高い神託能力を持って生まれただけの運です。それに比べたら努力して上り詰めた人の方が幾段も立派じゃないですか」

「し、しーっ! 誰が聞いているか分かりませんよ!?」


 またしても教典に反する言動に、今度はクリスが身を乗り出してソエルを諫める。


「大丈夫。人払いは済んでますよ」

「なら良かった……って、そういう問題ではありません! 巫女様が巫女様の立場を軽んじるような発言をしてどうするんですか!?」


 自身の規範と照らし合わせてあり得ないはずの存在に、クリスが声を荒げる。


 そんな彼女を見て、ソエルがくすくすと笑いを零しているのに気がつく。


 それから一瞬遅れて、クリスも自身の行動に頬を赤らめた。


 天上人であるはずの巫女に、まるで気の知れた友人のような態度を取ってしまったと。


「望みどおり、お友達になれたようで何よりです」


 そんな彼女の心を見透かしたようにソエルがまたくすくすと笑う。


「そ、そういうつもりでは……。巫女様をご友人などとは、恐れ多いです……」

「それは残念。では、また食事でもして親交を深めましょう」

「それは……また、機会があれば……」


 こんな調子を乱してくる人の相手はもうしたくない。


 そう思いながらも、クリスは次の誘いをはっきりとは断れなかった。


 そうして二人が歓談を終えた頃には、宮殿の外はすっかりと夜の帳が下りていた。


「気をつけて帰ってくださいね」

「は、はい……」


 正門前まで見送られながら、クリスが何度目かも分からない戸惑いの声を漏らす。


 巫女が一武官でしかない自分を食事に誘い、友人になりたいと宣った。


 挙句の果てには自らの足で見送りまで。


 彼女がこれまでの人生で築き上げてきた常識が、たった数時間で大きく崩された。


 妙な夢でも見たと思ったさっさと立ち去ろうとクリスはおかしな巫女に背を向けて、正門前から出ようとするが――


「――がい、――ます――か――ださい――」


 正門前から何者かが言い争っている声が聞こえてきた。


 警備担当の性か、気がつくとクリスはその場へと歩を進めていた。


「どうか! どうかお願いします! 巫女様と会わせてください! お願いします!」


 衛兵に懇願している四十前後の男性。


 地面に膝をつく彼の身体はくたくたの作業着に包まれ、縋り付く指の皮は至るところが擦り切れている。


 こうして下層の工員が分不相応に、巫女へ直談判に来るのは特段珍しい光景でもなかった。


 大方、仕事をクビになって自棄を起こしたのだろうとクリスはすぐに理解した。


「ならん! 貴様のような下賤の輩が巫女様に謁見を求めるなんぞ二千年早いわ! さっさと失せろ!」


 縋り付く男の指を衛兵が無理やり引き剥がす。


 冷酷ではあるが、頻繁に訪れるこの手の輩に対して断固たる対応を取るのも彼らの仕事であった。


 状況を確認したクリスは多少の同情はしながらも、相手をしてもキリがないと衛兵に任せて立ち去ろうとした時だった。


 何かが彼女の隣を通り抜けた。


 闇夜に溶け込みそうな黒い影。


 それがソエルだと気づいたのは、彼女が男の手を取ったのと同時だった。


「大丈夫ですか?」


 男の手を握りながらソエルが優しげに語りかける。


「み、巫女様……ですか……?」

「はい、国防聖堂の巫女ソエル=グレイスと申します」


 この人は一体、何をしているんだ……。


 地に伏せた男に自ら目線を合わせ、油で薄汚れた手を躊躇なく握っているソエル。


 その光景を目の当たりにして、クリスの当惑は最高潮に達した。


「そ、その……俺……巫女様にどうしても頼みたいことがあって……」

「どうぞ、お聞かせ下さい。私に出来ることでしたらお力になりましょう」

「い、いけません巫女様!」


 突然の事態に固まっていた衛兵が、我に返ってソエルを制止する。


「貴様も! 不浄な手で巫女様に触れるな!」


 衛兵が男の腕を掴んで引き剥がそうとするが――


「おやめなさい!!」


 ソエルの一喝に、衛兵は驚愕して手を離す。


「し、しかし……」

「信徒あっての象徴です。必要としている者がいるのならば、それに応えるのが巫女の務めではありませんか?」


 明らかに規律違反であるが、巫女の言葉を否定することもできない衛兵が黙り込む。


「……続きを聞かせて頂いても?」


 毅然とした態度で衛兵を退けたソエルは、そのままもう一度男に向かい合う。


「は、はい……実は俺……十八の時から二十年も働いてた木工場をクビになって……」


 まるで慈母のような温まりを前に、男は自らの苦悩を吐露していく。


 不況の煽りを受けて長く勤めていた職場をクビになり、碌な退職金も受け取れなかったこと。


 新しい職を探そうとしても、やはり不況の影響でなかなか見つからないこと。


 このままでは嫁と息子を食わしていくどころか、息子の進学のために溜めた資金に手を出さなければならない。


 自暴自棄になりかけた矢先に彼は、巫女の予言であれば自分を導いてくれるのではないかと思い至った。


 ソエルはその言葉一つ一つに優しく頷き、クリスはただ黙ってそれを見ていた。


「自分勝手なのは分かっています。ですが、どうしても……どうしても不安で……」

「大丈夫。心配しないでください。目を瞑って……」

「目を……?」

「そう……そして、そのまま私に意識を集中させてください……」


 言葉を受け入れた男が目を瞑り、ソエルも同じ様に目を閉じる。


 巫女がただ一人の下民のために力を使おうとしている。


 本来であれば止めなければならないクリスと衛兵も、固唾を呑んで見守っている。


 暗闇の中、風に吹かれた木の葉がざわめく音だけが微かに響く。


 数分ほどそうしていた二人が、合わせたように同時に目を開く。


「ひ、光が見えました……」

「はい、主は貴方の行く先に光があることを示しました。安心してください」


 男の瞳にじわりと滲んだ涙が、すぐに大粒になった溢れ出る。


「ありがとうございます! ありがとうございます! 本当にありがとうございます!」


 巫女から直々の神託を得た男が、地面に額を擦り付けるように何度も何度も頭を下げる。


 ソエルはそれを見下ろすでもなく、自分も同じ高さの目線のままで微笑む。


 ひとしきり感謝し終えた男が去ると、彼女は衛兵に『今見たことはご内密に』と口止めをした。


 衛兵の男には、この場で起きた事態の仔細を報告する義務がある。


 しかし、眼の前で一人の人間が救われた事実には思うところがあったのか、彼は無言で敬礼すると自らの任へと戻った。


 寒空の下で、再びソエルとクリスが二人きりになる。


「……どうして、あのようなことを?」


 しばしの沈黙の後に、クリスが口を開いた。


「神託の力は国家の行く先を見通すためのものです。それを一個人……それも俗人のために使うのは……」


 真剣な表情に深刻な口ぶり。


 巫女の持つ神託の力はあくまでも神より賜りしものであり、ひいては国家のもの。


 それを個人の裁量で使用するのはあってはならない。


 返答次第では、上層部に報告するのもやむを得ないとクリスは考えていた。


「それは私がただの人間だからです」

「ただの人間……? 巫女様が、ですか……?」

「はい、どんなすごい力を持っていても所詮私は人間です。どうしても救えない人たちも大勢います。だからこそ、せめて手の届く範囲にいる人たちくらいは救いたいと思うのはおかしいことですか?」


 自らの想いを語るソエルを見て、クリスは呆気に取られる。


 彼女はこれまでにも何人かの巫女を見てきたが、その大半は象徴としての立場に誇りを持ちながらも国家の道具としての立場を弁えていた。


 予言は国家のための力と言われながらも、実情は上層の人間の私欲のためにも用いられていることにも口を噤んで。


 しかし、目の前にいる巫女は彼女の知るどの巫女とも全く違っていた。


 巫女の立場は運で得たものと言い切り、手の届く範囲の人間を救いたいと独断で神託の力を使う。


 良く言えば篤志的だが、悪く言えば世俗的。


 ただ、クリスの記憶の中に一人だけそれに近い存在があった。


 それはかつて儀典聖堂の巫女を務めていた時の母、ダーマ=カーディナル。


 自らの目で見たわけではないが、当時の彼女は誰からも好かれる博愛の巫女だったと皆が口を揃えて言っているのを知っていた。


 クリスの中で、目の前の女性が敬愛する母親の姿と僅かに重なる。


「それに心配は無用です。さっきのは神託の力を使っていませんから」

「えっ?」

「神託の力を使うには、俗世から切り離された空間で数時間に及ぶ瞑想が必要になります。つまり、今この場で使おうと思って使えるようなものではありません」

「で、では……さっき手を取ってそれらしい言葉を口にしたのは?」

「ただの勇気が出るおまじないです」

「お、おまじない……!? ですが、彼は予言を賜ったと思って帰っていきましたが……」

「う~ん……結果的にあの方の心が救われたのであればそれでいいんじゃないですか? 必要だったのは予言ではなく、勇気だったということで」


 あっけらかんと言うソエルに、クリスはまたも呆気にとられた。


「誰も損していない。最高の結果ですね。今日は気持ちよく床に就けそうです」

「ぷっ……くっくっく……」


 得意げに大きな胸を張っているソエルを見て、堪えきれなくなったクリスが手を口に当てて笑い始める。


「な、なんで笑うんですか!?」

「いや、申し訳ありません……その、くっく……グレイス様は非常に独特な巫女だと思いまして……」

「ど、独特ですか……?」


 自身を形容する言葉に、今度はソエルが当惑の表情を浮かべる。


「はい、かなりへ……独特です」

「今、変って言いかけませんでした?」

「ま、まさか……巫女様にそのようなことを……」

「言いかけましたよね? へ……って言いかけましたよね?」


 じっと目を細めたソエルがクリスに詰め寄る。


 間近で見ると、胸元についた二つの巨大な肉塊には同性でも圧を感じた。


「それは……その……へ、変化しましたねと言いかけたんです! そうです!」

「変化……? ん~……確かに、変わったと言われれば変わりましたけど……」

「はい。以前はもっと、いん……物憂げな印象でしたけど今は――」

「今、陰気って言いかけてませんでしたか……?」

「い、いい、言ってません!」


 友人になりたいと言ったソエルの言葉通り。


 まるで長年の友となったように、言葉を交わして二人が笑い合う。


「もっとお話したいですけど、流石にそろそろ戻らないと何かあったのかと探しに来られそうですね。続きまた後日、次のお食事の機会にでもしましょうか」

「……是非!」


 はっきりと次の約束を結んで、二人が別れる。


 母とのすれ違いのことをすっかりと忘れて、充足感に満ちた足取りで帰路につくクリス。


 そんな彼女の背中を見送るソエルの口元が微かに歪む。


 クリスティーナ=カーディナルは、自分に毒が流し込まれたことに気づいていない。


 それはほんの一滴、僅かな毒ではあるが、後に大きな意味を生むことになる。

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