閑話:ナタリア=ノーフォークの休日
「……することがない」
ナタリア=ノーフォークが自室で独り言つ。
彼女は今、人生において最大級の暇を持て余していた。
椅子に座り、何をするでもなくただ窓の外を流れる雲を眺め続けているだけ。
彼女としてはもう何時間もそうしていたような気分だが、現実にはまだ三十分も経っていなかった。
どうしてこうなったのか、事の発端は前日にまで遡る。
『ここしばらく働き詰めで疲れただろ。明日は休んでもいいぞ。ていうか休め』
上官であり、陸軍特務総隊長でもあるシルバ=ピアースがナタリアにそう命令した。
彼女は言われるほど疲れていたわけでもなかったが、命令をわざわざ拒否する理由も特に持ち合わせていなかった。
そうして渋々ながらも受け入れて迎えた休養日。
習慣通りに太陽が顔を出す時間帯に起きた彼女はまず日課のランニングを行った。
隊舎の周囲を軽く十周ほどして、かいた汗をシャワー室で流す。
いつもならそこから副長としてのサポート業務に移るが、今日はその仕事がない。
仕方がないと自室へと戻って、椅子に座ったところで冒頭の言葉をこぼした。
「まさか退屈がここまで苦痛だとは……。これでは逆に疲労が溜まりそうだ」
ナタリアはやや不満げにもう一度愚痴を漏らす。
彼の下に仕えるようになってから数年間、彼女はほとんど仕事一筋に生きてきた
共に休日を過ごす親しい友人や趣味らしい趣味もない。
その性質を示すかのように、部屋の中には最低限の生活用品以外はほとんど無い。
本棚に並んでいる何冊かの本も既に読み終えたものばかりで、今からわざわざ新しい本を探しに行くほどの読書好きでもなかった。
斯くして休みを与えられたからといってすることが全くないのが実情であった。
「そもそも隊長一人で業務に差し障りはないのだろうか……」
そうして結局、一人で業務中の上官に想いを馳せてしまうのは当然の流れだった。
「私がいないと各種書類の場所も分からないのでは……? 聖堂への書簡の出し方は……? そもそも文字の書き方は知っておられるんだろうか……?」
まるで子供にはじめてのおつかいを任せた母親のように心配するナタリア。
心配だ心配だとでも言うように彼女の足は無意識に何度も床を叩く。
誰かがこの場にいれば間違いなく、『そんなに心配なら様子を見に行けばいいのではないか?』と言われるような状態。
しかし、良くも悪くも今日は休みだと言われればその命令を遵守するのが彼女であった。
「まあ、今は私以外にも頼れる者がいるみたいだし大丈夫か……」
言葉とは裏腹に少し物悲しげな感情を含んだため息をつく。
ナタリアが彼の副官になってからもう二年近くが経つ。
誰からもあの無茶ばかりする男の隣によく居られるなと言われるし、実際に彼のサポートが出来るのは自分だけだという自負もあった。
いつも大勢の人に囲まれている彼だが、自分だけが持つ副官という立場には他にはない特別な近さを感じてた。
しかし、近頃は彼の周囲にそんな『特別』な人間が増えたようにナタリアは感じていた。
「それもどうしてか女性ばかり……」
何とか『あの女たらし……』という言葉は呑み込みながらも少し不満げに呟く。
レイア、ミツキ、アカツキ、ロマ。
彼の近くに新しく現れた女性陣の顔がナタリアの脳裏を過っていく。
皆が個別に優れた資質を持つ者たちで、今や自分が知らないところで動いている話も増えてきている。
加えて最近は国防聖堂の巫女であるソエル=グレイスの下もよく訪ねていると聞いていた。
ナタリアからすれば彼女はまさに遥か高みに座する天上人であり、自分にはない女性的な魅力にも富んでいる人物である。
そんな人物と比較すれば、これまでは無二であった副官という立場がすごく頼りないものに思えた。
「あぁ……退屈がすぎると余計なことばかりを考えてしまう……」
机に突っ伏すように両手で頭を抱えるナタリア。
これはよくないと自らの中で渦巻いている感情を抑え込む。
その感情に名前を付けてしまえば、きっと自分は彼の隣に居られなくなると。
そして、変なことを考えるくらいなら久しぶりに家族に顔を見せに行こうかとも考えるが――
「しかし、父上と会ってまた縁談がどうこうとしつこく迫られるのもな……」
ナタリアは前回帰宅した時の出来事を思い出す。
「あの時は本当にしつこかったからな……。私には必要のない話だと、断っても断っても帰り際まで何度も言ってきて……。そもそも、こんな武芸一筋に生きてきた女を紹介されては先方の方も迷惑だろうに……」
自分の魅力に気づいていない彼女はそう言って自宅に帰る選択肢を頭から消す。
弟や妹とは久しぶりに会いたいが、それはまた次の機会にしようと。
「いや、武芸一筋も昔の話か……」
続けて彼女は隊服の隣にかけてある二種類の衣装に目をやった。
最初に隊長室で受け取った物と、後にこの部屋まで来て押し付けられた物。
「かつては剣を、隊長に憧れてからは槍を鍛えてきた私がまさか踊り子とは……我ながらあんなものを着てよく戦ったものだ……」
街中を歩いていれば露出狂か色情魔としか思えないほどに過激すぎる衣装。
当初は隊員たちから何度も様々な心配をされたのをナタリアは思い出す。
彼女自身も最初にあの役割を与えられた時は遠回しに自分は必要ないと言われたのかと絶望した。
「だが、あの時の私は間違いなく以前よりも強かった。認め難くはあるが、それは認めざるを得ない事実だ」
あの地下空間で対峙した無数の断層に、強大な黒竜。
以前の自分であれば、あれらの危機を乗り越えられていなかったであろうとナタリアは確信していた。
「まあ、もう着ることはないだろうがな。隊長も無事に死の運命とやらも乗り越えたようだし、私が……あんなものを……無理に……着ることは……」
机の上に突っ伏すナタリアは言葉とは裏腹に踊り子衣装を名残惜しそうに一瞥する。
すると彼女の心に、あの時に感じた羞恥と興奮とが入り混じった火照りが蘇ってきた。
身体の芯からじわりと得も言われぬ熱さが全身へと広がっていく。
彼が私に与えてくれた新たな役割。
他の誰にも出来ないと自分にだけ授けてくれた役割。
彼女は踊り子という役割に彼との強い繋がりを既に覚えてしまっていた。
「……って、私は何を考えているんだ! 絶対に着ない! もう何を言われようと絶対に! そもそもあんな胸も下半身もほとんどおおっぴらの格好で皆の前に出てたなんて……今思えば……」
自分がこれまでしてきたことを思い出したナタリアが顔をかあっと真っ赤にする。
しかし、一方では恥ずかしがりながらも『でも、あの格好であれば彼も自分に対して少しは異性を意識してくれてたのではないか……』との考えも頭を過ぎる。
「うぁぁ……だから、そういうことは考えるなと……私は……」
堪えきれないほどの羞恥にナタリアは机上で頭を抱えて悶えると、突然入り口の扉がノックされた。
「ど、どうぞ!!」
予期せぬ来客に驚きながらも彼女は即座に背筋を正して迎え入れる。
扉がゆっくりと開かれ、そこに立っていたのは――
「よ、よう……休養中にすまんな……」
バツの悪そうな顔をしている上官――シルバ・ピアースだった。
「……なんですか? 私は今休養中なのですが……貴方の指示で」
彼の顔を見たナタリアは大いに暇を持て余していたのを上手に隠しながら、先刻までの羞恥への当てこすりかのように応対する。
「あー……実はお前に頼みたいことがあって……」
「頼みたいこと?」
「実は二ヶ月後の永劫祭で
「自分一人の手に余るから私に休日返上で手伝って欲しいと? 自分で休みだと命令しておいて?」
少し口ごもっている向こうの要望を先回りしてナタリアが少しトゲのある口調で尋ねる。
「……まあ、そういうことだな」
「全く、貴方という人は……」
呆れるように大きなため息を吐くナタリア。
「すまん! この通り!」
両手を眼前で合わせるシルバは、彼女の顔にある変化には気づいていない。
「仕方ないですね。まあ、どうせこういうことになると思っていましたよ」
「この埋め合わせは今度、高い飯と酒でも奢るってことで一つ」
「……そうですね。隊長の奢りであればお付き合いさせて頂きましょう」
そう言いながらナタリアは両手を合わせて拝んでいる彼に背を向けた。
やはり、この人には私が付いていないとダメだな。
彼女は口元が緩んでいるのがバレないように、棚から必要な書類を探す振りをする。
こうしてナタリア=ノーフォークの休日は半日もしない間に幕を閉じた。
しかし昼から多忙そうに上官のサポートに徹する彼女の顔には一切の疲労感も無く、ただ満足げな表情だけがあった。
このチョロさにつけこまれて、後により露出の激しい服を着て踊らされることになるのは……また別の話である。
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