第55話:もう一人の経緯

 それは温暖化という言葉を実感する茹だるくらいに暑い夏の日のこと。


 私は翌週に控えた大型即売会で頒布する同人誌のオフライン入稿を終えて、手伝ってくれた知人と二人で帰宅の途についていた。


「今回の本も最高だった~! もう完璧に解釈通り! 公式を名乗っても良い出来!」

「ほ、褒めてくれるのは嬉しいけどそれは流石に言い過ぎじゃない……?」


 謙遜して答えたけれど、心の中では鼻高々だった。


 好きなキャラクターたちのことをもっと理解したいと思って描き始めた同人誌。


 だから単に絵が上手いと褒められるよりも、キャラクターたち心情を理解していると言われるのが私にとっては何より嬉しい言葉だった。


「いや、本当に完璧だって! 例えば、あのミアちゃんが内心を吐露する場面とかさ――」


 その後も彼女から自分の描いた同人誌を褒めちぎられながら歩いていると、横断歩道の向こう側に薬局の看板が目に入った。


 私は来週のイベントで必要な物をいくつか買わなければならないことを思い出した。


 ちょうど信号が青だったので、知人に別れを告げて薬局へと向かう。


 しかし、直後まで持ち上げられて浮き足立っていた私は交差点の向こう側から暴走するトラックが迫っていることに気がついていなかった。


「……えっ?」


 その存在を視界に捉えた時にはもう遅かった。


 トラックは私のすぐ側まで迫ってきていた。


 これ、轢かれる?


 あんな大きい車に轢かれたら死んじゃうよね。


 新刊の原稿を入稿したばかりなのに。


 来週のイベントどうしよう。


 まだ描きたい題材がいっぱいあったのに。


 ハードディスクの奥に眠ってるデータは誰にも見られずに処分してもらえるかな。


 死を目前にすると時間がゆっくりになるというのは本当だったんだと考えた次の瞬間――


「危ない!!」


 誰かがそう叫んで私の身体を突き飛ばした。


 凄まじいブレーキの音と悲鳴。


 大丈夫ですかと周囲の人たちが倒れている私に駆け寄ってくる。


 私は何が起こったのか分からずに、ただ『大丈夫です』と答え続けるしかなかった。


 少しして落ち着いてくると自分は大丈夫だけど、私を助けてくれたあの人は無事なのかと心配になった。


 しかし、立ち上がって辺りを見渡してみてもそれらしき人が全く見当たらない。


 轢かれてしまったのかと思って、もっと必死に周りを探しても血の跡なども全くない。


 周りの人たちは皆、そんな人なんていなかったかのように私だけを心配している。


 しばらくして警察の人がやってきて事情聴取を受けた。


 その時の状況を話して、私を助けてくれた人がいるから探してくれるように頼んだ。


 けれど、近くにあった監視カメラの映像を見てもそんな人はいなかったと言われた。


 ただトラックの接近に気づいた私が倒れるように自分で避けたのだと。


 誰もがそんな人はいないというが私は『危ない!』と叫んで私を突き飛ばしてくれた人のことを克明に覚えている。


 姿こそ見ていなかったが、その声と肩に残る押された感覚は間違いなく現実のものだった。


 それから何日も私はあの近くを歩き回って、あの時助けてくれた人を探し続けた。


 ただ一言、『助けてくれてありがとうございました』とお礼が言いたくて。


 けれど、どれだけ探しても本人はおろか目撃証言すら掴めなかった。


 それからまたしばらく経って、即売会を無事に終えた日の夜のことだった。


 新刊が完売して良い気分で帰宅が出来た私は、久しぶりにEoEを最初からやり直そうと思ってゲーム機の電源を入れた。


 ロード画面を挟んで、メインテーマの鳴るタイトル画面が表示される。


 何度も何度も繰り返してプレイしたデータが並んでいる中、新規のセーブデータを作ってゲームを開始する。


 魔物に襲われて燃え盛る町に、我らが第三特務部隊が駆けつけてきた場面から物語は始まった。


 カイルくん、ミアちゃん、タニスさん、ファスさん、ナタリアさん。


 大好きなキャラクターたちが次々と画面に映し出されて、長らく落ち込んでいた気分がみるみる内に回復していく。


 どんな苦難を前にしても挫けない彼らはいつだって私に勇気と希望を与えてくれた。


 同人誌を描き始めたのも、そんな彼らの世界を少しでも広げたいという自分なりの恩返しの気持ちからだった。


 そして、最後に彼が画面に映ったところで私はすっかり上機嫌になった。


 シルバ・ピアース――主人公たちが属する部隊の隊長で、誰よりも優しくて強くて、決して望みを捨てない不撓不屈の精神を持つ私の一番の推しキャラ。


 見た目も言動もかっこよくて、その強さでプレイヤーがゲームに慣れていない期間を引っ張ってくれる頼りがいもある。


 作中での登場期間は長くないけれど、その精神性は主人公のカイルくんたちに引き継がれて物語にも最後まで大きな影響を与え続ける。


 インターネット上では『終身名誉銀の槍要員』とか『経験値泥棒』って揶揄されたりしているけれど、それもそれで人気の一つだと思う。


「今回は生きてくれればいいのになぁ……」


 彼の姿をモニター越しに見つめながら決して叶わぬ望みを呟く。


 彼は一章の終わりにカイルくんたちへ未来の希望を託して死んでしまう。


 これまで何度プレイしてもその結末だけは変えられなかった。


 当初はそれがすごく悲しくて、作中のナタリアさんと同じくらい寝込んでしまった。


 更には、どうにか彼が救われるDLCを出して欲しいと署名活動に参加したことも。


 更には更には、インターネット上に蔓延している彼を生き残らせる方法と銘打ったデマに騙されて軒並み試してしまったこともある。


 そんな多くの黒歴史を樹立しながら彼に生き延びて欲しいと願っていた私も、今となってはすっかりとその死を受け入れてしまっていた。


 彼は一章の最後で死んで、カイルくんたちにその精神性を引き継ぐことで完成するキャラなんだと自らに言い聞かせて。


「あっ、そうだ……今日って確か……」


 カイルくんが本隊と別れてレイアちゃんを助けに行く場面に入ったところで、ふと思い出した。


 そういえば今日はあの日だったと。


「もう始まっちゃってるかも……急いで急いで~……」


 ゲームを中断して作業用のパソコンを立ち上げる。


 ブラウザから配信サイトを開くと、それはちょうど始まったところだった。


 今や恒例となった年に一度のEoE非公式ファンイベント。


 その中でも私の特に好きなコーナーが今から始まろうとしていた。


 それは何人ものプレイヤーが同時にゲームを開始して、最も難しいハードコアモードをクリアするまでの時間を競うレースイベント。


 熟練の人たちがこの日のために編み出した攻略法を披露する最も盛り上がる催し。


 自分はゲームが得意な方ではないので、上手い人たちのすごいプレイを見るのは好きだった。


 今回はどんな攻略法が出るのかとワクワクしていると司会者の挨拶が始まった。


『えー……ここで残念なお知らせなんですが、前回王者でハードコアスピードランの世界記録保持者にして踊り子ナタリアの提唱者でもあるアルジャさんが今回は不参加になってしまいました。どうも突然連絡が取れなくなってしまったみたいで、私どもとしても心配なのですが――』


 そのお知らせにコメント欄が落胆の言葉で埋まっていく。


「そうなんだ……あの人、今回は出られないんだ……」


 私も自然と落胆の声をこぼしてしまう。


 その人は前回のイベントで優勝した人だったので私の記憶にも残っていた。


 シルバを思わせるような少しシニカルな口調で長丁場の攻略を丁寧に解説しながらプレイして、尚且つ自分の持つ世界記録を更新していたのは今もよく覚えている。


 大丈夫なんだろうかと心配しつつも、私にはどうすることも出来ないと配信画面を眺め続ける。


 ――――――――


 ――――――


 ――――


 ――


「あれ……寝ちゃってた……?」


 ぼんやりとした意識が次第に覚醒していく。


 どうやら原稿疲れが祟っていつの間にか机に突っ伏して寝てしまっていたみたいだ。


 ふぁ……っと小さくあくびをして、寝ぼけ眼を擦って目を開くと――


「……あれ? パソコン、つけっぱなしにしてたはずなのに……」


 つけっぱなしにしていたはずの配信画面がそこにはなかった。


 それどころか机の上にあるはずのノートパソコンがない。


 寝相が悪くて落としてしまったのかと床を探して見るが、どこにもない。


「あれぇ……どこいったんだろう……おかしいなぁ……」


 寝ぼけてどこかに持って行ってしまったのかもしれないと椅子から立ち上がった私は、そこでようやく気がついた。


「えっ……ここ、どこ……?」


 目覚めた部屋が自分の部屋ではない大きな異変に。


「な、なんで……? どうして……!?」


 パニックになって周りをぐるぐると見回す。


 洗練された現代の家屋とは全く違う、まるで中世か近世のような華やかさと古めかしさを同居させた一室。


 壁と床は全て石造りで、掛けられたランプの灯りが物の少ない部屋の中を照らしている。


 一目見ただけで異常な事態が自分を襲っているのだと理解出来た。


 とにかく、まずはここがどこなのか少しでも分かるものを探さないと。


 そう考えて近くにあった窓から外の景色を見ると――


「う、嘘……これって……そんな……」


 そこには更に現実を疑うような光景があった。


 視界の大半を専有するように鎮座しているのは、明け方の空を煌々と照らす巨大な樹木。


 現実にはありえない天を衝く巨大樹に私はよく見覚えがあった。


 永劫樹――EoEのタイトルロゴにも用いられている象徴がガラスの向こう側に実在している。


 これはきっと夢だと思って何度も目を擦るがその光景は消えない。


 頬を抓ってみても強い痛みに現実だと告げられた。


 ここは夢でも幻でもなく、本物のEoEの世界なのだと。


 否定したくても出来ない材料ばかりがいくつも突きつけられる。


 そして、私を困惑させるのはそれだけに留まらなかった。


 薄暗闇を背景にした窓ガラスに映る自分の姿。


 今の自分と同じ心情を表す表情で自分と全く同じ行動を取っている人物は、自分とは異なるよく見知った顔だった。


 それを見た瞬間、私は――


「ええーーーーーーっ!?」


 っと思わず大声で叫んでしまった。


 驚愕のあまりにその場で倒れて尻もちをつく。


 その痛みが全く気にならないほどの驚きに心臓がバクバクと脈打つ。


 どこからから『巫女様、大丈夫ですか!?』『何かありましたか!?』と誰かが駆けつけてくる声と何重もの足音が響いていくる。


「だ、大丈夫です! なんでもありません! 来ないでください!」


 慌てて音の聞こえてきた方向へと向かって声を張り上げる。


「しかし、今の悲鳴はただ事では」

「む、虫が出ただけです! 窓から逃したのでもう大丈夫です!」


 自分の言葉を聞いてくれたのか、駆けつけようとしてきた人たちの足音が遠のいていく。


 良かったと一息ついたのも束の間……。


 自分の現状を思い出して再び絶望する。


「な、なんで私……ネアンになってるの……」


 立ち上がり、改めて窓に映る自分の顔を見る。


 絹のように艶やかな長い黒髪に、儚さを具現化したような薄幸の美女。


 両手で顔をつぶさに触ってみても作り物ではなく、間違いなく自分自身の顔だ。


「よりによって……なんでネアンなの……」


 ここがEoEの世界かもしれない現実は受け入れるしかなかった。


 でも、どうしてネアンになっているのかは納得できない。


 嫌いなキャラじゃないし、むしろ好きなキャラの一人だと思う。


 それでもなりたいキャラかと言われれば絶対に嫌だとはっきり言える。


 何故なら彼女はカイルくんたちと敵対するこのゲームのラスボスであり、他の物語でも類を見ないほどの悲惨な結末を迎えるキャラだからだ。


「どうしよう……どうしたらいいんだろう……」


 事態を飲み込めずに、部屋の中を右往左往する。


 このままストーリーが進めば、自分は永遠の苦しみという結末を迎えてしまう。


 回避するにはそれまでに何らかの行動を起こさなければならない。


 そうしなければならないのは分かっているけれど――


「でも、それでもしカイルくんたちに嫌なことが起こったらどうしよう……。もし、死んだりなんてしちゃったら……だめだめだめ!! そんなのは絶対だめ!!」


 頭に浮かんだ最悪の事態をぶんぶんと振るって払い出す。


 どうにかしなければならないがこの世界を壊したくはない。


 自分の些細な行動で、彼らの身に起こる出来事が大きく変わってしまうかもしれない。


 辛い時も、苦しい時も、自分の支えになってくれたキャラクターたちの世界を壊すことだけは絶対にありえない。


 そうなるくらいなら自分が辛い結末を迎える方がまだましだ。


 どんな辛い目にあっても彼らが幸福であってくれるのなら自分は救われる。


 そうして私は苦悩の末にこの世界へ干渉しない決意を固めた。


 ネアン・エタルニアとしてこの世界での運命を受け入れよう。


 自分が余計な干渉しなければ、きっと彼らは自分の知っている歴史を辿ってくれるはずだと……。


 でも、そうはならなかった。


 まるで誰かが私を嘲笑っているかのように物語は本来の流れからズレていく。


 それを最も強く認識したのは彼の名が記された投票用紙を手にした時だった。


「……シルバ・ピアース」


 私は大好きだったはずの彼の名前を忌々しく読み上げてしまった。


 どうしてレグルスさんじゃなくて貴方が特務総隊長に……。


 そもそもこのイベントは貴方が死んだ後に起こるはず……。


 ありえない。おかしい。こんなことが有ってはいけないのに……。


 そう思いながらも私は狂った世界の流れに準じて巫女として、ネアンとして振る舞うしかなかった。


「――汝は永劫の徒として王国の永久なる繁栄のために剣となり、盾となることを誓うか?」

「その清浄なる御霊に誓います」


 本来であれば起こり得るはずのない出来事を黙って認めるしかなかった。


 その事以外にも狂った世界の中心には常に彼がいた。


 まるで自分が死ぬ運命から逃れようとしているみたいに彼は世界を壊していった。


 しかし、めちゃくちゃになっていく世界を見て、私の考えはより強固になっていった。


 ネアンが世界の滅びだけが自らにとって唯一の救いであると妄執したように……。


 彼らには正しい歴史を歩んで幸せになってもらわないといけない。


 きっと、これは私の作品愛を試しているんだ。


 全てを知っている私だけがこの世界を元に戻せる。


 私がこの世界を守らないと……。

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