第31話:いざ地の獄へ

 ――翌朝、第三特務部隊隊舎。


 カイル・トランジェントは誰に言われるでもなく、隊の誰よりも早く目を覚ました。


 ベッドの上で身体を起こした彼は声を噛み殺して大きなあくびをする。


 昨夜の訓練で動けなくなるまで疲弊した肉体も、一晩寝れば全快復するのは若さ故だろうか。


 同室の隊員を起こさないようにベッドからそっと降りた彼はそのまま服を纏い、譲り受けた銀の槍を手に部屋を出る。


 その足で向かう先は隊舎の外にある訓練場。


 まだ日が登りきっていない薄紫の空の下、彼は一人で訓練を開始する。


 一見すると虚空へと槍を闇雲に振るっているだけだが、その目には明確な目標が映っていた。


 それは数日前に取り決めたシルバとの勝負。


 勝負の内容は期限内にカイルが彼へ一撃を加えることが出来るかどうか。


 そして、勝った方がミアとデートする権利を得るという取り決め。


「俺、どうしてこんなに頑張ってんだろ……」


 ふと浮かんできた疑問がカイルの口から漏れ出る。


 あの時は感情的になって止めたが、そもそも隊長とミアがデートしようが自分とは何の関係もないじゃないかと。


「じゃあどうしてだ……? ミアのことを守るって昔約束したから……?」


 独り言ちながら彼が思い出すのは幼い頃に交わしたミアとの約束。


 森の民と人間との間に望まぬ子として生まれ、どちらの世界にも居場所のなかった彼女は幼い頃から酷い差別を受けてきた。


 大人たちからは心無い言葉を浴びせられ、同じ子供からは時に酷い暴力を振るわれることも。


 そんな中でも同じ境遇を共にするカイルだけはずっと彼女の味方であり続けた。


 どんな奴が相手でも絶対に俺が守ってやると誓い、相手が大人でも複数人でも関係なく立ち向かっていつもボロボロになっていた。


 それはカイルが軍に入隊し、後を追うようにしてミアが入隊した後も変わっていない。


 今もその信念に従って毎日自分よりも遥かに強い相手へと挑み、ボロボロになり続けている。


「でも、俺なんかより隊長の方が何倍もかっこいいし、何十倍も女性の扱いに慣れているし、何百倍も強いし……。それなら俺じゃなくて隊長に守ってもらった方がずっといいよな……」


 理屈ではそれが正しいと思いながらも彼は槍を振る手を止めない。


 彼の目だけに映るシルバ・ピアースの幻影へと向かって何度も槍を振るっては軽くいなされて、逆に反撃を受け続けていた。


「……ダメだ。まるで勝ち目がない」


 自分が都合よくイメージした相手にすら歯が立たない。


 なら現実の本人を相手にして勝てる可能性は絶無であろう。


 期限内に一撃を入れるだけで勝利という自分が圧倒的に有利なはずの条件下でも、彼には勝つための展望が全く浮かんでこなかった。


「余計なことを考えるからだ……。そう、俺はミアなんてどうでもいい……どうでもいいんだよ……。俺はただもっと強くなりたいだけだ。だから隊長が付きっきりで訓練してくれてるならそれでいいんだ……勝ち負けなんて、ミアのことなんてどうでも……」


 自分に言い聞かせるカイルだが、威勢のよい言葉に反して槍を握る手からは力が失われていく。


 そうして遂に動きを止めた彼の背後から、ふと囁き声が響いてきた。


『……が……しいか?』


「だ、誰だ!?」


 恥ずかしい独り言を誰かに聞かれていたのかとカイルは慌てて振り返る。


 しかし、そこには誰の姿もなかった。


 風の音でも聞き間違えたかと再び訓練に戻るために元の方向へと向き直った時――


「うわっ! だ、誰だ!?」


 先刻は無人だった場所に誰かが立っていた。


 カイルよりも一回り小柄な身体。


 頭から大きなフードを被っているせいで顔は暗闇に包まれている。


「少年、力が欲しいか……?」


 謎の人物はささやくような声でカイルへと言う。


「き、君は……」

「力が欲しいんだろう? あの男に勝つための力が……」


 カイルの言葉には答えずに、ただ同じ言葉が繰り返される。


 突如として現れたそんな不気味な人物に対してカイルは――


「君、隊長の妹さんだよね?」


 冷静にその正体を見破った。


「……違う」

「いや、違わないよね。声とか背格好も同じだし」


 十秒にも及ぶ長い沈黙が誰もいない早朝の訓練場を包む。


「あー、もうっ! 人がせっかく雰囲気を出してあげてたのに全部台無しじゃないの!」


 文句と共に頭から被っている布を乱暴に脱ぎ去られると、その下から一人の少女が姿を現した。


 ちょうど今の時刻帯、払暁の刻を思わせるような肌の色をした彼女の名前はアカツキ。


 カイルからすれば勝負相手であるシルバ・ピアースの妹を名乗る少女であり、兄と同じく自分よりも遥かに高みの実力を持つ存在でもあった。


 先日の訓練での教官役を決める際に、初参加の彼女に隊の誰もが手も足もでなかった光景はまだ彼の記憶に新しい。


「俺に何か用……? 訓練中で忙しいから出来れば手短にお願いしたいんだけど」

「訓練……? それって、さっきの下手な踊りのこと?」

「踊り……って、いきなり出てきて失礼だな。こっちはこっちなりに必死で――」

「死物狂いで、どんな目に遭っても強くなりたいんでしょ? 男の子よねぇ……」


 ムッと不満を露わにしたカイルにアカツキが言葉を重ねる。


「……そうだよ。だから邪魔をしないでくれよ」

「それはこっちの台詞よ。私は貴方に救いをもたらしにきた女神様なんだから邪険にしないでよね」

「救い……?」


 見た目は似ていないが、口調や言い回しは隊長に似ているなと思いながらカイルが聞き返す。


「そっ、ついてきて。良いものを見せてあげる」


 少女らしい仕草でクルっと翻ったアカツキが隊舎の方へと歩き出す。


 カイルは怪しみながらも第三特務部隊の隊員として実力主義の理念に従い、彼女の後をついていく。


 そうして案内されたのは隊舎の裏手。


 表の訓練場よりも更に物静かで、手入れが行き届いておらず雑草が生い茂っている。


「こ、こんなところに連れてきて……救いって何なんだよ……」

「建物裏で男女が二人きりと聞いて甘酸っぱいイベントを期待したかもしれないけど……残念ながら貴方がこれから舐めるのは、この世の地獄かと思うような辛苦よ」


 そう言ってアカツキは服の内側から小さな何かを取り出し、親指でそれを弾いた。


 弾かれた物体は中空で爆ぜ、黒い渦となって大きく広がっていく。


断層リフトっ!? なんでこんなところに!?」


 瞬く間に人間大の大きさへと膨らんだそれを見て、カイルは咄嗟に戦闘態勢を取る。


 それ由来の魔物と対峙したことはあるが、現物を間近で見るのは彼も初めてだった。


「あんな野蛮な物と一緒にしないの。これは転移門ポータルっていって、断層とよく似てはいるけど別物よ」

「ぽ、ぽーたる……?」

「そっ、頭の良い人が断層の原理を応用して作った空間転移技術。これを潜ると一瞬で遠くの場所に移動できるってわけ」

「一瞬で移動って……そんな技術も魔法も聞いたことないけど……」


 カイルは訝しむが現実には目の前で断層とよく似た黒い物体が渦巻き、隣では少女が警戒心もなく佇んでいる。


 少なくとも危険な存在ではないのかもしれないとカイルも少しだけ警戒を解く。


「そんなことどうだっていいでしょ。大事なのはあんたが強くなりたいのかなりたくないのかよ。どっちなの?」

「そりゃなりたいけど……それとこれに何の関係が……」

「色々と鈍いわねぇ……ほんとにこれが世界を救う英雄なの……?」

「え、英雄……?」


 耳馴染みのない言葉を口にしながら自分の顔をジっと覗いてきたアカツキにカイルがたじろぐ。


「とにかく、強くなりたい。うちのお兄ちゃんに勝ちたいっていうならこれを潜れってこと。この先にはあんな踊りを何百年続けてても得られないすっごい体験が待ってるわよ」

「す、すごい体験って……?」

「それは行ってのお楽しみ」


 カイルからの質問を悪戯な笑顔で誤魔化すアカツキ。


 怪しい。めちゃくちゃ胡散臭い。


 彼はそう考えるが、目の前の少女が言うようにこのまま自己流で訓練を続けていても勝機は限りなく薄いのも事実であった。


 それなら隊長には劣るが自分よりも強いアカツキの話に乗るべきなのかもしれないと彼の心は小悪魔の誘惑に少しずつ傾きかけてきた。


 何より、このまま自分の元からミアが離れていくことに彼は強い忌避感を抱いていた。


「って、俺はなんでまたミアのことを考えてるんだよ。そんなことよりも自分が強くなるのが大事だって……」


 言葉ではそう言いながらも、強くなりたいと思えば思うほどに彼女のことが頭に浮かぶ。


「それじゃあ……はい、これ」


 アカツキが足元にあった大きなバックパックをカイルへと向かって放り投げる。


「お……っと、なんだこれ……」


 とっさに手を出して、カイルはそれを胸元でキャッチする。


「向こうで必要最低限の物資。流石にいきなり放り込まれて右も左も分からないまま死ぬのは可哀想だから渡してやれって脚長おじさんから」

「最低限って……この量で?」


 カイルがもう一度胸元のバックパックへと視線を落とす。


 それはまるで行軍訓練か生存自活訓練を行う時に背負うような大荷物。


 以前、ミアとレイアの三人で地下洞窟を彷徨った時に持っていた物より一回りも二回りも大きい。


 両腕にかかるズシりとした重量感がそのまま彼女の言う『向こう』の過酷さを表しているようにカイルは感じた。


「そもそも、まだ行くとも言ってないし。大体、君は何が目的で俺にこんな――」

「うるさいわねぇ……大事な幼馴染がうちのお兄ちゃんに取られてもいいの?」


 被せ気味に紡がれた言葉にカイルは息を呑む。


「良いか悪いかと言われれば……俺的にはあんまり良くないけど、でもそれは本人が決める問題で……」

「じれったいわねぇ……。さっきから言動がうじうじうじうじと男らしくないのよ。こっちはあんたの目を見れば本心なんて丸わかりなんだからさっさと覚悟を決めなさいよ」


 煮え切らない態度のカイルに対して、アカツキは地面を何度も踏んで苛立ちを露わにする。


「そんなことを言われても、俺だって巻き込まれただけで――」

「あー、もう! つべこべ言わずにさっさと……行け!!」


 苛立ちがピークに達したアカツキがカイルの背中を蹴り飛ばした。


「わっ! ちょ、あっ……わぁあああああああああっ!!!」


 体勢を崩したカイルが黒い渦の中に飲み込まれていく。


 最後に何かを掴もうと伸ばした手も空を切る。


 黒い渦が消失すると、そこにカイルの姿は影も形もなかった。


「ほんとに……妹使いが荒いんだから……ふぁ……」


 一仕事終えたアカツキは小さなあくびをすると、二度寝するために自室へと戻っていった。

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