第78話 休めない夏休みの終わり

 ギッチャコギッチャコと、黒いアイロンが砂浜を歩く。

 その向こうでは大柄なエアクッション艇が、砂浜に乗り上げて停まっていた。


「明日帰る?」


「ああ、休暇兼合宿は一旦区切りかな」


 白藍が到着して早々、補給ではないのかとシューニャは首を傾げる。

 手配した時はそのつもりだったのだが、不明機が現れたとあっては無視もできない。加えて、サフェージュの捻挫もある。

 どうせ、元々の予定も夏の間というザックリとしたものだったのだ。別に切り上げたところで問題もないだろう。


「結局、1回も合格できなかったッスねぇ」


「合宿は終えても訓練は継続できるようにするさ。そうしなければ意味がない」


 線のような目をして笑っていたアポロニアだが、引き続きやるぞと伝えれば、途端に表情が引き攣った。

 もしかすると、これで解放されると思っていたのかもしれない。いや、本人が嫌なら無理に続ける理由はないのだが。

 一方、マオリィネは何やら怪訝そうに腕を組む。


「それは難しくないかしら? いくら家が郊外にあると言っても街道からはそう離れていないのだし、まきなで騒げば噂になるわよ」


「実機訓練が全てじゃないんだ。より実戦的な操縦に慣れてもらうなら、仮想空間訓練の方が効率がいいこともある。怪我の心配もないしね」


 今度はマオリィネが顔を顰め、アポロニアは引き攣った表情のまま青ざめる。


「う……ま、またアレをやるのね」


「あんまりいい思い出ないッス」


 そんなに嫌か、と聞きたかったが気持ちは分かる。

 速成の訓練はどうしても厳しくなってしまうし、彼女らはそれしか経験がないのだ。しかも800年前の教育の下地すらない状況では、訳も分からないままやらされている感も強かっただろう。


「でもべんりだよ? データも取りやすいし」


 明らかに逡巡する2人に対し、ポラリスが分かりずらいメリットを提示する。間違ってはいないのだが響かないだろう。

 そう思っていたのだが、ピンと尻尾を立てた者が居た。


「それをすれば強くなれるんですか? ボク、やったことないんですけど」


 言われてみればそうだ。以前、アポロニアとマオリィネが仮想訓練でしごかれていた時、銃火器を扱わないファティマは、ミカヅキの完成を待っていただけで経験していない。

 だからこその好奇心かとも思ったが、きらりと輝く金の目はそれだけということもないらしい。


「一朝一夕に、とはいかないが、それでも訓練は日々の積み重ねだ。継続すれば必ず強くなれる」


「なら楽しみです」


 彼女はどこか期待を顔に浮かべながら、パチンと拳を掌に打ち付けてみせる。

 この普段と異なる様子には、今まで顔を引き攣らせていた2人も驚いたらしい。


「ず、随分やる気ねファティマ」


「そうですか? 別に普通ですけど」


 ゆーらゆーらと揺れる尻尾はいつも通り。それでもなお、アポロニアは疑わし気な視線を向けた後、スンと小さく鼻を鳴らした。


「そういえばご主人、昨日からファティマの匂いがしてる気がするんスけど」


 小さく肩が跳ねる。

 同じ石鹸を使っているのだから誰だって同じだろうに、何故わかる。


「……何かした?」


 僕の沈黙を訝しく思ったのか、シューニャはファティマの方を振り返る。

 大丈夫だ。昨日の時点で、秘密にしようという意思確認は取れているから。


「いえ特には。一緒に水浴びしただけです」


 成程、両者の間には大いなる解釈の齟齬があったらしい。

 否、やましいことはしていない。恋人という観点で照らし合わせるのなら、していないと言っていいはず。


「キョーイチ?」


 だが、刺すような空色の視線を前に、僕にできたのはいい訳ではなく回れ右をすることだけだった。


「それじゃ、僕は搬入の手伝いをしてくるから、後は若い皆様だけでどうぞごゆっくり」


 ハハハと笑いながら歩き出す。

 置くこと1拍。歩数にして3歩ほど


「ま、まままま待ちなさいキョウイチ!! 貴方、嫁入り前の娘相手に、なんってはしたないことしてるのよ!?」


「ずーるーいーなー!! わたしとはオフロ入ってくれないのにー!」


 叫び声が聞こえると同時に僕は全力で砂を蹴った。

 捕まれば長時間に渡る尋問は免れない。尋問を受けるだけならばまだしも、昨日のアレを下手に広める訳にはいかぬ。

 動け自分の足。止まったら死ぬと教えられた教育隊の記憶を思い出すのだ。



 ■



 おにーさんがあんなに速く走れたとは知らなかった。元気そうだからいいけれど。

 小さくなっていく3人の背中を見送ってから、ふと頭の中で彼の言葉が過った。


「……あ、そういえば秘密なんでした。忘れてました」


 いけない、約束していたのに言ってしまった。後で謝っておこう。

 なんて頷いていると、顔を真っ赤にしたシューニャに、ツンツンと手を引かれた。


「ほ、ホントに水浴びしたの? もしかして、ミズギで?」


 それは細く震える声だった。いつもの淡々とした雰囲気などどこにもないし、普段なら絶対にしない質問だと思った。


「身体を洗わないとなので、ミズギは着てないですよ? 恥ずかしいので流石に隠してはいましたけど」


 隠していたと言っても、あんな布切れ1枚だけだ。多分あちこち見えていたと思う。

 でも、マリベルは恋人なら裸を見せるのが普通だと言っていたし、ボクもおにーさんの裸を見ているのでお相子だ。それに、あのドキドキする感じは嫌じゃない。


「ち、ちなみに、どんな感じだったとか、聞いてもいいッスか?」


 アポロニアは余程興味をそそられたのか、ずいと顔を寄せてくる。今まで教えられてばっかりだったので、少しだけ優越感。


「気持ちよかったです。石鹸であわあわを作って、それで背中をごしごしペタペタしてたら、おにーさんも気持ちよさそうでした。あ、今度は一緒にどうですか?」


 と、言い切った所でぶふぇッと噴き出す音が聞こえた。犬は汚い。


「ちょ、ちょっとタンマッス! あんた、乙女としての恥じらいをどこに捨てたッスか!?」


 急に何を言い出すのだろう。自分から聞いた癖に。

 ただ、変なことをしているという感じはしなかったし、ドキドキはしてもちゃんと発情は制御できていた。それはきっと、自分の中で何かが成長したからだと思う。

 だからこそ、ボクはわざと少しだけ余裕をもって笑う。


「んー……男の人相手でも、おにーさんにならいいのかなって」


 アポロニアは言葉を失ったらしい。パクパクと口を開け閉めするだけで、声が出てこない様子だった。

 一方、反対側からん゛ッ、と何かを堪えるような声が聞こえて振り返る。


「は、裸で、ぺたぺた……」


「わぁ、鼻血出てますよ、シューニャ」


 顔を真っ赤にして俯いているから何事かと思えば、口元を押さえた手の隙間から数滴の血痕が零れていた。

 前から思っていたけれど、シューニャは結構むっつりさんであるらしい。

 咄嗟に小さな布切れで顔を拭えば、真っ赤な頬はいつもよりずっとポカポカだった。一体どんな想像をしていたのだろう。



 ■



 勝った。

 いや、正確には向こうが運よく見失ってくれた、と言った方が正しいか。

 磯のほとりに腰を下ろした僕は、いつもより乱れた呼吸を整えつつ、久しぶりに着た戦闘服のポーチから取り出した小さな輝きを手の中に遊ばせる。


「健康は最大の贅沢、か。昔から色々覚悟はしていたが、ままならないな」


 身体が資本とはこのことだろう。直面させられて初めて、その意味を実感するなんて馬鹿馬鹿しいが。

 それでもまだ、自分は機甲歩兵として生きようとしている。身を削るような道が正しいのかはともかくとして、今の時代は崩壊した自分たちの文明と違い、力のない者に厳し過ぎるのだ。


「あ、いたいた。キョーイチ、こんなとこでせーしゅんしてる」


 石の転がる音に振り返れば、凸凹だらけの岩場をポラリスがよろよろしながら歩いてくる。

 どうやら、1人にしてもらえる時間は終わりらしい。あるいは、自分がそれを望んでいたのかもしれないが。


黄昏たそがれてる、の方が正しくないかいそれ」


「たそがれ?」


「ボーッとしてることだよ」


 ようやく僕の隣までやってきた彼女は、ふぅんと気のない声を出しながらしゃがみこむと、下からこちらを覗きこんで一言。


「……楽しい?」


「僕はね」


「どして?」


「こういう穏やかな時間が、どれだけ貴重かを知ってるから、かな」


 眉をぐにょぐにょ曲げながら、ポラリスは不思議そうに首を捻る。

 彼女にとって平穏な時間というものは、一旦失われてもまた必ず訪れるものと信じられているのだろう。

 自分もできればそうあってほしいと願っているが、絶対などと言えるはずもない。

 だからこそ、1人の時間が終わったことにホッとしながら、手の中で遊ばせていたそれを水平線にかざした。


「それなぁに?」


「先の戦争で分配された戦利品の中から見つけてね。月長石げっちょうせきというらしい」


「きれいな石だねー……キョーイチがこんなの持ってるの、ちょっとイガイかも?」


「宝石に興味がある訳じゃないさ。お陰で聞き回る羽目になったが」


 白く輝く石をポラリスに手渡す。小指の爪ほどの大きさしかないそれは、磨かれている訳でもなくごつごつとした表面を晒していた。

 仮に路傍に転がっていたとすれば、僕は気付くことすらないまま通り過ぎるだろう。仮に目についたとしても、何らかの価値を見出すとは思えない。

 ただ、ポラリスは何かに興味をそそられたらしい。おかげで、僕がそっと彼女の首元に手を回した時、小さな体がビクンと大きく跳ねた。


「にゃっ!? 何? 何?」


 驚いた挙句にこそばゆかったのか、ポラリスは両手を首元の辺りでわたわたさせていた。

 その小さな手が、僕の引っ掛けた革紐に辿り着くまではそう時間もかからない。


「ネックレス……? あっ、えっ? これって……!?」


 ようやくの事だが、今回は僕の勝ちだ。

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