第43話 ダスティミラーは日陰に咲く

 コロリ、とロックグラスの中で氷が鳴る。

 揺れる薄紅の蒸留酒は現代の物だろうが、製氷の技術や精緻なガラス製品は現代にあらず。800年の時間を生き延びた文明の残り香によるものだ。

 贅沢と言えば贅沢だろう。ただ残念なことに、ロックグラスを掴んでいる自分の心は優雅さからかけ離れたまま、酒の香りを楽しむでもなく、アルコールを喉の奥へじわじわと流し込むだけだったが。


「あれ? おにーさん?」


 ひょこりと通路から覗き込んでくる金色の瞳。言葉の通り、暗がりに見える猫そっくりな彼女は、照明の落ちたラウンジに自分が居たことが余程不思議だったのだろう。長い尻尾の先端をちょこちょこと振りながら、ゆっくり歩み寄ってきた。


「ファティか。君も眠れないのかい?」


「いえ、ちょっと喉が渇いただけですけど――それ、お酒ですか?」


「……たまには、と思ってね」


「もしかして、眠れないんですか? さっき、って」


 スン、とよく利く鼻を鳴らし、彼女は僕の隣へ腰を下ろす。

 酒に不慣れな自分が悪いのか。感情には全く霞をかけない癖に、思考ばかり鈍くなっているのかもしれない。何かを案ずるようなファティマの視線と、有無を言わさぬ鋭い指摘に、僕はクッと残されたグラスの中身を飲み干し、小さく息を吐いた


「口が滑ったなぁ。別に体調が悪いとか、そういうのじゃないんだが――」


 シューニャの行動、自分の問題、テクニカの抱える研究の闇、古代文明に隠された狂気の倫理観。アルコールに冒されている頭も相まって、ダラダラと取り留めもない話になった気はする。

 ただただ、洗いざらい流れ出てくる僕の言葉を、ファティマは黙って聞いていた。普段なら、もう大丈夫です、とか、よく分からないので、と言って立ち去ってしまいそうな内容なのに、彼女はその大きな耳を背けることもなく。


「ルウルアが生きてたのもビックリですけど、シューニャがそんなことを……」


 僕の口が言葉を吐かなくなったのを確認してから、驚いた様子でそう呟いた。

 途中も今も茶化すこともなく、真剣な様子で相槌をくれたからだろうか。氷だけが残るグラスに、自然と内心が零れ落ちる。


「僕ぁ、どうしたらいいんだろう。君たちとの幸せを願うなら、シューニャが言っていたように、何もかも捨てて逃げるのが正解なんだろうか」


 そうすれば、少なくとも今は凌げる。機甲歩兵という鎧を棄てて、これまでに集めた金子を切り崩しながら慎ましやかな生活を送れば、現代を生きる農民よりは豪華で快適で、運が良ければ一生を幸せなままで終えられるかもしれない。


「んー……まぁ、それでおにーさんが元気になって、皆で楽々暮らせるなら、逃げるのも悪くないと思いますけど」


「そうはならないのが現実、だろうね。だからと言って、今の僕は全力で戦うことすら難しい状態だ。正直お手上げだよ」


 既に敵は姿を現した。自分が武器を捨てたとて、独立国家共同体が消えることはない。

 ならば神に祈りながら、震えて暮らすのか。どうかかの勢力が、現代文明への侵攻を企てぬように、我々を標的にしませんようにと。

 それが叶わなかった時、僕は僕を許せるのだろうか。愛する家族だけを抱え込み、その他の縁全てに線を引いて切り捨てるという判断を下し逃げ出した、僕自身を。

 分からない。何が正解なのか。

 やけくその様に蒸留酒の入ったボトルを握る。だが、その拳にそっと温かい手が重なった。


「シューニャもおにーさんもとっても賢いです。だけど、だからこそ、色んなことを考えすぎちゃうんじゃないでしょうか?」


 じわりと顔を上げた先、ファティマは優しく笑っていた。普段のふにゃりとした笑みではなく、戦いに向かう獰猛な表情でもなく、まるで母親が子を優しく諭すように。


「そう、だろうか」


「きっとそうですよ。でもどんなに考えたって、明日のことは分かりません。だからボクは、今を大事にしたいって、思います」


「明日じゃなく、今……」


「ボクは元々、何にも持ってませんでした。でも、今はここが、おにーさんの隣がボクの場所です。お話することもできますし、触ればあったかいです。それだけで、十分すぎるくらい満足なんですよ」


 ボトルから手が離れる。

 遠くを見るようにファティマが語ったのは、彼女の中にある哲学だったのかもしれない。

 何処かで生まれ何れ死ぬ。誰が定めたのかも分からない世界の法則の中で、大切にすべきなのは未来でも過去でもない。ただ、この瞬間の満足なのだと。

 刹那的で短絡的と言えばそうだろう。ならば後悔しないかといえば、そんなことはない気がして、僕は自分の中に溜まった毒を小さく吐き戻した。


「……たとえ、僕が明日散ったとしても」


「おにーさんを殺した奴がいるなら、そいつだけは形が分からないくらいメタメタにします。その後は勝っても負けても、おにーさんを追いかけますね」


「それはやめてほしいんだが」


「ボクはもう奴隷じゃありませんから。おにーさんがやめてほしくても、ボクのことはボクにしか決められない、でしょう?」


 ファティマはそう言って微笑む。

 大切な人の死を割り切っている訳ではなく、納得もしないし後悔も起こる。だが、結果そうなったのならば、自分の進む先は決まっていると、あまりにも自然に言い切って見せた。


「随分と優しい、死人に口なし、があったものだなぁ」


「ふふん。それに、前にも言ったでしょ? 好きな物にはしつこいって。だからね」


 すらりと長い手が、こちらへ向かい伸びてくる。

 ファティマは僕の頭を掴まえると、力を込めるでもなく、ただ無抵抗な自分をゆっくりと自らの胸元へ抱き寄せた。


「たとえ明日おにーさんが、ラジアータの所に召されるとしても、ボクは絶対おにーさんを1人にさせません。絶対です」


 奴隷という身分。キメラリアという虐げられた種族。売れ残ったが為に長く見てきた、あまりに汚れた世界が、この死生観を形作ったのだろうか。

 だとすれば、自分はそれに救われたのかもしれない。


「君は、暖かいんだな、ファティ」


 彼女の背中に手を回し、柔らかい寝衣に顔を埋める。

 大の男が、まるで子どものようだと思った。それなのに、こんなに落ち着くなんて。


「……甘えんぼさんですね。ふふ、ボクでよければ、もっとギュッとして、どーぞ」


 頭を優しく撫でてくれる手。髪に寄せられる顔と吐息。

 その温かさに沈んでいくような感覚。だが、抗う力など僕には残されていなかった。


「君の、鼓動が聞こえる」


「んふふ、なんだか、ちょっと恥ずかしいです」


「不思議だな。凄く、落ち着く音……だ、よ」


「おにーさん?」


 トクン、トクン、と一定に刻まれる心臓のリズム。

 それはきっとどんな子守唄よりも、自分をまどろみの中へいざなっていたのだろう。


「……おやすみなさい」


 耳元をくすぐった囁き声はとても甘く優しく、全てを委ねても赦されるようにさえ聞こえた気がした。



 ■



 ファティマ曰く、ご主人は今日1日寝ているつもりらしい。

 何でも、結構な勢いでお酒を呑んでいたのだとか。何があったのか知らないが、誰でも生きていればそんな日がたまには来るものであることを、自分はよくよく知っている。

 ただまぁ、せっかく呑むなら自分も呼んで欲しかったなァ、愚痴でもいいから聞きながら一緒に呑みたかったなァ、等と若干邪な感情も芽吹く中、過ぎてしまったことは仕方なく、自分はもう1人起きてこない人物の部屋の扉を開いた。


「シューニャ、起きてるッスかー? もうお昼過ぎてる――って、あぁ」


 窓の覆いすら開けず照明も点けず、さりとて寝息も聞こえてこない部屋の中。寝台の上で小山のようになったシーツを見れば、大体の事は察せられる。

 後ろ手に扉を閉め、白い小山の横へと腰を下ろした。


「やれやれ……今度は何があったッスか。ここには今、自分とシューニャしか居ないッスよ」


 ご主人が苦手とする酒を浴び、その一方でシューニャが起きてこないとなれば、もしかしてということは想像の片隅にあった。

 とはいえ、ここまであからさまだと誰でも気がつくだろう。薄っぺらく柔らかい要塞に籠った彼女を、その上からポンポンと掌で軽く叩いてみれば、ややってシーツがもぞもぞと動き、僅かに開いた影から翠色の瞳が覗いた。


「アポロニア……私、私は……」


 きっと泣いていたのだろう。赤く腫れた目元と少し枯れた喉に、自分は年下の彼女をシーツごとそっと抱き寄せる。

 何か怖いこと、苦しいことがあった時、1人で塞ぎこむのは良くない。出口の見えない迷路の中で、どんどん沈んでいってしまうような感覚を、自分はよく知っている。

 だからただひたすらに、大丈夫大丈夫、落ち着いて、言いたくないことは言わなくていいから、と暫く宥めていれば、しゃくるばかりだった小さな口からやがて、ポロポロと事の顛末が零れ落ちた。


「そんなことが……いやまぁ、ルウルアが生きてたってのは、喜ぶべきなんでしょうけども、不死身の研究って」


 いつも正確に、きっちりとまとめた物言いをするシューニャにしては、あまりにもぶつ切りな内容ではあったが、逆に言えばそれだけでも驚くには十分すぎる迫力でろう。

 ルイスとかいうミクスチャを作っていた研究者が、進化だの不死だのと言っていた気はするが、神代ではそれが普通だったのだろうか。

 あまりにも途方のない話過ぎて想像がつかない。しかし、シューニャは嗚咽を堪えながら私にしがみ付いて、まるで罪を告白するように必死で言葉を吐き出した。


「私は、間違った。心の奥では、キョウイチを困らせるだけだって、分かっていたのに。兵士だからって、あの人はずっとずっと、言ってくれていたのに。私は弱くて、怖がりで、どうしようもなくて……」


 あぁそうか、と合点がいった。

 自分は頭がよくない。字を読んでいると頭が痛くなるし、計算だって日雇いで働いていた時に覚えた簡単なものくらいしかできないのだから。

 けれど、そんなことは関係ないのだ。


「なら、自分たちは案外、似た者同士かも知れないッスね」


 金色の綺麗な髪を撫でながら、自分はたははと笑う。その様子が不思議だったのか、シューニャは動きの小さな表情の中でも、キョトンとしているように見えた。


「自分も、もしご主人が死んじゃったらって、怖くなる時は割とあるッス。ほら、お話に出てくる英雄とかって、急にとんでもない最期を迎えたりするじゃないッスか」


 人々を苦しめた化物を打ち倒した英雄は、国王からも民からも大きな賞賛を浴び、お姫様と永遠の愛を誓います。しかし、英雄はその戦いで化物の血を浴びた呪いで、姫と契りを結ぶことも叶わぬ内に蝕まれ、やがて身体が石となって砕けてしまいました、なんて。

 ああ怖い怖い。想像するだけで自分の背中が冷たくなる。きっとただの作り話で、ご主人とは何の関係もないというのに。

 ブルリと震えそうになる身体を堪え、シューニャの細い腰にそっと尻尾を回り込ませる。


「シューニャの言う通り、ご主人は兵隊ッス。今の連中とは色々違うッスけど、命の取り合いをする仕事ってとこだけはやっぱり変わらなくて、だから自分も見てると時々怖くなるッスよ」


「「いつか、帰ってこなくなるんじゃないか」」


 重なる小さな声に、自分はわざとらしくニッと歯を見せた。


「ね? 考えてる事は、一緒ッス」


「でも……アポロニアは、キョウイチと一緒に戦える。背中を守ることが、できるから」


「たはは、だといいんスけどねぇ。むしろ自分としては、シューニャが羨ましく思う時があるッスよ」


「私、が?」


 全く、何故この子はこんなに不思議そうな目をするのだろう。自信がない、あるいはなくなってしまったからだろうか。


「そりゃまぁ自分にだって、シューニャにもファティマにもマオリィネにもポーちゃんにも、負けてない部分はあるって思ってるッスけど」


 指折り数えれば、まぁ多分料理なら誰にも負けていない。実際、ご主人も美味しいと言ってくれるし任せてくれている。それから、胸の大きさは絶対だ。正直邪魔に思うことの方が多いけれど、大が強だとすれば間違いなく夜光協会最強。


 ――他は、うーん。難しいッスね。ジュウの扱いだと、下手したらポーちゃんに負けそうだし、そもそもご主人には絶対勝てないッス。


 改めて考えると、思いの他出て来なくて少し凹む。だが、だからこそ、自分は鬱々としている妹分のおでこにピッと指を突き立てた。


「それでも自分は、シューニャみたいに賢くないッス。ご主人の体を治す方法がどうのこうのって言われても、出来ることなんて体に良さそうなご飯を考えるくらいで、後は神様に祈るしかないから、正直悩むこともできないんスよ」


「悩むことも、できない」


 シューニャはハッとした様子でこちらを見る。

 全く、本当なら羨ましいと手ぬぐいを噛んで歯を鳴らしたいくらいなのに。恨みたらしく思えないのは、あれほど自分には縁がないと思っていた家族という存在に、当たり前に落ち着いていたからなのだろう。


「自分が言えたことじゃないッスけど、もうちょっと自信持っていいと思うッスよ。シューニャには、シューニャにしか出来ないことがあるんスから」


「……アポロニア、お姉ちゃんみたい」


「サンスカーラとは、似ても似つかないと思うんスけど……あぁでも、胸の大きさだけなら負けてない自信はあるッス!」


 不味い、と思ったのは、どうだと胸を張った直後だった。

 シューニャはとても発育を気にしている。いや正直な所、同性の自分から見ても彼女は整った顔立ちをしているし、ご主人はあまり体格を重視している様子もないので、思い悩む必要などないと思うのだが、本人が劣等感を抱いているなら最早どうしようもない。

 流れる冷や汗。このままではケイヤキクを鼻に突っ込まれかねないと、慌てて取り繕おうとした矢先。


「ふふっ、何それ」


「……え゛っ」


 自分は目を疑った。

 尻尾を引っ張られなかったことではない。耳を引っ張られなかったことでもない。

 ポカンとする自分の顔は、余程間抜けだったのだろう。口元に手を当てた彼女は、不思議そうに首を傾けた。


「何?」


「しゅ、シューニャいま、笑ったッスか!? ちょっ、顔見せて!」


 我に返った自分が細い肩に手を置けば、シューニャは最初こそ少し困惑した様子だったものの、やがてわざとらしく澄まし顔を整える。


「……ヤ」


 いつも鉄仮面の様に装っている内側は、自分が想像しているよりずっと、ともすればあざとくすら思える可愛さを内包していて、それを敢えて隠そうとするのだから、これは挑発と受け取ったっていいだろう。

 自分が男じゃなくてよかった。あるいはここに居るのがご主人じゃなくてよかったと言い換えてもいい。

 ただ、妹分の悪戯に冷めた態度を取れる程、自分も大人ではなかった。


「そぉんな恥ずかしがらなくてもいいじゃないッスかぁ。ほらほら、可愛いお顔をお姉ちゃんに見せてごらんなさいなぁ!」


「んぁっ……アポロニア、やめて。ふふっ、くすぐったい、から」


 ポンチョ代わりとなっているシーツの中に潜り込んで、脇腹に手を突っ込んでやれば、シューニャは子どもの様に身体をくねらせて逃げる。それを逃がすまじと、背中側から尻尾を突っ込んでやれば、彼女はひゃあと言いながら逆に自分の胸に飛び込んできた。

 これでいいのだと思う。自分たちは皆揃ってご主人を好きになって、あの人は皆を纏めて愛すると決断してくれて、言葉通り家族になれるんだから。思うままに笑えた方がいい。

 そんな風に考えながら、暫くベッドの上でふざけるようにコロコロ転がっていれば、唐突にポーンと耳慣れないが鳴り響いた。


「およ? 来客ッスかね?」


 はてな、と少し着崩れた服を直しながら、壁際でピカピカと光っているとやらに触れれば、小さなもにたぁの向こうに、二度と会わないと思っていた人物が浮かび上がった。


『あー……その、ここって、シューニャの部屋、で、合ってる、かな』


 事前に話を聞いて居なかったら、泡を吹いて倒れていたかもしれない。

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