第10話 ベビーユニバースは腕の中

 陽の差す窓際で、椅子に腰かけた若い女性。その腕の中でトントンと背中を叩かれてげっぷを漏らす、とてもとても小さな命。

 自分が追い返される訳である。この女性は多分、赤ん坊に授乳をしている最中だったのだろう。彼女は僕と目があうなり、静かに頭を下げた。


「ごめんなさい英雄様。いきなり廊下に追い出したりして」


「いえ、そんな! 急に押しかけたのはこちらですから」


 プライベート空間にアポなしで踏み込んだのは僕らの方であろう。なぁ? と背後の2人に同意を求めて振り返れば、彼女らもうんうんと頷いてくれた。

 それでも、僕は少し気まずい感じだったのだが、女性陣の関心は早くも赤ん坊の方へ移っていたのだろう。マオリィネは興奮した様子で女性の前にしゃがみこみ、シューニャとファティマもその後へ続いた。


「ねぇコレット。この子は、いつ産まれたの? 男の子? 女の子?」


「男の子です。今年の春頃に、ようやく母に」


 ようやく、という言葉の重みを感じる。

 800年前でも、出産が大きなイベントだったことに変わりはないはず。しかし、物や技術に満たされていながら、出生率の問題は常に社会へ付き纏っていたし、何より自分自身が、いつか親になるという感覚をほとんど持ち合わせていなかった。

 だが、自分のような考えは、現代においてきっと不自然なのだろう。それはコレットに抱かれた赤ん坊を、興味深く見守る少女たちの様子から察せられた。


「小さいですね、すごく小さいです」


「ん、ん」


 顔を覗き込むシューニャとファティマのことを、小さな彼は不思議そうに眺めている。母の腕の中だから、知らない相手すら怖いとは思わないかのように。

 そんな彼女らを見てか、コレットはふふふと優しい笑いを零す。


「よければ、抱っこしてみる?」


「えっ、だ、大丈夫、でしょうか。ボク、赤ちゃんに触ったことなんてないんですけど」


「ファティ、気を付けて。そーっと、そーっと」


 全身を緊張させたファティマは、ガラス細工を触る時よりも、なお恐る恐る赤ん坊を腕の中に抱え上げる。彼女には珍しいくらい、表情が強張っているのが良く分かった。

 が、そんな緊張も一瞬の事。


「お、おぉー……ぷにぷにで、軽くて、あったかい、です」


 コレットを真似するままの姿勢ながら、一旦収まってしまえば何のことはない。

 あー、と言いながら手を伸ばしてくる赤ん坊の姿に、怯えていた少女の顔は影を潜め、ふにゃりとした笑いが代わりに浮かんでいた。


「あは、ボクの髪が気になりますか? 食べちゃダメですよ」


「ふぁ、ファティ、私も……いい?」


「はい。ゆっくり、ゆっくり」


 奴隷として長い時間を過ごしたファティマと比べ、人間社会の中に暮らしていたシューニャは、少なくとも赤ん坊と触れ合った経験はあるらしい。

 不思議そうに頭を巡らせる小さな彼を、そっとポンチョの中に抱きとめると、ふぅと小さく息を吐いた。


「……不思議な目。あなたは今、何を考えているの?」


「ふふ。お姉さんだぁれ、って感じかしら」


「シューニャ、笑顔ですよ笑顔」


「む、むぅ……それは、難しい」


「ねぇ、そろそろ代わってよ。私も抱っこしてみたいわ」


 赤ん坊の可愛さという奴は、やはり強力であるらしい。ガラス工房に生まれた小さな彼は、瞬く間にうちの女性陣を虜にし、その代償としてたらい回しの刑に処されていた。

 今度はポンチョの中から黒いバトルドレスへ。しかし彼は、不思議そうな表情こそしていたものの、ぐずるような素振りは見せなかった。


「ふふ、可愛いわね。耳の形はバースレイに似ているかしら? 貴方の強面なお父さんに、赤ん坊だった頃があるなんて信じられないけれどね」


「あれま、こりゃあ手厳しい。俺だって生まれつきハゲてた訳じゃねぇんですがねぇ」


 ガラス職人は照れたように笑いながら、禿頭をポンポンと叩く。そんな彼を横目に、赤ん坊を見つめるマオリィネの表情は、とても優し気に思えた。


 ――これを見ていると、なぁ。


 血の繋がらない誰かの子でさえ、こんな慈愛を覗かせるのだ。それが我が子となれば、果たしてどれほどの幸福を得るのだろう。

 だからこそ、考えてしまう。自分とマオリィネ、アチカとトリシュナー家を天秤にかけた時、どうするのが最善なのかと。


「英雄様」


「は、はい?」


 唐突な呼び出しに、知らず知らず俯いていた顔を上げれば、コレットがこちらをジッと見つめていた。

 もしかして、場に似合わない表情でも浮かべてしまっていただろうか。そんなことを考えたのも束の間。彼女は自らの胸に手を当てると、意を決したように口を開き。


「もしよろしければ、英雄様も抱いてくださいませんか。この子が将来、貴方のような、アチカの為、王国の為になる立派な大人になれるように」


 と、言った。

 正直、少し戸惑った。この手は血に塗れているばかりで特別な力などはなく、自分のようになってほしいとは微塵も思わない。

 だが、そこに映る英雄が虚像だったとしても、祈りを込めた母の目は純粋そのもので、自然と僕は背筋を伸ばしていた。


「……じ、自分でよければ」


「それじゃあ、はいキョウイチ」


 マオリィネに差し出されるがまま、僕は小さな体を両手で受け止める。

 赤ん坊に触れるなど、いつぶりだろうか。800年前にどこかの戦場で、保護した民間人の子を抱えて走った記憶はあるが。


「ふぇ……」


「あっ、ちょっ、泣かないでくれよ」


 いい加減たらい回しの刑が不満だったのか。それとも野郎に抱えられるのが不快だったのか。小さな彼はくしゃりと顔を歪める。

 否、泣くのは赤ん坊なのだからしょうがない。問題があるのは自分の方で、僕は全くと言っていいほどあやし方を知らないのだ。


「もー、おにーさーん、ダメじゃないですか」


「キョウイチが怖かったのかしらね?」


「む、むぅ……そう言われてもなぁ」


「大丈夫、キョウイチは怖くない。普段は」


「……普段は?」


 気になる一言はあったものの、対応不能となっていた僕に代わり、シューニャが赤ん坊の頭を撫で、ファティマが大事と語る尻尾を視線の先で遊ばせてくれる。

 だが、それで持ちこたえたのも束の間で、やはり他人の腕に抱かれているのもいい加減限界らしい。いよいよ、わあわあと泣き出してしまった。


「こ、これは、どうすれば」


「英雄様、こちらに」


 手を差し伸べてくれたコレットに、慌てて赤ん坊を返せば、やはり小さな彼はわかっているのだろう。くしゃくしゃにしていた表情を緩め、胸に顔を半分埋めるようにして、自らの親指をしゃぶっていた。


 ――そうか。これが親、か。


 一層心に突き刺さる。子の幸福とは、一体何なのかと。



 ■



「長々と引き留めちまって、すんませんでした。お忙しい所でしょうに」


「いいのよそんなこと。貴方達の子に会えてよかったわ」


 道端で深々下げられる禿頭と、その正面で凛と立つ黒髪の女性に、行き交う人々からの視線が刺さる。

 尤も、その中には明らかに、自分達の方を見て何か噂をしている者も居たが。


「英雄様も、お連れ様も、ありがとうございました。きっとこの子も強くなります」


 眠ってしまった赤ん坊を抱くコレットは、そう言って頬を緩ませる。その純粋な笑顔が、僕はどうも照れくさくて小さく後ろ頭を掻いた。


「そ、そう言って頂けると幸いです」


「まぁ、キョウイチは将来苦労するかもしれないけれどね?」


「うーん、否めないなぁ」


 マオリィネのからかうような流し目に、僕は苦し紛れの苦笑を浮かべる。何せ、反論材料が微塵も浮かんでこないのだから。


「あら? あらあらあら? マオリィネ様、もしかして英雄様と?」


 コレットの目に輝いたのは、明らかに強い好奇心。

 それはそうだ。貴族界隈どころか、多くの知り合いにすらハッキリとは伝えていない話である。

 とはいえ、今更取り繕うのは流石に難しいと感じたのか、マオリィネは小さく息を吐き。


「……ええ。まだ恋人だけれど」


「私達も」


「ですよ?」


 どういう意図があったのか。カミングアウトの後から、シューニャとファティマも続いて自己主張を見せる。

 これにガラス職人は余程驚いたようで、ギョッと見開いた目をこちらへ向けてきた。


「な、なんとそりゃあ、流石英雄様って言うか……いずれはすンげぇことになりそうですなぁ」


「ふふ、マオリィネ様と英雄様の子なら、やっぱり黒い髪を持って産まれてくるのかしら? もしかして、他のお嬢さん達の子も?」


 男女の差はあるのだろうが、ガラス職人が羨望とも畏怖とも取れる微妙な表情を浮かべる中、コレットはひたすら楽しげに妄想を膨らませる。


「黒い、髪――」


 頭の中で、パズルのピースがパチリと音を立てて嵌った気がした。

 まだ完成した訳じゃない。それでも、あるいは。


「キョウイチ、どうかしたの?」


 怪訝そうにこちらを覗き込んでくるマオリィネ。その手が長い黒髪を僅かにどける。

 これが、その正しいピースかもしれない。


「……1つ、思いついたことがある。と言っても、とんでもない力技の博打になるかも知れないが」



 ■



 暗い空間を照らす白くぼんやりした光。

 その前に座った俺は、硬いシートをギシリと鳴らした。


「てなもんで、今はガッツリ足止め中ですわ」


『何事も万能とはいかんな。自然が相手となれば猶更じゃ』


 モニターの向こうで、それも致し方なし、と苦笑する天才禿爺。流石に装甲車の開発には携わっていないだろうが、インフラが未発達な現代と古代兵器のミスマッチは、詳しく語らずとも想像できるのだろう。

 プログラム人格が想像というのも奇妙な話ではある。ただ、動く骨格標本の我が身こそ、その最たるものであることは否めないが。


『あれからどうかね、キョウイチ君は』


「今ンとこは快調って感じですよ。今朝も飯食うなり、マオリィネの親父さんに引っ張られて、ハンティングに出掛けてましたし」


『なんじゃいそりゃあ。全く、身体には気を使えとあれほど口酸っぱく言うとったのに、いきなり無茶をしとるのう』


 はぁーあ、とリッゲンバッハは、呆れと心配が入り混じった大きなため息をつく。画面の向こう側に、もし酒瓶があれば煽っていたことだろう。

 天海恭一という歳の離れた友人と、孫娘の生き写しであるホムンクルスのポラリス。この2要素が、今のリッゲンバッハ人格プログラムに、とてつもなく複雑な感情をエミュレートさせていることはよくわかる。なんなら、新しい生物進化の形なのではと思ってしまうくらいには。

 ただ、現場を見ていた立場としては、気軽に賛同する訳にもいかず。


「相手が相手でしたから、どう足掻いても断れんでしょう。それより、そっちはどうです? アレは使えてんですか」


 リッゲンバッハがポラリスの祖父ならば、ウィリアムはマオリィネの父なのだ。恭一にとってその重圧が、甲乙つけがたい物であることは想像に難くない。

 見た目上健康な奴にとって、ウィリアムの誘いを断る術などありはしなかった。傍目からすらそう思えるのだから、この場であからさまに話題を逸らすことも許して頂きたい。

 そんな言外の懇願が届いたのかはわからないが、リッゲンバッハはふぅむと唸り、映像の中で小さく顎を撫でると。


『ワシの期待通り、否それ以上じゃろうな。見てくれ』


 そう言ってニヤリと笑った。

 この老翁は時々、年齢を詐称しているのではないかと思う程の茶目っ気を飛ばす時がある。今回のアレについても、その類ではないかと疑わしかったのだが。

 髑髏を白く浮かび上がらせているであろうモニターの光を前に、俺は一瞬言葉を失った。


「こりゃあ……ホントに贔屓目無しだな。ちったぁ疑ってたんですがね」


『センスがズバ抜けとるんじゃよ。とはいえ、物が足らん分、形になるまで時間はかかろうがな』


「今でこれなら上等でしょう。継続して頼んます」


 任せておけ、と鷹揚に頷く天才爺。それから間もなく、ザラザラと映像にノイズが走り、通信はプツリ途絶えてしまった。

 玉匣自体の機器不調も絡んではいるだろうが、おそらく根本は衛星通信の不安定が原因だろう。理由は定かでないものの、焼けた大地へ近づくにつれ、どうにも長距離通信系には不具合が頻発している。

 とはいえ、言うべきは言い、聞くべきは聞けた。むしろ長話をし過ぎたきらいすらある。モニター越しに見えた外は、いつの間にか暗闇に包まれているのだから。


 ――こりゃ飯時を逃したな。御貴族さん辺りにどやされなきゃいいが。


 誰も入れるな、何も言うなとの厳命を、警備連中はしっかり守ってくれたらしい。それが仇になるとは思わなかったが、こればかりは仕方がないだろう。

 俺はコキコキと骨を鳴らして立ち上がる。さてどんな言い訳をするかと伸びをして。


「……あん? なんだこりゃ」


 ふと、足を止めさせたのは、先ほどまで眺めていたモニターの中。ノイズのように滲む小さな光点だった。

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