everyone be ambitious

雪待びいどろ

everyone be ambitious


 七限目の終わりをチャイムが知らせる。学校中に響くその音は一日が終わる合図であり、自由への扉が開く音であり、真の一日の始まりを告げる狼煙でもある――――――


「起立」

 やっと終わった。

 七限にも及ぶ授業が終わる開放感は、毎日変わらない。

 私はノートと教科書を同時に閉じながら立ち上がる。

「れーい」

「ありがとうございました」

 疲れ切った四十人の声が唱和したその瞬間、教室は喧噪に包まれて。

 放課後がはじまる。




 まず、結衣は自分の机の中からピンク色のノートを取り出した。表紙に『学級日誌』と書かれていて、今日のことを書き記す日記みたいなものだ。日直の仕事の一つでもある。

 今日の時間割と欠席者の名前、一日の感想欄をマッハで埋めて顔を上げると、すでに教室に残っているのは結衣だけだった。

「……みんな早いなぁ」

 さて、私も準備をして部活行きますか。

 期末テストも大方返ってきたので次にやってくるのは夏休み、という今日この頃。だけど油断は禁物だ。雨のように降ってくる小テストと模試があるのだから。

 そんなことを思いながら、持って帰るものとロッカーに置いて帰るものを選別してリュックに詰めていくと、思ったよりも持って帰る量が増えた。

 背負うと、ずっしりした重みが肩を通り越して腰と脚にくる。

 学級日誌を片手に教室の照明を消す直前、後ろから三番目の席にかけられた弁当箱を発見した。

 結衣は目を閉じて教室の席順を思い出す。

 廊下から二番目の列、後ろから三番目……。

「……あ」

 目代遥(めしろはるか)。確かテニス部の女の子。話したことはないが、大人しい印象の子だ。少し淡い髪の色はいつも後頭部でまとめ、マスクと眼鏡と前髪で、あまりじっくりと顔は見たことがない。

 まあいいや。

 結衣は弁当箱を片手に教室を出た。部活には遠回りになるけれど、大丈夫だろう。

 職員室で学級日誌を提出してから、テニスコートに行くとするか。




「失礼します」

 職員室。それは、先生たちの城。

 たくさんの先生が、プリントやパソコンやマグカップ片手に走り回っていて、なかなかに騒々しいところだ。なのに、背筋が伸びる不思議なところ。

 学級日誌は、右手に日誌の提出用の棚があるので、そこの「二年六組」とラベルが貼ってあるところへ入れる。

 さっさと退散して部活に行こうとした、そのとき。

「大槻さん」

 振り向くと、近藤先生がそこにいた。

 近藤昌子(こんどうまさこ)、たぶん独身、たぶん三十代……たぶん。いろいろとミステリアスな結衣の担任。ひどい猫背なので、3Ⅾ映像のように、顔だけが飛び出て見える。結衣はいつも、自分を見つめるつぶらな瞳が、愛犬に見えて仕方がない。

 今日もやっぱりココアとそっくりだ、と愛するチワワを頭に思い浮かべた。

「はい」

「今から部活行く?」

「行きますけど……」

「活動場所南校舎だよね、これ、頼まれてくれる?」

 手渡されたのは、一枚の封筒。表に『瀬田徳次郎様』と書かれている。

「陸上部の瀬田くんに渡しておいてほしいんだけど……」

 頼まれたら断れない性格が、出てしまった。

「あ、わかりました」

「ありがとう、あと、卓球部の花村(かむら)くんにも、二者面談やるから六時にQスクエアに来いって伝えてくれる?」

「了解です」

 陸上部も卓球部も活動場所は南校舎と近いが、それは相対的な話。職員室からと、自分の活動場所からを比べたら、という話だ。

「遠いじゃん……」

 職員室を出た瞬間、ため息が漏れた。

 根はいい先生なのだが、こうやって色々めんどくさがることがある。そのツケはだいたい、生徒に回ってくるのだ。

 いや、いい先生だよ。二者面談の時は、すごく丁寧に自分のことを訊いてくれるし、進路の相談にも親身になってのってくれて、担当してくれている英語の授業は本当に楽しいし、じわじわと模試の結果も上がって来ている。

 結衣は、頭をぶんぶん振った。

 瀬田徳次郎様、と、ボールペンで書かれたその文字は書道のお手本のようにきれいだ。さすが、書道部顧問。

「……よし」

 まずは靴を履き替えて、目代さんの弁当箱を届け、それからグラウンドの端を通って陸上部、武道場で活動している卓球部のもとへ行き、また校舎内に戻ってきて、部活へ行こう。

 さながら部活見学だ。

 リュックの肩ひもを持ったときに感じるずしりとした重さに、とりあえず教室に戻ってリュックを置いてから行こうと思った。




 外に出ると、直射日光が結衣の体を一直線に貫いてくる。一気に汗が噴き出てきた気がした。

 例年に比べて早く梅雨の開けたという、底なしの青空が頭上に広がっている。遠くには白い入道雲が見えた。

 夏真っ盛りの中、己の極限と戦い続ける運動部には、本当に尊敬しかない。

 下駄箱を出たすぐそこでは、男女バレー部が練習していた。

 体育館から溢れてしまった熱量が、こんなところで弾けている。ドン、ドン、という、腕とボールが当たる音と同時に、青と黄色に染められたバレーボールが宙を舞う。

 綺麗な孤を描くそのボールは、書かれている文字が読めるほどに無回転。これがどれほど難しいことかは、体育の時間になればわかる。

 ……本当は腕に当てて、まっすぐ飛ばすことすらできない。

 地面はコンクリートのため、バレー部からすればアウェイなはず。それでも、腕と脚を伸ばしてボールを追う姿はかっこいい。

「もう一本ッ」

「おうッ」

 アタック練習だろうか、高く上げられたボールを、ひとりひとり飛んで、打つ。ボールは銃弾のように地面を貫いて……。本当に貫いて、地面にめり込みそうだ。同じコンクリートに立っているだけで、助走と踏み切りの衝撃が伝わってくる。

 もっと高く、もっと早く、もっとうまく。

 バレー部の背中には、大きな翼が生えている。

 その合間を縫うように走り、何とかテニスコートまで向かう。その姿を見て練習を辞めてくれる部員の人たちに、「すいません、すいません」と小さな声で謝りながら。

 そうやってたどり着いたテニスコートの前では、テニス部の一年生だろうか、ラケットを手に素振りをしたり、筋トレをしたりしていた。

 制服姿の自分を見て、ちょっと不審な目を向けてくる。

 だよね、こんなところに制服姿の超インドア派がいたらそりゃあ、ね。

 フェンスから中を覘くと、こちらもまた男女テニス部が練習していた。

 大きな動きでボールを追い、全身でラケットを振って相手側へ。コートを駆けるたび、かすかな砂ぼこりが舞っていたり、掛け声が聞こえてきたり、高く跳んで鋭く返球したり。

 その雄姿に似合わぬ、軽やかなボールを打つ音が聞こえている。

 奥のコートに見慣れた男子の姿を見つけた。

 まわりよりもゆったりと大きな動きだけど、ラケットから打ち出されるボールの勢いは段違い。ボールがバウンドする度、砂がはじけ飛ぶ。

 いやぁ、かっこいいわ。

「や、大槻」

 しばしその姿に見惚れていると、そいつがこちらに気づいてやって来た。

 真っ黒に日焼けした肌で、蛍光色のシャツを着た男の子。身長は結衣よりもだいぶ高くて、いつもかけている眼鏡が太陽の反射で光っている。

「やあ」

 結衣もそれにこたえて、右手を軽く上げた。

 稲敷充(いなしきみつる)、硬式テニス部部長。同じクラスでテストのときなど名列順の席ではお隣さんだ。

「どうしたの?」

「ちょっと、目代さんっている?」

 結衣が手にしているお弁当箱を見て察した稲敷は、奥に広がるテニスコートを見渡して、

「ちょい待ち」

と走って行く。

 右奥のコートで、女子テニス部が練習していた。

 男子と比べると、どうしても動きが小さく見えてしまう。こちらはサーブ練習中らしく、次々にボールを打っていた。

 端から数えて三番目の位置でラケットを振る女の子が、目に留まった。

 まわりと比べて動きに無駄がないというか、滑らかというか。よくわからないけれど、際立って、かっこよく見える。

 誰だろう、とか思いながらながめていると、稲敷がそこへ向かっていく。

 一言二言交わして、その人は驚いたように走ってこちらへ。

「ええっ」

「ありがとう、大槻さんっ」

 それが、目代さんだった。

 教室にいる時とは比べ物にならないほど眩しく笑う彼女は、黒のアンダーシャツの上に鮮やかな色のジャージを着ていて、手にはテニスラケットを握っている。

「危ない危ない、お母さんに怒られるところだった」

 お弁当箱を渡した後も、硬直が融けていない結衣に「どうしたの?」と尋ねてきたので、

「いや、ずいぶん、目代さんの雰囲気違うなあって」

と、ついつい本音が漏れた。

 だけど、目代さんは嬉しそうに、

「そうかな? テニスではしゃいでいる分、クラスでは確かにセーブしてるかも」

と、また笑う。

「私、テニスが大好きだから」

 その姿は、本当に眩しいほどに輝いていて。

「そっか」

 すごくかわいくて、かっこよくて。

「あ、じゃあ、行くね。お弁当届けてくれて、ありがとう」

 すごいなって思って。

「うん」

 テニスコートに戻っていく後ろ姿を、最後まで目で追ってしまった。

「稲敷」

「うん?」

 前を通り過ぎる稲敷に、結衣は伝えた。

「ありがと、助かった。あと、目代さんってすごいかっこいいね」

 一瞬、きょとんとした後に、稲敷も笑う。

「だろ? 目代って実は、テニスやってるときクソかっこいいんだよ」

 そういう稲敷、アンタもすごいかっこいいよ。輝いてる。

 肘で突っつきながらそう言うと、稲敷は顔を逸らして

「ありがと」

と小さな声でぼそりと呟いた。




 さてと。次のミッション。

 陸上部の瀬田くんに、これを届ける。

 手元に握られた茶色い封筒を目の前に掲げて、テニスコートからグラウンドへ。ここでは、たくさんの部活が入り混じって活動していた。

 そんなところを突っ切るなんて、できるはずもなく。結衣は、グラウンドの端を、身を縮めて進んで行く。

 ……アウェイ感が、半端ない。

 さっさと用事を済ましてしまおう、と、一番遠いところで活動している陸上部の塊を目指す。するとそのとき。

「危ないっ」

「へっ?」

 結衣の目の前五センチのところを、サッカーボールが通り過ぎていった。驚きのあまり、本日二度目の硬直。

「すまんっ。まじでごめんっ」

 謝りながらこちらへ駆けてきたのは、これまた見慣れた人だった。

「まっちゃんっ」

「いやもう、マジでごめんっ」

 黒い髪をわっさわっさと揺らす、まっちゃんこと、松井真綾(まついまあや)は、結衣の足元に転がるサッカーボールを拾い上げて、もう一度頭を下げた。

「怪我ない?」

「ないよー」

「よかったぁ」

 額や首筋に浮かぶ汗の滴を服で拭う。

「結衣ちゃんのかわいい顔に傷がついたら……って思うと、私もう切腹するよ」

「切腹はしないで。介錯はどうするの」

「雄介辺りに頼む……」

「藤永くんかわいそうに……っていうかそもそも、切腹しないでよ。頼むよ」

「あは、そうだね」

 細い目をさらに細くさせて笑う、まっちゃん。

「どうしたの? こんなところにさ。グラウンドって危険地帯だよ」

「いやぁ、先生にお使い頼まれてさ」

「近藤先生?」

「うん」

「やっぱり。あの人ほんと人遣い荒いなぁ」

 ため息をついた直後、ホイッスルがグラウンドに鳴り響く。

「あ、行かなきゃ。ホントに怪我ない?」

「大丈夫だよ。まっちゃんは心配しすぎ」

「ホントのホント?」

「うん」

「よかった。じゃあね、気を付けてねっ」

 嵐のようにやって来て、嵐のようにグラウンドの中心部に戻っていく後ろ姿を見送る。

 いやあ、びっくりした。まっちゃんってサッカー部だったんだ。

 背は低くて、ちょっとだけぽっちゃりしているまっちゃんは、体を動かすのは苦手そうだったのに。付き合いも二年目に入ったというのに、発見でいっぱいだ。

 サッカーボールを追い始めた彼女の姿は、一緒に練習している男子にも引けを取らない。細かいドリブルに、素早い切り替え、気づいたらもう相手を追い抜いていて、次の瞬間にはゴールが決まっている。

 すごい。

 辺りを見渡してみる。

 一番遠い、グラウンドの左では、男女ソフトボール部がキャッチボールをしている。野球ボールよりも一回り大きな白球が、低い弧を描いてミットの中に吸い込まれていくのが、ここからでも容易に見えた。

 中央部にゴールを設けて、走り回っているのはサッカー部で、色とりどりのジャージが小刻みに動き回っている。

 一番手前を陣取っているのが野球部。ノック中らしく、砂埃を舞い上げて高速回転する打球を危なげもなく捕まえて、滑らかな動きで投げる。白いユニフォームが夏の青空によく似合っていて、ああ、そういえばそろそろ大会があるって言ってたな、と思い出す。

 夏がそろそろ始まる。

 三年生にとっては最後の大会が、迫ってきているのだ。

「かっこいいなぁ」

 みんな、本気で向き合っている。

 すごいよ、かっこいいよ。

 無意識につぶやいていたことに気づいて、結衣は顔が赤くなるのを感じた。




「あれ、大槻、どうしたんだ?」

「ちょっとおつかい頼まれちゃって。瀬田くんっている?」

 陸上部。下駄箱から最も遠いところで活動していて、体育祭を独壇場にする超体育会系部活動。

「あー、瀬田な、あいつ長距離だから、今校外まで走りに行ってるわ」

 走り高跳びを専門とする、春山昇真(はるやましょうま)は、水をがぶ飲みしながら答えてくれた。

「え、長距離って校外まで行ってるの?」

「うん。校内走ってても邪魔者扱いされるだけだしな」

「そんなこと……」

「ぶっちゃけ、走るのはどこでもできるし」

 からから笑う春山くんは、一年の頃のクラスメイトだ。それほど親しかったわけではないけれど、気さくなので問題なく話せる。

「どうする? それ渡すだけなら俺にもできるけど」

 封筒を指差す春山くん。

「うーん……長距離の人っていつになったら帰ってくる?」

「わからん」

「じゃあ、お願いしていい?」

「いいよ」

 快く封筒を受け取ってくれる。

 それきり、会話が続かなくなってしまった。じゃあ行くね、と言ってグラウンドを出て行けばいいのだけれど、こうやって部活中にグラウンドに来ることなんてないので、新鮮な気持ちだ。もっと見たいと思ってしまう。

 気まずい沈黙が、流れる。

「……静かだね」

「ん?」

 だから、率直な感想を口にした。

 他の部活動は、連携を取ったり指示を出したりするために、大きな声を張っている。今も絶え間なく、「行くぞー」とか「ラストー」とか、時々罵声も混じって、ずいぶん騒々しい。

 なのに、この陸上部の周辺だけはやけに静かで、鳥のさえずりや風で木々が揺れる音すら聞こえてくる。

 陸上は、己と向き合う競技だからだろうか。

「……大槻って、お前、すごいこと考えてるんだな」

 思っていることを口にしてみると、そんな言葉が返ってきた。

「そう?」

「うん。そんなこと、普通思わねえし」

「それはみんなが、目の前のことに全力で、全部懸けてるからだよ。きっと」

 すごく頑張っている人っていうのは、自分がすごく輝いていてかっこいいことに気づかない。自分が誰かに、すごく勇気を与えていることに気づかないものだ。

「でも、それはお前もだろ?」

「え?」

「大槻も、部活に懸けてるだろ?」

「懸けて……るのかな?」

 部活の活動日なんて週二回だし休日もないけど。

 そう言うと、春山くんは笑った。

「そういう話じゃなくてさ。活動日数とかじゃなくて。なんか……なんていえばいいのかわからないけど、お前らもすごいじゃん」

 輝いてると思うし、十分誰かに勇気を与えてると思うけど。

 春山くんは、嬉しいことを伝えてくれる。

「ありがと」

「いーえ」

「じゃ、行くね。私も部活行かないとだし」

「うん。じゃあ俺もやりますか」

 どうやら休憩中だったらしい。

 陸上部の活動場所の近くにある出入り口からグラウンドを出て、後ろを振り返る。

 春山くんは、長い助走を経て、地面を強く蹴る。そうして、自分の身長を越えるバーを跳び越えた。二人の先輩と三人で、少しずつバーを上げて、失敗して、話し合って、何度も何度も跳んでいく。

 砂場の端まで行く勢いで前に跳ぶ、走り幅跳びの人も。

 頭を動かさずに高いハードルを超えていく人も。

 スタートダッシュの練習を繰り返す、短距離走の人も。

 今はいないけれど、どこかで前を向いて走り続ける長距離走の人も。

 自分と向き合って、自分を超えていく。

「あぁ」

 かっこいいなぁ。

 結衣は、再びこらえきれなかった笑みをこぼした。




 ラストミッション、卓球部所属の花村くんに伝言。

 卓球部というのは、グラウンドと体育館に隣接している武道場で活動している。

 職員室と同様に背筋が伸びる武道場は、ひんやりと冷たさを感じる、緊張した空気が特徴的。体育館よりも狭くて、静かで、なのに熱量は引けを取らない。

「失礼しまーす」

 靴を脱いで、入り口から中をそっと覗く。

 今日、ここで活動しているのは剣道部らしい。袴と防具に身を包んだ人が手にしているのは竹刀だった。

 息をすることすら躊躇われる空気、と思った瞬間。

 対して天井も高くない武道場全体に、力強い声が響く。それが幾重にも重なって、ほんの少しだけ空気が緩む。

 それを再び引き締めるように響いたのは、ドンッという地面を強く踏み込む音。

 それと同時に、竹刀が防具を捉える音も。稲妻のように今度は空気ごと切り裂いてくる。

「……」

 声が、出ない。

 口を半開きのまま、結衣はそれに見入る。

 足を大きく踏み込むごとに、地面が唸る。黒い袴がひらりと舞って、それなのに面をつけた頭と竹刀の先はぶれなくて。その合間に、強い声がして。

 竹刀と竹刀のぶつかり合う音、というのは、打ち合うとかそういうレベルじゃない。竹刀自身が弾ける音、爆ぜる音だ。

 だけどそれが終わると、一気に静かになる。また、息すら許されないような空気に戻る。

 そしてまた、声が響いて、地面が揺れて、竹刀が爆ぜる。

「……」

 圧倒される、というのは、こういうことなのだろうか。その圧に倒されて、動けなくなる。

 クラスメイトの一人、藤永雄介(ふじながゆうすけ)の姿も見えるけど、同じ歳だとは信じられなかった。

 すごい。すごいくらいに、すごくて、すごい。

 頭の中をよぎった自分の感想は、剣道に圧倒されたからか語彙力が消えていた。

 いつまでもこうやってはいられないので、結衣は細く息を吐き、できる限り気配を潜めて、武道場の端を駆け抜ける。

 ……いやぁ、すごい、しか出てこない。すごい、かっこいい。

 武道場倉庫の中、錆びた狭い階段を上った先。剣道部の勇ましい音とは裏腹に、やけにかわいい音が響く場所が、目的地だ。

 かこんかこん、かこんかこん、という、ピン球が卓球台の上で弾む音が、耳をすませば聞こえてくる。

 卓球台が二台、ぎりぎり並べられるほどのスペースだというのに、雨漏り用のバケツがそこかしこに置いてあり、天井を支える鉄筋がむき出しになっていて、窓の向こうには木の枝葉が茂っている。なんだか武道場の一角、よりも、森の一角、が似合うような、独特の時間が流れている場所。

 一階から聞こえてくる剣道部の音に消されてしまうけれど、ピン球が刻むリズムには狂いがない。

「花村くん」

 一定のリズムを刻む音が止まったタイミングを見計らって、結衣は声をかけた。

 ピン球に集中しきっていた、卓球部の男子、花村浩志(かむらこうし)は顔をあげる。

「あれっ、大槻さん?」

「近藤先生からの伝言」

 ライオンに怯えるトムソンガゼル、狐を警戒するウサギのように、肩を震わせ怯えながらこちらに来る花村くん。

 ……私、そんな怯えられることしたっけ?

 花村くんは足元に転がる無数のピン球を器用に避けながら、「どうしたの?」を連呼する。

「六時から職員室で二者面やるってさ」

「ニシャメン……」

 目を泳がせて、必死に原因を手繰り寄せているようだ。本当に仕草が小動物そっくりだなあ、とか思っていると、何か思い出したらしく、目の焦点が戻った。

「ああ、了解……あれ、もしかして大槻さん、それを伝えにわざわざ?」

「そうだよ。他にも雑用はあったんだけど」

「わあ……ありがとう」

 ぱあっと向日葵が咲いたように笑顔になる。

 ……かわいいなぁ。

 例えるなら綺麗な花か、かわいい子猫とか子犬とか。立ち居振る舞いから言葉遣いから、全てがかわいい。爪や肌のケアもしていると、この前聞いたことがある。

 結衣と比べたら多分……花村くんの方が、女子力は高い。

 なのに。

「卓球部だったんだね」

 はじめて知ったよ、と言うと、

「みんなにも意外だねって言われる」

花村くんは、ラケットを手の中でまわして答えてくれる。

「こう見えても、小学生の頃からやって来てるしね」

「そうなの?」

「そうだよ。家の近所に卓球教室があって、それで。本格的に試合とかやったのは中学だけど」

「へえ……あ、呼び止めてごめんね」

「ううん、いいんだよ。伝言、ありがと」

「うん」

 卓球台の前に戻る花村くん。

 ピン球を高々と上げて、落下をはじめたそれを、ラケットで打つ。

 こうやって間近で見ると、とんでもないカーブがかかっていることに気づいた。

 相手の先輩らしき人が、サーブを返すと、花村くんは大きく腕を振って卓球台のギリギリのところでバウンドさせる。

 剣道部の音で隠され聞こえなくなったとしても、卓球の音は決して消えない。

 壁に、『大会まであと三日』と書かれた紙を見つけた。

 たとえ、小さなスペースでも。

 たとえ、音がかき消されても。

 熱量までは、消えやしないのだ。




 武道場を出た直後。

「結衣ッ」

 右から猛スピードでこちらへ向かってくる誰かの姿を見つけた。制服姿でスカートをはためかせながら、全速力で走って来て……

 通り過ぎた。

「行き過ぎたぁ」

 ぜえぜえと息をしながら、行き過ぎた分帰ってくる人影。

「茉莉?」

「おひさー」

 ショートカットの髪を振り乱し、フラフラになっている元・クラスメイト、木枳茉莉(ききまり)。

「どうしたの、そんなボロボロになって……」

「結衣、瑞垣葵(みずがきあおい)って名前のバカ見なかった?」

「葵? 見てないけど……どうしたの?」

「あいつ、生徒会の会議に来ないんだけどぉ」

 茉莉は生徒会に所属していて、肩書きは副会長。会話に出てきた葵もまた生徒会員。

「あいつ、絶対どっかでサボってやがるよぉ。あいつが全部の資料持ってるから来ないとはじまらないんだけどぉ」

「……」

「私帰れないんですけどぉ」

「……探すの手伝おうか?」

「ありがとぉ、手伝ってぇ」

 どうせ、それが狙いだったんだろう。

 茉莉はなかなかの策士だし、きっと葵が会議に来ないことも想定内だったに違いない。それでも放っておいたままにした、ということは。

「あんたもサボりたいんでしょ?」

「……やっぱ、結衣に秘密は通じないねぇ」

 茉莉は、いたずらっ子の笑みを浮かべた。




「あんなとこで何してたの?」

「部活に行く途中だった。その前に近藤先生に頼まれたお使いを」

「ああ、あの人、人遣い荒いからねぇ」

「ま、そうだけど……」

「にしても葵は本当にどこ行ったのかね……」

 どうやら茉莉も靴に履き替えて、外の方で探していたらしく、とりあえず二人で下駄箱まで歩くことにした。

 ぶつぶつと文句をつぶやく茉莉の隣で、結衣は曖昧にうなずく。

 ふと、開け放しの扉から、体育館の中が見えた。すぐそこにでーんと構えている大きな送風機から外に向かって風が吐き出されている。

 ということは。

「あれ、バドって今日やってたっけ?」

 葵も同じことに気づいたらしく、体育館へ寄り道する。送風機の風ではためくスカートを押さえながらのぞいてみると、やはりバドミントン部が体育館の半分を使って練習していた。

 山なりに飛ぶシャトルめがけて、ラケットを振り抜く。そうすると、驚くことにシャトルは一直線に相手コートに落ちていった。

 自由自在、ってカンジだなぁ。

 声を上げる暇もない、とでもいうように、シャトルを空中に放り投げて打って、というのを互いに繰り返す。時には小さくジャンプをして、シャツがはためき、白い肌が露わになったり。

 ラケットを振り抜く、風を切る音が絶え間なく聞こえるその場所の、ちょうど中心にあるコートに、見知った顔を見つけた。

滝沢チカ(たきざわちか)、同じ小学校と中学校出身の、簡単に言えば幼馴染の男子。

 チカは軽くジャンプして相手コートにスマッシュを打ち込む。

 相手はそれをふわりと返して、ネットすれすれに落とす。チカは危なげもなく大きな孤を描いてシャトルを打ち上げる。そして次は相手がスマッシュを打つ。

 その繰り返し。

 小さく跳ぶ度、一瞬だけ見える幼馴染の白いお腹から視線を引きはがして、結衣は茉莉に、行こう、と手招きした。

 茉莉がにやにや笑っているのは無視をした。

「ねえ、ずっと前から思ってたんだけどさ……」

 体育館の中では、バドミントンだけでなく、バスケ部も練習していた。

ボールが床で強くバウンドする音が、体育館を飛び出てこちらまで聞こえてくる。振動すら伝わってきそうだ。

「結衣って、滝沢のこと好きなの?」

「いいや」

 即答する。

「え、でも、幼馴染で……」

「幼馴染だからって、すぐ色恋沙汰に持ち込まないの」

「結衣はコミュ力高いし男子にも友達多いし……読めないんだよねぇ」

「読まなくてよろしい」

 ふわりと飛んで、ボールがゴールに落ちていく。

 一体何百回練習したんだろう、そう思わせるようにきれいな、レイアップシュートの軌道と姿勢だった。でも、それに慢心するような様子もなく、すぐにドリブルをはじめて、コートの中を走って行く。

「女子も男子も、よく見てたらわかるんだけどねぇ……藤永くんは松井さんでしょ?」

「あの二人、名前呼びだしね」

「そう、そうなんだよ。雄介、真綾って。あそこも確か幼馴染でしょ? 小中同じ学校、とか。お互い否定はしてるけど、くっつくのも時間の問題……」

「余計な詮索は野暮だよ」

「ええ、結衣だって食いついたくせに」

「……」

 体育館の横を通り過ぎて、校門を左に校舎を右に、三体の銅像の間を進んでいく。中庭を通ろうとしたところ、書道部が大きな半紙を広げて書道パフォーマンスの練習をしていた。

「こんな暑いのに、ご苦労なこと」

 袴姿の数人が半紙の上で、墨の入ったバケツと大きな筆を片手にして何かを書いている。腰を折って紙に文字を刻む姿勢は、ずいぶんと辛そうだ。

 だけど。

「……駐車場の方から、回ろうか」

「そだね」

 腰を上げて前を見るたびに、墨と汗の滴が舞う。それと一緒に、笑顔が見えた。

 暑いのも辛いのも、きっと一人じゃ乗り越えることはできない。

 だけど、私は一人じゃないから。

 そんな声が、聞こえてくるような気がした。

 出来上がった紙が、起こされる。

「わあ……」

 思わず足を止めて、二人で感嘆の声を漏らす。

『奇跡』

『さあ、進もう。僕はひとりじゃない』

『友よ、ともに青い春を駆け抜けよう』

 力強い、かと思えば、繊細で優しいタッチで、そんなことが綴られていた。

「青い春、か」

「そっか、私たちそんな時期にいるんだねぇ。実感わかないや」

「当の本人たちはそのことに気づかないって話を聞いたことがある。青春を語る人は、青い春を終えた人だって」

拍手を送って、歩き出す。

 校舎の裏手でも、活動している部活動があった。

 それは、マジック部。

 校外での公演やイベントの出演など、活発な部活の一つ。ステージの上で、喝采とスポットライトを笑顔で受け取る彼らだけれど、その裏には想像できないほどの努力がある。マジック部の拠点兼倉庫であるプレハブ小屋の周囲、太陽の熱を反射するコンクリートの上で、商売道具のディアボロやシガーボックス、クラブなどと格闘しているのが、その証拠だ。

練習を邪魔しないよう、結衣と茉莉は校舎の側を走り抜ける。

 ぐるりと回って、下駄箱へ戻り、靴を履き替えて校舎内へ。

 エアコンがついていない廊下でも、涼しいなあ、と感じてしまうので重症だと思った。

「葵、どこにいるかの見当はついてるの?」

「たぶん、どっかの部活だと思うけどなぁ。教室は見てみたけどいなかった……あいつ、どこの部活でも大概知り合いがいるから、どこかで駄弁ってると思うよ」

茉莉の推理は、結構な確率で当たる。結衣はうなずいた。

「じゃあ、私あっち側の校舎を見てくるよ」

「ん、了解。いたら生徒会室まで連行してきて」

「ラジャー」

 結衣は向かって右側、茉莉は向かって左側の校舎で活動する部活動を見て回ることにする。全く、葵は一体どこにいるんだろうか。

 瑞垣葵。同じクラスで、休み時間は茉莉と三人でよく話す仲。自由奔放、という言葉が似合うような女の子で、生徒会にも所属する優等生であり、すぐにどこかに行ってしまう放浪癖を持つ面倒なやつでもある。

「さて……と」

 まずは所属している部活でも探すか。えーと、確か、ESS部とか言ってたような……。

 というわけで、四階まで階段を上って活動場所をのぞくことにした。

 吹奏楽部のチューニングの音と、校舎内まで聞こえてくる運動部の掛け声、教室から聞こえる笑い声。放課後の時間は、たくさんの音で満ちている。

 開け放されている窓から暑い風が吹いてきて、汗が頬を滑る。階段を上り続ける太腿がぷるぷるし始めて、普段一階の教室を使うデメリットを感じさせられる。

 ESS部、遠いなぁ……。

 三階にたどり着いた、そのとき。

「あれ、大槻ちゃん?」

「宮ちゃん」

 階段の上から顔を出す人影が見えた。ESS部部長、宮野杏果(みやのきょうか)。長い髪を三つ編みにした元同級生の友達。今でも忘れた教科書を貸し借りする仲だ。

「どーしたの、こんなとこで」

「ちょっと、探し物をね」

「ふぅん」

 心の中でガッツポーズを作って

「ESS部に瑞垣葵っている?」

「瑞垣さん?」

尋ねてみると、宮ちゃんはしばし虚空に目を彷徨わせて、首を振った。

「今日は見てないね……」

「そっか、ありがと」

「探してるの?」

「うん。ちょっと用事があってね」

 ESS部に葵はいないらしい。

 とにかくこれで四階まで上がらなくて済む。

 宮ちゃんは、三階の教室に用事があったらしく、それだけ話して別れた。

 ESS部。英語を武器として様々なことを学ぶ活発な部活動。インターナショナルスクールとも交流があるらしく、年に何度かは実際に会って話をしたり発表をしたりするそう。

 もちろん、全部英語。

 英語を話せるようになるのが目標じゃないからね、がんばらないと。

 宮ちゃんがそう言っていたことを思い出す。

 英語は、学ぶためのただの道具だそうだ。

 結衣が四苦八苦する教科を『道具』と言い、自分の手足のように操れるようになるまで努力を続ける同級生の後ろ姿を見送って、結衣は三階を後にした。




「失礼しま……」

「ようこそ、アイデアが生まれては消えて行くカオスな美術部へ!」

 扉を開けるなり、そんな声が教室中に響き渡った。

「……」

 驚きのあまり声も出ずにいると、扉が静かに閉められる。

「紗奈」

「美術部へようこそ」

 大人しく、滅多にはしゃいだりしない友人は、扉を閉めた後、そっと両手を広げた。

 美術部。美術室を根城にしていて、年に何度か部誌を発行しているなかなか活動的な部活。葉月紗奈(はづきさな)は高校で再会した小学校時代の親友で、ショートウルフの髪をふわりと揺らす。

 絵具のにおいで満ちている美術室の後方は、たくさんの作品で壁がほとんど見えていない。その他にもいろいろなところに絵画が飾られていて、まるで異世界への扉が無数に開いているみたい。

「ようこそ、アイデアが生まれては消えて行くカオスな美術部へ!」

 もう一度、大きな声が響いた。

「……ええっと…」

 教室の中央で、先輩らしき人が両手を挙げている。

「入部希望? それなら、あそこに入部届けが置いてあるから書いちゃって」

「へ?」

「ああ、もしかして見学だけだった? ごめんね、なんかすごい強引で。いいよ、ゆっくりしていって」

「……」

「美波先輩、この人困ってますよ。ほら」

「あらららら」

「先輩、いつも強引すぎだから」

「だって嬉しいじゃん? 新しい仲間が増えるのはさ」

「俺らがいますよ」

「お前らはなんか……暑苦しい」

「はぁ? 何言ってんですか、夏なんですよ暑いのは一緒だし苦しいのは当然でしょうが」

「かわいい子は違うんだよ。ほら見てみろよ紗奈を、あの可愛らしい顔を、あの白い肌を、あの細い手足を」

「……ちょっと、変態っぽい」

「紗奈ぁ……」

「あーあ、また美波先輩フラれた、泣いてら」

 ……確かに、カオスだ。

 結衣は状況を飲み込むことをあきらめることにする。

「えーと、ごめんねほったらかしにしちゃって」

 美波先輩、と呼ばれた人が立ち上がる。

「僕の名前は吉田美波、こんなだけど女です」

「はぁ……」

 スラックス姿で身長が高く細身な先輩が差し出す手を、結衣は反射的に握る。髪はベリーショートで、さっき話していた男の子よりも短いくらい。どうやら部長らしい。

「紗奈の知り合い?」

「……はい」

「紗奈、んじゃ勧誘よろしく。人数は多い方がいいしね」

「あ、えと」

「先輩、七転び八起きって、なんで七と八なんですか?」

「はぁ、知るか、どうでもいいだろ」

「でも、七回転んだら七回起きですよね? なんで起きてるんですか」

「……はじめから、転んでたんじゃない?」

「え、じゃあ、転んだ状態からカウントしたってこと? じゃあ八転び八起きじゃね? だって転んだ状態になるためにはまず転ばなきゃなんないじゃん」

「あ、確かに」

「鶏が先か、卵が先か、みたいだな」

「先輩、それどう思う?」

「鶏」

「なんで」

「卵がころんと出現するより、鶏が出現した方がマシだろ」

「コケーッて?」

「うん」

 あまりにも鶏の真似が似ていて、結衣は思わず吹き出した。

「……ねえ、結衣ちゃん…」

 くい、と袖を引っ張って、紗奈は小さな声で尋ねる。

「何か、用事があった?」

「ああ、そうだった」

 忘れてた。美術部特有の空気に飲み込まれていたらしい。

「瑞垣葵っていう人、ここにいない?」

「あおい、ちゃん?」

「うん」

 紗奈は、作品が山積みになっている教室の後方をちらりと見て、

「いない、よ?」

と答える。

「そっか、ありがと」

「うん……」

 と、いうわけで、紗奈がちらりと見た方向へ、迷わず突っ込む。

 紗奈が、待って、と言ったけれど無視をした。

「あーっ」

 周囲にいた部長を含む美術部員が結衣の行動に気づいて声を上げる。

 やっぱりか、と思って作品棚の後ろを覘く。

ほんの少しかび臭いその場所で、体育座りをして縮こまった探し人を見つけた。

「葵」

「人違いなのではないでしょうか……」

「……」

 とりあえず、手首を引っ張る。案外強い力で抵抗された。

 というわけで、力勝負に持ち込む。互いに全身の力を込めて、歯を喰いしばる。

「茉莉が…探してたよ……」

「人違いでは……」

「誰があんたのこと間違えるの……」

「葵ならさっき出て行った……」

「ここまできてよくそんな嘘を……」

 えい、と引っ張ると綿埃を頭に載せた葵が出てきた。青いフレームの眼鏡、特徴的な二重とたれ目、くせ毛の髪、第一ボタンまで閉められた制服。

「白状なさい、あなたの名前は」

「うぅ……瑞垣、葵ですぅ」

「はい、連行します」

 再び手首を捕まえた。

「ああ、葵を捕まえに来たわけか」

 部長が納得したようにうなずく。自分は彼女の身内じゃないけれど一応「ご迷惑をおかけしました」とぺこりと頭を下げた。

「いいんだよ、今度は身軽なときにおいで」

「美術部はいつもこんなカンジだから」

「たぶんこのまま変わることもないだろうし」

「いつでも、ウエルカム」

 美術部員の言葉に、葵は「引き留めろ、裏切り者ぉ」と力なく突っ込む。

「だって仕事放り出してきたのは瑞垣だし」

「瑞垣が勝手に居座ってただけだし」

「そもそも美術部員でもないし」

「生徒会と喧嘩する気力もないし……予算減らされたら困るし」

 最後は部長の美波先輩が締めくくる。

「こんなときにだけ団結しおって……許すまじ」

「ふぉっふぉっふぉ、やれるものならやってみせよ」

「……ぐぅ」

 そっと美術室の扉が開かれる。

「大変だね、結衣ちゃん」

 紗奈が側で笑っていた。

「こんな部活だけど、やるときはちゃんとしてるから、安心して」

 またいつでも来てね、待ってるよ。

 ふわりと可憐な花のような笑みを浮かべる紗奈。

 ありがと、と言ってから、異世界の創作者たちが集う『アイデアが生まれては消えて行くカオスな』美術部をあとにした。




「うわぁマジか、茉莉まで探してんのか……」

「そうだよ、あんまり困っているカンジではなかったけど」

「茉莉はそういう奴だから。どうせ私を探すって名目で時間潰して遊んでんだろうね」

 ふてくされる葵。

「生徒会室までついてくよ」

「ええ、いいよ。ひとりでいけるし」

「どっかでまた遊ぶつもりでしょ」

「……そんなこと」

「ないって言える?」

「……」

「どうせ私も部活行くし、そっち行くし。ついでにね」

 どうやら葵も教室に荷物があるらしいので、二人で先に教室によることにした。

 美術室にいた時には聞こえなかった吹奏楽部の音が、ここでは廊下まで響いている。

 教室を覘くと、トランペット奏者がそこで練習をしていた。金色に輝く楽器は、甲高い音を校舎内に響かせている。

 ひとりの息が、ここまで大きくなる。

「結衣は部活行かないの?」

「早く行きたいから、さっさとしよう」

 気配を消して、そうっと教室へ滑り込む。

 音が止む。

「すいません、借りてます……教室、使いますか?」

 奏者は一度演奏を止めて、結衣と葵に尋ねた。首を振ると、ほっとしたような顔つきになってまたトランペットを吹き始める。

 単体でも強い印象を残す楽器たちが集結し、ひとつのものを創り上げるのが合奏だ。吹奏楽部の十八番で、そのスケールは計り知れない。

 そして不思議なことに、それは、その瞬間、その場所でしか感じ取れない。

音楽が創り上げる世界には、そのとき、その一瞬、その場所でしか行くことはできないから、吹奏楽部の奏でる世界は、とてつもなく大きく広がっていて、とてつもなく美しくて。

 それを創る人の背中は、とてつもなく輝いて見える。

 結衣は、腰にダメージが大きいリュックを背負う。重力が体にかかったとき、何かに踏み潰されたようなうめき声が出た。

「行こ」

 気づいてないかもしれませんけど、あなた、すごいかっこいいですよ?

 そういう気持ちを込めて、トランペットの練習をしている女の子に会釈をして葵と二人で教室を出る。

 レンガが入っていると言われてもおかしくない重さのリュックを担いで、生徒会室のある三階まで上がった。

「足が……足が震える」

「何の訓練? 何の罰ゲーム?」

 ふたりでぼやきながらとりあえず上って、渡り廊下を進み、窓から外を見る。校舎のすぐ側に植えられている桜の木は、緑の葉をわっさわっさと茂らせていた。

 また道中、どこかに遊びに行くかと思いきや、素直に葵は生徒会室へ向かう。

 どうやら、自分でもまずいことは理解しているらしい。

 南校舎の三階。渡り廊下の突き当りに、それはある。

 葵は躊躇なくその扉を開けて

「遅ればせながら瑞垣葵、参りましたー」

と間延びした声で告げる。

 部屋の中からは「遅い」「何してたぁお前っ」「仕事サボんなっ」と、色々な文句が聞こえてきた。

 生徒会室。生徒会の本拠地で、文化祭や体育祭で使われるものが突っ込んである倉庫もかねている、普通の教室の半分程度の広さの部屋。長い机が縦に並べられていて、ホワイトボードに黒いペンでたくさん文字が羅列されている。

 中に、茉莉の姿を見つけた。葵と入れ替わるようにして茉莉が出てくる。

「ありがと、連れてきてくれて。どこにいた?」

「美術室で隠れてたよ」

「おっけ。じゃあ次から探すときは美術室最優先だね」

 茉莉は手に持っていたペットボトルを差し出す。青いラベルのスポーツドリンクだった。

「葵を連れてきてくれたお礼。部活、頑張ってね」

 部活に行く途中。茉莉は、最初に結衣がそう言ったことは忘れていなかったらしい。

「ありがと。茉莉も生徒会がんばれ」

 冷たいペットボトルを受け取ると、

「それは無理」

と即座に答えが返ってきた。

「ええ?」

「誰がエアコンのない職場でがんばれると思ってんだか」

 けっ、どこかの誰かにむかって舌を出す。

 だけど、結衣は知っている。

 なんだかんだ言いながら、茉莉は人一倍真面目だし、さっきまで美術室でホコリまみれになって隠れていた葵も本当のサボり魔ならば仕事なんて任されないし。

 二人ともすごくがんばる人だ。

 今度、差し入れでも持ってこようかな。

 そんなことを心の中で思って、茉莉に別れを告げた。

 生徒会室に戻っていく茉莉と、その中ですでに資料を広げて話し合いを進める葵の姿が重なる。

 目の前のことに全力で取り組む人。何があっても、必ず帰ってくる人。

 そんな二人が、かっこよくないはずがない。

 結衣は、やっと部活に行ける喜びをかみしめながら、生徒会室をあとにした。




 今、結衣がいる校舎では、たくさんの文科系の部活が活動している。

 例えば、生徒会室の隣に位置する物理実験室。ここは、自然科学部の本拠地。

 前を通り過ぎると、開け放たれている扉から見慣れた三人組の姿が見えた。

 大森涼真(おおもりりょうま)、川居銀次(かわいぎんじ)、鍋谷蓮(なべたにれん)。クラスでもどこでも大体一緒にいる自然科学部三人衆。各々、物理、生物、化学のスペシャリストだ。

 大森くんは、パソコンと睨めっこをしていて、同じチームと思わしき人たちと一緒に議論を交わしながら、キーボードをたたいている。

 川居くんは、白い紙を片手にして教室内を歩き回りながらぶつぶつ喋っている。発表がそろそろあるんだよね、と言っていたので、その練習だろう。

 鍋谷くんは、つまようじとボンドを片手に搭を作っている。もう一人の仲間と一緒に、静かにただひたすらに、無機物と会話して、慎重に手を動かしている。

 頭のギアが回る音が聞こえてきそうだ。みんな、各々、集中しきっている。

 その向かい、物理講義室では将棋部がいた。

 こちらもまた目の前にある盤に集中しきっているようで、パチリ、パチリと駒の音が断続的になっている。九×九の盤の上で、火花を散らして戦う戦士たちの邪魔にならないよう、結衣はそうっと階段を降りた。

 二階ではまた、違う毛色の音がする。

 礼法室では、かるた同好会が活動していた。

 独特の抑揚で読まれる百人一首を聞いて一瞬のうちに判断し、体が動いて。札が飛んで、地面を滑る。

 礼法室は狭いらしく、部屋の前にも畳を引いた一組が練習をしていた。

 前の歌の下の句が確認のために流されて、次の歌が始まる一瞬の静寂。下ろしていた腰を上げて、前傾の姿勢になる。

 読まれた歌の一文字目に反応して、全身で札を取りに行く。周囲の札も一緒に宙を舞って、畳の上を滑る。

 全部全部、一瞬の出来事。

 ここだけ、時間が緩急をもって流れていた。

 再び階段を降りる。

 一階、すぐ目の前にある化学実験室は、華道同好会の活動場所。

 窓から中が見えた。見知った顔はないが、何人かが赤い葉を持つアンスリウムを中心に、花器の中に花を生けていく。

 茎を切られたことで一度は死んでいる花々が、人の手によって蘇る。そうやってできた作品は美しく、まるで本当に自然の一部を切り取ったかのようだった。

 どの部活がすごい、とか成績がいい、とかよく聞くけれど、そんなものは関係ないと思う。みんなみんな、やりたいことに挑戦して、今の居場所に飛び込んだのだから、みんなみんなすごいんだ。

 そう。

 だから、誰かがすごい、なんてことはない。みんなすごいから。




「ゆいっ」

「あれ、ふみ。どしたの?」

 華道同好会に見惚れる結衣に向かって廊下の向かい側から歩いてやってきたのは、丸い縁の眼鏡をかけた女の子。

 三浦文月(みうらふみつき)、通称ふみは、結衣と同じ部活に所属する同級生で、いつも本を抱えている本の虫。ちなみに誕生日は七月五日。

 結衣はいい名前と由来だと思うのだけれど、本人はあまり好きではないらしい。

「図書室で本漁ってた」

「ああ、なるほどね」

 ハードカバーの分厚い本と文庫本を二冊抱えて、同じ質問を返してくる。

「ちょっと色々あってね……遅れちゃった」

「大丈夫だよ、どうせいつも通りだしね」

「やりたいこといっぱいあるんだけどなぁ……時間が足りないや」

「美玖(みく)ちゃんと野乃花(ののか)ちゃんも同じこと言ってたよ」

 美玖も野乃花も、同じ部活の仲間の名前。

「ほんと?」

「うん。二人ともコンテスト出すって。部誌の締め切りもそろそろだしね、夏休みがなくなるって叫んでたよ」

 あまりにも鮮やかにその情景が想像できたので、思わず笑ってしまう。

「結衣ちゃんも、進捗はどう?」

「うーん……いい、とは言えないかな? 頑張ってる、とだけ言っておく」

 夏休みの中日が締め切りになるコンテストに挑戦することを、結衣はずいぶん前から部活で宣言していた。結果はどうなるかわからないけれど、挑戦したいと思ったから。


 ん?

 挑戦することが、怖くはないのかって?

 怖い。もちろん怖い。怖くないわけがない。

 だけど、私はひとりじゃないから。

 フィールドは違えど、同じように挑戦し続ける仲間がいる。頑張り続ける仲間がいる。

 そう思うと、なんだか挑戦することに怖気づいている自分の方がバカらしく見えてくる。


「行こうか」

「そうだね、廊下は暑い」

 結衣が所属する部活の名前は、文芸部。

 紙とペンで、無限の世界を創るのが、私たち。

 結衣は、文芸部の活動場所である教室の扉を開けて。

 今日もまた、新しい世界と物語の幕を開けた――――――



Fin

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everyone be ambitious 雪待びいどろ @orangemarble

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