チゾメノフォーカス

 空が、風が、高度が、極大の絶叫が、それに紛れるカァーンと言う小さな音が、意識の表層に入れ替わるように迫り上がって来る。


 何と入れ替わるようになのか、入れ替わる前が何だったのか、今となってはもう思い出すことはできない。


 そんな風に巡らされている意識自体も、すでに消え入ってしまいそうに弱々しい。


 けれども、主に全身における──とりわけ左半身はもう使い物にならないとはっきりとわかるほどの絶望的などうしようも無さが、俺の身に何が起こったのか教えてくれていた。


 巨大な指先の直撃を、能力の掛かってない生身の体の左側からもろに食らって吹っ飛ばされ、死んでもおかしくないほどの重傷を負ってたまたま死なずに生きている。


 ただそれだけのことだった。


 そして不思議と穏やかでもあったんだ。


 きっと脳内麻薬の類が出てくれているんだろうな。


 痛みもそれほど激しくはなかった。


 一呼吸ごとに意識がいい感じに遠のいていき、苦痛がそれほど苦痛に感じられない。


 変に動いて傷口を広げるよりも、このままじっとしているほうが最小限の痛みだけで逝ける気がした。


 もう、それに越したことはないんじゃないかな。


 今度こそ、意識の尻尾を完全に手放してしまえば、俺はそのまま穏やかに逝くことができそうなんだ。


 そうだ、そうしよう。


 それでいいんだ。


 もう、頑張らなくていいんだ。


 誰かの道を切り開くために自分を刀にして振るわなくても、もういいんだ。


 自分のために、自分自身という刀を折ってもいいんだ。


 自分、自身……。


 ──咄嗟とっさのことだった。


 自分が撮影する映像の中の一人という固定観念にとらわれて、見落としてしまっていた最も身近なはずの対象を、鏡が気づかせてくれたような気がした。


 ──漠然と頭に浮かんだ。


 もしかして撮影と攻撃の軌道を同一線上にすればうまくいくんじゃないか、という発想に付き合って稽古までつけてくれた人がいた。


 ──弱さを武器にするしかなかった。


 起死回生の代償として受けた地獄のような痛みの中で、スマホへと手を伸ばさせてくれた人たちがいた。


「……、ぁ───」


 もう一度、自分のことを撮ろうと思う。


「ああああぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああッッッ!!!!!!」


 気合い……、の、おた……、けび……なんか、じゃあない……っ!


 悲鳴だった。


 全身を貫く痛みに、俺は強制的に叫び声を上げさせられていたんだ。


 巨大な指の直撃でこの手から放り出されたんだろう。


 視界の端は十数メートル離れた所に転がっているのが確認できた俺のスマホ。


 その方向へ身をよじらせた矢先の出来事だ。


 今まで出ていた脳内麻薬の類はなりを潜め、代わりに筆舌に尽くしがたい痛みがこの身を襲っていた。


 今すぐ左半身を切り落として右半身だけになりたいと思い、そう思っている間にもなりたい部分は右の手首あたりまでせばまっている。


 俺が転がり始めてしまったのは、もう後戻りなんて出来ない下り坂だ。


 そしてその坂道の先で地獄が大口開けて待ち構えてるのなんてのは、考えなくたってわかることだった。


 ──けれど。


 地獄なら一回、俺は見ているはずだ。


「うあああああああああああああああああああああああああああっ!!」


 進んだ。


 左半身を引きずって、右側だけのみじめ極まりない匍匐ほふく前進だ。


 それでも、無限にも思える先にあるスマホにほんのわずかでも近づいた。


「うあああああああああああああああああああああああああああっ!!」


 進んだ。


 相変わらず微々たる距離を詰めるのに対して、支払ったコストは甚大じんだい


 多分折れた骨が何本か内臓に突き刺さってる。


 左の脇腹に空いた穴からは、何かブヨブヨしたものが飛び出していると思うし、その残骸を今この瞬間にも瑠璃色の床にぶちまけていた。 


 全身の神経を焼き切るような痛みに視界はくらみ、呼吸さえもままならない。


 それでも、


「うあああああああああああああああああああああああああああっ!!」


 進んだ。


 俺は今、控え目に言って地獄の真っ只中にいると言っていい。


 けれど本当の地獄とは、今ここでネネちゃんを失うことだ。


 そんな最悪の結末を回避できるなら、今この身に降りかかってる艱難かんなん辛苦しんくも安いはずだ。


 気がつけば、俺の後を追ってくるカァーンという音一つにつき右半身だけの匍匐前進を一つ進めていた。


 そうやって。


 視界を埋め尽くす真っ赤なノイズに。


 えた臭いを突き付ける血生臭いバグに。


 鉄錆の味で口腔を侵す苦々しいエラーに。


 全身をむしばむ焼け付くようなクラッシュに。


 俺は、あらがって抗って抗った。


 進んで進んで進んだ。


 って這って這いずった。


 そしてとうとう、指先がスマホに触れた。


「──ッ!!」


 身体強化のエフェクト・見えざる鎧『機神視点』──その庇護下に、俺は入ったんだ。


 それまで受けたダメージは一時的にないものとされ、傷口は忽然こつぜんと塞がっていき体も淀みなく動く。


 一面の瑠璃色に刻まれた一直線の赤黒い道は、完全に途絶えていた。


 同時、それまで上空を暴れ回っていた巨大な二対の手のうちの右の方が、不意に俺の元へと流れてきた。


 急ぎ諸々の態勢を立て直し、迎撃の準備を整える。


 ズドアッ!! という暴風染みた勢いで迫ってきた巨大な指先を、俺は間一髪で横渡しにした自撮り棒のシャフトで受け止めた。


 ような凄まじい衝撃。


 それでも能力の力を借りて、吹き飛ばされたり押し潰されたりする事なく、なんとかその場に踏みとどまって持ちこたえることが出来ていた。


 出来てはいたんだが。


「うぐっ……くそ……、やっぱり、能力を越えて衝撃が伝わってくる、か……。まあ、そうなるよなクソ巨竜が。俺はお前には絶対勝てないんだからな。きっとこうやって防御してるのも精一杯で、お前の指先を押し返すなんてことは出来ないだろうな。けど……いや、だからッ!!」


 俺はちょっとした細工を施させてもらっていた。


 巨大な指先を受け止めるその瞬間、瑠璃色の鱗と自撮り棒のシャフトとの間に、とある小さな異物を素早くこっそりと挟ませていたんだ。


「石ころだぜ、クソ巨竜! お前の鱗を剥ぎ取ってまで欲するくらいに愛して止まない、この大地の一部だ!」


 そうだ。


 たとえ路傍ろぼうに捨て置かれてたとしても、誰も見向きもしないであろう存在。


 だけど今この場においては、巨大なシステムを覆す可能性を秘めた極小のイレギュラーたる小さな石礫いしつぶてを、俺はシャフトと巨大な指の間に忍ばせていたんだ。


 巨竜の鱗には天然物が効くらしいと分かったから、きっと何かの役に立つかもしれないと考えた俺。


 巨竜によじ登る直前に、そこら辺から適当に何個か石ころを拾ってポケットに潜ませておいた。


 けど、石ころ単体だけでは不十分だとも分かっていた。


 大地と石ころじゃ物量が違いすぎる。


 人間が蠟燭ろうそくの火に一瞬触れただけじゃちょっとしたやけどくらいしか負わないだろうが、ミリ単位の羽虫なんかにとってはその火で一瞬で全身が燃え尽きる。


 そんな類の話を、さらに極端にしたって感じか。


 とにかく石ころなんかじゃ巨大な指先ひとつで一瞬ですり潰されて終わりなはずだ。


 けど。


 そこで見えざる鎧『機神視点デウスフォーカス』だ。


 そのエフェクトのピーキーさを象徴すると言っても良いような効能の一つ。


 どんな相手にも等しく防御は発動するが、能力なしで敵わないと能力に判断された相手には、吹っ飛ばしたりぶっ壊したりといった、とにかく攻撃に繋がるような挙動は一切起こしてくれない。


 それを逆手に取らせてもらうことにした。


 まず、今の俺は一見巨竜と戦っているように見えて、実はその間に割り込ませた石ころとしか接していない。


 つまり能力側にしてみれば、俺が今戦っている相手としては石ころしかロックオンできなくなってしまっている。


 ここで、『俺と石ころが戦ったらどうなる?』って話になる。


 石ころに戦って勝つってどういうことだ?


 石ころを砕けば勝ったことにはなるだろうな。


 でも、本当に純粋な俺の力で、石ころって砕けるか?


 そりゃ他の石ころに投げつけたりすりゃ欠けさせたりもできるだろう。


 けどそれじゃ、がっつり他の石の力を借りてしまっている。


 俺だけの力で勝負して勝つなら、俺がこの手で握りつぶしたりパンチで割ったりするしかないわけだが、そんなこと当然素手でなんてできる訳がない。


 なんせこちとらちょっと前まで帰宅部の男子高校生。


 こっちに来てからも剣の稽古をちょっとやったってくらいで、フィジカルも運動神経も極々ごくごく人並みのままなんだからな。


 逆にこっちの拳が傷つけられたり、最悪骨までヤラれる可能性だってある。


 引き分けにすら持ち込めていない。


 正真正銘、素の俺は石ころ一つにすら勝てない。


 そしてそんな絶対勝てない相手『石ころ』を、能力は『今の俺の対戦相手』としてロックオンさせられちまってる。


 つまり能力側にしてみれば、俺が現在戦っている真っ最中である石ころを、『素の状態で絶対に勝てない対戦相手は能力下の攻撃でも負かすことはできない』っていう制約上、潰れたり壊れたりしないように原型を留めさせざるを得なくなってしまっているって訳だ。


 ここに、ただの石ころなのに巨大な指先でも押しつぶすことが出来ないっていう特大のパラドックスが完成した。


 現にシャフトと巨大な指先の板挟みになっている石ころは、割れたり潰れたりせずにしっかりと健在。


 そんな訳でなんとか瑠璃色の鏡面に傷をつけるため──


「俺の最弱とお前の最大、どっちが強いか勝負と行こうぜクソ巨竜ッ!!」


 特異点めいた存在となった石ころを、自撮り棒のシャフトでひたすら押し込んだ。


「どうだ!? ただでさえお前の鱗の天敵に分類される石ころが、俺の最弱が生み出したパラドックスに塗り固められて最こうになっている感触は!」  


 能力の仕様ならしっかり押さえたはずだ。


 だから見えざる鎧『機神視点デウスフォーカス』よ、応えてみせろ!


 エフェクトの持ち主を救ってみせろ!


 機械仕掛けの神の視点──そこから見える景色の像を、今ここで結んでみせろ!


「うおおおおぁぁぁああああああああああああああああああッッッ!!!!!!」


 横渡しにしたシャフトを握り締める両手に、より一層の力を込めた、直後だった。


 ピシィッ、という破砕の芽生えのような音と共に、瑠璃色の指先に放射線状に幾つかの亀裂が走った。


 加えて、巨大な指先に石ころがめり込んだ感触をシャフト越しに確かに感じたし、シャフト越しにも実際にその様子が視認できた。


 よし、いける!


「おらああああああああああッッッ!!!!!!」


 俺は自撮り棒を斜め後方に傾けるようにしながら半身になって体を入れ替え、巨大な指先をなんとか後方へ受け流した。


 同時、手の平本体部分も迫って来たが横に飛んで素早く回避。


 ポケットをまさぐって残りの石ころを確認していると、左の巨大な手もこっちに流れてきた。


 右手と同じようにして、左手の指先にも一個の石ころをめり込ませることに成功。


 更に別方向の上空から再び迫って来た右手を利用して、巨竜の頭の方にも石ころを一つめり込ませることに成功した。


 指先の時のやり方の応用だ。


 靴のかかとで石ころを踏みながら、上空から押し潰そうとしてくる指先を受け止めて、その重さを利用して足元の瑠璃色にメリッ、と。


 後は押し潰されないよう素早く退避。


 そうやって、文字通り布石なら打った。


 だから後はこのまま押し切るだけだ。


 上空から迫り来る巨大な右手。


 それを充分引きつけ、自撮り棒を振りかぶる。


「退けよ──」


 指先にめり込んでいる石ころに狙いを定め、間合いに入ってきたそれに向かって、勢い良く自撮り棒を叩きつける。


「ネネちゃんが、撮れねえだろうがああああぁぁぁぁあああああああッッッ!!!!!!」


 まるで天上のかねいたような凄まじい音が鳴り響いた。


 きっと自撮り棒が石ころに触れた瞬間に石ころは再び最硬となり、更に今度は叩かれた衝撃が上乗せされ、それが深部にまで伝播でんぱしてったんだろう。


 右手の形をした巨大な瑠璃色が、手首の辺りを境にバラバラに砕けて飛び散った音だった。


 破片は急速に酸化するように、くすんだ土色に変色していく。


 地上高二〇〇メートルで咲き、そして一瞬で散っていく土塊つちくれの巨花だった。

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