閑話 両細川の乱の勃発と経過

 永正の錯乱を契機に勃発した「両細川の乱」は、細川高国・大内義興・畿内の京兆家被官などの反三好勢力と細川澄元・三好氏など阿波細川氏の被官を中心とする阿波勢の二極に分かれ、細川京兆家当主の座を巡って争うこととなった。


 この争いは、足利将軍家を巻き込んで長く続く泥沼に突入していくこととなる。


 永正6年(1509年)6月、細川澄元と三好之長は、再起を図って京への侵攻を企てる。しかし、細川高国と大内義興によって「如意ヶ嶽の戦い」で撃退された。

 細川澄元と三好之長は、阿波に逃亡し、之長の子である三好長秀は伊勢に敗走した。しかし、北畠材親に攻められ自害している。

 細川澄元勢を撃退した細川高国勢は、近江に侵攻した。


 永正7年(1510年)、細川高国方は、近江に再度侵攻した。しかし、細川澄元方を支持する国人の抵抗もあり、大敗することとなったのである。

 翌年、細川澄元方は、二手に分かれて阿波から畿内へと上陸した。

 堺から上陸した細川政賢・元常の軍は、細川高国方の摂津国人衆に「深井の合戦」にて勝利している。

 また、兵庫から上陸した細川尚春の軍も播磨・備前守護赤松義村と連携して、細川高国家臣・瓦林正頼を「芦屋河原の合戦」で破っていた。

 その後、両軍は合流して京に侵攻する。

 細川高国と大内義興は、劣勢に追い込まれ、将軍足利義稙を擁して丹波に一時的に撤退することを余儀なくされた。

 京の都を奪回した細川澄元方であったが、細川高国方は次第に勢力を盛り返し、京に迫りつつあった。

 その様な状況下で、細川澄元方の擁する前将軍の足利義澄が病死する。更に、足利義澄の庇護者であった六角高頼が細川高国方に寝返ってしまったのだ。

 勢いに乗る細川高国・大内義興軍は「船岡山合戦」に勝利しする。そこで、細川政賢は自害し、細川澄元は阿波に撤退することとなった。


 永正14年(1517年)、細川澄元方の三好之長は、淡路水軍を掌握するため淡路に侵攻する。細川高国方に寝返っていた淡路守護の細川尚春は和泉の堺に逃亡した。

 翌15年、出雲の尼子氏や安芸の武田氏などが不穏な動きを見せ、麾下の国人たちの離反も相次いだため、大内義興が周防に帰国することとなる。

 大内義興は、約10年在京し、高国政権を支えていたが、彼の帰国によって、細川高国は最大の軍事力を失うこととなった。

 永正16年(1519年)5月、細川尚春は細川澄元に降ったものの、三好之長に殺害される。

 同年11月、細川澄元・三好之長らが摂津国兵庫に上陸し「田中城の戦い」によって確保した橋頭堡を拠点に、瓦林正頼の居城である越水城を包囲したのであった。


 細川高国方と細川澄元方の攻防は一進一退の状況にあったものの、大内義興の帰国により、細川高国が劣勢となりつつある。

 しかし、今尚いつ終わるとも知れない戦乱が畿内を覆っていたのであった。

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