閑話 永正の錯乱

 現在、細川高国と細川澄元の争いは、五畿内に新たな戦乱を齎していた。この戦乱はは、細川京兆家当主の地位をめぐる争いであり、「両細川の乱」と呼ばれることとなる。


 この「両細川の乱」の原因は、細川京兆家の当主であった細川政元が暗殺されたことが発端となっていた。


 明応2年(1493年)、細川京兆家当主の細川政元は、第10代将軍であった足利義材(後の義稙)を廃している。細川政元は、まだ若い足利義高(後の義澄)を11代将軍に擁立することとなった。それが「明応の政変」である。


 細川政元は、自身の望んだ人物を足利宗家の当主に据えることに成功した。しかし、彼はある問題を抱えていた。

 細川政元は修験道の修行に没頭しており、天狗の扮装をするなどの奇行を度々行っている。修験道では女人禁制であるので、細川政元に実子がいなかったことが問題であった。

 そして、細川政元には兄弟もいなかったため、細川京兆家には後継者がいなかったのである。

 そのため、細川政元は、3人の養子を迎えていた。

 関白・九條政基の末子である澄之。細川一門の阿波守護家出身の澄元。京兆家の分家である野州家出身の高国。その3名を養子に迎えたため、後継者争いの芽を胚胎することとなったのである。


 応仁の乱によって、諸大名家が後継者争いを起こし、弱体化していった。

 その中で、細川京兆家では、細川勝元の後継者に実子である細川政元が嫡男として継承している。一部では、養子の勝之を推す動きは一部であったものの、細川政元の継承により、後継者争いが起こらなかった。

 その結果、細川政元の代に、細川京兆家は足利公儀の中で、その地位をより強固にすることが出来たのである。

 しかし、その細川政元に血縁の近しい後継者がいなかった。そのため、ここに来て他大名家よりも一世代遅れで、細川京兆家に後継者争いが勃発することになる。


 永正3年(1506年)、摂津守護となった細川澄元は、出身家の阿波勢を率いて入京した。

 そして、阿波守護家の家宰である三好之長が、細川政元に軍事面で重用されるようになる。

 すると、これまで細川政元の政権を支えてきた「内衆」と呼ばれる細川京兆家の重臣(主に守護代や畿内有力国人たち)と、阿波勢との対立が深まっていった。


 永正4年(1507年)6月23日、細川政元は、術法を修得する準備として邸内の湯屋に入ったところを、祐筆の戸倉氏によって殺害される。「細川殿の変」と呼ばれる細川政元の殺害は、細川澄之を擁する内衆の薬師寺長忠・香西元長・竹田孫七らに唆されたことによって引き起こされた。

 翌日、薬師寺長忠らは細川澄元・三好之長の屋敷を攻め、細川澄元らを近江に敗走させている。

 そして、細川京兆家の当主として澄之を迎え入れ、家督を継がせたのだあった。

 6月26日、細川政元の命令を受け、丹後の一色義有を攻めていた赤沢朝経が軍を京都に撤退させようとする。しかし、一色義有や丹後の国人の石川直経らの反撃を受け、自害に追い込まれた。


 もう1人の養子である細川高国は、摂津分郡守護である細川政賢や淡路守護の細川尚春などの一族や、河内守護畠山義英と諮り、細川政元の後継者を細川澄元とすることで合意することとなる。


 7月28日、弟の薬師寺長忠に滅ぼされた薬師寺元一の子である万徳丸は、薬師寺長忠の居城である茨木城を攻め落した。

 翌29日、細川高国らは香西元長の居城である嵐山城を攻め落としている。

 8月1日、三好之長が逃亡先の近江甲賀郡の国人らを味方に引き入れ、京に戻る。そして、細川澄之の最後の拠点となっていた遊初軒を細川高国勢とともに一気に攻め落したのであった。その際に細川澄之は自害している。

 翌2日、細川澄元は足利義澄に拝謁し、細川京兆家の家督を継いだのであった。


 明応の政変で将軍職を追われていた前将軍の足利義尹(義材から改名)は、明応8年(1499年)に西国一の大大名である周防の大内義興を頼っている。足利公儀は大内義興と結び付いた足利義尹の動向を恐れざるを得なかった。

 永正4年(1507年)閏6月、公儀は大内義興追討の綸旨を得て、安芸・石見の国人らに義興追討を命じる。

 しかし、同年末に大内義興は足利義尹を擁して上洛軍を起したのであった。大内義興は、周辺国にも参加を呼び掛け、軍勢を率いて山口を発する。そして、備後国の鞆で年を越しつつ入京を伺うこととなる。


 同時期、細川京兆家においても、不穏な気配が漂っていた。三好之長の専横に反発する畿内の勢力が細川高国の元に結集していたのである。細川澄元と細川高国の対立が水面下で始まっていたのだ。

 細川澄元は、大内義興と和議を結ぶための交渉に高国を差し向けようとしたが、逆に高国は伊賀に出奔する。そして、足利義尹・大内義興と結び、摂津の伊丹元扶や丹波の内藤貞正らの畿内周辺の国人を味方につけたのであった。

 こうして、細川澄元と細川高国の対立は決定的なものとなる。

 

 永正5年(1508年)4月、細川澄元や将軍足利義澄は相次いで近江に逃れ、細川高国が入京した。

 4月末、足利義尹と大内義興は、和泉国堺に到着する。両者を出迎えた細川高国が、京兆家の家督を継ぐこととなったのであった。

 6月、足利義尹は堺から京に入り、再び将軍となる。細川高国は細川京兆家が代々任ぜられる右京大夫となり、大内義興は左京大夫、管領代、山城守護となった。


 こうして、僅か1年の間に、細川京兆家の家督は細川政元から細川澄之、細川澄元、細川高国へと目まぐるしく入れ替わっていったのである。

 生き残った細川高国と細川澄元の争いは、更に激化し、両細川の乱へと発展していくこととなったのであった。

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