第19話 叔父の回復と季父の色直し(永正16年12月)

永正16年11月


 1日、民部卿入道上冷泉爲廣飛鳥井前大納言父子飛鳥井雅俊・雅綱日野頭弁日野内光玄清歸牧庵宗碩月村齋などが祖父近衞尚通を訪ねて来賀した。


 2日、上乘院が長谷闕所(山城国愛宕郡)の儀について、京兆細川高国に取り次いだことへの礼に、祖父を訪ねて来ている。礼物として五号五荷を持ってきたそうだ。

 近衞家では和漢聯句会が催され、朝蔵主東啓瑞朝と補蔵主がやって来た。和漢聯句会の後は、大いに飲んだらしい。そのため、二人とも逗留していった。


 3日、北政所祖母は、五合五荷を留守の右馬頭細川尹賢へ遣わしたそうだ。昨日、上乘院から贈られた物だろう。右馬頭が不在のため、残された妻や女房衆のために贈ったのかもしれない。

 祖父は多武峰の事について、中御門大納言中御門宣秀へ書状を遣わしたそうだ。


 6日、朝蔵主が祖父を訪ねて来た。

 昨暁、光物があったが、天狗流星なる流れ星だった様だ。


 8日、宗碩が祖父を訪ねて来て、雑談をしたらしい。


 10日、今日は風呂のある日である。大祥院大叔母徳大寺女中曾祖母が訪れ、風呂に入っていった。

 一昨日から叔父大覚寺義俊の体調が悪化し、朦気と疾んだ様だ。祖父は少弼富小路資直を召して、診察してもらい、良薬を処方してもらったとのことである。

 今年に入って、叔父の体調がずっと悪いので、心配でしょうがない。


 11日、祖父は、京兆並びに典厩細川尹賢の戦勝を祈念して、八幡大陀羅尼に祈祷の巻敷と香水を遣わしたそうだ。近衞家としては細川高国に勝ってもらわなければ困るのだろう。堂々と細川高国の戦勝を祈念し始めた様だ。

 宗碩が祖父を訪ねている。また、少弼が叔父の診察に訪れた。


 12日、少弼が体調不良の様で、息子の新蔵人富小路氏直が叔父の診察にやって来ている。少弼に叔父の病が伝染ったのだろうか?


 13日、祖父は少弼に叔父の診察代として百疋を遣わしている。


 14日、靜慮院が叔父の快癒を期して加持するため、やって来たそうだ。

 15日、靜慮院が加持のため、またやって来たらしい。

 7歳の叔父禪意の体調が悪いため、清法印坂浄運を召される。清法印は診察すると、良薬が処方された。祖父は色々な医者に叔父を診てもらっている様だ。

 宗碩が祖父を訪れ、閑談していった。


 16日、上慮院が訪ねて来たらしい。

 禪昌院が訪ねて来た。去る13日に従軍して上洛したらしく、典厩からの言伝が有ったそうだ。典厩の言伝とは、先日の戦勝の祈祷に対する礼だったらしい。

 そして、祖父は禪昌院に摂津の戦況について尋ね、雑談をしたそうだ。

 清法印が叔父の朦気を診察するため、また訪ねて来た。

 伊賀仁木刑部大輔より、今日摂津へ下向し開陣する旨の書状が届いたそうだ。伊賀仁木氏は信楽庄の代官として守護請を担っているので、近衞家と交流が深い武家衆が多く出陣したことになる。

 京都の南方で火事があったらしい。朝蔵主が訪ねて来て、逗留することになったそうだ。

 17日、補蔵主が訪ねて来た。


 18日、夜になって、宗碩が訪ねて来た。敵陣が落ちて、細川澄元と三好之長が死んだとの風聞が流れているそうだ。

 前世の知識がある私からすれば、その噂が間違っているのが分かっているが、細川高国方を応援している祖父たちや宗碩にとっては喜ばしい噂なのだろう。

 19日、昨夜、祖父たちが話していた細川澄元と三好之長が死んだとの噂が虚説だったそうだ。祖父は「言語道断」と嘆いていた。昨日の噂が余程嬉しかったのか、その反動が大きかったのだろう。



 21日、月舟壽桂長老が歳暮の礼のために祖父を訪ねてきた。

 清法印が大覚寺大覚寺性守附弟禪意の脈を診に来ている。少弼も召寄せて診察させたところ、叔父は回復したとの診断を得た。


「叔父上が回復した様で良ろしゅうございましたな」


「えぇ。兄上大覚寺義俊が回復されて何よりです。然れど、再び病にに罹らなければ良いのですが」


 私は季母慶寿院とともに、叔父の回復を喜んだ。しかし、叔父は一年近く体調が悪かったので、また病気が再発しないか心配である。



 22日、季父久我晴通の色直しが行われた。大祥院大叔母継孝院叔母武者小路一品武者小路縁光が訪れている。彼女らは、夕飯を食べていった。

 祖父は徳大寺実淳曾祖父に小樽を遣わしている。季父の色直しの祝いだろう。


 25日、風呂の有る日であった。曾祖母徳大寺女中と春芳軒が風呂に入るために訪ねて来ている。


 27日、民部卿入道と飛鳥井前大納言、烏丸光康が祖父を訪ねて来た。22日に、大樹足利義稙邸で烏丸光康は元服したそうで、大樹が加冠を行ったそうだ。烏丸光康は祖父の許を初めて来たそうで、太刀などを贈物として持って来ていた。


 28日、風呂のある日で、宝鏡寺、継孝院など叔母たちや曾祖母徳大寺女中が入りに来ている。曾祖母は風呂がある日は必ずの様にやって来て入っていくな。

 夜になると、清法印が訪ねて来た。叔父の診察のために来た様だが、すぐに帰っていった様だ。

 勧修寺中納言尚顯竹田法印竹田定祐が歳末の礼に祖父の許を訪ねて来ていた。これまで、僧たちが歳末の礼に多く訪ねている。

 理学院應献が加持のために訪ねて来た。清法印と言い、叔父の体調がまた悪くなったのだろうか?


 29日、清治部卿、飛鳥井中将飛鳥井雅綱、玄清が歳末の礼に祖父を訪ねて来た。

 宗碩も懐紙を持って祖父を訪ねている。

 大覚寺性守並びに若王子興淳から巻敷が進上されたそうだ。


 30日、広橋守光と白川雅業王の使者が訪ねて来た。今日歳末の参賀のために祖父を訪ね様としたが、出来なくなったので、来春に参賀すると言う旨の使者らしい。祖父は、それで良いと返答したそうだ。

 宗碩が歳暮の礼にやって来た。頻繁に祖父を訪ねているので、歳暮の礼も今日やって来たのだろう。

 日野、加治左京亮も歳末の礼やって来ている。加治左京亮は祖父の生母北小路家養女の実家で朝倉氏被官であり、祖父が当主になってから加治氏との交流が深くなっている。歳末の礼に来るのは当然なのだろう。

 大覚寺性守三上民部卿三上守順を使者として、附弟叔父の御服料として五百疋贈って来た。

 また、智恵光院、不断光院から巻敷を進上されている。

 夜になると、曾祖母徳大寺女中がやって来たのであった。



 細川高国と細川澄元の戦が行われ、細川高国方には伊賀仁木氏など近衞家と交流が深い武家衆が参陣している。近衞家にとっては、細川高国に勝ってもらわなければならず、戦勝祈念の祈祷なども行っていた。

 細川澄元と三好之長が死んだとの風聞に祖父たちは糠喜びしていたものの、虚報と分かり落胆していたが。


 叔父大覚寺義俊の病気が一応は回復し、季父久我晴通の色直しが行われた。

 近衞家家中の雰囲気も、多少は良くなった気がする。

 叔父に対して、祖父は大覚寺附弟などと言ったり、大覚寺から叔父への御服料が贈られているので、最近になって叔父が大覚寺の附弟になったのだろうか?


 取り敢えず、身内の慶事や快復によって、近衞家の雰囲気は良くなりつつあるが、年が明ければ、どうなることだろうか?

 来年への不安を懐きつつ、年明けを迎えるのであった。

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