第14話 生見玉と祖母の帰宅(永正16年7月)

永正16年7月


 7月になり、生見玉イキミタマが行われる時季となった。生見玉は、生盆とも呼ばれ、両親の揃った者の盆、活きているミタマに供養する作法と定義付けられてている。

 室町時代の生見玉は、盂蘭盆会の御祝いと同様、盂蘭盆会とは別個に人々が集まり祝いの行事であった様だ。

 そのため、7月は出家した近衞家一門から生見玉の贈り物が増えることとなる。祖父近衞尚通とともに会食を行うこともある様だ。


 1日、一乗院良誉大叔父並びに奥御所より生見玉を贈られている。

 また、飛鳥井賴孝の母から、祖母北政所へ瓜一蓋を贈られた。


 2日、祖父は、少弼富小路資直の許へ、叔父大覚寺義俊へ促進上された良薬

の薬代として百疋を遣わしている。

 また、前日の返礼だろうか、飛鳥井賴孝女中に鮑一折遣わしていた。


 3日、民部大輔細川高基もとへ鯉二を贈っている。

 徳大寺実淳曾祖父からスズキ一贈られた。夜に曾祖父が方違かたたがえに来たからだ。

 方違とは、外出や造作、宮中の政、戦の開始などの際、その方角の吉凶を占う。そして、その方角が悪いと一旦は別の方向に出かけ、目的地の方角が悪い方角にならないようにしたものだそうだ。

 外出または帰宅の際、目的地に特定の方位神がいる場合、一旦は別の方角へ行って一夜を明かす。そして、翌日に違う方角から目的地へ向かって禁忌の方角を避けるらしい。

 要は、曾祖父は方角が悪いためか、近衞家に泊まりに来たのであろう。

 曾祖父徳大寺実淳は新造の間で、曾祖父近衞政家後室である飛鳥井政親女と雑談をしたのであった。


 4日、京兆細川高国母より瓜一蓋が贈られる。京兆の母も近衞家−特に祖母−と遣り取りが多い。


 5日、大祥院(近衞政家女むすめ)から生見玉を贈られている。


 6日、仁木右馬助仁木高長女中(徳大寺実淳女むすめ北政所祖母の妹)が祖母のいる産所を訪れた。姉である祖母を見舞いに来たのだろう。祖母はまだ屋敷に戻れていないので、妹の見舞いは嬉しいに違いない。


 7日、正受寺より生見玉を贈られる。


 8日、近衞家では和漢会が催された。朝蔵主東啓瑞朝など公家衆、僧、連歌師が参加している。


 9日、美濃の家領について宗碩より、申し送るため、祖父の元へ宗碩が訪ねてきた。美濃国の家領とは、どこについてだろうか?年貢が未進の荘園ばかりだろうが。祖父は細部について家族に語ることはなかった。



 11日、漸く祖母の忌明けである。祖母は朝になると食事のために屋敷へと戻ってきた。

 祖母と側仕えの家女房たちは、赤子の季父久我晴通を連れて戻っている。


 私は、季母慶寿院に連れられて、季父の姿を観に、祖母の元を訪ねていた。


「愛らしい男子ですこと。多幸丸にとって、この子は季父に当たりますれど、歳は下であることには変わりありませぬ。其方も面倒を見るのですよ」


 季母は、季父を可愛らしいと褒めると、私に対して姉ぶって、年下の季父の面倒を見る様に言付けた。季母のその姿に、祖母や家女房たちは微笑みを浮かべている。祖母も季母の言に同意する様に、私にも季父を構ってやる様に申し付けたのであった。


 宝鏡寺、継孝院、智恩寺と言った祖父女叔母たちも、近衞家へ生見玉を贈っている。

 また、興福寺の喜多院空実から、灯籠二が贈られるた。


 13日、生見玉を聖護院道増叔父より贈られている。


 14日、祖父は禁裏に対して、先日贈られた盂蘭盆灯籠の内、一つを進上した。興福寺側も一つは禁裏に進上されることを企図していたのかもしれない。


 16日、近衞家では和漢聯句会が催される。今回と言うか毎回、朝蔵主と言う人物が参加しているのが気になった。


 17日、祖父は飛鳥井雅綱に鞠庭の松を整えさせている。鞠をするための庭であるから、近衞家で蹴鞠を取り仕切ったりしている飛鳥井家に任せるのが良いのだろう。

 訪問客は和泉守護高基、高倉範久が来たそうだ。

 そして、京兆の使者として、斎藤甲斐守斎藤貞船がやって来て、丹波瓜を贈られる。

 18日、典厩細川尹賢から丹波瓜を贈られる。昨日、京兆の使者が丹波瓜を贈ってきたが、それと連動しているのだろうか?

 荻野宗観と言う人物も瓜を二籠進上したそうだ。

 そのため、近衞家は瓜が多いことから、私たちにも瓜が与えられた。暑い夏には、瓜が格別である。しかし、前世である21世紀のフルーツを知っている身としては、スイカやメロンに比べるべくも無い。前世のフルーツが懐かしくなってしまったのであった。


 19日、祖父は典厩を招いたそうで、彼は献料として二百疋を贈ってくれたそうだ。

 夜に典厩と戸部細川高基の兄弟ががやって来る。典厩は両種三荷を持参したそうだ。

 祖父は、北政所祖母継孝院叔母を酒宴に同道させている。

 典厩は御太刀を祖父に進上し、北政所に五百疋の折紙を進上したそうだ。細川尹賢は、かなり豪勢な振る舞いをしたのだと、伝え聞いた話に驚くこととなった。やはり、細川典厩家ともなると、かなり豊かなのだろうと感心させられる。

 豊かな細川高国一族と深く交流することで、近衞家は乱世においても他家に比してマトモな生活を営めているのだと実感した。その様に当主として家を導いているのが祖父である。私は祖父に対して、尊敬の念を新たにしたのであった。


 21日、久我女中大叔母が近衞家を訪ねて来た。出産した祖母の見舞いのためだろう。大叔母はそのまま、近衞家に泊まることとなった。

 また、右馬頭細川尹賢が祖父を訪ねてきている。

 22日、久我女中は久我家へと帰っていった。

 前日に引き続き、右馬頭が祖父の元を訪れている。右馬頭は祖父に和歌の添削を頼んでいた様だ。


 25日、叔父大覚寺義俊の体調が良くなったと喜んでいたのも束の間、再び病に罹ってしまったのか、体調が悪化する。祖父は再び少弼富小路資直を召し、良薬を進上処方させた。

 26日、叔父の体調は回復せず、悪化しているそうだ。祖父は少弼を召し、進上された良薬を加減させたらしい。薬の効きが悪いから、処方の量を調整させたのだろう。


 29日、一条房家より草花を贈られる。一条房家は、摂家一条家に連なる土佐一条家の初代当主である。この時は、在洛していた様で、祖父に対して草花が贈られたのであった。



 7月になり、生見玉が行われ、出家した近衞家一門の訪問が増えた。一門からの生見玉の贈り物や親族、交流のある武家や僧などからも贈り物が贈られている。

 祖母が季父を連れて産所から屋敷に帰ってきたのは慶事と言えるだろう。私より年下である季父を何れは面倒を見ることもあるのかもしれない。

 しかし、近衞家家中では良い事ばかりでは無く、叔父大覚寺義俊の体調不良が続いている。

 叔父が早く治り、近衞家の家中が明るい雰囲気に包まれることを願うばかりであった。

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