第3話 近衞家で過ごす日々

 近衞家に生まれ、多幸丸と名付けられたものの、赤子の頃から安穏とした生とは言えなかった。何故なら、私の前世である21世紀の日本とは環境や習慣などが随分と異なっていたからだ。

 故に、赤子ながらも21世紀で成人だった私にとっては、戸惑うことが多々あったのである。


 赤子であるがため、何度か病に罹っていたが、栄養状態や生活環境が良好とは言えないので、何度か死ぬかと思った。21世紀の様な医療が受けられる訳も無く、寝具などの環境も満足なものとは言えない。

 公家衆では比較的余裕のある近衞家でさえ、21世紀に比べれば環境が整っているとは言えないので、他家や庶民はどの様な暮らしをしているのかと考えただけでも恐ろしかった。


 生まれて間もなかった頃、まだ目が開いておらず、見えないながらも母の乳と思って吸っていた。実際に、乳母の乳では無く、生母の乳ではあったのだが…。

 その後、目が見える様になると、白粉を塗っていた生母の顔を見て驚いてしまった。

 この時代の白粉の原料は水銀か鉛だ。そのため、身体には有害である。生母が白粉を塗っているので、慌てて乳房を見ると、白粉が塗られていなかったので、思わず安堵してしまった。

 この時代の女性たちは乳房にまで白粉が塗ることがある。身分が高い人ほど、その様な傾向にあるが、生母の身分が低かったことで支給される白粉の量が少なかったのかもしれない。生母の身分が低いことで、私自身の家中での地位も低いから、乳房にまで白粉を塗っている乳母を付けられなかったのは幸いであったと言えるだろう。

 水銀を原料とした有害物質を口にしなくて済んでい訳だが、白粉を顔に塗っている生母の母乳そのものが大丈夫なのか疑問に思ってしまった。しかし、生きていくために生母の母乳を飲まないわけにはいかない。早く、普通の食事が出来る様に願う日々であった。

 後に、数えで5歳になるまでは授乳されることを知って絶望することになるのだが…。生母の乳を拒絶すると、私の世話係上位の乳母に生母が叱られるので、仕方無く飲み続けることとなる。



 多幸丸に転生してから9ヶ月が経つと、私は舌足らずながらも、漸く言葉を発する様になった。本当はもっと早くから話せそうだったのだが、自重していたのだ。前世で赤子が話せるのは、早くても9ヶ月と言われていたので、その知識に合わせたのである。

 前世では、姪っ子が生まれた際に、兄がいいになったら話せる様になるのかと、ソワソワしていたので、ネットで調べたことを思い出してしまう。

 身体が未発達なせいか、それとも話し慣れていないからか、当初は舌足らずで単語しか出て来なかった。しかし、生母や乳母などの周囲の大人たちに片言ながらも話し掛けている間に、段々と話すのが上手くなっていった。

 そして、私が話せる様になったことで、大人たちとコミュニケーションをそれなりに取れる様になる。大人たちの話を盗み聞きするよりも多くの情報を得ることが出来るようになったのだ。

 大人たちに色々と気になることを問うことで、この時代の習慣や情報など、知りたかった知識を得ることが出来る様になったのである。


 私が話せる様になったことで、近衞殿での生活にも変化を齎すこととなった。

 話せる様になった私の姿を見るため、親族が訪れたり、召出される機会が増えたのである。

 祖父近衞尚通近衞稙家に会う機会は少ないものの、祖母の維子には度々召出されるのだ。それに伴って、叔母(後の慶寿院)と対面することがあった。叔母慶寿院は早く話せる様になった私を面白がって構いたがることが多い。

 祖母と叔母だけで無く、祖母の実家の親族と会う機会もそれなりにある。祖母は清華家の徳大寺家出身なのであるが、その生母である徳女中、祖母の妹で同じく清華家である久我家に嫁いだ久我女中は頻繁に近衞家の祖母の元を訪ねてくるのだ。

 曾祖母徳女中は数日おきぐらいの頻度であるが、大叔母久我女中に至っては、ほぼ毎日の様に祖母維子の元を訪ねている。大叔母は、祖母とお喋りした後、共に風呂に入って帰っていく。祖母が目当てなのか、風呂が目当てなのか分からん。

 曾祖母も近衞家の風呂に入りにくることが多く、祖母方の親族の徳大寺家は近衞家の名物である風呂をよく利用している様だ。



 父は望まずに生まれた子である私に会いたくないからか、禁裏での務めが忙しいのか、殆ど会うことは無い。

 しかし、祖父は祖母と共に対面する機会がある。祖父は太政大臣を辞任したものの、依然として近衞家の当主であり、当主としての務めで忙しいそうだ。だが、父とは経験の差なのか、家族と接する機会を設ける余裕があるのだろう。

 祖母や叔母が私に構っている横で、私を眺めていることが度々あった。


「多幸丸は賢しい子であるな。これなら仏門に入っても立派な僧になれるであろう」


 祖父は祖母の横で、私の様子を眺めながら、不穏な言葉を呟く。私が仏僧になっても問題無いだろうと認識してしまった様だ。

 私は祖父の発言に驚き、戸惑うこととなった。確かに、叔父たち近衞家の子息は、嫡男である父を除いて仏門に入っている。それが公家衆の慣習となっているのは、前世の知識で知っていた。なので、祖父が発した言葉は至極当然のことであると言えるだろう。

 私は長男であるが庶子であるため、近衞家の家督を継ぐことは殆ど有り得ない。正室との間の子でさえ、嫡男以外は基本的に仏門に入れられるのが一般的なのだから、庶子である私が仏僧になるのは、この時代の慣習として当たり前なのだ。

 しかし、私は仏僧になるつもりは無かった。斎藤大納言正義自身も出家はしたものの、還俗して斎藤道三の養子になっている。

 一説には、近衞稙家から道三に頼んで養子にしてもらったと言う話も目にしたことがあった。斎藤大納言は武芸に長じていたため、近衞家の戦力として確保しておきたいと言う思いが、近衞家にあったのかもしれない。

 そして、有利な条件で引き受けてくれた有力者が斎藤道三だった可能性もあるだろう。美濃国は位置的にも、畿内の争乱に巻き込まれづらいながらも、京からそれほど遠くないので、近衞家にとって畿内にほど近く戦力を置いて置くのに都合が良いと言える。

 足利宗家の外戚であり攝家の近衞家を政治的後ろ盾と出来ることは、斎藤道三にとってもそれなりにメリットがあったはずだ。

 各々の思惑が重なり合って、斎藤大納言は美濃国の国人となったのかもしれない。


 私は斎藤大納言として、武士になりたい。そして、近衞家と言う出自は、私の目的に利することになる可能性が高い。

 まず、私が近衞家に武士になることを認めてもらうためには、斎藤大納言の様に武芸に長じる必要があるだろう。そのため、成長に伴って、私は心身の鍛錬に励まなければならないことが予想される。

 私が武士になるためには、私が武士になることで近衞家に利益を齎すと認識させなければならない。私が武士になれば近衞家の利となると認識されれば、自ずと近衞家は私を武士とすべく、様々な手段を講じてくれることだろう。

 私が武士になっても近衞家の利にならないと判断されれば、仏門に入れられて僧侶にさせられるだけだ。


 多幸丸に転生した私は、歴史通りに生きたとしても、いずれは斎藤道三に殺されてしまうだろう。しかし、私はそんな運命を変えてみせる。

 武士として大成するためには、近衞家で過ごす期間に、どれだけ力を付けられるかにかかっていると言っても過言では無い。

 私は自身の野望のため、出来る限りのことをしなければならないと心に誓ったのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る