第2話 永正14年の日々(後法成寺關白記からの抜粋など)

永正十四年(1517)


 私は数え歳で2歳となり、21世紀で言えば乳児に該当する。乳児ともなれば、それなりに周囲の様子も見えてくるものだ。大人としての意識を有している私だと、尚更のことであろう。


 昨年末に、祖父近衞尚通が太政大臣を辞退し、勅許を賜った時から、近衞家の家中の年末年始は慌ただしさが続いている。

 正月の元旦には、禁裏での節会と小朝拝が催されるとのことで、祖父と近衞稙家は里大裏へと参内していた。公家衆や細川一族たちが年賀に訪れるなど、家僕たちは忙しなく動いている。


 2日も、公家や細川一族などが年賀にやって来た様だが、家僕の進藤長泰や近衞家お抱えの大工衆も年賀にやって来たと家僕たちが囁やいていたのを耳にしていた。

 有力な公家や武家は、お抱えの大工衆を召し抱えている。近衞家の名物である風呂も、彼らお抱えの大工衆が中心になって建造したものだ。それなりに重要な役割を担う大工衆は、流石に屋敷には上がれない様で、庭にて祖父たちと対面した様だった。


 4日には、大樹足利義稙から美物三種が贈られている。

 そして、近衞家では年始の御湯始が執り行われた。公家衆、細川一族などを含めて、多くの客が訪れている。

 その客たちの中に、薩摩の嶋津家の者も訪れていた様で、家中の者たちは珍しいことだと囁いていた。守護である奥州家当主の島津忠隆が京の都に来ていた訳では無く、在京していた一族の者が訪ねてきた様だ。


 7日は、白馬あおうま節会が里大裏にて執り行われた。元々は、天皇が豊楽院(後に紫宸殿)に出御され、邪気を祓うとされる白馬を庭に引き出し、群臣らと宴を催す行事であった。

 白馬節会が始まった当初、中国の故事に従い、ほかの馬よりも青み(鴨の羽の色)をおびた黒馬が行事で使用されていた。しかし、醍醐天皇の御代になると白馬または葦毛の馬が行事に使用されるようになる。そして、読み方のみ、「白馬あおうま」とそのまま受け継がれることとなった。これが白馬あおうま節会の由来と言われている。

 白馬あおうま節会だけで無く、公儀の重要人物の来賀もあった。細川京兆家の当主である細川右京大夫高国が年賀にやって来たのだ。細川右京兆は、近衞家と懇意にしており、彼を含めた細川一族との関係は深い。経済的にも、荘園の保護や贈答など、右京兆を筆頭に細川一族たちの恩恵を受けていた。

 細川右京兆だけでなく、轉法輪三條家の家司であり、大内家の被官である沼間右京亮敦定も太刀を進上にやって来たそうなので、大内左京大夫義興の年賀の使者だったのかもしれない。

 7日は、公儀の有力者であり、両京兆から来賀や年賀の使者が訪れる日だったのだろう。


 10日は、大樹足利義稙の御所と禁裏等に年賀等に祖父が赴いた様だ。祖父が参内している間に、公家衆などが参賀にやって来たそうだが、父が対応した様である。


 27日は、細川右京兆の屋敷にて、猿楽が催されたそうだ。大内左京兆が招かれた様で、公儀の重要人物が揃って猿楽を楽しんだことが家中で噂になっていた。


 2月13日、里大裏にて廷臣たちが主上後柏原天皇に酒饌を献上したらしい。小猿楽も催されたと、それらの様子を祖父が語っていたそうだ。

 翌14日、祖父は女房奉書(実質的な勅書)を賜り、祖父も奉答したとのことである。


 3月1日、大内左京兆の使者として、沼間右京亮が訪ねてきたそうだ。菱喰の鴨など、様々な贈り物をいただいたそうで、家中では喜びの声が聞こえた。


 23日、里大裏にて主上後柏原天皇より、廷臣たちへ酒饌を下賜されたとのこと。和歌御会も催され、祖父が読師を仰せ付けられたそうだ。禁裏に酒肴を進上し、女房奉書を賜ったそうだ。


 5月13日、祖父を含めた廷臣たちが、大和国静謐に対する御礼のために参賀している。4月に大樹が、側近の畠山順光に命じて、大和国の抗争を沈めるためと侵攻していた。畠山順光の軍勢は、大内の軍勢とともに奈良へと進軍し、一応の成功を収め、京の都へ凱旋していた。

 この参賀は廷臣だけで無く、武家の細川右京兆や大内左京兆などの武家たちも対面したらしい。


 6月23日、父が飛鳥井大納言飛鳥井雅俊の蹴鞠の弟子になった。飛鳥井家は蹴鞠の宗家であるので、攝家の子息も弟子となるのだろう。飛鳥井亞相は、頻繁に当家を訪れているので、交流は深い様だ。

 翌24日には、竹屋光継、西洞院時長、北小路俊永、進藤長英、斎藤以康など家僕たちも、飛鳥井雅俊の弟子となっている。


 8月30日、大内左京兆の申し沙汰によって、大樹の御所にて猿楽が催されたそうだ。その際に、父の蹴鞠の師となった飛鳥井亞相が初めて大樹の御相伴衆に加えられたと家中で話題になっていた。


 9月7日、父の位階の加級が勅許されたことで、家中は祝いの雰囲気に包まれている。そして、9日に父は従二位に叙されたのであった。


 10月19日、祖母の北政所徳大寺維子が伊勢国の大神宮伊勢神宮に参詣するので、近衛殿を出立した。祖母の実家である徳大寺家一族、曾祖母徳女中、祖母の妹である久我通言室の久我女中も同道している。

 西洞院時長や北小路俊永と言った家僕たちも荷を持って出立した。

 28日、伊賀国より祖母たちの一行から、書状が届き、29日に祖父は迎えの者たちを送っている。こうして、30日の夜に祖母は帰洛したのであった。


 十月三日、中風の病に悩まされていた大樹は有馬へと湯治に下向する。

 大樹が京の都を留守にすることから、不穏な噂が広まっており、主上後柏原天皇は大樹に有馬行きを延期する様に求めていたが、一笑に付して、有馬へ下向してしまう。

 それを見計らったかの様に、翌4日に大内左京兆が京の都を去り、堺に下向してしまった。その知らせを受けた大樹は、左京兆に帰洛を促すも、応じることはなかった。


 18日、鷹司禅閤政平が亡くなったそうだ。近衞家とは揉めることはあったものの、同族であるため、家中は悲しげな雰囲気に包まれることとなった。


 28日、大樹が有馬から帰洛する。公家衆が参賀に訪れ、高僧や武家衆と和歌会を催したそうだ。


 11月3日、夜に細川右京兆の女房が訪れ、祖母北政所と対面している。女性たちだけの集まりの場だった様で、その賑やかさが漏れ聞こえていた。


 9日の夜に祖母が体調を崩し、竹田道仙と言う医者を召し出し、薬を処方してもらった様だ。14日に、徳女中・久我女中の親子が当家を訪れているが見舞いのためであろう。

 19日、安芸大膳亮貞家を召し出し、祖母の診察をしてもらい、薬を処方してもらったとのそうだ。27日には、因幡堂薬師に祖母の快癒を祈願して、竹屋光継が参詣している。

 祖母の体調が悪いからか、安芸大膳亮が度々訪れて診察をしており、祖父も祖母の快復を願って、家僕を祈願のために派遣するなど、家中の雰囲気は暗い。


 12月26日、細川右京兆など様々な客が歳末の礼に当家を訪れている。年末だからか、公家衆などが風呂を借りにきたりして、屋敷の中も騒がしい。

 29日に、広橋守光の子息である兼秀が元服したため、祖父は夜に参内している。年末に祖父の参内などもあり、終わりまで家中は慌ただしい日々であった。


 幼子の身である私では、家中で大人たちが話すことでしか、世の中のことは分からないが、近衞家には頻繁に多くの客が訪ねてくる。親族や公家衆を中心に、武家衆や高僧など様々だ。

 武家衆の中では、細川京兆家当主の細川右京兆を筆頭に、細川一族が頻繁にやって来て、使者なども送ってくる。

 公儀において、細川右京兆と双璧を為す大内左京兆も本人が訪れるのは稀だが、使者は頻繁に訪ねてきていた。そんな大内左京兆が、大樹が不在の隙を突いて、堺へ下向してしまい、大樹の使者からの説得も虚しく、帰洛に至っていない。史実では、このまま帰洛すること無く、来年には帰国してしまうことだろう。


 大神宮に参宮した祖母は、帰洛した後に体調を崩してしまっている。安芸大膳亮など医者の治療や祈祷など行っていたいるが、なかなか良くならない。同じ屋敷に住んでいても、頻繁に会うことは無いが、祖母のことは心配ではある。早く治ってくれることを願うばかりだ。


 年始から年末にかけて慌ただしいものの、公家衆最高の家格である近衞家としては、当然の一年なのだろうと思い耽るのであった。

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