幼少期篇

第1話 近衞家の赤子に転生

「多幸丸様、御乳にございますよ」 


 女の声に促され、私は差し出された乳房に吸い付く。乳房からなのか、吸っている乳からなのか、何となく甘い匂いがする様に感じられる。実際に甘いのかどうかは、定かでは無い。乳を吸う自分にとって、甘いものであって欲しいという思いが、前世の自分にあるのかもしれない。

 乳を飲み終えると、諸々の処置を施され、再び寝かし付けられる。赤子の身であるため、すぐに眠くなってしまう。その様な揺蕩う意識の中で、私は自身の境遇を思い返していた。


 前世の私の最期の記憶は、真夏の暑い日に倒れ意識を失うところであった。

 再び目を覚ました時、私は赤子となっていたいたのである。私が目にした光景は、大河ドラマやテレビ番組に出てくる様な平安時代の貴族か大名の屋敷の様な場所であった。

 前世の私は、転生モノや内政チートのラノベなどを好んで読んでいたため、すぐに転生に違いないと確信したのである。よくある転生モノで、和風な世界観のファンタジーに違いないと、憧れの異世界転生だと喜んでしまった自分がいた。周囲の大人たちが話す言葉も日本語に聞こえ、わざわざ異世界の言葉を覚えなくて済んだと安堵してしまう。

 しかし、大人たちの会話を聞いていく内に、自分が想定していた異世界転生では無いことに気付かされる。大人たちの会話の端々から、前世の歴史で耳にした単語が入ってくるのだ。

 大人たちの会話から分析すると、私が生まれ落ちた場所は『近衞殿』と呼ばれている場所らしい。父は権大納言の官位に任ぜられている様で『亞相様』と呼ばれている。結果的に、私は過去の日本の近衞家の子息に生まれ変わり、逆行転生してしまった様である。

 近衞家といえば、攝家筆頭の家格であり、天皇に次ぐ貴種の家だ。要は名門中の名門である。近衞家は明治維新までは、朝廷の中心を担い、戦前には総理大臣の近衛文麿を輩出するなど、政治権力に大きな影響力を有していた。

 そんな権門の近衞家に生まれ、この逆行転生はイージーモードだと思っていた自分がいたのは確かである。しかし、大人たちから漏れ聞こえる話を聞くに連れ、情勢は想定していたよりも、芳しく無いことを聡らざるを得なかった。


 私は近衞家の次期当主である権大納言近衞稙家の長男に生まれる。そして、幼名は多幸丸と名付けられた。

 近衞家の長男に生まれたからには、何れは関白になるのだと期待していた。しかし、私は父が近衞家に仕える家女房を孕ませて生まれた子であるそうだ。

 しかも、生母は父の寵愛を受けた訳では無く、父の子作りに支障をきたさないため、性教育の手解きの相手を務めていたらしい。

 父よりも年齢が高く、家女房の中では年増の部類に扱われている様だ。出自も家女房の中では身分が低いため、妾にもなれない。

 正妻の子で無いため、私は庶子として扱われる。しかも、生母の身分が低いため、家中での扱いは低い。

 後に知ることとなるが、私に乳を与えていた女が、私の生母である。江戸時代ぐらいだと、性教育の相手が孕んだら、子を産んだら主家を追い出される様だが、室町時代末期という乱世であるため、追い出されなかったのだろう。

 そのため、生母ながら私の世話をする家女房として扱われている。近衞家は他の公家衆に比べて財政に余裕があるとは言え、厳しいのが現実だ。

 なので、私に乳を与える乳母は用意されなかった。生母の乳の出が悪く無かったのも一因である。また、身近に乳を与えられる女房もいなかった。

 この時代の授乳は数えで5歳になるまで授乳するそうなので、次の子を産まないといけない正室は乳を与えない。生母はたまたま父の子を孕んでしまっただけであり、妾でも無いので次の予定など無いのだ。

 こうして、母は同僚の乳母となった家女房とともに、私の世話をすることとなったのである。


 長男であるとは言え、庶子に生まれ、生母の身分が低いとなれば、家督を継ぐのは相当困難なことだ。

 父も数え年で15歳とまだ若く、いずれは正妻も迎えることだろう。その正妻との間に子が生まれれば、その子供が近衞家の継承権を持つこととなる。私が近衞家当主になること

わすぼほぼ無理であることは明白であった。


 近衞家当主の長男だと分かった当初は、公家の次期当主として、内政チートしてやろうと思っていたのだ。しかし、私が逆行転生した時代は戦国時代だと言うことが分かると、すんなり諦めることにした。

 鎌倉時代以降は、武士が政治権力を握っている。そして、室町時代を経て応仁の乱以降の戦国時代では、武士たちの様に武力を持つ者たちが政治権力を握り、力無き公家たちは朝廷の権威に縋り付きながら、何とか生き抜いていくしかなかった。

 応仁の乱の影響で京の都は荒れ果てており、公家たちは困窮に喘いでいる。応仁の乱以前であれば、足利公儀に媚び諂うことで、公家たちも生きていけたが、戦国時代ではそうも行かなくなった。

 攝家の近衞家はまだマシな方であり、荘園も押領されたとは言え、それなりに維持している。守護請や地方の武士たちからの付け届けなどを含めれば、公家たちの中では遥かに富んでいるのだ。

 しかし、それでもかつて近衞家が栄華を極めた頃の様な贅沢は出来ない状況であった。

 近衞家以外の公家たちなどは、攝家であっても困窮する始末であり、足利家と姻戚関係にある日野家などの極一部を除けば、貧困に苦しんでいる。


 そんな公家たちにとって厳しい戦国時代に生まれ変わってしまった訳だが、近衞稙家の庶子で多幸丸と言うと思い当たる人物がいた。

 前世はそれなりに歴史好きであり、ネット記事でも最近では取り上げられる様になった人物だ。

 近衞家の庶子でありながら、『美濃の蝮』と恐れられた斎藤道三の養子になった武将がいる。


 その人物の名は『斎籐大納言正義』


 斎藤正義は、近衞稙家の庶長子であったが、斎藤道三の養子になり、その後は東美濃に勢力を拡大していった。しかし、配下の久々利頼興に酒宴に誘われて行ったら殺されてしまった悲劇の武将である。

 斎藤正義の死は、養父の斎藤道三が仕組んだものと言われており、その理由としては、正義を殺した久々利頼興に対して報復することが無かったからである。正義の居城であった烏峰城は、道三の庶子?である長井道利の領地となった。

 斎藤正義が斎藤道三の指示で殺されたのは、正義が勢力を拡大していく上で、意見の対立が生じ、道三の意に沿わなくなっていってしまったからと言われている。美濃国の国盗りを成した道三は、養子である正義の血統が近衞家出身の貴種であることから、自身と対立する美濃国人たちに擁立されて取って代わられることを恐れて、殺させたらしい。


 養父の指示で配下に殺されてしまう人生とは、どうなのかと思うが、今はまだ多幸丸としての人生は何も決まっていない。道三の養子になるのを回避するのも、1つの選択肢である。兎に角、殺されずに何とか生きる道を探すしかない状況だ。

 このまま庶子として生きても、分家を立てるか僧侶になるぐらいしか選択肢が無い。公家が荘園を多く持ち、豊かであれば分家も許されるかもしれない。しかし、公家たちが貧しい戦国時代では、分け与える荘園も無いため、分家を認められることの方が少ない。そのため、公家たちは世子以外は寺に入れて僧侶にしてしまうのが一般的だ。

 斎藤正義も比叡山の横川恵心院に出家させられたものの、武事を好んだために還俗し、武将になったと言われている。


 まだ、私の将来の目標は定まってはいない。逆行転生したからには、生き延びるために、汎ゆる手段を尽くすべきであろう。

 取り敢えず、公家の名門中の名門の近衞家で得られる知識や教養は、戦国時代でも役に立つはずだ。どの様な状況になっても生き残れる様に、勉学と鍛錬に励むことを当面の目標に据えることにしたのであった。

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