第28話 未来(みく)4

 人は顔の表情を変えずに泣くことができるのだと初めて知った。

 涙がベッドに滴るほど零れているのに、しげちゃんは全くと言っていいほどに無表情だ。

 その顔はどす黒さも相まって、まるで死体が泣いているよう。


「しげちゃん……。涙でてる……。どうしたの、ほんとに……」

「あ、あれ……? ほんとだ……僕、泣いてる……? なんだ。なんでだ……」


 自分が泣いていることにすら気付いていなかったようで、すぐさま両手で涙を拭った。それでも涙はとめどなく溢れてくる。


「あれ……なんだよこれ……! あ、あれっ! 止まらない!」


 すると突然。


「おいッ! 止まれよっ!!」


 癇癪を起したかのように、いきなりベッドをバシンッと叩いた。 

 その手でシーツを捻り上げる。ギリギリと握り締めた。


「うっ……ううぅ……」


 目をぎゅっとつむり、歯と歯の間から嗚咽が漏れ出る。

 先ほどまで無表情だったとは思えないほど、その顔は苦渋の表情に変わっていた。


「……ぅぐ……。ぐううぅ……! ああぁっ!」

「……しげちゃん」


 そして堰を切ったように叫び声を上げた。

 男の人がこんなにも思い切り泣く姿を、面と向かって見たのは初めてだった。


「……だ、大丈夫?」


 恐る恐る声をかける。

 しかししげちゃんは私がいることなど構わず、膝に顔をうずめてひたすらに泣いた。

 ここにいられる時間は限られている。とはいえ、触れることもできない私にはどうすることもできない。

 何も出来ずにただその場に立ち尽くす私の前でえっぐえっぐと声を出し、洟をずるずると啜り、泣き続ける。

 そして、


「山瀬さん……」


 嗚咽交じりの声でしげちゃんはぼそりとつぶやいた。


「や、山瀬さん……? 山瀬さんがどうかしたの?」

「…………」


 しげちゃんは答えない。


「ねぇ。何があったの? 教えて」


 できるだけ優しい声音で聞いたつもりだったが、しげちゃんは冷たい声音で返した。


「何がこれで大丈夫だ……」

「……え?」

「……ミライ。お前の言ったことだぞ……」

「……なんのこと?」


 なに? 私が言ったこと? 


「何が山瀬さんと付き合えだ。何がデートの邪魔しろだ。……いい未来の為とか適当なこと言いやがってっ! ふざけんなっ! ふざけんなよっ!!」


 両膝にうずめていた顔をあげ、しげちゃんは私をぎらりと睨みつけてきた。

 暗闇の中でもわかるくらいにその眼は血走っている。


「な、なに……? どうしたっていうの!? 全然わかんないよ!」

「なんでも知ってるんじゃなかったのかよ! お前、なんでもお見通しの女神なんじゃなかったのかよ!」

「落ち着いてよ! しげちゃん!」

「何が女神だっ! 何が未来だっ! 何が! 何が……! ちくしょう! ちくしょうっ!! うぐっ……うぅ……!!」


 しげちゃんは私への鬱憤を爆発させ罵倒する。

 明らかに感情的になりすぎた状態だった。


 だがそれも長くは続かなかった。

 一通り喚き散らすと、今度は疲れ果てたようにぺたりと頭を垂れた。また膝の間に顔をうずめて動かなくなった。


 目まぐるしく乱降下する感情を、自身が制御ができていない。明らかな情緒不安定。


 何がしげちゃんをこんな状態にしたのか。

 私のせいだというなら理由が知りたかった。

 だが、とても声をかけられるような状態じゃなかったし、いま何を話しても私の言葉など耳に届かないと思えた。

 そんな時だった。しげちゃんは、膝に顔をうずめたまま、掠れ声で言った。


「……死んだよ」

「……え?……死んだ……?」


 何を言われているのかわからず、そのままの単語で聞き返す。

 しげちゃんは顔を上げあ。

 その顔は私をあざ笑うかのように口元を歪ませていた。まるで不気味に笑うピエロのようだ。


「山瀬さんだよ。交通事故で死んだんだ」


 暗い部屋。泣きはらした目。口元の歪んだ笑い――山瀬さんが死んだ。


 目の前で展開された異様な態度と言葉の点が、繋がった。

 それでも聞き返さずにはいられない。


「山瀬さんが死んだ……? え? 死んだ?」

「……ああ、そうだよ」

「だって、大野との契約デートを邪魔するのは成功したって! それなのに……!」

「それがなんなんだよっ! 何が成功だ……! 何がいい未来だってんだ……! 僕は……僕はお前に一体今まで何をさせられてきたんだ!」


 おかしい……そんな馬鹿な……。

 だって、


『大野に凌辱されたことが原因で山瀬さんは自殺する』


 パソコンに映るおじさんは、そう言っていたじゃないか。


 だったら、凌辱の原因となるホテル行きのデートを阻止したこの世界では、山瀬さんは死なないはず……。

 なのになぜ山瀬さんが死ぬの……?

 それに事故ってなんだ……?

 私の聞いている話とだいぶ違う。


 そう考えていた時だった――。

 ふとおじさんが言っていた言葉を思い出した。


『少しの変化程度では強力な補正力が働いて、今の僕たちの世界と同化してしまう』


 私はこの言葉から想定できる一つの仮説に行きついた。


 まさか……ここは……。

 私の生きている世界とは違う世界に分岐してはいるが、やはり山瀬さんが死んでしまう世界なのではないか、と。


 大野おおの山瀬やませさんのデートは阻止できた。

 だから山瀬やませさんはその時に凌辱されるという歴史は避けることができた。


 だがそれだけでは『山瀬さんの死』という結末的なイベントを回避しきれなかった、ということか。


 『同化』という言葉をおじさんは使った。

 だがそれは、分岐された世界と私の世界がくっついてしまう(同化)という意味だけではなく、別の世界線を保ったまま同じ結末にたどり着くという意味も込められていたのかもしれない。


 この仮説がもし当たっていたとしたら、私はとんでもない過ちを犯してしまったことに気付き、愕然とした。

 私はつまり――。


 山瀬さんが死んでしまう世界をもう一つ作り上げてしまったことになる。

 

「……し、しげちゃん」


 私は半端な覚悟でこの場所に来ていたことを心から悔やんだ。

 おじさんは山瀬やませさんの死を悔やみ、人生を掛けて勉強をした。その結果、過去に介入するシステムを一人で作り上げたのだ。

 そして死を間際にして、私に願いを託した。


 それはどれほどに悔しかったことだろう。本当は自分自身で山瀬やませさんを救う世界を作りたかったに違いない。


 私は、おじさんの思いがどれほどに切実で重いものであるかを、見謝っていた。

 もちろん今までだって責任をまったく感じていなかったわけじゃない。


 でもどこか心の中で、なんとなく面白そうだとか、若い頃のおじさんに会えるという好奇心で取り組んでいた所があった。


 何が女神様だ。何が山瀬さんと付き合えだ。

 自分の言ったことが恥ずかしい。


 私の世界の優しいおじさんに、甘え過ぎていたんだ。

 そんな気持ちで請け合っていいものではなかった。

 私は、今やっと、おじさんがお願いしたことの本当の重さを理解した。

 だから、


「しげちゃん……聞いて……」


 全部。全部話そう。


 私の世界の事、おじさんの事、山瀬やませさんに起こったことを。





 しげちゃんの反応を見ながら、一つ一つ丁寧に進めた。


 私は、未来のしげちゃんから頼まれてここに来たこと。

 おじさんはとんでもない発見をし、過去に介入するシステムを作ったこと。私はそれを使って今ここにいること。


 私のいる世界では山瀬やませさんは大野おおのが原因で自殺してしまうこと。

 しげちゃんに会いに来たのは、山瀬やませさんが死なない世界を作ることが目的だったこと。


 私の知っている限りの情報をひとつも隠すことなく話した。

 だから私のことも。


「私は、脇屋わきや未来みく。しげちゃんの姪っ子。お父さんは、脇屋わきや久志ひさしだよ。しげちゃんの高校の同級生だから、知ってるよね」


 でも、おじさんは病気にかかっており、まもなく死ぬであろうこと、そのことだけは触れなかった。


 世界が違うとはいえ、自分の未来に起こるかもしれない不幸については知らないほうが良いと思ったからだ。


 その代わり、本人には言ったことないけれど少しだけ私の想いを話した。


「私の世界のしげちゃんはね、すごく素敵な人。だから、しげちゃんはあんなにいい男になれるんだって、私はずっと前から知ってる。だってね、私が彼氏できないの、しげちゃんのせいでもあるんだから」

  

 きょとんとした表情というよりも、不審者でも見るような疑いを込めた眼差しで私のことを見るしげちゃん。


 私が何を言っているのか理解しきれないのは仕方ないと思う。納得できる人なんているわけないのもわかってる。


 それに私の言うことを聞いたあげく、山瀬やませさんが死んでしまう未来を変えることができなかったのだ。

 でも、

 

「こんな話、信じることできないよね。でもさ、私のこと見て。ほら。触ることできないでしょ? 私がこの世界の人間じゃないんだって少しはわかってもらえるかな」

「……あ、ああ……。そうだね……」


 しげちゃんはゆっくりとうなずいてくれた。

 そしてこの突拍子もない話は、意外な効果をもたらしたようだった。


 私の話に戸惑い、驚きのあまりに腫れぼったく赤い目をぱちくりさせてはいるものの、もう涙を流してはいなかった。


 その顔を伺う限り、先ほど程よりも落ち着き、すこしは冷静さを取り戻しているように見えた。

 だから私は続けた。

  

「私もね、ほんと言うと今ここがどういう世界なのかよくわかってないんだ。でも私の知ってる山瀬やませさんの死因は交通事故じゃない。だから分岐した世界にいるのは間違いないんだけど」

「パラレルワールドっていうやつ……?」

「うん。それだと思う。だけどね。私はしげちゃんが作ったシステムが示す通りにしか過去の世界に介入できないの。だからたぶんとしかいえないけどね……」

「それでも山瀬やませさんは……やっぱり同じ結果になったってこと……?」


 姪っ子を自称する女がこの場所にいることの不思議さ、その女がしゃべる訳の分からない話。

 それらに対して理解は追い付いてなくとも、私が使っているシステムを作ったのは、目の前にいるしげちゃん本人だ。


 やはり思考や発想の方向は同じ。しげちゃんは山瀬さんのことばかりを気にしている。


「……そうなるかな……」

「じゃ、じゃあ……。僕がそのシステムをこの世界で作って、またミライにお願いすれば……」


 思いついたように言ったしげちゃんだったが、はっと顔色を変えた。すぐに愕然とした表情になる。その顔を手で覆った。


「……いや、ダメだ……。ダメかもしれない……」

「え? ダメ……?」


 一人納得するようにしげちゃんはうなずいた。


「なに? 教えて」

「……華子かこ


 何故か慈悲深い目で私のことをじっと見た。その目をすっと逸らす。


「ヒサシ君のこと『もういいや』って言いだしたんだ」


 その言葉の意味がわからないほど、私は鈍感じゃなかった。


 この世界は私のいる世界とは違う。確かな変化が起こっている世界だ。

 ただそれは山瀬やませさんの死を回避するという変化ではなかっただけだ。

 それ以上のことは言いにくいのだろう、口を濁すしげちゃんに私は、


「そっか」


 とだけ答えた。


 私はいまここに実際存在しているし、この私自身には何も影響はない。だからそれ以上考えることに意味はないと、割り切るしかなかった。


 それに、しげちゃんが提案した案。この世界で過去への介入システムを制作し、私に依頼するという案は、正直なところ蓋然性がいぜんせいが低いと思えた。


 この世界のしげちゃんが科学的な大発見をして賞を取り、この奇跡のような過去への介入システムを作り上げる保証はどこにもないのだ。


 考えるなら、今ある手札でだ。

 山瀬やませさんが死なない世界を作る……それには何が必要で、今の私達には何ができるのだろう。

 どうしたらいいかわからず、二人とも沈黙してしまった。

 

「……戻れないの?」


 しげちゃんは静かに言った。


「……ん? どういうこと?」

「だから、今より前には戻れないのかなって」


 何気ない調子で言ったその言葉に、私は一つの画像を思い出した。


「あっ……!」

「ん?」

「いけるかも……!」

「過去に?」

「うん。介入ポイント……ある! 一つだけ残ってる! あっ……でもそれって……」


 そうだ。おじさんのパソコンにはまだもう一つ画像が残っていた。あの部屋全体が赤い画像が。


 あれはしげちゃんが大野おおの山瀬やませさんのデートを阻止した直後のはずだ。

 あの時点に介入すれば、まだ山瀬やませさんを助けることができる可能性はある。


 だがそれは、世界をさらに分岐させるということだ。つまり、いま目の前にいるしげちゃんの世界においては、何も解決しないことを意味する。


「わかってるよ」


 しげちゃんは悲しそうに微笑んだ。


「起こってしまったことを変えることはできない。でもミライの世界の僕が考えたのと同じことを僕はいま考えてる」

「しげちゃん……」

「そのシステム。僕が作ったんだろ? やっぱり同じ人間なんだなぁ。思いつく事は同じだ」

「できるかわからないよ……いいの……? 失敗したら……また山瀬やませさん……」

「……ミライ、聞いて。僕ね……。ユウヤ君に歯向かったことがあるんだ。あんなに怖かったユウヤ君に。たぶんミライがいた世界の高校生の頃の僕は、絶対にそんなことしなかったはずだ。それが今の僕にできたのは、ミライに会えたからじゃないかな。だったら、歴史は変えられるっていう可能性。それに僕は賭けたいよ」

「そんなことあったね……。でも、その後すごい凹んでダメダメになってたけど……」

「……そ、そうだけど……。さっきの話だと、ミライの世界の僕って、今の僕とは違って、ミライが認めるくらいイイ男なんでしょ? だったら今度こそ山瀬やませさんを守れるように、僕にもっともっと厳しく言ってやってよ。僕だって――やる時はやるはずだよ!」


 しげちゃんは吹っ切れたように言うと、少しぎこちなく相好を崩した。


 でもその顔が見れたことに、私は内心安堵していた。

 ああ。この笑顔だ――。


 もう見ることは叶わないと思っていた穏やかな笑み。

 強くて、優しくて、快活で。

 誰よりも私の味方でいてくれるずっとずっと好きだったおじさんのそれと同じだった。

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