第26話

時枝ときえだ君!』


 僕の名を呼ぶ彼女の声。

 女の子らしい、甘みがある透き通った声音でとても耳心地がよかった。


『えへへ』


 少し腰を曲げて、いたずらな笑みを浮かべる。

 さらりと流れる栗色の細く美しい髪が印象的だった。


『いいよ。許してあげる』


 ぷぅと頬を膨らませむくれる彼女は、こちらが恥ずかしくなるくらいの愛嬌があった。


『おまたせ。お願いします』


 くりっとした大きな瞳をまっすぐに向けてくれた。

 茶色の瞳は光を反射し、いつも輝いていた。


『ほんとにそれでいいって思ってるの!?』


 恋人でもないただのクラスメイトである僕を真剣に怒ってくれた。

 きっと誰よりも僕のことを心配してくれていたからだと思う。

 正義感が強くて、礼儀正しくて。

 可愛らしいルックスだけじゃない。心の美しさも持つ人だった。 


『時枝君も少しはそう思ってくれてるってこと?』


 そんなことを言うのは、実は彼女も恥ずかしかったのだろう。

 目を細めた君は、頬が紅色に染まっていた。


 茶目っ気たっぷりで、今時の高校生らしくおしゃれで。

 それでいて真面目で几帳面なところもあった。

 甘いものが大好きで、クリームを頬張る君は幸せそうで、見ている僕まで幸せな気持ちになった。


 拗ねたり。怒ったり。笑ったり。照れたり。

 記憶の中でなら、いくらでも鮮明に思いだせる……。

 ……思い出せるのに……。


 もう……思い出すことしかできないなんて――。


 規則正しく鳴り響く木魚の音にふと我に返った。

 嗚咽。すすり泣き。

 ところどころで声を上げて泣きわめく声がした。

 それがこの場の切なる雰囲気をより一層強くする。

 祭壇には微笑む彼女の写真が飾られている。

 

 山瀬さんが亡くなった――。


 どこからか聞こえてきた話では交通事故ということだった。ほんとの所はわからない。

 それにそんなことはどうでもよかった。

 結果として山瀬さんがこの世界からいなくなったことに違いはないのだから。


 そしてこの場の雰囲気が否が応でもその現実を押し付けくる。

 残った人間に対して強制的に区切りをつけさせる。その為に、このような儀式が行われるのだから。


 けれども僕の心はそれらすべてを拒否しつづけていた。

 間違いのない事実であろうとも、勝手に区切られようとも、受け入れることを拒んでいた。


 写真を目の前にしても、棺を目の前にしても、全く実感は沸いてこない。

 目に見えるモノも、届く言葉も、突く臭いも、込み上げる感情でさえも。

 受けるすべての刺激を遮断し、僕はふさぎ込んだ。


 ――彼女はまだ生きている。僕の中で。


 いつでも会える彼女との時間を、誰にも、何にも。邪魔されたくなかった。

 その場所に踏み込んで欲しくなかった。


 だが時間だけは過ぎていく、強制的に。

 どんなに悲しい出来事があろうとも、翌朝には学校が始まってしまう。

 僕の頭は思考することも、現実を受け入れることも拒否していたが、ありがたいことに体だけはいままで通り動いてくれた。


 朝起きて。準備をし。パンをかじった。学校へ足を向けていた。

 教室に入る時だけ、意識が現実に戻ってくる感覚があった。

 彼女が座っていた席に視線を向ける自分がいた。


 茫然とただ時間だけが過ぎていく。

 以前にも同じような時間を過ごしていた時期があったのを思い出した。

 僕はこの感覚を知っている――。

 そうだ。お父さんが死んだ時と同じだ。



 クラスメイトは、敢えて明るく振舞っているようなところがあった。

 腫れ物に触れないようにというよりも、彼女という存在は元からこのクラスにいなかった。今いる生徒だけだった。そんな雰囲気が暗黙的に漂っていた。

 悲しみと寂しさから皆も逃れようとしている。

 僕が知っている限り、彼女の話題をする者は一人もいなかった。


 だが何日か経った頃。

 自席から窓の外をなにともなく眺めていた時だった。


大野おおの、ちょっといい」


 その声は良く通り、僕にもはっきりと聞こえてきた。

 加えて突き刺すようなピリッとした口調でもあった。


 聞き覚えのある声音に顔を向ける。茂部もべさんがユウヤ君の横に立っていた。

 クラスメイトも彼女から発せられた只ならぬ雰囲気を察したのだと思う。

 教室中の注目がそこに集まった。

 

「なんだよ」


 ユウヤ君は席に座ったまま答えた。

 彼も茂部もべさんの口調に何かを感じているらしい。

 その返事には少しの棘が含まれていた。


 ユウヤ君は椅子の上でお尻を滑らすようにくるりと体を回し、茂部もべさんと向きあった。

 二人の視線は鋭く交錯した。


「あたし。遠回しなの得意じゃないし、そういう気分にもなれないから率直に聞く」


 敢えてなのだろうが、茂部もべさんの声は教室中に聞こえるくらいに大きく、そして低いものだった。

 何か重苦しい物がその言葉には乗っていた。


亜未あみが事故にあった日。あんた、亜未あみと会ってたよね」


 教室が一瞬にして静まり返った。

 ユウヤ君はその問いには答えない。それに対して茂部もべさんは、ユウヤ君を睨むように見下ろす。


亜未あみからLAIN来てんだよ。事故に合ったっていう日の夜、あんたに呼ばれてるから会いに行くって」

「……知らねぇよ。会ってねぇ」

「嘘」

「……は?」

「嘘ついてんじゃねぇよ、しらばっくれんな」

「……何を根拠に言ってんだよ」

「LAIN来てるって、いま言ったろうが」

「そんなん会った証拠にはなんねぇだろ」


 二人の言葉は良く研がれた刃物のように鋭利だった。

 相手の首に突きつけ、一瞬の油断を狙っているかのうようだった。

 クラスメイトは皆。二人の行く末に注視していた。

 

「……ほんと卑怯な奴だなお前。他にも証拠あんだよ。お前みたいなヤツでもよ、好きなのがいるんだよ。お前の行動をいちいち気にしてる女がよ! そいつらにも聞いたよ! 亜未あみとあんたがあの日会ってたのは間違いないって!」

「……ッ! ふざけんな! ストーカーかよ!」

「ふざけてんのはてめぇだろ! あの日、何かやったんだろ!」

「会ってねぇって言ってんだろ!」

「何した! 亜未あみに何したんだよ!!」

「いい加減にしろっ!」

「お前が付きまとってたのは知ってんだよ!」

「わけわかんねぇこと言ってんじゃねぇよ!」


 ガタン!!

 ユウヤ君は椅子が倒れんばかりに勢いよく席を立つと、茂部もべさんを押しのけるようにしてその場を立ち去ろうとした。

 だが茂部もべさんは引き下がらなかった。

 ユウヤ君の腕に掴みかかった。


「待てよ! 話しは終わってねぇっ!」

「付き合ってられっか!」


 ユウヤ君は茂部もべさんに捕まれた腕を大きく振った。

 彼女はそれほど小柄ではないが、ユウヤ君の腕力にはまったく太刀打ちできなかった。

 いとも簡単に振りほどかれ、突き飛ばされるような形で2、3歩後ずさる。机に激突して大きな音を立てた。

 だがそれでも彼女は諦めない。

 再度ユウヤ君に迫り、今度は胸倉めがけて殴るようにシャツを掴んだ。

 鋭い視線でユウヤ君を睨み上げる。


亜未あみに会ってたんだろ……ッ!!」


 感情を振り絞るようにかすれ声で茂部もべさんは叫んだ。

 目には涙が浮かんでいた。

 口惜しさと、怒りが入り混じった視線をユウヤくんに向けている。


「だ、だから知らねぇって。さっきから言ってんだろ……」


 さすがのユウヤ君も茂部もべさんの迫力にたじろいでいた。


「け、警察に……警察に行ってもいいんだぞっ!」

「……は、はは……。行きたきゃ……行けよ。相手にされねぇだろうけどよ」

「てめぇ……ッ! どうせ親父の力でもみ消したんだろ! ……なあっ! そうなんだろっ!!」

「……ッ! 離せ! 気持ちわりぃ!」


 ユウヤ君は茂部もべさんの手を乱暴に引きはがした。

 茂部もべさんはそれでもなお背後から掴みかかった。

 千切れるような声で糾弾する。

 

「待てっていってんだろッ!!」

「お前! 頭おかしいんじゃねぇのか!」

「それはてめぇだろッ! あの日、亜未あみに会って何をした……ッ! おい! 亜未あみに何したんだよっ!」


 茂部もべさんはユウヤ君の背中のシャツを引きちぎらんばかりに握りしめている。逃げることなど絶対に許さないとばかりに。


「……返せよ……! 亜未あみを返せよ……!」


 凄まじい気迫で迫る茂部もべさんだったがユウヤ君は容赦がなかった。

 体をぶんっ!と大きくひねる。その遠心力で茂部もべさんを邪険に振りほどいた。

 茂部もべさんは態勢を崩し、肩を打ち付けるようにして床に転げまわる。

 そんな彼女に対し、ユウヤ君は感情のない冷徹な目で一瞥した。


「俺は会ってねぇし、何も知らねぇ。いい加減にしろ」


 言うやスタスタと大股で歩いていく。教室から出て行った。

 その場に取り残された茂部もべさんはゆっくりと上体を起こした。

 床に座り込んだままユウヤ君が出ていったドアを見ていた。かと思うと、彼女は皆の前だというのに、


「うあぁぁーーー!!」


 大きな声で叫んだ。

 

「ちくしょう! ちくしょうっ!! ……亜未あみぃ! 亜未あみぃぃぃい!!」


 大粒の涙をぼたぼたと零し、声を上げて泣いた。

 クラスメイトはそんな茂部もべさんを遠巻きに、ただ呆然と静かに見ているだけだった。


 山瀬さんは嫌みのない素直で可愛い人だった。

 クラス委員を務めるほどに人望もあった。

 それゆえに誰からも満遍なく好かれるタイプではあったが、人気がある故に妬まれることもあったはずだ。


 でもこのクラスの中だけで言うならば、彼女のことを心底嫌いな人など一人もいなかったと思う。

 茂部もべさんがとめどなく流す涙は、担任から山瀬やませさんの死を知らされたあの日以来、誰もが口に出せなかった彼女への想いを代弁しているかのようだった。

 

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