第11話
「よし! 今日は
「ははっ! 今日も、でしょ!」
「おいおい。それじゃ俺がまるでいじめてるみたいだろ。
「はは……。うん、ユウヤ君はいつもどおり焼きそばパンで良い?」
「あ、俺、ラスク」「俺、ミックスジュース!」
注文が次々と飛んでくる。間違えないようにしなくては。
「待て待て、お前ら!
「ユウヤ君、容赦ねぇ!」
わっと笑い声が響き、ある種の連帯感に包まれる。
僕は皆の談笑を後にした。
昼休みの騒がしい廊下。身をひそめるように端っこをひっそりと歩いて、1階の売店へ向かう。
頭の中には、先ほどの彼らの笑い声がこだましていた。
でも――、
これが僕が望んだ生活。
これがあるべき姿。
そう思えば、特に不快な気持ちにはならなかった。
実際、僕は無視されることはなくなった。
その代わりに容赦のない下僕扱いをされるようになっただけのこと。
後悔はしていなかった。
一人ぼっちではない。
ちゃんとグループの輪にも、会話の輪にも入れてもらえている。
こうやってパシリをさせられるくらい、もうなんてことない。
『ユウヤ君。僕が悪かったです。ごめんなさい』
ユウヤ君に歯向かった2日後の事だ。
僕はユウヤ君に頭を下げた。
『ちゃんと謝れば許してくれるって。俺が一緒に行ってやるからよ』
ヒサシ君からの提案だった。仲裁に入ってくれるという。
彼は、僕がユウヤ君にちゃんと謝罪するよう説得をしなければならないと思っていたようだったが、それはまったくの杞憂だ。
僕はその時すでに、ユウヤ君の圧倒的な力の前に心がへし折られていたからだ。
だからヒサシ君からそういわれた時、僕は嬉しかったほどだ。
願ってもない申し出だと、思ってしまっていた。
謝罪の場はヒサシ君がセッティングしてくれた。
放課後の教室、他の生徒が居なくなるまでユウヤ君に帰るのを待ってもらうことになった。
ヒサシ君は自分で言った通り、その場に立ち会ってくれた。
まずは時間を撮って待ってくれたことに、感謝を述べた。
そして頭を下げて謝罪をした。
「こないだは、ごめんなさい」
椅子に座るユウヤ君。
立ったまま頭を下げる僕。
彼は座りながらも、僕を見下すような口調で言った。
「何が悪かったか言ってみろよ」
「ユウヤ君に歯向かったことです。あと気に食わないことをしてしまったからです」
「具体的には」
「
「……一応聞くけどよ。お前、まさか
「はい。指一本触ってないです。ほんとに音楽聞いて、話をしただけです」
ユウヤ君はそれを聞いて、ふんっと鼻を鳴らした。
声のトーンが軟化した。
「だよなぁ。
「あるわけないです。僕なんかと」
「よくわかってんじゃん。そうだよ、素直にそうしときゃあ痛い思いなんてしないんだ。人間には身分相応ってもんがあるだろ? お前と
「勘違いしてしまって……ごめんなさい。不愉快な思いをさせてしまって……ごめんなさい……」
「ははっ! はははっ! ……良いって良いってっ! わかればいいんだよ! 俺、心広いからな。許してやるよ」
「……ありがとう……ございます。ユウヤ君……」
下げていた頭をさらに深々と下げて、僕は喉から声を絞り出した。
彼は僕の肩をぽんぽんと叩いて、顔を上げるように促した。
顔を上げると、彼はいつもの優しさとさわやかさを携えた笑顔を向けていた。
勝者が敗者に向ける顔――。
僕は、その笑顔に大きな安堵を覚えた。
悔しい?
惨め?
恥ずかしい?
そんなことは一切、思わなかった。
ただ、穏便に学校生活を送ることができるなら、それだけで十分だった。
他のことは何もいらない。
だからユウヤ君に謝ったことも、卑下されるのも、まったく苦痛ではなかった。
だってそれが、本当の自分の姿なんだから。
これはある意味、かなり気楽なことじゃないか。
彼の言いなりになって、彼の望む事だけをしてあげればいいだけなんだから。
自分なんてものを出さず、ただ相手の為に、相手が喜ぶために何かをしてあげればいい。
そうすれば僕は、大きな痛みを伴わない、安定した生活を送ることができる。
なんて簡単なことなんだろう――。
所詮僕は弱い人間なんだから、強がって抵抗したりする必要はどこにもなかったんだ。
ああ。バカだなぁ――。
なんでユウヤ君に歯向かうなんてことしちゃったんだろう。
――ああ、そうだ。そうだった。
あの自称女神が突然僕の部屋に現れてからだ。
まったくなんの根拠もないくせに、無責任なことばかり言いやがって。
あいつが何を目論んでいるのかもわからないまま、なんとなくアイツの雰囲気に流されて、その言葉に乗せられてしまった。
そう言えば最近、あいつ現れないな。
一体なんだったんだ? 僕が苦しむように仕向けるだけ仕向けて、はい、さよならか? 女神じゃなくて悪魔だったんじゃないか?
悪魔っていうより悪夢だったのかもしれない――僕が作り出した幻想だったのかもしれない!
考えてみれば部屋にいきなり女の子が現れるなんて、そんなことあるわけないじゃないか。
ストレスや欲望から、単に幻覚をみていただけなんじゃないだろうか――?
「ははっ…………」
売店からの帰り道。
パンとジュースを両手いっぱいに抱えながら、笑いが込み上げてきた。
「はははっ! ははは……っ!!」
残りの高校生活はこうやって生きていけばいい。
これが僕の望む生活。これが安心。これが幸せ。
やっと……やっと……やっと気づくことができた……。
◇
押し付けられた掃除当番を終わらせ家に帰ると、家の中は暗く静まり返っていた。
母も妹もまだ帰宅していない。といっても、これはいつものこと。
母の帰りは通常19時過ぎ。
華子はそれより少しだけ早く帰ってくる。一応は母に心配をかけないよう――というよりは小言を言われないように、あんな馬鹿っぽい妹でもそれなりに計算して行動している。
部屋に入ると、僕はカバンをどさりと床に放った。
『これから毎月、会費徴取するからよ』
『……えっ……会費……?』
『お前、俺たちと一緒のグループで過ごしたいだろ? ならやっぱ経費ってもんがかかるからよお』
僕の少ないお小遣いを全部出しても、ユウヤ君は満足しないだろうけれど、きっと金額は問題じゃない。
これは彼のグループに所属しておくためのお布施。
服従を示すための上納金。
高校卒業するまで、CDやオーディオ機器は買えなくなるな。
もっと金持って来いとか言われたらどうしようか。
お小遣いの値上げを親に相談するか――いや、シングルマザーの家庭。そんなお願いはさすがに僕でも気が引けた。
バイトでも始めて稼ぐ、それが一番手っ取り早いか。
せっかく
当然だが、もうメッセージのやり取りはなくなっていた。
それはどうすることもできない『諦めの証』でもあり、『正しい状況』への服従でもあった。
そんなことを考えながら、
薄い青を背景にして、ボーカルの上半身がアップで映っている。
こちらをみつめる彼女の瞳は、今日はどこか悲しげに見えた。
ケースからCDを取り出し、体を伸ばしてプレイヤーにセット。
CDを乗せたトレイは無機質なモーター音と共に吸い込まれていく。
手を頭の後ろに回し、ベッドに横たわった。
スピーカーから流れ出る曲に、目を瞑り神経を集中させる。
誰もいないことを良い事に、音量は少し大きくした。
『どうにもならない時だってある。
思い描いていた理想と違う日だってある。
でも、何とかなる。
明日にはまた陽は登るのだから』
アップテンポな曲調に合わせ、やたらと前向きな歌詞が耳に届いた。
『何とかなる。
何とかなるさ。
だから少しずつでも前に進もう
絶望の後には必ず光が灯る』
スピーカーは心地よい音で曲を奏で、しっとりと部屋を満たしている。
セッティングは悪くない。
けれども、綺麗な歌声に乗せて届く歌詞は、まったく心に響いてこなかった。
耳ざわりの良い言葉をただ並べて作られた、薄べったい歌にしか聞こえなかった。
どの曲もどの曲も、ひどく色褪せていた。
それでも曲を流し続け、ふと気づくと、いつのまにかアルバムを一通り聞き終えていた。
部屋の中は急に静まり返った。
その静けさに現実に連れ戻され、ゆっくりと目をあける。
オーディオから発せられる仄かな光源。
摺りガラスの窓から入る人工的で暗然としたかすかな照明。
部屋の中は暗闇の重さに包まれていた。
帰ってきてから電気もつけずにいたことを、今更ながらに気づいた。
「電気」
壁のボタンをかちりと押した。
僕の気持ちを知ってか知らずか、部屋の中は空々しい明るさで包まれた。
その明かりが、いまの僕に似ているように感じた。
これが僕の望んだ生活であり。本来の姿――。
僕は今、とても平穏に暮らしている。
クラス内ヒエラルキーが最底辺だとしたって、パシリみたいな扱いをされていたって、ユウヤ君の下僕だったとしたって、それだけは疑うつもりはない。
――けれども、だったら、どうして。
どうして僕はいま、泣いているのだろう。
辛いことなんて、ないはずなのに。
望んでいた生活を、手に入れたはずなのに。
泣く理由なんて、どこにもないはずのに。
涙が勝手に溢れ出て、止まらない。
嗚咽が止まらない。
くりっとした目で僕を見る
次いで、ミライの顔も浮かんできた。
愛嬌溢れる顔でどこか親しみを込めて僕を呼ぶ。
『しげちゃんっ!』
同年代の女の子にそんな風に呼ばれたことなんてなかったから、実は少しうれしかった。
彼女はいったい何者なんだろう。なぜ僕の前に現れたんだろう。
本当は……ミライのせいでこんな風になっているんじゃないってことくらい、わかってる。
ユウヤ君が
結局のところ、ミライが現れたことなんて、僕の世界にはたいした影響がないこと。
ただ、なるべくして、この結果が生まれた。それだけだ。
僕は涙をごしごしと腕で拭った。
大きくため息をついてからベッドから起き上がる。
ぐしょぐしょになった顔が気持ち悪くて、洗面所で洗おうと思い部屋から出た。
その時だった。
「ただいまぁ」
ちょうど妹が帰ってきたところに鉢合わせてしまった。
開いた玄関のドアから
「……お、お兄ちゃん?」
不意を突かれたこともあり、僕も無意識的に
「な、なに? どしたの……?」
「ちょっと外行ってくる」
僕は洗面所に行くのをやめた。
顔を背け、妹を押しのけるようにして玄関から飛び出す。
「えっ! ちょっ! お兄ち……」
行く宛なんて決めてない。どこでもよかった。
ただこの場から離れたい。
今は誰にも、触れて欲しくなかった。
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