第10話
無い。
駄箱の中を何度も見返しても、その小さなスペースのどこにも上履きは見当たらない。
誰かが間違えて履いてしまったということもありえなくはなかったが、下駄箱の場所が決まったのは昨日今日の話しではない。
その可能性は限りなく低い。
僕に対する最近のクラス内での扱いを考えれば、これが作為的なものだという事くらい、直ぐに察しがついた。
まさかここまで陰湿なことをされるとは思っていなかった――。
上履きがなくなったという事実よりも、そのことに驚いていた。
ひんやりとした廊下を靴下のまま歩く。職員室に向かった。
「お前が間違えてどっかに入れたんじゃないのか?」
上履きがなくなったことを担任に伝え時の第一声がこれだった。
もさもさととした無造作の髪をぼりぼり掻いて、
『面倒ごとを持ってきやがった』
というそぶりを隠そうともしない担任。
そんな姿を見てしまうと、むしろ僕の方が聞きたくなる。
高校2年にもなって、下駄箱に間違えて靴を入れる生徒がいままでいたのかと。
「昨日の帰り、確かに自分の下駄箱にいれました。でも今日みたら上履きがなくなってたんです。貸してもらえたりするんでしょうか」
「貸すって言ってもなぁ……。これくらいしかないんだよ」
担任は足元にある使い古したサンダル、所謂トイレで使うようなゴムサンダルをつんつんと足でつついた。
「生徒がこれじゃあな……。購買の人に在庫あるか聞くからちょっと待ってろ。お前、金はあるか?」
「あ、はい。すこしなら」
担任は隣の机にあった電話をぐいと自分の机に引き寄せる。電話を掛けてくれた。
上履きの件を伝えると、ああそうですか、はいはい、と二言三言ですぐに電話は切られた。
「あるってよ。すぐに持ってきてくれるそうだ」
「ありがとうございます。すいません」
「でもなぁ。上履きなんてよぉ。間違えて履くとも思えんなぁ。そもそも他人のなんて履くか? 普通嫌だろ?」
「僕もそう思います」
「だろ? やっぱお前がどっかに間違えて入れたんじゃないか?」
担任は面倒そうな顔つきで、先ほどと同じことを言った。
それを見たとき、きっとこの人は何が起こっているのかを理解しているのだと悟った。
このような面倒事が発生していることを認めたくないだけだ。
上履きが紛失する。そこから簡単に想像できる結果は、学校としてはとても都合が悪いことだ。
だから、何もなかった。僕がなくした。という体裁を整えたい。
そういうことだ。
購買のおばちゃんはにこやかな笑顔と共に上履きを持ってきてくれた。
それを履いて教室に向かった。
新しい上履きはやたらと白さが目立って、固くて、履き心地は良くなかった。
そんなことがあった為に、教室に着くのがいつもよりだいぶ遅くなってしまった。
急ぎ教室に入ろうとドアに手を伸ばす。
その時だった。
ドアの窓から見えた教室内の光景に違和感を感じ、手が止まった。
ユウヤ君グループの数名と、その他にもクラスメイトの男子が窓際に集まっていた。
「おい、早くしろよ!」
教室の中から声が聞こえた。ユウヤ君の声だった。
一つの袋が教室内で舞った。
ユウヤ君はそれを無造作に片手で受け取る。
見覚えのある白い袋。以前、洋服店でTシャツを買った時に貰った袋を僕は体操着袋として使っていた。
ユウヤ君の手にあるものは、まさにそれだった。
「マジでやんの?」
「ったりめーだろ。ああいうヤツにはしっかりと教えてやらないとな」
「はは! さっすがだねぇ。ユウヤ君。正義感つえぇー!」
にやりと口元を歪めるユウヤ君が見えた。
するとピッチャーが全力投球する時のようなしっかりとしたフォームで、その袋を窓から外に投げ捨てた。
窓際にたむろっていた男子たちは、面白がるような声を上げ、次々と窓から顔をだす。
「うっわ! あそこはきつい!」「ぎゃはは! ナイスイン!」
何がすごいのかわからないが、賞賛の声と下卑た笑いがいくつも聞こえてきた。
教室内で行われたこのような嫌がらせ、いや、いじめ行為。
その決定的証拠を目の当たりにして、愕然とした。
言い得ない緊張感と恐怖心に包まれた。
だが、僕の中に生まれた感情はそれだけじゃなかった。
心の奥底に沈殿してこびりついた怒りがばりばりと剥がれる。
激情の渦となって一気に前面に躍り出た。
睨みつけながら、がらりと勢いよくドアを開け放つ。
僕が突然現れたことで、窓際に群れて面白がっていた男子たちが一斉にこちらに顔を向けた。
教室内は静まり返った。
女子は誰もいなかった。
1時間目の授業は体育。既に別のクラスで着替えをすべく移動しているのだろう。
僕は他の生徒には構わずユウヤ君だけを見据えた。
「今、何してたの?」
怒りに任せて踏み込んだとはいえ、心臓は張り裂けそうだったしキンキンと耳鳴りもする。
それでもこみ上げる感情を止めることなどできずに、言葉が勝手に喉から絞り出る。
「ねぇ!! 僕の体操着! いま外に投げてたよね!!」
気まずいとでも感じているのか、苦い表情をしているヤツもいた。
そっぽを向いて自分は関係ないとでもいいたげな表情を浮かべているヤツもいた。
でもその中でただ一人。
ユウヤ君だけは平然としていた。
「
さもあっけらかんと言った。
「下駄箱に上履きがなかった。それもユウヤ君なの?」
「……は? 証拠でもあんのか?」
「……ないよ」
「おいおい。ひどい奴だな。俺を悪者にすんな」
ユウヤ君は大仰に手を広げる。周りの男子に目配せをした。
周りからは薄い笑い声が返ってきた。
だが僕はそれでも怯まない。
「いま僕の体操着を外に投げ捨てたくせに! よく言うよ!」
「偶然だ。お前に渡そうと思ってたんだよ。つい手が滑って外に落ちただけだ。拾ってこいよ」
自分で投げ捨てておいてよくもそんな嘘をべらべらと言えるものだと感心すらしてしまう。
平然と嘘をつける人と言うのは、罪悪感を感じないのだろうか。
自分の価値観では考えられない言動に戸惑いながらも、僕はユウヤ君を睨みつける。
「……あ? なんだよ?」
だがユウヤ君はむしろ責めるような調子で言う。
「なんだよその眼。随分じゃねぇの? ……お前、俺に感謝してねぇのか? ボッチから救ってやった俺を。それに約束したよな。それを破ったの、お前だろうが」
「約束? なにそれ……そんなのした覚えないけど」
「はは! みんな聞いてくれよ! こいつ約束すら覚えてねぇ! だから駄目なんだよ、お前は!」
「僕はユウヤ君と約束なんてした覚えはない!」
「山瀬と話すなって言ったろっ!」
ユウヤ君は厳しい眼で睨み返してきた。
「こないだよぉ、見たヤツがいるんだよ」
「……なんのこと?」
「しらばっくれんな。お前と
ユウヤ君はスマホを取り出すと、ひらひらと振った。
……僕の家に来た時だ。
あの時、誰かに見られていたんだ。
「それだけじゃない。お前の家に
「あの時は
「は? 山瀬が? おいおい、マジかよ。男の家に簡単に上がり込むとか。あいつ見た目以上に軽い女なんだな」
「違っ……! オーディオ聞きたいって言っただけだよ! 皆だって、山瀬さんがそんな人じゃないことくらい知ってるでしょ!?」
「は? なに、なんなんだよ、お前……っ!
ガンッッ!!
ユウヤ君は突如声を張り上げ、近くにあったロッカーをガンッと殴りつけた。
何人かの男子は、その音にびくりと体を震わせていた。
「あいつは俺の女だって言ったよなぁッ! 俺の女を家に連れ込んでただで済むと思ってんのか! ああっ、気分悪りぃ!! お前もあのヤリマンもよぉッ!!」
ユウヤ君はずかずかと僕に近づくと、首を絞めつけるように胸倉をひねり上げる。
彼の拳が喉に食い込んで吐き気を伴う痛みが喉に突き刺さった。
僕を見下し、視線で威圧をかけてくる。
その眼は僕の記憶を抉って呼び覚ます。
純粋な恐怖の記憶が蘇る。
だけれども―――。
僕はまだ立っている。
「ヤ、ヤリマンなんて言うな!
「ああ!? んだテメェ……まさかあいつと本当にヤったのか? あのヤリマンとヤったのか!? だからそんなに庇うんだろ、あいつの事をよ! だったら何度でも言ってやるよ! ヤリマン!
どうして笑える。どうしてそんな風に言える。
無残に彼女を切り捨てる言葉の数々。許すことは到底できなかった。
胸倉のシャツを締め付ける両手を掴み返した。
「言っていい事と悪い事がある!」
僕が反撃してくることなど考えもしなかったのだろう、彼は油断していた。
ぐいと体重を乗せてその手を引きはがすと、彼はその勢いで態勢を崩してよろけた。
この時僕は、初めてユウヤ君に本気で立ち向かった。
学校で一人ぼっちになろうとも、これからまた嫌がらせがあろうとも、
ユウヤ君の事を両手でどんっと突き飛ばす。
態勢を崩していた彼は、思っていた以上にぐらぐらとよろめきながら机の列にぶつかって倒れこんだ。
机と椅子が床に擦れる音が教室内を包んだ。
「……ぃってぇ……」
抑揚のない、やけに不気味な声音。
彼は机に手をつきのそりと起き上がってくる。
机にぶつかった音で派手に倒れたように見えるが、実際は自分の足が絡まった程度。
彼がダメージを受けていないことは、僕からみても明らかだった。
「時枝ごときが……やってくれたな」
そうつぶやいた瞬間、ギラつく目で僕を睨みつけた。
そこには確かな鋭い殺意が宿っていた。
ユウヤ君は勢いよく床を蹴った。
ラグビータックルのような姿勢で突進してくる。
奔流のような速さ。避けることすらできずに彼の肩は僕の胸にズシンと突き刺さった。
身長差が10cmほどもある彼の体格から繰り出されたタックルはすさまじい威力となって僕を吹き飛ばす。
「うわぁっ!」
情けない声を上げた僕は、さながらおもちゃ人形のように四肢を宙に放り投げた後、床の上を転げまわった。
がしゃん!がしゃん!とけたたましい音だけが耳に聞こえた。
何が起こったのか理解が追い付かなかった。
ただ頭や腕、そして背中を強打したことは、激痛によって理解ができた。
僕は一瞬のうちに机と椅子の中に埋もれていた。
「立てよ。立場ってもん、わからせてやるよ」
目の前にはユウヤ君がいた。
顎を上げ、汚いモノでも見下すかのように僕をみている。
体の痛さよりも、その眼の中に潜む荒々しいまでの差別的な光が体をこわばらせた。
でも――、
「山瀬さんを悪く言うな……。山瀬さんはなにも悪くない……!」
机や椅子を押しのけ、こぶしを握り締めると立ち上がる。
ユウヤ君を睨み返す。
しかし彼は僕の言葉など聞こえていなかった。
それに僕が睨みつけたことなど何の意味もなしていなかった。
僕が立ちあがった瞬間。
彼は一気に詰め寄りこぶしを振り上げた。
――顔を狙っている。
反射的にさっと両腕を上げ身構える。
筋トレを続けていたことが役に立ったのかもしれない。体がスムーズに動いてくれたのだ。
そしてこの時の僕は驚くほど冷静に彼のこぶしが見えていた。
だが彼は、殴り合いに関して一枚も二枚も上手だった――。
それなりに筋肉がついてきた腕。
少しくらいのダメージには耐えられると過信していた僕をあざ笑うかのように、ユウヤ君は一瞬ぴたりと動きを止めると、腕を下げた。
その一瞬後。
どすり。
強烈な衝撃が腹部を突き抜けた。
「……がああぁぁっ」
内臓がきぃきぃと悲鳴をあげた。
胃から喉、そして口内へと酸っぱい液体が上ってくる。
呼吸が……呼吸が……っ! できない……!
そうだ……。そうだった……。
彼はケガが目立ってしまう場所は殴らないのだった。
殴ったことが誰にもばれないよう、しっかりと計算して攻撃をしてくるのだった。
だから服で隠れる箇所ばかり、いつも殴られる。
ワンパターンの攻撃なんだ。
……だからといって、それがわかったところでまったくそれを防ぐことはできていなかったかもしれないが。
それは人を殴り慣れているユウヤ君と僕とでは、歴然とした差があるからだ。
そう、彼と僕は決定的な違いがある。
「小生意気にガードなんてしやがってよおっ!」
くの字に曲がった僕の体を薙ぎ払うように、彼は回し蹴りを見舞った。
その蹴りは拳とはまったく異なるレベルの衝撃となって襲ってくる。
蹴られた勢いで机と椅子に激しく衝突しながら、さながらサッカーボールのように、僕はまたしても教室内を転げまわった。
だが転げまわれた分、まだダメージが浅かったのかもしれない。
痛みとしては、腹部に食らったダメージの方が大きく、かつ苦しかった。
腹部の苦痛が激しすぎて、蹴り倒された痛みが感覚として追い付いてこない。
殺意のこもった目に、偽りはなかった。
彼は今、本気で僕をつぶそうとしているのだと、理解した。
体の大きさ、スピード、パワー、そして彼の性格的な残忍性。
戦うという事において、全く太刀打ちができない。
喧嘩は、
どれだけ非情になれるか。
どれだけ相手をつぶす覚悟ができるか。
それが勝敗の大きな要因となる。
そのような心理的なもの。
それが僕と彼との大きな違いだ。
彼は、相手を容赦なく踏み潰すことの出来る人間だ。
事実、転げて腹を押さえる僕の脇腹を彼は踏みつけた。
「二度と歯向かえねぇようにしてやるよ」
彼は自ら発したその言葉に嘘偽りがないことを証明するかのように、ぎょろりとむき出した目を向ける。
その眼の奥には、自分の言葉に酔い知れている様な恍惚とした光が見えた。
ユウヤ君は僕を踏みつける足に力を込める。
肋骨がぎしぎし軋む音が、体内から聞こえてくる。
「ぐぁぁあっ!」
……痛い、痛い、痛い、痛い……!
……ああっ………………ああ…………
……ごめんなさい! ……ごめんなさい!
やめて! もうやめてっ!
痛い……痛いよ……!!
痛みのあまり。
先ほどまであった根拠のない気勢は、とっくに挫かれていた。
その時だった。
「ユウヤ君! そろそろチャイム鳴る! 遅れるとあの先生ヤバいって!」
ヒサシ君の大きな声が聞こえた。
ついでクラスメイトのざわつく声が上がる。
確かに体育の先生はかなり厳しい事で有名な先生だった。
「……チッ!」
ユウヤ君は僕の事を踏みつけていた足をしぶしぶどかす――が、その足で僕を蹴り飛ばした。
彼の上履きのつま先が、僕の胸の上のほう、もう少しで喉というような危険な場所を直撃した。
やり取りを見物していた男子達が、あわてながら教室を出ていくのが見える。
ユウヤ君もそれに交じって駆け足気味に教室を出て行った。
突如として誰もいなくなった教室内は一気に静まり返った。
痛みと口惜しさ、そしてなによりも僕は――。
恥ずかしかった。
山瀬さんを悪く言うな――?
はは、ははは……っ!!
何を、何を僕は勘違いしていたのだろう。
少し筋トレした程度で大きな勘違いしてしまっていたのかもしれない。
筋肉がついてきたことで自分が強いとでも思ってしまったのかもしれない。
何が『新しい自分』だ、何が『イイ感じ』だ、何が『高揚感』だ。
――――恥ずかしいにも程がある。
僕はユウヤ君に、まったく太刀打ちができなかった。
立ち向かって良い相手じゃないんだってことが、はっきりと分かった。
元々僕は、彼のしもべだったじゃないか。
そうだよ――。
彼が気持ちよく学校生活を送れるようにしてあげる。
そうすることで僕も普通の生徒のように学校生活を送ることが出来る。
お互いがそれで成り立つ共依存的な、そんな関係だったじゃないか。
今まで通りにすればいい……それだけだ……それだけでいいんだ。
僕はどこで間違ったんだ?
……ああ、そうだった。
ミライ……。
アイツだ。アイツの言葉に乗せられて、調子に乗ってしまったんだ。
今まで通りに暮らしていれば、こんなに……こんなにも痛い思いをせずに済んだっていうのに……っ!!
教室の床に転がりながら、何に対してかもわからない涙があふれてきた。
キンコンカンコンとチャイムが鳴っている。
規則正しく鳴り響くその音は、やけに大きな音となって耳にこだまして、不愉快極まりなかった。
頬を伝う涙。喉から突くようにこみ上げる嗚咽。
床に転がったまま身を丸くして、ひとり教室で泣き続けた。
涙が止まるころ、遠くの方から生徒の騒がしい声が聞こえてきた。
やっとのことで起き上がると、教室を後にした。
何もかもがどうでもよくて、自然と足は校門に向かっていた。
そしてさっき通ったばかりの道を戻っていく。
この日僕は――。
人生で初めて学校をさぼった。
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