第5話
昨日と同様にすぐに帰宅する気にはなれず、今日は自宅マンションの階段に座り込んでいた。
夕方という時間帯のせいかもしれないが、たまに数名の子供が騒ぎながら通路を走る音がどこからか聞こえてくるが、それ以外の人通りは多くない。
膝に顔を埋め大きなため息をひとつ吐いた。
昨日とは明らかに違うことが一つあった。体のどこもかしこも痛いことだ。
その痛みが今日のユウヤ君の暴行の激しさを物語っている。
脇腹を蹴られた時の痛みが、特に酷い。触らなくてもズキズキと痛む。
そんな中でも幸いなこと――とは言いたくないが、顔には怪我がなかった。
これならば暴力を振るわれたことは、家族にはバレないだろう。
――いや、違う。
『誰にも言うんじゃねぇぞ』
ユウヤ君はそう言った。
きっと彼はケガをしても目立たない、そんな所ばかりを狙って計算ずくで僕に暴力を振るっているのだ。
見える所にケガや痣があれば、殴られたことなどすぐに周りが気づき、騒ぎになってしまう。
だからユウヤ君は服で隠れる場所しか、殴らない。
……なんで、なんでこんなことになってしまったのだろう。
ユウヤ君が昔の恋人にフラられたことを
たったそれだけ。
たったそれだけの些細なことだった。
たとえユウヤ君が
リーダー的で包容力があり、かつ優等生気質のユウヤ君。
そのイメージは僕の中で大きく崩れ去った。
異常者なんじゃないかとすら、いまは思えている。
そうだ。あの自称女神のミライが言っていた。
『言っとくけど、これからもそういうの続くよ』
その言葉は当たっていたようだ。
僕の力だけではユウヤ君にはどうにも対抗しきれない。
誰かに、例えば先生に相談をしたほうがいいのだろうか……。
だが、僕とユウヤ君では周りの目、つまり周囲の人からの信頼度が違いすぎる。
彼は、表向きは超が付くほどの優等生。
先生からも信頼が厚い。
対して僕はヒエラルキー的に言えば底辺の生徒であり、目立つような特徴は特にない。
先生からしたら、良くも悪くも大して気に掛ける存在ではないだろう。
動画や写真による証拠でもあれば、このような状況であることを説明もできるだろうが、それがない今、僕がユウヤ君に暴力を振るわれたなんて訴えても、彼がしらばっくれれば誰も信じてはくれない。
ユウヤ君の暴力を証明できない以上、誰かに相談するのは危険すぎると感じた。
相談して解決すればいいが、解決できなかった場合、僕はより一層ユウヤ君から痛めつけられるだろうからだ。
それに当然だが、ユウヤ君のグループにいさせてもらうことはできなくなる。
それは学校で一人ぼっちになるということを意味しており、友好関係を築くことができない、周りと馴染むことのできない、コミュ障の寂しい奴だと思われるということでもある。
ただでさえぱっとしない僕がそんなキャラ付けをされてしまったら、きっと気持ち悪がられて避けられるようにもなる――。
陰キャという自覚はあるけれども、自分で思っているのと他人から思われるのは別だ。
正直、そんな風に思われるのは嫌だ……辛すぎる。
「はぁ……」
大きなため息が零れた。
ここにずっと座っていても仕方ない。痛みを我慢しながら立ち上がり、家に向かった。
玄関で靴を脱ぐと、逃げるように自分の部屋に入った。
妹はまだ帰ってきておらず、誰にもこの姿を見られることはなかった。
部屋に入り電気をつけると、ウェットティッシュで制服やシャツを拭いた。昨日も同じことしたな。
用具倉庫の裏で転げまわった時、もしくはユウヤ君に足蹴にされた時についた泥は、ひどくこびりついていた。
ごしごしと拭くも、汚れが目立たなくなるまで拭き取るのは大変だった。
もしこんなものをお母さんに見られたら、学校で何かあったとすぐにバレてしまう。
そして学校生活を上手くできていない僕の事を責め、大騒ぎするに違いない。
『なんであんたは上手くやれないの!? お父さんそっくりじゃない!! そんなんだから成績だってあがらないのよ。社会に出てもいい会社に入れっこないわ! もっと勉強しなさい!』
昔からこういう怒り方をする。
お父さんを引き合いに出して感情的に怒るお母さんが
僕のことよりも、もうこの世界にはいないお父さんを悪く言わないで欲しかった。
せめて心の中だけでも、生きていた日の大好きなお父さんのまま、残しておいて欲しかった。
こんなことを考えていたら、気持ちがどんどん暗くなってきた。
一人きりの部屋で、僕はつぶやいた。
「……なんで。……なんでこんなことになっちゃったんだよ……くそっ」
「別にしげちゃんは悪くないんだけどねぇ……」
「そうなんだよ、僕はなにもして……わぁああっ!!」
肩越しからぬぅっと出てきた顔に反射的に叫び声をあげた。その場から飛びのいた。
ばっと振り返る。アイツがいた。
そう、自称女神のミライだ。
「な、なんだよっ! ミライか! 突然出てくるのはやめてくれよ! 心臓破裂するかと思ったぞ!」
今日は女神というにはあまりにカジュアルな服、シャツとデニムパンツを着ている。
女神って……デニムとかも履いたりするのか? もっとこう……ふわふわとしたドレスみたいなの着ているもんじゃないのか?
いや、そうじゃない。そもそも女神設定が間違っているんだろうな。
「あはは! 動きおもろっ! しげちゃん、驚きすぎだって!!」
驚きおののく僕を、ミライはけらけらと楽しそうに笑っている。なんだこいつ。正確悪いな。
「ふざけんなよ。誰もいないはずの部屋でいきなり後ろから声かけられたらびっくりするだろ。なんなんだよお前」
「ええぇ……なんなんだよって……昨日も会ったじゃん。女神のミライだよぉ、もう忘れちゃった?」
「そうじゃなくて! なんでまたいるんだよってこと!」
「えひどっ! また来るの? って聞いたの自分じゃん。私も行くっていったし」
「た、たしかに言ったけど、ほんとに来るとはおもってなかったっていうか……とにかく、突然はやめてくれよ! 寿命が縮むから!」
「ふふ、ごめんごめん。じゃあ、ちゃあんと挨拶しようかなぁ。こほん……可愛い女神! ミライさん登場だぞっ!」
人差し指と中指でVサインを作ると、目に当てた。
しかもウィンク付きだと……?
「……ねぇ、ちょっと。何よ、その眼」
「いや別に……そのポーズとテンションがかなり気持ち悪いなって思っただけで……」
「おっと! ひどい事言うねぇ! でもここでは私のワンダフルでセンセーショナルなセンスはわからないだろうからね。仕方ないね」
「……ちょっと何言ってるのかはわかんないけど……。なに? 今日は何の用? 僕あまり余裕ないんだけど」
「私が来たんだから、やる事はきまってるでしょ。幸せな未来に近づいたか状況確認よ。何か進展あった?」
「昨日の今日であるわけないだろ。……あ、そういえば山瀬さんとは少し話したか……」
「お! やったじゃん!」
「でもその代わりにユウヤ君にまた暴力振るわれたよ……散々だ……」
「あちゃ、大野からのいじめ、エスカレートしてるねぇ」
「なんだよそれ、他人事みたいに気軽に言うなよ……」
いや実際のところミライからしたら他人事なんだろうけども。
でもこの時ふと思った。そうだ、僕の身近には相談できる人はいないが、この得体の知れない自称女神になら、ユウヤ君からの暴行について相談くらいはできるのではないかと。
「その……なにかさ、アドバイスっていうの? 幸せになれるために来たっていうなら、ユウヤ君対策みたいなの、なんかないの? 女神でしょ?」
こいつが本当に女神であるとは正直なところまったく信じていないが、利用できるなら利用してやろう、そんなことを思った。
「ふーむ……アドバイスかぁ……」
「うん、女神的な素敵かつ幸せアドバイスみたいなの、ない?」
ミライはしばし、首をひねり考えていた。
そして僕のことを上から下までじろじろと僕を観察すると、ふむふむとうなずいた。
そしてなぜか見下すように僕をみる。
その足元を見ると今日もやはり床からほんの少し浮いていた。昨日は気づかなかったがその浮き方が少し不自然だ。
宙には浮いるがその足はだらんと垂れているわけではないのだ。どこかに乗っかっているかのように、足の裏でしっかりと何かを踏みしめ宙に浮いている。
ミライはそのしっかりと踏みしめている足を少し広げると、腕を組んでなんだか少し偉そうにした。
「いいでしょう。女神アドバイスをしてさしあげましょう」
「なにその言い方……めんどく、いやごめんなさい。ぜひお願いします」
「ふふ、素直が一番。いつもそうしてね。じゃあ、私からもらえる素敵なアドバイス、なんだと思う?」
「は、はぁ……? もったいぶるの? そんなのわかるわけないじゃん」
「ふふ、知りたい? 知りたい?」
体を揺らしてニマニマ笑っている。
それに合わせて長い髪が右に左に揺れて、さらさらと流れた。
くっ……こいつ! この状況を遊んでやがる……! めんどくさい……めんどくさいぞ、自称女神っ!
「早く教えてくださいよ、そういうのいいからさぁ……正直ちょっとうざい……」
「ちょ! い、いま! うざいって言った!? ねぇ! あたしの事うざいっていったでしょ!? それ女の子に一番言っちゃダメなヤツだからね!」
「じゃあ、なんでもったいぶるんだよ。女神なんだろ? 早く教えてろよ!」
「ひっどっ! そんな言い方しなくたっていいじゃん。ちょっとした遊び心なんだし!」
「あのさぁ……僕の身にもなってくれよっ! 暴力振るわれて体痛いし、心にも余裕がないんだ! もったいぶるとか意味わかんないんだよ! 遊んでるんじゃないんだ! いい加減にしてくれっ!!」
すこしだけ本気で怒ってしまった。
僕の怒声にミライは委縮してしまったようで、おびえたように少し身を引いた。
それを見て少しの罪悪感が襲ってきた。
だが、女神だか何だか知らないが、さすがに態度がふざけすぎている。そう思ったらつい感情的になってしまったのだ。
まあ、相手は訳の分からない存在だ、大して気にする必要もなかろう……と思ったが、自称女神はふるふると体を震わしていた。
顔を真っ赤にして目に涙を浮かべている。
僕は瞬時に冷静さを取り戻した。が、時すでに遅し。
「………ぇぐっ……」
ミライは嗚咽を洩らした。
「……え……そんな、泣くようなことじゃ…………」
「い、いきなりそんな大きな声で怒鳴られたら怖いじゃん……少しくらい楽しくしたいって思って、私だって頑張ってるんだもん。……うぐっ……えぐっ……」
彼女の目から涙がこぼれた。女神がぼろぼろ泣いちゃっている。
その涙は滴り落ちるほどに溢れてくる。しかし床を見るとやはり濡れてはいなかった。
だがその時の僕はそんなことは気にしていられなかった。
わけのわからない存在とはいえ女の子を泣かしてしまったことに相当焦っていた。
「ご、ごめん……! つい、感情的になって……!」
僕は頭を下げた。
お父さんがいつも言っていた言葉が頭の中を駆け巡る。
『女の子は何があっても、どんな事情があってもだ。守ってあげろ。手を上げたり、泣かすようなことは絶対にしちゃ駄目だ。女の子はどんなに強がっても男よりも弱いんだ。だからお前が守ってやれ、わかったな』
女性のほうが強いと言われる現代においても、お父さんはいつもそう言っていた。
たぶん、女の子には優しくしろよ、そういうことが言いたかったのだと思うが、僕はこの言葉を今でも忘れることができない。
「あ、あの……ミライ……ほんとごめん……」
「…………」
再度素直に頭を下げるも、ミライは返事をしてくれない。
宙に浮いているしいきなり現れる。
いろいろと普通ではないが、こうやってまじまじとみると、本当に普通の高校生くらいの女の子にしか見えなかった。
触ることはできないけれど、手でごしごしと涙を拭っているミライに手を伸ばし、彼女の肩を優しく撫でる様に手を動かした。
せめてもの慰めのつもりだった。
「……ぐすっ……ぐすっ……。……っち」
「…………ち?」
「…………えっち」
「え? えっち? …………えっ!? エッチ!?」
「しげちゃん……いま、私の体触ろうとしたでしょ……エッチ!」
頬をふくらます女神は真っ赤な眼を向けた。
「まったくっ! これだから年頃の男子は油断ならないよ! 隙を与えたらすぐこれだもの! まったくしげちゃんも男だね!」
「ちょ、ええ!? いや、僕は心配しただけで、そんなつもりはない……あ、いや、その……ほんとごめん。泣くなんて思わなかった……」
「……ぐすっ……いいよ、私もちょっと遊びすぎたし。私の方こそごめん。……ちゃんとやるね。しげちゃん、これから大変な時だもんね」
「ありがとう。僕も君……ミライ……の事、信じ……るよ」
「ほんと!? いいよ、信じて! ミライはしげちゃんの味方だからね」
先ほどまでの泣きっ面はどこにいったのか、にひーと歯を出して笑むミライ。
それは思いのほか素敵な笑顔だった。
彼女を見ていると、感情豊かで優しかったお父さんのことを思い出す。
言われてみれば、どこか似ているような気すらしてきた。
女神と言うのは嘘だろうけれど……本当に女神がいるとしたらこんな可愛い笑顔を見せるのかもしれない。
その笑顔を見ていたら、僕も頑張ってみよう、ほんの少しだけだけどそう思えた。
「じゃ……アドバイス、するね」
「うん。お願いします」
「えっとね、しげちゃん……ほんとにひょろひょろなんだよね」
「な、なに……? ひょろひょろ?」
「うん、ひょろひょろ」
「それがアドバイス?」
「ちがうよ、しげちゃん痩せてるし筋肉無いねってこと」
「ああ、そういうこと。……そう、だね。運動はあまりしてないから」
「だからしげちゃん、筋トレしたらいいんじゃないかな。……これがアドバイスです!」
「は、はあ……? なにそれ……?」
「筋トレは筋肉トレーニングのことだよ。知らないの? 筋肉に負荷をかけることで筋線維を……」
「いや、それはわかってるって……」
「わかってるなら、じゃあ筋トレ頑張って。高校生の男子っていったら人生で一番ナイスバディの時じゃない? いま鍛えなくていつ鍛えるの!? 今でしょ!?」
どっかできいたことがあるようなセリフをドヤ顔でいうミライ。
彼女の正体が予備校講師ではないと信じたい。
「筋トレか。やったことないわけじゃないんだよ。でも続かないんだ……」
「なら今回は続けようよ」
「うーん、あのさ……さっき信じるって言ったばかりで申し訳ないんだけど、筋トレっていじめと何か関係あるの?」
「あ……ありますよ! ありまくりです! 筋トレはすべてを解決してくれます!」
どこぞのトレーナーか?
なんなら少し詐欺っぽい口調だなとも思ったが、たしかにひょろひょろしているよりはしっかりとした体つきの方が強い男に見えるのは間違いない。
僕だって男だ。鍛えればそれなりになる、かもしれない。と信じたい……。
「わ、わかった。何をすればいい? どれくらいやるの?」
「どれくらいって……私はやったことないから知らないよ」
「えぇっ! それは教えてくれないの!?」
「うーん、腕立てとか腹筋とか? あとはジョギングをほどよく? みたいな?」
「ほどよくってなに……」
「たいていの女子ってムキムキよりも細くて筋肉質な感じが好きだからね。それくらいになる感じ?」
「なにそれ……全然ユウヤ君対策になってないじゃない……」
「でも筋トレはしないよりもしたほう良くない? 大野にケンカで勝てなくても、女子ウケ狙いで筋トレ。それもありでしょ。それにね……しげちゃん、間違いなくナイスバディになれるから安心して」
「ほんとかよ……いままでで一番信用できない言葉だけど、ありがとう」
「大丈夫、絶対になれるから。これは女神ワールド情報だから信じて。ある程度筋肉と体力ついてきたらきっと自信にもつながるって」
「相変わらず詐欺商法みたいだけど……わ、わかったよ。明日から頑張ってみる」
「うん、今日から頑張ってね」
「うん、明日から頑張ってみる」
「……しげちゃん……今日からね!」
僕の性格を把握しているのか、ものすごいジト目で睨まれた。
「わ、わかった! わかったって! 今日からやる!」
「よろしい! じゃ、今日はここまでだね! 絶対やるんだよ!」
「体痛いけど……頑張ってみるよ……」
「うんうん、その意気! ファイト一発だよ!!」
ミライは腕をびしりと振り上げる。
そして僕にも手を挙げるよう促す視線を送ってきた。
……圧に耐え切れず、僕もやんわりと腕を天井に向かって上げる。
ファイト一発って……。
それって僕が子供の頃にやってた栄養ドリンクのCMだっけ? と問い返す間もなく、ミライはにこやかな笑顔を残してすうっと消えてしまった。
どうにも彼女の感性は僕と少しずれている気がする。
なんともしっくりこない思いを残しながら、僕は今夜から始める筋トレの内容を考え始めていた。
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