一枚の写真
*
「本当にいいんですか? クレナさん」
「これくらいしか手伝えることがありませんから」
まだ陽の昇らない、早朝も早朝。
写真館の様子が気になるということで、遠くから見に行くという話になった。
情報屋からセイラは動けないので、何かあったときのためにポムも情報屋に残った。
そこで、クレナはヒューゴについて行くことにしたのだ。ふたりは帽子と眼鏡で変装して、大通りへと向かった。
(何事もないといいけれど)
そんなクレナの心配は見事に打ち砕かれた。
ヒューゴが感嘆を漏らす。
「見事ですね」
クレナは息を呑む。
「そんな……」
視界の奥に見えてきた写真館。窓ガラスはすべて割られ、壁には絵の具らしきものがぶちまけられていた。人が住める場所でなくなっているのは遠目に見て明らかだった。
「負の感情とは一度火がつけば、あっという間に広がるものです。さて」
ヒューゴが写真館に近づこうとせず逆方向に歩き出すので、クレナは首を傾げた。
「ヒューゴさん? どこへ」
「秘密の通路があるんです。私たちは危ない橋も渡っていますからね、念のために。ここで役立つとは思いませんでした」
クレナが案内されたのは雑木林だった。
「ここから地下を通って行きます。写真館も二階も荒らされていると思いますので、地下室だけ確認しましょう」
盛り上がった土の前の岩を難なくどけて、ヒューゴが中へと入って行く。
クレナも黙って後に続いた。
やがて入り口同様に自然な動作で出口を開けて、ふたりは地下室に辿り着いた。
土埃を払いながら、ヒューゴが部屋の灯りをつけた。どうやら写真の現像室のようで、何枚もの写真が吊るされている。
「地下室までは入り込めなかったようですね」
「……よかったです」
言いかけて慌ててクレナは首を横に振る。そして勢いよく頭を下げた。
「よくないですよね。ほんとうに、ごめんなさい。巻き込んでしまって」
「クレナさんが気に病むことはありません。いつかはこうなる運命だったのでしょう」
「いえ、わたしのせいです。わたしがポムの元を訪れなければ」
ヒューゴは俯くクレナの肩にそっと手を置いた。
「クレナさんは、この世界が狂っていると感じたことはありますか」
「え?」
クレナは顔を上げる。
「私はかつて、自分以外の人間は全員異常だと信じ込んでいました。世界が狂っていれば、いくら自分が正常でも、異常という判定を下されてしまうのが人間だと考えていました。たとえば、共に時間を過ごした相手とだって分かり合えないことはたくさんあります」
ヒューゴは穏やかさを崩さないまま続ける。
「その反対に、人生で一度きりの出逢いが、その後の人生を変えてしまうこともあります」
すっ、とヒューゴの瞳が開かれた。漆黒の闇と表現するのに相応しい色をしている。
『ふたりに出会ったとき、おれはマルスさんのおかげではじめた新聞社の仕事に、ちょっとずつ慣れてきたくらいのときだった。会社へスクープ写真を売りつけにきてたのがヒューゴで、なんとなく気が合って一緒に暮らしはじめることになったんだ』
『私にとってポムは救いですよ。君は、君の道を行けばいい』
クレナのなかに、ポムとヒューゴの言葉が蘇る。
ポムとヒューゴの間に何があったのかは分からない。
ただ、クレナは共感を覚えた。
クレナにとっても、たった数日の出来事。それでもマルスとの出逢いによって、今、ここに立っている。
(人生で一度きりの出逢い)
クレナは、口をかたく結ぶ。
「わたしにとって、それはマルスさんです」
クレナにとっても、ポムにとっても。マルスと出会ったことで、今の自分自身がいる。
言葉を受けて、ヒューゴは強く頷いた。
「いい表情になりましたね」
ヒューゴが吊るされている写真の一枚を外して、クレナへと差し出した。
「どうぞ」
「……これは」
受け取ったのは、ヒューゴに撮ってもらった写真だった。
笑って、と言われたものの表情がかたい。
(マルスさんには、程遠いな)
「ありがとうございます。いただきます」
「どういたしまして。さて、隣は食糧庫です。少しでも多く持って、路地裏へ戻るとしましょう」
「はい!」
クレナは頷いて写真をポケットにしまう。
(この街を出たら、マルスさんを探そう。あのひとの背中を追い続けるんだ)
決意を、もう一度強くして。
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