真の願い
*
ふたりは、中庭を散策することにした。
「マルスさんの故郷に一年ほどいました。皆、優しくしてくれました」
「え?」
「あなたの魔法で転移した先が、海でした」
そこがマルスの故郷だと確信したのは、雷帝の彫像が飾られていたからだった。住民たちはマルスを誇りに感じていた。
正体不明のクレナに優しく接してくれた住民たちの話。海辺での穏やかな暮らし。幼いマルスの過ごした景色のなかで、少しずつ力を蓄えていったこと。
ぽつぽつと語るクレナに、マルスは、静かに耳を傾けていた。
会話が途切れ、クレナはふと、大木を見上げた。
(そうか。ここは、ヘクセローゼの屋敷と一緒なんだ)
そしてようやく理解する。
(思い出した。あの部屋はわたしにあてがわれた部屋だった。あそこでわたしは暮らしていた)
だから、この景色にも見覚えがあった。
花の木。芝生。花壇。記憶のすべてと一致したとき、遠く声が響いてきた。
――降りられなくなったのですか?
――お兄ちゃん。こわい、助けて。
――ほら。滑っても受け止めますから。
本当にあったことかは分からない。
しかし、かつての会話が蘇ってくるようだった。
(アオイとわたしは、いつから袂を分かってしまったのだろう)
戦争が終わったとき?
ふたりの前から、ヘクセローゼがいなくなったとき?
少なくとも関係が良好な時期はあった筈なのだ。
その答えがどこにあるのか、クレナには分からない。
「……クレナ嬢?」
マルスが立ち止まり、クレナの顔を覗き込んだ。
「ごめんなさい」
クレナの頬を涙が伝った。
「どうしてクレナ嬢が謝るんだ? 悪いのはすべて僕だ」
「いいえ。マルスさんは操られていただけです。わたしが巻き込んでしまった」
「それは違う。君は、何も悪くない」
深い断言だった。
「夢を見ていたんだ」
今度は、マルスが語る番だった。
三年前。
マルスは刺された後、アオイによって捕らえられた。窓のない、明るい牢獄。
その壁にはびっしりと、軍人だった頃に殺した人々の、最愛の者の写真が貼られていた。
毎日語られたのは、残された者たちの物語。
後を追うように命を絶った者。
毎日泣きながら暮らしている者。
呪いと恨みの言葉を吐き、日々をしのぐ者。
そのすべてがマルスの心を深くえぐった。
「どんどん、自分が何を信じて、何を正しいと感じていたのか分からなくなっていったんだ。そう、例えるなら。大海に出て、羅針盤が狂ってしまったかのように」
食事が取れなくなり、眠れなくなり、呼吸さえもおぼつかなくなった。
「戦争で百人殺すことと、平和なときに一人殺すこと。どちらだって罪だ。命の重さに天秤は使っちゃいけない。僕は、取り返しのつかないことをして生きてきたんだと思い知らされた。そこから先は夢の中にいるように、自分がどんどん消えていった。君も知っているように、罪を重ね続けたんだ……」
ぱんっ!
乾いた音が中庭に響き、大木から鳥が飛び去った、
クレナの鋭い平手打ち。避けることなくマルスは左頬で受け止めた。
「それでもあなたは」
ぽろぽろと涙を零しながら。
無理やり、口元に笑みを浮かべながら。
クレナははっきりと断言する。
「わたしの英雄です」
そっと、魔法腕に手を伸ばす。
(冷たいけれど、温かい。硬いけれど、やわらかい)
どんな言葉をかけても届かないかもしれない。それでも口にせずにはいられなかった。
「わたしに喜怒哀楽を教えてくれたのは、あなたです」
「……」
ふにゃ、とマルスの表情が崩れた。
「子どもの成長ってのは、とんでもないスピードだな」
クレナと同じ、泣き笑いの表情。
「籠の鳥かと思っていたけれど、その正体は……蛹だったってことか」
マルスは屈んで、クレナの額に自らの額をこつんと当てた。
「……君に、弱いところは見せたくないな」
やわらかなマルスの声が、クレナの耳朶を打つ。
*
あのときのようにお茶を飲みましょうか、とマダム・ネルケはふたりを誘った。
客間には穏やかな光が降り注いでいる。促されて、クレナとマルスは革張りのソファに腰かけた。
使用人がパンケーキと紅茶をワゴンに載せて運んでくる。
紅茶の香りは瑞々しくも華やか。パンケーキは三段重ねで、ホイップクリームやフルーツが零れんばかりに盛られている。
マルスは紅茶に映る自らの顔をじっと見つめていた。
「……マルスさん?」
「いや、何でもない。いい香りだな」
クレナに名前を呼ばれて我に返ったように姿勢を正す。
「ビオレッタで、ポムに再会しましたよ。写真館の仕事をしているようです。仲間と一緒に暮らしていました。マルスさんに、とても感謝していました」
「あのときのスリ坊やが?」
「はい。ずっとマルスさんの話をしていました。会ったのはあの日一日きりだったけれど、恩人なんだって言っていました」
クレナは、恩人という単語に力を込める。
「……そうか……」
「わたしもポムも、あなたに出会って救われました」
勢いよく断言するクレナ。俯くマルス。
そんなふたりに、ネルケは優しく語りかけた。
「ふたりとも真面目な話はそれぐらいにして、お茶を楽しんではいかが? 紅茶が冷めてしまうわ」
「すみません。いただきます。マダムには心から感謝しています」
「堅苦しい話は、美味しいものの前では不要よ」
ネルケが片目を瞑ってみせた。
(マルスさん。もしかして、マダムの正体に気づいていない?)
クレナもネルケと視線が合う。
その瞳が黙っているようにと答えてきたような気がして、クレナは居住まいを正す。
紅茶に口をつけると、まずその香りが鼻を抜けていった。
「美味しいです。あのときと同じ、ううん、それ以上に」
「それを聞いて安心したわ」
ネルケが微笑む。
ホイップクリームの甘さと、パンケーキのふわふわとした食感がクレナの体に染み渡る。
(……セイラ。ポムたちに、わたしのことをどう話しているんだろうか)
ようやく気分が落ち着いてきたところで、クレナは再び不安を覚える。
嘘つき、とセイラは言った。その話をうのみにするかどうかクレナには分からない。
しかしポムもヒューゴもレーゲン教の信者なのだ。
(とにかく、一度ビオレッタには戻らないと。アオイと話をしなければ)
ネルケはマルスへ何かを話しかけていた。なんとか笑顔で返しているマルスを見て、クレナは内心で安堵する。
(マルスさんと一緒に行くことはできない。しばらくこの館で安静にしてもらうよう、マダムに頼もう)
密かに決意して、クレナはパンケーキを口へと運ぶ。
*
翌朝。
マルスの部屋をノックして反応がなく、クレナが扉を開けると誰もいなかった。
「陽が昇る前に出て行ったわ」
背後から告げてきたのはネルケ。クレナは肩越しに振り返る。
「おはようございます、マダム」
「レディに伝言よ。これを渡してほしい、ですって」
差し出されたのは一枚のカード。
『クレナ嬢へ。君には最大級の感謝を。マルス・トゥオーノ』
「彼はどこへ」
するとネルケは、クレナの唇へ右人差し指を当てた。そして、両手でその頬を包み込んだ。
「あなたは限りなく人間に近い魔法人形。ヘクセローゼの、最高傑作よ」
「マダム……?」
(他人行儀な言い方。初対面で気づかなかった理由。それが意味する可能性)
戸惑いながらも、クレナはひとつの答えを口にする。
「ヘクセローゼというのは、ただの名前だったのですね」
ネルケは、正解だと言わんばかりに微笑んでみせた。ふわりと花が咲くような、優雅な微笑みだった。
「レディは、魔法の正体をご存じかしら?」
まっすぐ見つめられて、クレナは背筋を伸ばした。
「目に見えるものを媒介にして、目に見えない『願い』を具現化する方法のことです」
たとえば魔女の一滴によって、クレナが人間のかたちを取っているように。
だからこそ、すべての人間が魔法を使える訳ではない。それは血筋であったり、天啓であったりするけれども、魔法を使える人間はそれだけで特別な存在となる。
「その通り。そして、一縷の望みを掴むために生まれたのが、魔法……」
ネルケの瞳に、昏い光が宿る。
「人間とは、ささやかな絶望のなかで息をしていて、何も手に入れられなくても生きていける存在であること。それを、証明してちょうだい」
老人ホームにいた女性も、目の前の富豪も。
どちらもヘクセローゼなのだ。
いや、もしかしたら。もっといるのかもしれない。世界大戦終結の立役者として活躍した、大魔女ヘクセローゼは。
各々が戦争を終わらせるために魔法を使っていたのかもしれない。だから実態が曖昧なのかもしれない。
ネルケは語らない。
だから、クレナはそれ以上尋ねることをやめた。
(マルスさん……)
流暢な筆跡のメッセージカードを見つめる。そして、額に当てて、瞳を閉じる。
(わたしのほんとうの願い。それは、あなたに再会すること)
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