殺せない

   *


(ここは……)


 うっすらとクレナは瞳を開けた。

 感覚から、両腕は背中に回され、縄で縛られているのが判る。両足も同じように縛られ、部屋の床に寝転がらされているようだった。

 最大の違和感は、服。レースをふんだんにあしらった、フリルたっぷりの白いワンピースを着せられていた。見た目重視のデザインで動きづらい。

 そもそも、両手と両足の自由はないが。


(とりあえず処刑台の上ではなさそう)


 小さく溜め息を漏らす。

 セイラはレーゲン教の信者だ。教会へ祈りに行くことだってあるだろう。セイラからアオイに話しかける機会はなくても、その逆なら考えられる。

 ……そしてアオイから話しかけられれば、『それ』を真実だと受け止めることも容易に想像できた。

 窓のない明るくて白い部屋。窓だけではなく、家具もない。

 壁の上方には人間の顔をかたどった飾りがぐるりと並んでいる。年齢や性別の設定されていない人間の顔は、表情もないために不気味さが漂っている。

 しばらくすると扉が開いて、風が入ってきた。


「三年ぶりですね、クレナ!」


 クレナは全力で眉間に皺を寄せる。

 目の前に立ったのは、アオイだった。立ち襟の、筒状にも見える白い祭服は微かに金色が輝いている。その裾には、ステンドグラスの青色と同じ模様が織られている。

 アオイはしゃがみ込んでクレナに目線を合わせてくる。雨色の瞳は歓喜に溢れていた。


「会いたかったですよ。君と再会できた今日は至上最高の日です。我が教の記念日にしてもいいくらいです」


 どこか恍惚にも取れる表情に、クレナの背筋が粟立つ。


「わたしにとっては最低の日だわ」


 声のトーンを落としてクレナは答えた。


「そんなこと言わないでください」


 くすくす、とアオイは笑みを零す。

 それから立ち上がり、クレナに背を向けると両手を大きく広げた。


「君が現れないと、雷帝は罪を重ねていくばかりだというのに」


 ぱちん。アオイが指を鳴らす。


「――!」


 影が輪郭をつくった次の瞬間、黒衣を纏った大男が現れる。


「マルスさん……!」


 これは用意されていたシナリオのひとつなのだ。クレナは転がされたまま歯ぎしりする。

 アオイは大男へ腕を伸ばし、引き寄せた。

 勢いよくフード部分を外すと、殺人鬼と化したマルスの顔が露わになった。

 短くなった金色の髪。落ちくぼんだ昏い瞳。息は粗くまるで獣のよう。


「ふしゅー、ふしゅー、……」


 白日の下に晒されたのは、変わり果てた英雄の姿だった。


「どうです、すごいでしょう! 彼にはとっておきの魔法をかけてあげたんですよ」


 歌うようにアオイが語る。


「若い女性の心臓を抉り続ける魔法。魔女の一滴を手に入れない限り止まりません」


 アオイは、さらに黒衣の首元の紐を外した。するり、とマントが外されて、右腕が露わになった。

 クレナがマルスの右腕をちゃんと見たのは初めてだった。

 深い銀色の線はまるで筋肉のように束ねられている。関節部分には同じ色の球体。その先いに、見覚えのある大きな手がついていた。


(こんなかたちで、目にしたくなかった)


 不快感ですらない感情が、クレナの底から湧いてくる。


 この魔法腕はヘクセローゼの最高傑作なのだ。

 同じく、ヘクセローゼの作品であるクレナの心臓を抉るためのものではない筈、なのだ。


「純白のワンピースが鮮血に染まる瞬間とは至高の芸術です。クレナ。貴女の血も、魔女の一滴と同じようにさぞ鮮やかな紅色をしているのでしょうね」


 クレナはわざとらしく溜め息を吐き出した。


「センスが悪すぎて、逆に感心するわ」

「体の自由が利かない状態で毒を吐くなんて。もう少しレディらしく振舞ったらどうですか」


 アオイもまた仰々しく肩を竦めた。

 応じるようにクレナはアオイを睨みつける。


「体の自由を奪った張本人が、紳士淑女論を説かないでちょうだい」

「口答えばかり。冷たい妹ですねぇ」

「残念ながら、頭のおかしい兄を持つとこうなるの」


 アオイは首を横に振った。


「魔女の一滴を手に入れさえすれば私は万能の存在となれるんです。人々を救う唯一無二の存在に」

「馬鹿馬鹿しい。三年前からちっとも成長していない、その思考回路に反吐が出る」


 クレナが毒づくと、アオイは溜め息をついた。

 それから、扉の前へゆっくりと歩いて行く。


「何も考えず私だけに従う世界を創るのです。これが、人々に与える私の『救い』」


 アオイの表情から笑顔が消える。雨の色の瞳が、絶望を帯びる。


「殺人鬼が主である魔女の亡骸を抱いて処刑台に上がる。そして私の洗礼を受け、己は自害する。人々はそんな光景を見てどう思うでしょうね? ははは!」


 扉は閉ざされ、白い部屋にはクレナと殺人鬼だけが残された。

 床に寝かされたまま、クレナは口元を歪ませる。


「呼吸が、下手になりましたね?」


 大男は答えない。

 ただ、荒い呼吸を繰り返すのみ。


(考えるんだ、わたし。今こそマルスさんを殺す絶好の機会。両手両足が使えなくても魔法は使える筈。イメージするんだ、力を……)


 クレナの思考を遮るように大男はクレナを蹴り上げた。


「がはっ」


 どんっ!

 宙に浮いたクレナへ容赦なく魔法腕が打撃を叩きこむ。

 狭い部屋の壁に打ち付けられ、クレナは仰向けに倒れた。

魔法腕が光る。処刑道具と化した右腕。かつて、クレナを守ってくれた右腕。


(わたしが。わたしが殺さなければ)


 クレナの視界が滲む。


(殺……せない……)


「ふしゅー、ふしゅー、……」


 大男はクレナを見ているけれど、見ていない。


(だって、もう一度――)


 浮かんだ感情を同時に打ち消そうとしたとき。

 容赦なく、大男の右腕がクレナへと向かう。マルスの右手がクレナの胸に触れ、標的を抉り出そうとした刹那。


『気づきましたね、クレナ。あなた自身の、××に』


 記憶の底から声が響き、光が弾けた。


   *


「ここは……?」


 瞬きしたクレナがいたのは、アオイに閉じ込められた白い部屋ではなかった。


(拘束が解けてる。しかも、さっきの声)


 自由になった体を確認しながら、空間を見渡した。少女が好みそうな可愛らしい子ども部屋だ。何故だか既視感を覚えてめまいがする。


(懐かしいにおいがした。薔薇の香り。つまり)


 答えを口にしようとしたクレナの前に、モスグリーンの優雅なドレスを身にまとった女性が現れた。

 しかし、それはクレナの予想した答えではなかった。

 かつてマルスと列車に乗ったとき、出会った貴婦人。マダム・ネルケと名乗っていた。事業家であり、ヘクセローゼのジュエリーの蒐集家でもあると。


「マダム・ネルケ……?」

「覚えてくれていたのね。とてもうれしいわ」

「あ、あの」

「ここは、あたくしの館よ。『あの子』の手は届かないから、安心してちょうだい」

(『あの子』?)


 混乱しながらも、クレナは頭を下げた。


「ありがとうございます。マダム・ネルケが助けてくださったんですね」

「マルスさんには悪い魔法がかけられていたわ。緻密で残酷な魔法。あたくしにかかれば容易に解くことができるものだったけれど」

「……え?」


 その髪に、ネルケはそっと触れる。

 まるで、子どもをあやすように。


「まだ気づいていないのかしら?」

「マダム……?」

「愛とは傷であり、空洞でもある」

「もしかして、あなたはヘクセロ」


 ネルケの指が、クレナの唇に触れた。

 茜色の瞳が妖艶な光を浮かべる。ふふ、とネルケは口元に笑みを浮かべた。


(マダム・ネルケがヘクセローゼだったの? じゃあ、老人ホームにいたのは一体、誰?)


 戸惑うクレナに、ネルケは顔を寄せた。


「ずっと待っていたの。あなたが、ほんとうの望みに気づくのを。――」


 耳元で囁かれた言葉に、クレナは反射的に立ち上がった。

 そのまま扉を開けて部屋から飛び出す。

 向かいの部屋の扉をノックする。

 こんこん、こんこん。

 返事はない。それでもクレナは、ドアノブに手をかけた。


『向かいの部屋に、あなたの望んでいた光があるわ』


(……!)


 窓が開いていて、勢いよくレースのカーテンがはためいている。

 窓の外を一人の青年が眺めていた。

 短くなった、砂色の髪。

 懐かしい、大きくて広い背中。


(そうだ。わたしは、会いたかったんだ。もう一度、マルスさんに)


 後ろ姿を見つめているだけなのに、クレナは鼻の奥が熱く痛むのを感じていた。

ずっ、と鼻をすする。

 唇が、名前のかたちをなぞる。


「マルス、さん」


(好き、です)


 名前だけを、音に乗せる。想いは秘める。


 ゆっくりと、時間をかけて。

 振り返った大男の瞳には、光が戻っていた。

 カーテンが風に歌う。

 窓辺と部屋の入口で、ふたりはかたまったまま動けない。


(世界が、明るい)


 クレナは瞬きをする。

 マルスがいなくならない。クレナの前に、確かに存在している。


(輪郭が、きらきら、光を帯びている)


 やがて、口を開いたのはマルスだった。


「……大人になったな」


 低くやわらかく落ち着いた声。

 平静を装い、クレナは一歩ずつマルスに近づいて行く。その度に、鼓動が大きく速くなっていく。


「見た目は何も変わっていないと思うのですが」


 窓辺まで歩いて、クレナは立ち止まり、マルスを見上げた。

 右手に巻いていたレモンイエローのリボンをするりとほどいて、差し出す。


「このリボンが、ずっと守っていてくれました」

「そうか」

「受け取って、くれないのですか?」

「結ぶ長さがないからな。そのまま、君が持っていてくれ」


 ぎこちない、会話と空気のまま。


「ここはマダム・ネルケの館なんだって?」


 散歩でもしようか、とマルスは提案した。

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