第二部 蛹は羽化して蝶になる

三年後

   *


 クレナがマルスと出逢ってから、三年が経った。


「号外だよー! 号外だよ! なんとこちら、我らが宗教都市ビオレッタを騒がす殺人鬼の正体だ!」


 空の色は、薄い青。

 賑やかな大通りで、軽やかに宙を舞っているのは灰色の新聞だ。人々は手を伸ばして新聞を掴むと、思い思いに話し始めた。


 ――今月に入ってもう三人も殺されている。

 ――被害者は全員若い女性だなんて。

 ――あぁ、なんとむごたらしいことだ。


 恐怖と同情と、わずかな興奮。そんなざわめきに似つかわしくない、無表情の少女がいた。


「……」


 カーキ色のナポレオンジャケット、黒色のショートパンツ。ごつごつとしたブーツも、黒。右手首には、レモンイエローのリボンを巻いている。

 クレナは他の人間と同じように手を伸ばし、号外を掴む。


「……」


 紙面に視線を落とすと、紅色の瞳は写真に釘付けになった。

 殺人鬼の正体。

 とはいえ、闇色のフードマントを被っていて特徴は全く分からない。大きな体躯だということが伝わってくるだけ。


「……」


 くしゃり。

 号外を握りしめて、紙くずとなったそれをジャケットのポケットにねじこんだ。


 賑やかな大通りから一本奥に入れば、一気ににおいが変わる。匂いではなく、臭い。鼻をつくようなすえたものや、錆びたものや、何が燃えたのか分からない煙。

 細い道の両脇には、今にも壊れそうな平屋が連なっている。ぼろぼろの服を纏った子どもが壁にもたれかかっていて、クレナが通るタイミングで弱々しく手を伸ばしてきた。老人は物乞いをする気力すらないようで、手には空になった瓶を握りしめてぶつぶつと独り言を呟いている。

 この場所はまだ、世界大戦の傷跡を深く残したままなのだ。

 平屋の並びに、唯一、外階段の備え付けられた二階建ての建物があった。

 迷うことなくクレナはその錆びた階段を昇る。錆びているだけでなく穴も開いているので、慎重に上がっていく。

 ドアノブに手をかけて、ためらいなく開けた。

 そして、少し張った、低い声で告げる。


「情報を買いに来ました」


 白熱灯に照らされているのに薄暗い室内は外とは違う静けさがあった。木製のデスクにはたくさんの雑誌や新聞紙が積み重なっている。

 返事がない。クレナは語気を強める。


「ここは情報屋なのでしょう? 売っていない情報はないと聞いていますが」


 すると、乱雑さの隙間から、丸眼鏡をかけた青年がのろりと顔を覗かせた。

 ぼさぼさの茶髪に、葡萄色の瞳。

 クレナはその組み合わせに既視感を覚えて、眉間に皺を寄せた。


「裏社会に足を踏み入れるにしては、随分と若いお嬢さんだな。どんな情報が欲しいんだ」


 ぼそぼそと喋る青年の声には男性特有の低さがある。

 また、相手も相手でクレナに対して何かしらの違和感を抱いたようだった。眼鏡のつるに手をかけて、じっと目を凝らしてくる。

 無言のまま見つめ合うこと、数十秒。


「もしかして、クレナ嬢?」


 クレナは息を呑んだ。


 その呼び方をする人間は、ひとりだけ。

 そして、それを知っているのは。


「……ポム?」


 まるで答え合わせをするように、クレナはその名前を口にした。

 警戒心に満ちていた青年の表情が、ぱぁっ、と明るいものに変わる。

 立ち上がった彼はひょろりとしていて、かつて同じくらいだった筈の背丈はゆうにクレナを超えていた。

 入り口まで跳ねるように歩いてくるポム。白いシャツ、サスペンダー、ベージュのズボン。穴の開いていない、清潔そうなぱりっと張りのある服を着ていた。


「うわ! すごい偶然だ。まさかこんなところで再会するなんて!」


 見た目も声も、クレナの記憶のなかにあるポムと一致しない。それなのに、話し方は確かにかつての少年そのものだった。


「本物だ! 本物のクレナ嬢だ。元気だった?」


 どう答えるのが最適か分からず、クレナは曖昧な笑みを浮かべた。


「マルスさんは?」

「……三年前に別れて、それきり」


 クレナは、ポムを見上げた。


(嘘はついていない。ただ、それが事実だというだけ)


「ポムは、背が伸びましたね。声も低くて、誰だか分かりませんでした」


 するとポムは照れたように髪の毛をかきむしった。


「去年あたりに、ぐぐっと。成長痛ってやつがすごくて、なかなか夜も眠れなかったんだぜ。しかもまだ伸びてんだ。おれとしては背よりも筋肉が欲しいから鍛えているんだけど。あ、ごめん。おればっか話してる」

「いいえ。わたしもこんなところでポムと会えるなんて思わなかったから、うれしいです」

「へへ。あ、敬語は止めてくれないか。知った仲だろう? ところで今日の宿は決まってる? よかったらおれの家に来ないか」


 矢継ぎ早の会話の末の提案に、クレナは瞳を丸くした。

 慌ててポムが両手を振る。


「勘違いさせたらごめん。おれん家、男ふたりと女ひとりで一緒に暮らしてるんだ。ひとりくらい増えたって平気」

「ですが」

「敬語禁止。今のクレナ嬢は、とにかく顔色が悪い。あったかいもの食えば元気になるから、まずはそれからだ。情報の話は」


(あったかいもの……)


 不意に蘇るのは、列車のなかで、三人で食べたポットシチュー。

 クレナは小さく笑みを零した。


「あのひとと、同じこと言ってる?」


 あのひと。マルスのこと。

 ポムは頷いて、葡萄色の瞳をきらきらと輝かせた。


「憧れているんだ! 会ったのはあの日きりだけど、マルスさんのおかげでこうやって生きていられる。だからおれは、あんな大人になりたい」


 捕まえて、説教した。仕事の紹介状を渡した。

 ただそれだけの、一日きりの出来事だった筈。

 それでもポムの人生にはマルスと出会った日が深く刻まれているのだと、クレナは理解する。


(笑い方も、そっくり)


 クレナは鼻の奥が痛むのを感じる。それが涙の前兆であることを今では知っているので、なんとか唾を飲み込んで堪えた。

 ポムはそんなクレナの動揺に気づく様子もなく話を進めている。


「もうすぐ帰ろうと思ってたし、今日はもう店じまい。ここからすぐだから、行こうか」


   *


 案内されたのは表通りの住宅街だった。

 小さいながらも立派な一軒家だ。黄色い壁には大きな丸い窓。そこにずらりと飾られているのは笑顔の家族写真。

 先回りするようにポムが説明する。


「一階は店舗で二階が住居。写真館なんだ」


 壁面が苔に覆われた二階には出窓があり、その上には切妻屋根が載っている。

情報屋の事務所とはまったく違う整った外観だ。木製扉の横についた小さな看板には写真機のイラストが彫られていた。


「ちなみに、今日は休館日」


 ポムが鍵を開けて中へ入る。クレナも後に続いた。


「おじゃま、します……」


 静かな店内は、整然としてきちんと片付いている。

 窓辺だけではなく、壁にもたくさんの写真が飾られていた。その誰もが幸せそうに微笑んでいる。

 足を止めて、クレナは写真を眺める。クレナの横にポムが立った。


(もしかしたら、マルスさんよりも背が高くなった?)


 クレナは考えたものの、口にしない。


「写真館と情報屋が、ポムの仕事?」

「そう。表が写真館、裏が情報屋。それから、新聞社へスクープ写真を売りつけている。街で今日、号外が配られていたのは見た? あれはおれたちが撮ったんだぜ」


 へへへ、とポムが鼻を鳴らした。

 クレナは号外をくしゃくしゃに丸めたままのポケットに触れる。


「文字、読めるようになったんだね」

「おう。ひたすら努力した。毎日泣いたぜ。一生分勉強した気がする」

「『しんどくても生きていかなきゃいけない』って、意味分かった?」

「……おう」


『読めないなら覚えればいい。それは仕事の紹介状だ。生きていく方法を知りたいなら、しんどくても生きていかなきゃいけないってことをまずは知るんだ』


 それは、三年前にマルスがポムにかけた言葉だった。


(しんどくても生きていかなきゃいけない……)


 クレナにとってもこの三年間は苦しいものだった。

 それでも、を果たすためにここまで来た。ぎゅっ、と拳を握りしめる。

 ポムが、カウンター脇の階段を指差す。


「積もる話はあとで。内階段から二階に上がるぞ」

「はい」


 昇った先の一枚扉をポムは勢いよく開けた。


「ただいま!」


 すると、部屋から階段へ向かって温かな空気が流れてきた。温かなだけではなくて、美味しそうな香りがする。

 肩越しに振り返ったポムが、階段途中に立つクレナへ手招きをする。


「ん? お客さんかい?」


 部屋の奥からのんびりとした、低い男性の声が聞こえた。

 クレナはおずおずとポムの後ろから室内へ顔を覗かせる。

 立っていたのは、ぽっちゃりとした細目の青年だった。髪と瞳の色は黒。頭には白い三角巾。白いエプロンを身に着けて、左手にレードルを持っている。

 視線が合ってクレナは頭を下げた。

 するとポムが突然クレナの後ろへ回り込み、両肩へ手を置いてきた。驚いてクレナはポムを見上げる。


「聞いてくれ、ヒューゴ。いっつも話してたクレナ嬢だ! 三年ぶりに会えたんだ。信じられるか? 情報屋の方に来てくれたんだよ!」


 満面の笑みでポムがまくしたてた。


「いつも……?」


 クレナは眉をひそめる。


(いつも、って。一体何を話しているの)


 クレナの動揺とは対照的に、ヒューゴと呼ばれた青年は、穏やかな表情を崩すことなく右手を差し出してきた。


「はじめまして。まさかお会いできるなんて光栄です、レディ。僕はヒューゴといいます。以後お見知りおきを」

「よ、よろしくお願いします……」


 クレナは応じて、ヒューゴと握手する。

 やわらかくて、温かな手。クレナの緊張が少しだけ和らぐ。

 ポムがクレナから手を離してきょろきょろと室内を見渡した。


「セイラは?」

「呼んだぁ?」


 少し鼻にかかったような甘ったるい声。奥から顔を出したのは、明るめの茶髪にくるくるとパーマがかかっている、目鼻立ちのはっきりとした女性だった。黒いワンピースの上からカーディガンを羽織っている。どうやら部屋着のようだ。

 セイラと呼ばれた女性は大きな若草色の瞳をぱちぱちと瞬かせ、クレナを認識すると口を尖らせた。


「何、その女」

「噂のクレナ嬢ですよ」

「へぇ。実在したんだ。ポムの、妄想の産物かと思ってた」


 少し眉を寄せて、セイラは頭のてっぺんからつま先までクレナのことを舐めまわすように見つめてくる。ヒューゴとは対照的な反応、つまりとても好意的には受け取れない。

 クレナへ向かって威圧感を出してくるセイラにクレナはたじろいだ。


「は、はい……?」


 一方でポムは室内に入り、ヒューゴとセイラの肩に手を伸ばすと自らに引き寄せる。


「ちょっと! 何するのよ、ポム!」

「おれたちは三人でファミリーなんだ。ラルベリ・ファミリー!」


 ポムが歯を見せて笑う。


 セイラは不機嫌そうに見えたが、ほんとうに怒っているようではなさそうだった。


「ポムも帰ってきたことですし、夕食にしましょうか。クレナさん、ビーフシチューはお好きですか?」


 ヒューゴはヒューゴで、ポムとは方向性の違うマイペースのようだった。


「はい、好き、です」

「今日は丁寧にすね肉を下処理したので、美味しいですよ。どうぞ中へ」


 クレナは流されるまま、ポム用だといういすに座らされる。客用のいすがないということで、当のポムは木箱に座った。

 落ち着かないクレナは、ヒューゴへ声をかける。


「あの、せめて何かお手伝いを」

「座ってて、座ってて。クレナ嬢はお客さんなんだから」


 何故だか止めるのはポム。セイラが、キッチンからポムを睨みつけた。


「あんたは手伝いなさいよ」

「へいへい」


 ポムがのろりと立ち上がってキッチンに向かう。

 三人の背中から伝わってくる仲の良さに、クレナは目を細めた。


(この三年間で、ポムは仲間を得たんだ)


 それは、ポムが得た答えなのかもしれない。

 クレナはそのまま瞳を閉じて、彼らの会話に耳を傾けた。

 号外新聞が撒かれたときとも、裏路地を歩いたときとも違う、温かみを感じられるやりとりだった。


「お待たせ!」

 あっという間にダイニングテーブルの上は山盛りのパンとチーズと、茹でたウインナーの皿で埋め尽くされた。スープボウルにたっぷりのビーフシチューからは湯気が立つ。

 各々が席に着き、テーブルを囲む。

 まず、ポムが両手を組んだ。


「神に感謝を」

「感謝を」


 ヒューゴとセイラも同じように祈りを捧げる。


(宗教都市らしい、食事前の習慣だ)


 クレナは祈らなかったが、三人は特に咎めようとはしなかった。

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