はじまってもいない

   *


 護身術を習いたいとクレナが申し出た翌日、マルスとクレナは店の外にいた。

 とはいえ魔法具店の裏にある庭のような場所だ。地面は雑草が生い茂り、特に手入れもされていない。


「裏庭があるなら野菜や花を育てるのもいいよな」


 何故だか自らの家であるようにマルスが頷く。


「野菜を自給自足できたら、次は鶏かな。卵は健康にいい」


 クレナは正体を明かしたとき、実は、食事を取らなくても生命活動を維持できるのだと伝えた。しかしマルスは気にすることなく、一日に一回は共に食事をしていた。


「はぁ」

「大丈夫。牛や豚を飼うつもりはない」


 クレナの生返事の理由は別のところにあるのだが、マルスは気にする様子もない。


「さて、はじめようか」


 今日のクレナはいつものワンピースではなく、ショートパンツにニーハイソックス、それから重ためのブーツを合わせている。トップスは肌の見えないハイネックで長袖仕様。

 ただ、色はやはりすべて黒。


「ここで質問。クレナ嬢は、自分の輪郭を意識したことがあるかい」

「輪郭……?」


 クレナの目の前に立ったマルスは、すっと右腕を伸ばしてきた。応じるようにクレナも腕を伸ばし、右の手のひらを合わせる。


「触れているのが、分かるだろう?」

「はい」

「これが、輪郭。自分が存在しているという証明。この輪郭を突き破って侵入させないための方法のひとつが護身術だ」


 マルスはクレナから手を離した。


「常に自分の輪郭を、――外側を意識すること」


 クレナはそっと、手のひらを頬に当てる。それから、二の腕。腰。


(からだのかたちを、意識する)


「呼吸も同じ。息を吐き出すときは、澱みごと吐き出す。吸い込むときは、隅々まで行き渡らせる。循環を意識する。そして僕たちは、輪郭を知ることができる。まずは、そこからだ」


 クレナは頷いて、瞳を閉じた。


(わたしの輪郭)


 静寂との対話。

 闇のなか。

 己を動かす心臓を、知る。それは炎。大魔女ヘクセローゼの至宝。


 ――闇のなかに、見える。

 ――燃えている。


「……ナ嬢。クレナ嬢」

「!」


 名前を呼ばれて意識が現実に引き戻される。

 マルスがぽん、とクレナの頭を撫でた。


「センスがいい。まずはその調子で、呼吸法から学んでいこう。実戦はその後だ」

「……はい!」


 クレナは腹の底から応じた。


   *


 気づけば裏庭は手入れされ、隅に小さな畑ができていた。このままだと鶏小屋まで作られそうな勢いだ。

 クレナはしゃがみこんで、指先で新芽に触れた。


(芽が出てる)


 マルスが何を植えたのかは知らないし、当の本人は今日も朝から便利屋の仕事に出ている。


(いつまでここにいてくれるんだろう)


 しゃがみこんだまま、クレナは両膝を抱える。


(アオイが魔女の一滴を諦めることはない。そういう風に創られているから、とかつてのヘクセローゼは言っていた)


 だから、クレナは隠され続けなければならないのだとも。


(今のわたしにできることは、護身術を身につけること。マルスさんの足手まといにならないように)


「……違う」


 少しでも、一緒にいる時間を作りたいのだ。

 笑顔を見たい。褒められたい。頭を撫でられたい。

 その、一方で。


(マルスさんがヘクセローゼの話をする度に息が苦しくなるのは)


 その感情に気づいてしまった。


「わたしは……マルスさんのことが、好き……?」


(だけど、マルスさんはわたしを通してヘクセローゼのことを見ているだけ)


 はじまってもいない、恋なのだ。


(ばかみたい。わたしは、魔法人形。人間ではないというのに)


 ずっとしゃがんでいると、そのまま立ち上がれなくなりそうだった。クレナは両足に力を込めて立ち上がる。

 ふわりと、新芽が揺れた。


「クレナ嬢!」

「マルスさん」


 名前を呼ばれて肩越しに振り返ると、ちょうどマルスが裏庭へ歩いてくるところだった。


(気づかれてはいけない)


 クレナは深呼吸をしてから体をマルスへ向ける。


「……」


 そしてマルスの手にある何かを見て絶句した。


「……鶏?」

「活きがいいだろう」


 にかっ、とマルスが笑う。

 ばさばさばさっ。

 マルスに足を掴まれて暴れているのはどこからどう見ても鶏。


「本気だったんですね」

「もちろん。ということで今日はこれから鶏小屋を作る。明日朝からは産みたて卵が食べられるぞ」

「はぁ」


 さっきまでの葛藤はどこへやら、クレナは生返事しかできない。


「では、わたしは店に戻りますね」


 裏口の扉からクレナは魔法具店へ入る。

 灯りをつけて、定位置に座った。読みかけの本を手に取るも、すぐに机へ戻す。


 こんこん、こんこん。


 扉の向こうに人影が見えた。

 ヘクセローゼの招待状を持って店を訪れる者はマルス以前にもいたので、おかしなことではない。クレナは立ち上がって、扉を開ける。


「いらっしゃいませ」


 立っていたのはクレナより少し背の高い、痩せこけた男性だった。ただ、顔面は真っ青で、ひどく汗をかいている。

 クレナは全身が粟立つのを感じ、咄嗟に後ずさる。


「うぅ……ううう……」


 どさり、と青年が前のめりに倒れた。服に穴が開いている。背中に、火傷を負っている。


(違う)


 ぶすぶすと音を立てて、火傷から煙が昇る……。


「クレナ嬢!」


 マルスの声が耳に届くのと同時に、クレナはマルスに抱きしめられていた。


 どぅんっ……!


 音と光と熱。どれがどれか分からない強さ。激しさ。


「ごほっ」

「マルスさん!」

「これくらい慣れているから問題ない。外に出るから、掴まって」


 クレナは頷いてマルスにしがみついた。

 肉の焦げるだけではない異臭。店内が爆発によって燃えているのは明らかだった。爆発の原因が人間なのも疑いようがなかった。燃え盛る空間から、躊躇うことなくマルスは飛び出た。

 ごろっ、と地面に転がりながらも、マルスはクレナを離さない。


「魔法具店が……」


 燃えていた。


「一体何が起きたんだ」


「容易なことです」


 灰色の空と燃える魔法具店に似合わない明るい声が響いた。

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