突発性ローマ字症候群

甘木 銭

突発性ローマ字症候群

「突発性ローマ字症候群ですね。」

 狸のように丸々太った医者の口から出てきた病名は、聞き覚えの無いものだった。

「なんでsuか?それ。」

 俺は思わず聞き返したが、またローマ字が混じってしまった。煩わしいことこの上ない。

「今みたいにね、言葉の1部がローマ字になってしまう病気です。最近あなたみたいな人多いんですよね。」

 なんと、流行に疎い癖に流行の波に乗ってしまったらしい。

「最近出てき始めた病気なので正式な病名は無いんですがね。『突発性ローマ字症候群』なんて通称で呼んでます。新しい病気で特効薬も無いので私達にはどうにも出来ませんね。」

「じゃあ、どuすればいiんです?」

「今の所、ストレスが原因じゃないかって話ですよ。何か心当たりは?」

 何を言っているんだこの狸は。この社会に生きていてストレスが溜まらない訳が無いじゃないか。もしそれが本当なら日本人のほとんどが「突発性ローマ字症候群」だ。




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 病院を出ると塵にまみれた空気に包まれた。この街は空気が汚い。しかしメガネが曇るのでマスクもしたくない。これは我儘だろうか。いや、そんなことは無いはずだ。空気を汚すやつが全て悪いのだから。

 そんなことを考えていたら妙にムシャクシャしてきて、落ちていた空き缶を思いっきり蹴飛ばした。

 カコーンと軽い音を出しながら、結構なスピードで飛んで行った缶は走行中の車に当たり、これまたカコーンと軽快な音を立てた。

「Yaば...」

 俺はローマ字を吐き出しつつ、そそくさをその場から逃げた。その後車がどうなったかは知らない。

 車が通れないような細い路地を選んで600メートルくらい走ると、もうヘトヘトになっていた。普段運動しないツケがここで回ってきた。しんどくて気が滅入ったが、自分の体力の無さに苛立っても仕方が無いので、この怒りは静かに飲み込むことにした。

 さて、汗をかくと喉が渇くものだ。前方にコンビニを見つけた俺はフラフラと、しかししっかりとした足取りで自動ドアを目指した。

 店内は清掃が行き届いていて気持ちが良かった。少し潔癖症のきらいがある俺は、こういう清潔な空間にいると安心するのだ。ただし、病院はその限りでは無い。今日嫌いになったからだ。

 適当にペットボトルを選んでレジに持っていき、1000円札を出す。

「こreで...」

 おっと、ローマ字症候群のことを忘れていた。店員が怪訝そうな顔をする。誤変換だと思われただろうか。

 やはり不便な病気だ。腹を立てても怒りのぶつけどころがない所がまた腹立たしい。




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 大体にして、現代人は他人の間違いに対して細かく文句を付けすぎてだと思う。ちょっとした言い間違いだとか勘違いだとか、そんな小さな事で揚げ足を取って大袈裟に叩く。無知な人間の間違いを指摘してマウントを取り、ミスをした人間を無能だとあげつらう。

 文字のことにしたってそうだ。誤字や脱字をうるさく指摘する。科学が発達して誤字や脱字が極端に減ると、次は話し言葉にまで文句を付ける。僕が子供の頃は大人でもひらがなで喋るのが普通だったのに。

「平仮名でしか喋れないのは学が無い証拠だ。」とか誰かが言い出すと、あっという間に漢字を交えて話すのが一般的になってしまった。

 そんな風な世の中だから、きっと僕のようにローマ字を交えて話すやつはきっと異物だろう。

 他人の目を気にしなければならないというのは面倒だ。

 この世はどうしてこうもしがらみが多くて面倒臭いんだろう。

 ふと前を見るとバス停があった。ベンチと屋根があって、少し休憩していくのに丁度いいなと思った。フラフラと、吸い込まれるようにベンチに座っていく。中々疲れていたようで、座るとすぐに足腰の力が抜けた。これでは当分使い物になりそうにない。

 そんな考えを巡らせていたら少しずつウトウトしだした。

『市井通り前、市井通り前です。』

 いきなり聞こえてきた機械的な音声に驚いて意識が戻る。どうやらバスが停ったらしい。青に白のラインが入ったバスはピンポーンという電子的な音を出しながら目の前に鎮座している。エンジンの音がしないのはきっと電気で動いているからだろう。空気を汚さないので電気自動車は好きだ。

 何故目の前にバスが停ったのかしばらく理解ができなかったが、しばらく考えて自分がバス停に居たからだと気付いた。どうやら、バスに乗るものと勘違いされてしまったらしい。

「乗るの?乗らないの?」

 運転手のおじさんが苛立ったように聞いてくる。どうでもいいが、世の中のおじさんには狸みたいな人が多過ぎないだろうか。

「Eっと...あの...」

 先頭が大文字になった。こういう所はきちんとしているなんておかしな病気だと思った。

 イライラしながら怪訝そうな顔をする運転手の視線を受けると、言葉が出てこなくなった。

 バスの行き先を見ると、あまり聞いた事の無い土地の名前が書いてあった。乗るかどうか少し悩んで、俺はその場から逃げ出した。

 どこかへ行きたくても、俺には金と、何より心の余裕が無い。




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 しばらく逃げると、土手沿いの狭い道に出た。川を見下ろすと何だか心がホッとして、嫌な空気のことも忘れてしまった。そもそも河川敷には緑が多いので、普通に空気が綺麗なのかもしれない。

 しばらく土手沿いを歩いていると、目の前になにか黒い物体があった。近づいて見るとそれはハトの死骸らしかった。

 車に轢かれでもしたのか、体は潰れていて、風に乗せられ辺りに羽が散らばっている。

 空を見上げると2、3羽のハトが飛んだり民家の屋根に止まったりしていた。もしかしたらこいつの仲間だったんだろうか。俺は死んでいる方のハトに目線を戻す。

 しばらく死骸を眺めていると、後ろで車のクラクションが鳴った。振り返ってみるとさっき缶をぶつけた車だった。

 慌てて道の脇に飛び退くと、車はハトの死骸を踏まないよう、端に寄りながらゆっくりと俺の横を通り抜けて行った。どうやら俺の事は分からなかったらしい。車の後ろを見ると、恐らくあの缶のせいで出来たらしいへこみがあった。あまり気にしなかったが、あれはスチール缶だったのかもしれない。

 すれ違う時に見えた、運転席でハンドルを握っていた女の不機嫌そうな顔、あれは道の真ん中で邪魔していた俺に向けられたものだったのか、ハトだったものに向けられたものだったのか。

 ふと、このハトの事を羨ましく思った。そして、空を飛んでいるハトを見て、ああいう風になりたかったと思った。


「おにーちゃんなにしてるの?」

 声をかけられて振り向くと、小さな女の子が俺を見上げていた。クリクリとした目に射抜かれて、目眩を起こしそうになる。俺は狸の医者の次くらいに子供が苦手だ。

「どうしたの?」

 女の子が小首を傾げる。どこまでも小さい顔だと思った。

「いya、えっと、そu、ハトをmiてたんだよ。」

 ローマ字が混じりまくったが、女の子は気にしていない様子だった。

 そうか、子供はそもそもひらがなでしか喋らない訳だし、そういう意味では今の俺とあまり変わらないんだな。

 というか、ローマ字で喋ろうがひらがなで喋ろうが、たとえカタカナや全部漢字で喋ったとしても、きっと子供には関係の無い事なのだろう。そういう意味では子供は自由だ。願わくば子供に戻りたい。

 なんだかさっきから、どうにもならない物に憧れてばかりだ。そんな自分がもうどうしようもなく悲しくなってくる。

「おにーちゃんだいじょーぶ?」

 だいじょーぶ、じゃなくて、だいじょうぶなんだけど、なんて考えてしまってから、自分もそれなりに染まっているなと思った。

 たとえ面倒でも、人はそれなりに周りに適合していかなければ生きていけないのだ。

「あa...だいじょubu...」

 ...ん?今、なんか違和感が...

「ほんと?でも、かなしそうなかおしてるよ?」

 子供は変に鋭いな。こういう所も苦手だったんだけど、今はそうでもなかった。

「そんnaktoなiよ...気にsinaide...」

 これは、マズい。ローマ字の混じる量が今までよりも圧倒的に...

「加奈ー!戻っておいでー!」

 大人の女性の声が聞こえる。女の子の母親だろうか。

「あ、ママ。もういかなきゃ。じゃあねおにーちゃん!」

 俺は怖くて声が出せずに、手を振って加奈ちゃんを見送った。貼り付けたような笑顔はすぐに剥がれ落ち、顔と体から力が抜けた。

 医者はこの「突発性ローマ字症候群」の原因はストレスだと言っていた。なるほど、ストレス。なれもしない物に憧れても心労が溜まるだけ、か。なんだか笑えてきた。この笑みが本物か偽物か、今の俺にはわからない。メガネがズレてきたので外してそばに置いた。それから河川敷の草むらに寝転がって空を眺めた。ぼやけた雲が流れるのを見つめている。

 もう口を開く気にもなれない。これからの事なんか考えたくない。特別病気を治したいとも思わない。ただ、自分になんだか腹が立った。

 そして、病気が進行して行くのがなんtoなくわかった。

 段だnと思考まdeがローマ字になってiく。ぐちゃぐちゃnaよkuわからnaい物になっていって、頭が回らなくなtta。ぼんyariとしてきて、気付けba雲はいつno間にか視界に入らnaくなってiた。

 Shikougaro-majinonakanishizunde

ikunowokanjita.

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