第8話 俺一人では決められないこと
「そうね、仕事内容については前職と変わってしまうけど、私としては経理部に入ってほしいわ。さっきも言ったけど、この会社は簿記に特化した人間は少ないし、経理部に関しては特に人手が少ないから即戦力として働いて欲しいわね」
即戦力、俺はその言葉に不安を覚えながらも次の質問に移る。
「じゃあ、お給料はどのくらい出ますか? 自分、妹が居て働いていた頃は毎月必ず仕送りをしていたのですが……」
花園電機で働いていた頃は、毎月最低でも25万は出ていた。
残業が多い月は30万近く出る日もあったから良かったが、会社を辞めた先月は貯金から切り崩して仕送りをした。
この話だけ聞いていればブラコンと思われるかもしれないが、俺と同じく妹も厳しく育てられた。
だから、妹には俺みたいに学業に縛られた道ではなく自分の好きな道を進んで欲しい。
そう思ったから仕送りと言う名で金を少し負担してあげている。
「そうですね、まあ最初は残業込みでフルで働いて30万程度と言った所でしょうか」
30万か、まあ花園と比べても平均月収は変わらなさそうだし金銭面も問題ないか。
俺がそれで了承しようとした時、奈菜美が坂本代表に耳打ちをした。
内容は聞き取れなかったが、二人はニヤニヤして坂本代表が話し始めた。
「真崎さん、もしかして30万でも不満ですか?」
「い、いえ別に……」
「不満ですか!? そうですか! ならば良いお話がありますよ?」
面倒臭そうだったがこれは話を聞かないと後々面倒になるタイプだ。
俺はそう判断し、話を聞くことにした。
「えっとじゃあ、話とは……?」
「うちの奈菜美を彼女にしてみませんか?」
「は、はぁ……?」
ほーら、ロクでもない話だ。
「うちの奈菜美、ご存知だと思いますが、あの虹ノ夢49の元センターでかなり可愛いと思うのですが……」
「まあ、奈菜美さんが虹ノ夢のアイドルでセンターをずっとキープしてたことも知ってましたし、何より俺は奈菜美さんを推していたので……」
「だったら話が早い! 彼女にしてみませんか?」
「どうしてそうなるんですか……?」
俺が呆れ気味に言っても二人の熱は収まりそうに無い。
「もし彼女にしてくださるのでしたら、給料は10万アップ、ボーナスも弾みます!」
「……」
お金に目が眩むとはこういう事か。
確かに月収が10万もアップすれば、妹の仕送りも多く出来る。
そしたら妹はバイトに明け暮れず、自分の趣味を堪能出来るし俺の趣味にも使える。
金さえあれば一応何でもできるし、20代で平均月収約40万はかなり凄い。
しかも、『結婚』ではなく『彼女』と奈菜美の言っていた条件がグレードダウンしている。
だがこれは、今ここで即決するようなことではない極めて重要な事だ。
「すみません、えっとそのまだ二つしか聞いてませんが会社には入りたいです」
「うんうん」
「でも、給料アップのお話については一度考えさせていただけませんか? これに関しては奈菜美さんが言っていた結婚についても繋がると思うので……」
坂本代表は少し微笑んだ後、表情を変えて真剣な眼差しでこう言った。
「真崎さん、あなたは本当に凄い。これだけの好条件、普通の人ならば即決してしまうだろう。元アイドルと付き合うだけで給料がアップしてボーナスもアップ、それに加えて奈菜美からは求婚されていた。それなのに、全ての誘惑に打ち勝ちしっかりと考えてから行動に移す。その知能や感性を持っている人間、私はこの65年間生きて来て見た事が無い。一度自分でしっかりと考えて、出た答えを私に報告してほしい」
坂本代表はそう言うと机に戻り、紙を取り出して何かを書いた。
やがて書き終わったのか、その紙を俺に渡してきて「これが会社の社内ルール、そして裏面には私の電話番号が書いてある。明日でも明後日でも良いから報告を頼むよ」と言った。
俺はその紙を力強く両手で受け取り「今日はありがとうございました。自分で真剣に考えて報告させていただきます!」と気合の入った声で言った。
奈菜美さんが「見送りますよ」と言い社長室から出た。
俺はもう一度坂本代表に「ありがとうございました。失礼します」と頭を下げて社長室を出た。
~~~
六本木ヒルズ森タワーを出た俺は電車に揺られていた。
そしてなぜか、純白のワンピースを着た人間も隣に居た。
「何でついて来たんだ」
「えー? だって将来のお嫁さんだし?」
「本気で言ってんのかよ……」
俺は頭を抱えながらも奈菜美の方を見た。
変装のためか、大きなサングラスは外さず可愛らしく小さい口元が見えている。
カンカン帽子が雰囲気を出していて、小さな口元、そして純白のワンピースと相まってとても可愛い。
以前来た時もそうだが、奈菜美は白のワンピースしか着ていない。
「てか、前に俺の家に来た時も白のワンピースじゃなかったか?」
「えっと、親の形見なんですよ、このワンピース」
聞いちゃいけないことを聞いたと思い俺は直ぐに謝った。
だが、奈菜美は気にも留めずに話をしてくれた。
「白のワンピース、お母さんがずっと好んで着ていたんですよ。昔の写真とか見てもデートの時はずっとワンピースで……あっ、流石に冬は違いますよ? でも、夏場は着れる日は白のワンピースを着て過ごすって決めてるんです」
奈菜美の両親がいつ亡くなったのかは分からないが、それでもお母さんの好きだった服装を真似て何年も着続けるのは両親をそれほど愛していたという事。
俺は感動して涙目になってしまっていただろう。
歳を取ってから、より涙もろくなってしまったな。
そう思いながら俺は涙を隠すように目元を拭った後、奈菜美から視線を逸らした。
電車を乗り継いで、少し歩いて俺の住むアパートに着いた。
時刻は12時を過ぎたところだった。
朝ご飯はコンビニのサラダチキンだけ、そろそろお腹が空いてくるころだ。
俺はアパートの鍵を開けてだらしなく靴を脱ぎ、手で持っていたビジネスバッグをちゃぶ台のそばに置いた。
「ちょっと、靴はちゃんと整えてください!」
「いいだろ別に、俺の家なんだから」
「そう言う問題ではありません!」
「へいへーい。てか、腹減ったな」
冷蔵庫を開けてみるも目立った食材は無い。
あるのはチューブのショウガとワサビ、そして封の開いたもやしだけというなんとも貧しい中身だ。
昨日、夜ご飯をチキンステーキとほうれん草のおひたしという俺にとっては豪華なメニューにしてしまったせいで、冷蔵庫がすっからかんなのを忘れていた。
「ちょっと、どんな生活してるんですか……」
冷蔵庫を覗き見したのか、呆れた奈菜美の声が聞こえる。
「いや、ちゃんと自炊してるから、たまたま食材が無いだけで……」
「絶対嘘です……!」
奈菜美は断固として俺が自炊出来る事を認めないが、シンクの中には昨日使ったフライパンや食器が水の中に浸して置いてあり、コンロの隣には乾かしてある食器がいくつかあった。
これだけでは決定的な証拠にはならないかもしれないが、俺はしっかりと料理が出来る。
今度奈菜美に作ってやるか、なぜか母性が働いてしまったが俺は奈菜美のネチネチ言葉を横に昼飯をどうするか考えた。
「へそくりはあったかな……」
なるべく通帳の金は使いたくない。
それこそ死のうと思った時に使ったなけなしの500円も、部屋の中に落ちていたものだ。
通帳には俺がコツコツ節約しまくって貯めた300万がある。
脳裏には「この貯金を遣っちまえ……!」という考えが浮かぶ中、タンスを漁っていると一枚の封筒を見つけた。
頼む、金よ来い!
そう思いながら封筒に手を入れてみると中から出てきたのは福沢諭吉だった。
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