エブリディ・ライク・ア・サンデー
エブリディ・ライク・ア・サンデー(その1)
「やあ、クレア、もう要件は済んだのかい」
生クリームのような白いものをたっぷり乗せた、たぶんケーキに近いだろうお菓子をフォークで串刺しにして頬張っていたネルバが振り向きざまに言った。
「どういうこと。なんであなたがここにいるのよ?」
クレアは呆れ顔で妖精の傍まで近寄っていった。
「このお方は、先に捕虜として我々がここに連れてきたんだよ。
ビスマルクは悪戯っぽく笑ってみせた。
「ちょっと、まだパーティーは始まっていないんじゃないの?
こんなに食い散らかして、恥ずかしいわね」
ネルバの食い意地の張った様子が、クレアには自分の身内のように恥ずかしかった。
「まあまあ、食べ物は食い切れないぐらい用意してあるから、遠慮には及ばないよ。
イライラしているところを見ると、お嬢さんもお腹を空かしているようだ。
ちょうどおやつの時間帯だし、我々も何か頂くとしようか」
ビスマルクが気安くクレアの肩をポンと叩いて押しやった。
*
結局のところ、クレアたち一行を自分たちの捕虜にしたというのは、ビスマルクの冗談に過ぎなかった。
停戦条約を結んだばかりの相手を捕虜するのは、さすがに正義感の強いビスマルクの意には反するようだ。
「キャプテン、冗談が過ぎますぜ」
クレアをはじめ、Y国側の使途を捕虜にしたと宣言したとき、ビスマルクの傍らにいた部下のカルロが口を挟んだ。
「お嬢さんの隣にいるお兄さんが、青い顔をしてますよ」
カルロは、トーマスの顔があまりに引き攣っているので、心配して言った。
「あはは、御免、御免。
パーティ会場まで連行してから、種明かししようと思ったんだけど、あまり悪ふざけすると、こちらの兵士の皆さんが暴れ出しかねないからね」
「いや、いや、我々とて兵士の端くれ、ただでむざむざと捕まったりはしませんからな。互いに無傷では済みますまい。それなりの覚悟はされた方がいいでしょう」
武器を取り上げられて丸腰になった兵士たちも実のところ、かなり青ざめていたのだが、それが冗談であることがわかった途端、虚勢を張った。
クレアも、トーマスや兵士たち同様、内心冷や冷やしていたのだが、あえて言わないでおこうと決めた。
「そうよ、トーマス。
停戦協定を結んだばかりなのに、私たちを本気で捕虜にしようなんて思うわけないじゃない。はは」
クレアの言葉に、ジェニファーが吹き出しそうになって笑いを堪えた。
「そうですよ、キャプテン。
ここでビビッて、小便でも漏らされちゃ、こっちが困りますよ」
ジェニファーが茶化すと、
「そんなもん、も、漏らすわけないでしょ」
トーマスが顔を赤くして抗弁した。
「まあ、そんなわけで、皆さんは我々の捕虜となったので、大人しくパーティー会場に足を運んでいただきましょうか」
ビスマルクがトーマスの肩を抱きながら歩き始めた。
パーティー会場は、中央に丸いスペースが設けられていて、その周りに、屋台のような小さなテント屋根を張ったブースがあちこちにあった。
それぞれの屋台には、肉や魚、飲み物やサラダ、デザートなど、それぞれ異なった料理が供されていて、周りにテーブル席が設けられていた。
クレアの世界ではよく見かけるデパートや複合施設でよく見かけるフードコートのような感じだった。
そのテーブル席の一角に例の紫色の衣装をきたネルバが一人で陣取っていた。
「クレア、このケーキはね、あのクリムトが作ったものなんだってさ」
「え? クリムトさん、ここに来てるの?」
クレアは思わず、周りの屋台を見回した。
すると、少し離れたデザートコーナーの屋台の一つにクリムトの姿が見えた。
「おお、クレアさん」
長い髪を後ろで束ねた長身のクリムトがクレアの姿に気づいて、手を挙げた。
「やあ、よくいらっしゃいました。
と言っても、このパーティーの主催者は私じゃないけどね」
クリムトは仕事の手を休めてクレアたちの元に近づいてきた。
「クリムトさん、どうしてここへ?」
「ご存じの通り、店は破壊されてしまったのでね。
T国の主催で停戦パーティーを開くというので、ビスマルクさんから直々にコックとして招待を受けたんです。
Y国の代表としてクレアさんがいらっしゃると聞いて、これは行くしかないと。あなたにぜひもう一度会ってみたかったしね」
この人も、どこまでが本気で、どこまでが冗談なのか、判別が付かないと、クレアは思った。
「クリムトさんの料理は大変素晴らしいことは僕も聞き及んでいたので、ぜひ、今回のパーティーでその腕前を披露してもらいたかったんだよ」
ビスマルクが脇から説明を加えた。
「それはそうと、このスペースは何かしら」
クレアはふと、パーティー会場に設けられた相撲の土俵よりも少し大きな円形の場所を指し示して尋ねた。
「ああ、これはね、イベント会場さ。
もちろん、お嬢さんにも参加してもらうよ。例の楽器でね」
そう言ってビスマルクが振り向いた方に、ビオロンのケースを大事にそうに抱えたカルロの姿があった。
「それでは、これより、最初のイベントを開催したいと思います。
すでにT国からの選手は集まっております。
Y国軍の兵士の皆さん、我こそはと思う方は、飛び入りで結構ですよ。どうぞ、振るってご参加ください」
司会なのか、レフェリーなのか、よくわからない蝶ネクタイを締めた口髭の男がクレアたちのそばまで寄って来て、そう告げた。
「勇敢なY国兵の皆さんなら、あんな奴ら、ちょろいもんでしょう」
ビスマルクは、イベントスペースの脇に並んでいる屈強そうな男たちの方を示して言った。
どうやら、これから余興として、相撲やレスリングのような格闘技を行うらしい。
「おい、冗談じゃないぜ、我々はクレア様の護衛に来ているんだ。余興に付き合ってる場合じゃないだろ」
Y国兵の一人が不満そうな声を上げた。
「おお、早速、そこの若い人が参加を申し出てくれましたか」
ビスマルクは彼の元へ行って、その腕を引っ張った。
「違うったら。我々は、クレア様の護衛に……」
「さあさあ、護衛ならなおのこと、その腕っぷしを見せて置かないと」
ビスマルクの力に抗うことができなかった。
若い兵士は内心、(この男の方が自分よりよっぽど腕力がありそうだ。自分で参加すればいいんじゃないのか)と思った。
「うむ、頑張れよ、ジミー」
若い兵士の上官らしい男が、声をかけた。
「そうだ、そうだ。Y国軍兵士の強さを見せてやれ、ジミー」
その他の兵士も調子に乗って野次を飛ばし始めた。
ジミーは引っ込みがつかなくなり、今やリングとなったイベントスペースへ否応なしに引っ張り出されてしまった。
参加者が並び終わると、イベントスペースの中央に小さなテーブルが設えられた。
「では、参加者はこちらに集まってください」
レフェリーらしき男が全員を手招きした。
「テーブル?」
クレアは、互いに掴み合って投げ飛ばすとか、グローブでも付けて殴り合うのかと思っていたが、どうやら違うようだ。
「ルールは知っていますよね。
使うのは片手だけ。もう片方の手を出したら即、反則負けです。
それでは、最初の二人、それぞれ手を組んで」
これは、いわゆる『腕相撲』だ。
クレアはほっと安心する一方、少しだけがっかりした。
内心もっと過激な闘いを見たいと思っていたのだろうか、自分の中に潜んでいるそうした暴力的な衝動にある種の驚きを覚えた。
「それはそうと、本題を話してちょうだい」
クレアは思い出したように、傍らでケーキの皿を持って頬張り続けているネルバに話しかけた。
「本題って、何かな?」
「惚けないでよ。私に何か話があるからここに来たんでしょ?」
「いや、別に、僕はクリムトが作った御馳走があると聞いたからここに来ただけだよ」
「それは本心かもしれないけど、こちらはあなたに話しがあるわ」
クレアはクリームを頬に付けたネルバの横顔を睨みつけた。
「ああ、ごらんよ、Y国兵の彼、意外と強いよ。一人勝ち抜いたよ」
ネルバはイベント会場から目を離さずに喋った。
クレアはその様子にイライラした。
「わかったわ。腕相撲を見たままでいいから、話を続けましょ。
率直に聞くけど、私は、いつ、どうやったら元の世界に戻れるわけ?
今すぐ、教えてちょうだい」
クレアの質問に、ネルバが真剣な顔をして向き直った。
「ああ、そのことか。
君は本当に、元の世界に戻りたいんだね?」
クレアは、そう尋ねられて、何を今さらと思うと同時に、何か引っかかるものを感じた。
「当たり前じゃない。
この世界を救うことができたら、元の世界に戻れるって、約束でしょ?」
ネルバが目を逸らさずにいたので、クレアの方がはっとなった。
「まさか……。
まだ、この世界を救えてないってことなの?」
「いや、そうじゃない。君は十分にこの世界を救うことに成功したよ」
「じゃあ、何?」
ネルバは、少しだけ何か考えているようだったが、すぐに元に戻ってケーキの残りを頬張った。
「君、ここに来る前に誰かに会わなかったかい?」
今朝の宮廷の会合のことだろうか。
「確か、総理大臣のレンブラントさん、だっけ。そのほか、Y国政府の大臣たちに会ったけど」
「彼らじゃなくて、ほかに誰か。じゃあ、今日ではなく昨日かな」
「ビスマルクさんたちに会ったわ」
「それは戦いのときだね、その戦いを終えてから街に戻ったときとかさ」
「うーん。街の人々の出迎えがあって、いろんな人がいたけど……」
三賢者と呼ばれていたハイネ、ニーチェ、ユングたちは見かけたが、直接会ったというわけではない。
「あ、もしかして、エミリアのこと?」
クレアは思い出してそう告げたが、ネルバはエミリアのことを知っているのだろうか。
「エミリアに会って、どうだった?」
「どうって? 彼女には、ちょっとがっかりしたかな」
そんなことをネルバがなぜ尋ねたのか、クレアは特に深く考えなかったが、もしかすると、マチルダとエミリア姉妹は、このネルバに頼まれて自分に近づいたのか。
「ねえ、もしかして、マチルダとエミリアって、あなたの知り合いなの?」
「知り合い? うーん。知ってはいるけど、それほど親しいってわけじゃないよ」
自分の世話を焼いてくれたのは、別にネルバが頼んだわけではなかったのか。
だが、今となっては正直、もうどうでもよかった。
「わかった。君は十分に使命を果たしたよ。
今日は、君の世界の数え方で、確か土曜日だったね。
つまり、明日の日曜日、君は元の世界に帰れるようにしておくよ。
ああ、このケーキ、もうお代わりないのかな。しょうがない、別のケーキを頂くとするか」
ネルバは白いクリームケーキがなくなったので、チョコレートケーキらしき、色の黒っぽいケーキを皿に取って戻って来た。
「よく食べるわね。その小さな体で」
クレアは、ネルバが食べる様子を見て、自分も食欲が湧いてきた。
「ちょっと待って、私も何か持ってくるわ」
クレアは、デザートコーナーではなく、メインの肉料理らしきものを供しているジェニファーの元へ向かった。
「お、クレアも何か食べるのね。
これなんかお勧めよ」
ジェニファーは一見、フライドチキンのように見える衣の付いた塊を皿に盛って差し出してきた。香りもフライドチキンと似ていて、食欲をそそった。
「ありがとう、じゃあ、それを頂くとするわ」
皿を持って戻ると、ネルバが眉間に皺を寄せて、顔を背けるような仕草をした。
「ああ、それ、揚げ物だろ。僕は、それが苦手なんだ」
「へえ、食いしん坊なのに、揚げ物が嫌いなんて意外ね」
クレアはフライを摘まんで一口齧った。香りだけでなく、食感も味もフライドチキンそのものだ。
「おいしいわよ」
「いや、遠慮しとく」
極力匂いを嗅ぎたくないのか、鼻を摘まんだようなダミ声をあげた。揚げ物が本当に苦手なようだ。
「で、話の続きだけど、どうやったら、私は元の世界に戻れるの?」
「明日の正午ぴったりに、君が最初に来た『あの場所』に元の世界に戻れる『ゲート』を設けておくよ」
「何か目印みたいなものはあるの?」
「エリスを迎えに来させよう。エリスのことは覚えているよね?」
もちろんだ。自分をこの世界に送り込んだ張本人だ。忘れようがない。
「ただし、ゲートは正午ジャストに開くんだけど、君たちの世界の単位でいうと、わずか10分で閉じてしまう」
「それを過ぎると、もう元の世界には戻れないの?」
「いや、戻れないわけじゃない。ただし、次にゲートが開くまでに、さらに一週間の時間が必要になるんだ」
今日までの一週間は、かなり長いと感じた。
さらにここに一週間留まるのは、精神的にきつ過ぎる。
「わかった。必ず、そこに行くようにするわ」
そう言うと、クレアは、皿のチキンの残りを平らげた。
まだもう少し腹に入りそうだ。
Y国代表の若い兵士はなんと、決勝戦まで進んでいた。
袖を腕の上方まで捲り上げ、頭にタオルのような鉢巻を巻いていた。
「それでは、本日のメインイベント。
アーム・レスリング、決勝戦を行います。
右サイド、T国軍兵士、ゴンザレス・ヤマシタ。
左サイド、Y国軍兵士、ジミー・ヘイガー。
両者、こちらへ」
「ゴンザレス、強そうだね。ジミー大丈夫かな」
チョコレートケーキを頬張りながら、ネルバが呟いた。
*
「では、そろそろ、お嬢さんの出番かな」
昼下がりから夕方にかけて飲み続け、すでにかなり酒が入っているはずのビスマルクは、アルコールに強い体質らしく、顔色や表情がほとんど変わっていなかった。
正確な時間はわからないが、会場の辺りは薄暗く、すでに宵の口を迎えていた。
クレアは意を決してビオロンを弾くことにした。
会場の周囲には、昼の三角旗の替わりに、ところどころに明かりが灯っていた。
正確な時間はわからないが、この連中には、パーティーの『お開き』という感覚はないのだろうか。
まさか、本当に一晩中パーティーを催すつもりなのだろうか。
クレアの心配を汲み取ったのか、ジェニファーが傍に近寄ってきて告げた。
「クレア、大丈夫よ。今夜はスパーキー・レインが見られるので、それもあって、ここ集まったのよ。それが終われば、私たちも散会するわ」
彼らの言う、スパーキー・レインとは何だろうか。
「お、始まるぞ」
アームレスリング準優勝の盾を持ったY国軍兵士のジミーが空を見上げて叫んだ。
ジミーは決勝戦が始まると、あっという間にゴンザレスに組み伏せられてしまった。
もしかすると、ゲストということで、決勝戦までは下駄を履かせてもらっていたのかもしれない。
戦っている最中は夢中で築かなかったが、盾を抱えながら、そう思わざるを得なかった。ビスマルクを始め、ここにいるT国兵たちは、屈強な外見とは裏腹に心根は優しい連中なのかもしれない。
ジミーの声に釣られて周りにいた者たちが空を見上げると、闇のキャンバスの一つが瞬くように輝き、すっと流れ落ちた。
流れ星か。
最初は、単なる流れ星かと思ったが、それが立て続けに起こった。
(いわゆる流星群か)
この世界の宇宙は、クレアのいる宇宙と繋がっているのか、そこまではわからないし、考えてもしかたがない。
それにしても、クレアは、これほどの流星群というものを自分のいた世界でも見たことがなかった。
話には聞いたことがあるけれど、明るい街中ではなかなか流星を見ることができない。闇の濃い場所へ行くなど、意図して見に行かなければ、こうした光景は観察できないものだ。
これは、まさにスパーキー・レインだ。
「まだまだ、これからだぞ」
クレアに説明するかのように、ビスマルクが言った。
「さあ、ちょうどいいタイミングだ。
ビオロンを弾いてくれ」
クレアは、スパーキー・レインの正体が流星群と知っていたわけではないが、夜に弾く曲としては、まずはドビュッシーの「月の光」がいいだろうと考えていた。
タイトルは、月の光だが、この場合、流星が現れては消えてゆく、その様子を表現しているかのような曲想だった。
元々は、ピアノ曲だが、バイオリンでは、アレクサンドル・ローレンスがバイオリン独奏用に編曲したものが奏でられている。
現在でも、クレアが譜面なしで弾くことができる曲の一つでもある。
先日と同じように、まず慎重にビオロンのチューニングを始めた。先にクレアが弾いてから、それほど弄っていないのだろう。チューニングはほぼ合っていた。
弓の張り方を整え、やはり松脂がほしいところだったが、この程度のざらつきがあれば、まあ、いいだろう。
顎と鎖骨でビオロンの胴を支えると、左手を完全に脱力して構え直した。
ドビュッシーの生み出したこのメロディラインは、こちらの世界の住民にも、万感の思いを抱かせるのか。
曲の中盤から、ピアノの流れるようなアルペジオが、月の光の銀色のシャワーを連想させるように響くのだが、ここにピアノの音があるわけではないのに、まるで、クレアの奏でる旋律に合わせて星々が流れていく、そんなことを錯覚させるような光景があった。
「流れていく星にぴったりの曲だな」
周りの人々は、空を見上げながら、クレアの演奏に感動を覚えずにはいられなかった。
バイオリンに限らず、楽器演奏に長けた人は、無駄な力がかかっていないものだ。いわゆる『脱力』という表現がされるが、これは、単に力を抜くということではなく、楽器に負担を掛けないという意味なのだ。
バイオリンの達人の弓捌きをみると、まるで弓を天井から糸で釣っているかのように見える。それだけ、ぶれが少なく均等にバイオリンの絃に対して当たっているわけだ。
クレアの弓捌きはこうした達人たちの域に達していた。
バイオリン学習者にとっては当たり前であり、基本中の基本ともいえるが、音の長さと強弱を自由自在に引き出すことができた。
しかし、さらに左指の絶妙なビブラートが加わって途切れることなく奏でられるレガートは、それだけで聞く者に、ある種の感動を与える。
そして、二番目に弾く曲としては、「ノクターン(夜想曲)」がいいだろうと、クレアは思っていた。
数あるノクターンのうち、バイオリンの独奏に合うとしたら、ショパン、OP(オーパス)9の第2番。
ショパンの場合、テンポ・ルバート、つまり、自由なテンポで弾くのが普通だが、ピアノの伴奏がない場合は、正確なテンポで弾いた方がいい。
あまり自由なテンポでは、独奏の場合「下手」に聞こえるのだ。
しかし、ショパンの指定したこの曲のテンポは、BPM132と、かなり速い。現代では、もっと遅く弾くのが普通だ。
このピアノ曲には、バイオリン奏者としても有名なパブロ・サラサーテの編曲がある。
クレアは頭の中でメトロノームをBPM120のテンポで流しながら、サラサーテ版のノクターンを弾き始めた。
「これもいい曲だな。素晴らしい」
バイオリン特有の高音部から一気にチェロを思わせるような低音パートへ、ラストで再び、ハイトーンへ、高速のトリルと、かなりテクニカルなフレーズが続くが、クレアは、あまり技巧的に聞こえないよう、自然なレガートを心掛けた。
ドビュッシーとショパン、この二人の現代に残る作品を、スパーキー・レインの夜に奏でることができて、クレア自身も感動を覚えていた。
「よお、お嬢ちゃん。最高だぜ」
「アンコール、アンコール」
盛大な拍手を受けてクレアは深々とお辞儀をした。
だが、これ以上のアンコールに答えるつもりはない。
音楽には、『程度』というものがあることをクレアは知っている。
過ぎたるは及ばざるがごとし。人々に感動を与えるには、音楽としての程よい長さというものがある。独奏は、演奏し過ぎてもダメなのだ。
打ち上げ花火のような派手な演出はないが、広大な宇宙が生み出した光の祭典にふさわしい「音」を添えることができて、クレアは満足だった。
演奏を終えた時、拍手で称える人々の中に、ネルバの姿はもうなかった。
手にしたビオロンを持ち主のカルロに手渡しながら、元の世界に帰ったら、久々に自分の『愛器』をケースから引っ張り出してみようと、クレアは思った。
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