土曜の夜のスパーキー・レイン(その3)
「おお、援軍が来たか!」
カラス軍団の一人が、振り向いて叫んだ。
「ここで敵の援軍が来るとは、計算違いだな」
スクルドは、苦虫を嚙み潰したような顔で地平線に現れた敵兵を見て呟いた。
見たところ、それは一個師団に相当しそうだ。
少なくとも数百人はいるだろう。
さすがのワルキューレ軍もこれだけの手勢を相手にするとなれば、この場から押し切られてしまうだろう。
このまま市街に雪崩れ込まれては、万事休すだ。
「キュルルルル……」
砲弾が飛んでくる音がした。
「バカが!
どっちに向けて撃っているんだ!
こっちじゃない、向こうだ、向こう!」
嬉々とした表情でその行方を見定めていたカラス軍団は、その着弾地点が自分たちの方に向けられているので口々に叫び声をあげた。
「いたぞ、奴らを抑えろ!」
聞き覚えのある男の声がした。
クレアは、その声の主がT国海軍の軍人の一人、確かロペスという男だということを思い出した。
「ビオロンのお嬢さん、加勢に参ったぜ」
やはり海賊としか思えない恰好の連中が、ぞろぞろと援軍の兵隊の中から現れ出た。
見覚えのある顔が揃っている。
キャプテン・ビスマルクの部下たちだ。
「クレア、無事か」
女海兵、ジェニファーの声だ。
「なんだ、敵の援軍ではなく、こちらの援軍だったのか。
残念だったな、おまえたち」
スクルドは敵を蹴散らしながら、叫んだ。
クレアは、今はその時でないことを知っていいたが、ジェニファーと再会の喜びを分ち合いたい気分だった。
それ以上に、自分たちに加勢してくれたことが嬉しかった。
その後は、あっという間だった。
戦力の差は圧倒的だった。
反乱軍に対して、T国の正規軍は、全面的にY国軍の味方だった。
やがて、サブリーダーとして動いていた男が、両手を挙げて降参の意志を示した。
クレアは剣を納めて投降した兵士たちの前に進み出た。
残った反乱軍の兵士は数えるほどしかいなかった。
「あなたたちの目的は、何だったの?」
クレアにそう聞かれたサブリーダーは、びっくりした顔をして、さらに笑いだした。
「敢えて尋ねるまでもないことだ。
我々は兵士だ。
開戦の当日になって、敵国でクーデターが起こったので、戦争は中止と言われても、『はいそうですか』とすぐに納得できるわけがなかろう」
馬鹿にしたような顔でクレアを睨み返した。
クレアはそれ以上尋ねても意味はないことを悟ってその場を離れた。
「クレア、こんなに早く再会できるとは思ってもみなかった」
ジェニファーは喜びの声を挙げながら、クレアに駆け寄ってきた。
「お嬢さん、またお会いできて光栄ですな」
さらに、二人を取り囲む海軍兵の中から一人の男が現れて、クレアに近寄ってきた。
「ヨシムラ先生、じゃなくて、ビスマルクさん」
「ヨシムラ?」
「いえ、なんでもありません。
キャプテン・ビスマルク、またお会いできて光栄です」
「こちこそ、お嬢さん。
彼ら反乱軍にも困ったものです。戦闘好きというのは、どこにもいるので」
「あなたは戦闘がお嫌いなんですか?」
「私? 私は、人と戦うことは、正直好きじゃありませんよ。
平和が一番です。あなたもそうでしょう」
ビスマルクは、不味いものを口にしたかのような顔でそう言った。
この人は、本当に戦闘が嫌いなのだろう。
それにしても、船乗りというのは、やはり海が似合う。
当たり前のことだが、こうして陸地でその恰好を見ると、そう思わざるを得ない。
物事とは、場違いな物と物との出逢いがあって、初めてその真実が顕わになったりする。
ロートレアモンの詩に、『ミシンと蝙蝠傘との手術台の上での出逢いのように美しい』という比喩があったが。
そうした屁理屈はともかく、海賊ファッションは、陸には似つかわしくないということだ。
クレアとビスマルクが話している間、ジェニファーは、スクルドに興味を覚えたらしい。
「そんな軽装で戦うなんて、あなたたちって噂の通り、かなり凄そうね」
「戦うには、身軽な方がいい。
そちらこそ、かなり身軽な恰好に見えるが」
「私たち船乗りは、海の上が仕事場だしね。
重い恰好じゃあ、船が転覆したときに、溺れ死んじまうよ」
「なるほど」
二人は互いに通じるものがあったのか、話す都度に笑いが生じていた。
クレアは、Y国で起こったこれまでの経緯を掻い摘んで話した。
「なるほど。で、ワグナー氏は自ら命を絶ったと」
そう言いながら、ビスマルクは薄っすら伸びた顎の無精ひげを指先で擦った。
「とりあえず、我がT国とY国との間で、停戦協定を結ぶことにしましょう。
我々が上陸したこの先の川は、T国とY国が接する国境となっています。
その一部には、エンゲルスが王となり、T国とY国との争いが激化した結果として、中立地帯が設けられています。
明日は、そこで両国の代表が停戦協定を結ぶというのは、どうでしょうか。
我が国の代表としては、私が大使を務めましょう。
そちらの国の代表としては、ぜひ、あなたに来て頂きたい」
クレアは、突然の申し出に戸惑わざるを得なかった。
「そうした重要なことって、もっときっちり決めた方がいいんじゃないんですか?」
「はて? あなたの国ではそうなんですか?」
ビスマルクは悪戯っぽく笑った。
「私は、酒が飲みたいと思ったら、居酒屋に行って『おやじ、一杯くれ』というだけですよ。
いちいち、『本日、アルコールを摂取したくなったので、貴店にて、グリッツ大麦酒をグラスに1ピント所望したし』などという書面を用意して、各大臣のサインを貰って出かけるなどということはしたことがありませんね」
「それはそうだけど。でも、こうした重要なことは、それなりに手続きというものがあるんじゃないの?」
「誰に断る必要があるんですか?
あなたは、Y国の救世主、いわば代表者でしょ?
私は、仮にもT国の海軍提督で、大使を務める身です。
つまり、あなたと同じ、T国の代表者です。
そのあなたと私が直に約束すれば、それで済むことなのですよ」
ビスマルクは笑みを絶やさずに、そう続けた。
「では、明日の正午、T川にある中立地帯へ来てください。
心配でしたら、どれほどでも護衛を引き連れてきて下さって結構です。
まあ、停戦協定が結ばれた後は、ちょっとした宴でも催すことにしましょう。
もうご存じかもしれませんが、私は堅苦しい行事よりも、どちらかというと、どんちゃん騒ぎの方が得意でしてね」
そこまで述べると、ビスマルクはさっと踵を返した。
「では、我々はこれで引き上げるとします。
この連中は我々に任せてください」
捕まえたカラス軍団の生き残りを顎で示しながら言った。
「あの……」
クレアは何か言い足りない気もしたが、特に言いたいことが残っているわけではなかった。
呆気に囚われてしまい、何かもう少し説明がほしい気がしただけだ。
「まあ、停戦交渉に関しては、形だけですから。
それこそ、こちらが書面を用意してきますので、御納得いただければ、サインして貰って、それでお仕舞です」
ビスマルクはそう言いながら、笑顔でウインクした。
「お嬢さん、明日は、ビオロン持ってくるから、また一曲頼んだよ」
クレアに話しかける機会が持てずに、じれったい顔をしていたカルロが帰り際に叫んだ。
「さあ、帰るぞ」
ビスマルクは、途端に真剣な表情を取り戻し、周囲の連中に号令を掛けて去っていった。
「随分、とっぽい奴だな」
スクルドは、T国軍の姿が消えかけた頃に、ビスマルクについての感想を述べた。
「ジェニファーと会話が弾んでいたようだけど」
「彼女の名はジェニファーというのか」
名前までは聞いていないようだ。
「人間たちと話す機会はあまりないからな」
「戦う機会はあるのにね」
「それは、皮肉のつもりか」
「いいえ。それがあなたたちの仕事ですもの」
「仕事、か……」
クレアにはそれ以外の言葉が見当たらなかった。
ワルキューレの仕事は、『戦う』ことなのだ。
「いずれにしても、これで……」
クレアはそこまで言いかけて言葉を切った。
「これで?」
スクルドが尋ねた。
「これで、元の世界に戻れるわ」
「そうか」
スクルドは無表情のままでそう言った。
*
海軍を中心としたT国軍は、投降した反乱分子を縛り上げて、連れ帰った。
クレアとワルキューレ一行は、彼らが去ってゆくのを見届けてから、ゆっくりとした足取りで帰途についた。
ワルキューレで傷を負ったのは、スコグル一人だけだった。
スクルドは当然のことながら、他のワルキューレたちは、かすり傷すら負っていなかった。
市街へ入る外壁の手前まで来ると、Y国軍の兵士と多くの市民が大歓声で彼女たちを出迎えてくれた。
「救世主、万歳!」
クレアが馬車を降りて出迎えの人々にどのように振る舞えばいいのか、迷いながら曖昧に手を振っていると、スクルドがクレアを後ろから呼び止めた。
「クレア、我々はここで失礼する」
「え? ここで帰るの?」
「ああ。我々の役目はもう終わった。これ以上ここにいる必要はないだろう」
「明日の停戦の調印式には来るんでしょう?」
「いや、行くつもりはない。我々が行かなくても大丈夫だろう」
スクルドは護衛としての自分たちは必要ないという意味で、そう言ったのだろう。
だが、クレアとしては、形だけでも、少なくともスクルドには、一緒に付いてきてほしいと思っていた。
「そう、残念ね」
「では、また」
そう挨拶すると、後ろを振り返ることなく、
「行くぞ」とみんなに号令を掛けて、スクルドは最初に飛び立った。
「では、クレア様、お元気で」
負傷しているスコグルは、ミストの肩に腕を回し、弱々しく挨拶しながら地上を離れた。
こうしてワルキューレ軍団は、街中へ凱旋することもなく、次々に全員が飛び去って行った。
クレアは、仲間たちから一人だけ取り残されたような気分がした。
周りにいた人々は、ワルキューレが飛び去るのを、ぼんやりとみていたが、彼女たちの影が空から消えると、再び、クレアを称える声を上げ始めた。
「救世主、万歳! 万歳!」
「救世主様、ありがとうございます!」
「ありがとう、お姉ちゃん」
一人の少女が、クレアに握手を求めて手を差し出してきた。
思わず握り返すと、周りの連中が、我も我もと手を差し出してきた。
「ありがとうな、お嬢ちゃん」
「お嬢ちゃんじゃねえ、救世主様だろ、あほんだら」
酒に酔った赤ら顔の男が、近くにいた別の男から、頭を小突かれた。
クレアは、これだけ多くの人々からヒロインとして賞賛を浴びているというのに、大きな孤独を感じてならなかった。
「クレア」
女性の声がした方を振り向くと、そこには見覚えのある顔があった。
「エミリア! やっぱりあなただったのね」
先ほど、群衆の中で見たのは、やはりエミリアだったのだ。
「どうして黙って消えてしまったの?」
エミリアは何か言いたそうな顔をしたまま、少し離れた距離からクレアを見つめていた。
自分を取り囲んでいた連中を押しのけてクレアは、エミリアの前に出た。
「あなたに訊きたいことがあるんだけど」
「ごめんなさい」
「謝らなくてもいいのよ、一つだけ教えてちょうだい。
あなたは、T国の人なの? それともY国の人?」
その質問を聞いて、エミリアは哀しそうな眼でクレアの顔をじっと見つめていた。
「では、正直に言うわ。私はどちらの国の人間でもない。
あなたに渡した手紙にも書いた通り、あなたが味方をした方の国で待機するようにしていただけ。
あなたがY国の味方に付いた時点でY国の看護師として、ここに来たのよ」
クレアは、その答えに納得したわけではなかったが、それ以上は、はっきりした答えが返って来なさそうな気がして訊くのを諦めた。
「あなたが無事に救世主としての任務を果たすことができてよかった」
エミリアは祝福の言葉を述べたが、その声のトーンはまるで沈み切っていた。
クレアは、彼女に礼の言葉を述べるべきところだったが、なぜか躊躇われた。
彼女が差し出した右手を反射的に握ったが、その握手にはまったく誠意が籠っていなかった。
握手の後、無言で立ち去ってゆくエミリアの背中は、まだ押し寄せる群衆の陰であっという間に見えなくなったが、クレアは彼女の姿をもう追うことはしなかった。
*
翌日の朝、宮廷の客間から覗く景色には朝靄が立ち込めていた。
いわゆる霧とはちょっと違う。
見上げると、空は青く晴れていた。町の遠くの付近が、まだ明けきらない太陽の光で薄紫色に霞んだ空気で覆われていた。
遠くで鶏の鳴くような声が聞こえた。
果たして、自分のいた世界の鶏と同じ種類の鳥なんだろうか、クレアはまだ眠気の残る頭でぼんやりと考えた。
「クレア様」
メイドの声と共に部屋をノックする音が聞こえた。
「もうお目覚めでございますか」
「はい、起きています」
今日は元の世界で数えたなら、土曜のはずだ。
果たして、ネルバの依頼通りに、この世界を救うことができたのか、クレアにはまだよくわからなかった。
午後に予定されているT国との停戦の調印を済ませれば、形としてはそれで終わりのはずだ。
だが、これからのこの国の行く末を考えれば、さまざまな問題が山積していることは、想像に難くない。
まず、誰がこの国の指導者として音頭を取るのか。
クレアはどんなに頼まれてもその役割だけは固辞しようと決意していた。
第一、前王エンゲルスのような、支配者として君臨するような野望は、これっぽっちも持ち合わせていない。
任務が済んだら、一刻も早く元の世界に帰りたい、それが一番の望みだ。
この世界の行く末は、この国の住民たちでどうにかしてほしい。
やはり、自分は部外者なのだ。昨日感じた孤独感は、それを如実に証明している。
次にいつ、エルバは現れるのか、それだけをクレアは待っていた。
それにしても『誰』がこの宮廷の指揮を執っているのか、不思議なところだが、メイドに起こされてから案内されたダイニングルームには、すでに朝食が用意されていた。
壁には、さまざまな絵画が並んでいる。
歴代の王や妃らしき人物画や、ドラゴンと戦う騎士を描いたもの、風景画のほか、クレアが目を見張ったのは、大きな白い羽根を広げて空を飛んで行くワルキューレたちの姿を描いたものだった。
「あれは?」
席に着いたとき、クレアは椅子を引いてくれた給仕に質問した。
「あの絵ですか、ご覧の通り、ワルキューレです。
この国にとって、彼女たちの存在は、やはり特別と申しましょうか」
長い白髪をオールバックにして後ろで結わえた給仕は、自分の身内を自慢するような、どこか誇らしげな声で答えた。
朝食はパンのほか、サラダやスクランブルエッグ、ハムのようなものなど、食べきれないほどの量がテーブルに運ばれてきた。
どれも美味だったが、勿体ないとは思ったが残すほかなかった。
食後のお茶を粗方飲み干すと、部屋の隅でじっと待機していた給仕が、つかつかとやってきて告げた。
「そろそろ、よろしいでしょうか」
「はい、御馳走さまでした」
クレアが席を立つと、別の広間に案内された。
そこには、この国の重鎮らしき人物がすでにテーブルに着いていた。
クレアが、テーブルの真ん中に案内されて座ろうとすると、全員が立ち上がった。どうやら自分に対して敬意を示しているようだとクレアは思った。
「では、クレア様が席に着いたところで、早速ですが、会議を開きたいと思います」
席を見まわしたとき、わずかに期待したが、三賢者と呼ばれたニーチェ、ユング、ハイネの姿はそこにはなかった。ヘーゲルの息子、トーマスの姿もない。
クレアがこれまでに会った人の姿は一人も見当たらなかった。
「私は、この国の首相を任されているレンブラントです。
この会議の議事進行役として、司会を務めさせていただきます」
年齢の割には黒々とした髪の男が、立ち上がって話始めた。
エンゲルス王のほかに、この国に首相がいたとは知らなかった。
独裁国家ではあっても、実際の為政者としていわゆる総理大臣のような首相がいて、こうした政府機関が存在していても不思議ではない。
会議は最初から最後まで紛糾した。
最初は黙って目を閉じて腕組みをしていた男が、ある男の意見を聞いていて、突然、怒鳴り散らしたり、人の意見の途中でわざとらしい拍手をしてみせたり、「賛成」「それには反対だ」「そんなこと、できるわけがない」「無理、無理」などの怒号が終始飛び交った。
「皆さん、なかなか意見が揃わないようですが、時間も押し迫っていることですし、本日は、T国との停戦協定を、こちらにいる救世主こと、タマナハ・クレア様にお任せするということは、全員一致でよろしいですか」
首相レンブラントが、最後に額の汗をハンカチで拭いながら疲れ切った様子で言った。
「賛成」
全員がのろのろ挙手すると、レンブラントが、まだ閉会の言葉を述べないうちから、ぞろぞろと席を立ち始めた。
「では、皆さん、次回に改めて議会を開きたいと思いますので、ご準備のほど、よろしくお願いいたします。これにて、本日は閉会といたします」
レンブラントが最後の言葉を言い終えたときには、席に残っているのは、クレア一人だけとなっていた。
会議に出席していた連中はそれぞれ次の予定が立て込んでいるのか、それともできるだけ早くこの場から立ち去りたいのか、クレアに一礼しながら、あっという間に部屋から出て行った。
「では、クレア様、本日の調印の方、よろしくお願いいたします。
私は所要で同行することは叶いませんが、なにとぞ、お許しを」
レンブラントは、そう言い残し、腰を屈めて頭を下げ、後ろ足で退席した。
クレアは呆気に囚われるばかりだ。
その会議の最中、一言も発する機会がなかった。
発言の機会を与えられなかったというより、発言したくても、会議の内容自体がよくわからなかったのだ。
初めのうちこそ、今回のクーデターの後始末をどうすべきか、それぞれの意見が出ていたが、一向にまとまる様子がなく、だんだんと些末な意見が飛び出しはじめ、「それより、開発の途中になっている「〇〇橋」の建設計画をどう進めるのか」とか、「それよりは「〇〇町」の下水工事の方が先だろう」とか、「今回の件に鑑みて、軍事費をもっと増やすべきだ」とか、「だが海軍の増強は、必要ない」とか、クレアが口を出せる内容は一切なかった。
この国の先が思いやられるような気もしたが、クレアのいた世界もこの世界でも、政策会議とはこのように煩雑で、似たり寄ったりなのかもしれない。
共産主義や民主主義とか、あるいは前時代的な専制国家であっても、形式としての国家体制とは別に、政治組織の骨組みは案外変わらないのかもしれない。
つまり、組織の呼び名が変わるだけで、権力を持つ者が何人か集まり、国家という船を動かしていく。
革命が起きた、独裁国家は滅んだと喜ぶのは、大衆だけで、「核」となる部分は決して変わることはない、と、今の会議の様子を眺めていて、クレアは改めて思わざるを得なかった。
*
その午後、クレアは、三度、Y国からT国へ繋がる丘の上を越えていた。
ともに付いてきたのは、トーマス・ヘーゲルのほか、書記官のリップマンという男、数名の護衛兵のみだった。
ワルキューレはいなかった。
すでに休戦状態であり、敵に襲われる心配は多少あったが、そこは、相手を信じるほかない。
「本当に、これだけの人数で大丈夫でしょうか」
停戦調停の場所となる中立地帯に向かう途中、トーマスは始終心配顔でいた。
「大丈夫よ、きっと」
自分でもその言葉には多少の強がりが混じっているはと感じたが、ビスマルクは信用してもいいと、クレアは思っていた。
彼らとて馬鹿ではない。ここで自分たちに不意打ちでも噛ませば、再び戦火が上がるだけだ。しかも、これまで以上の凄烈さを持って。
中立地帯の手前までたどり着いて、クレアは何やら来る場所を間違えたのではないかと我が目を疑った。
「これは、何ですか!」
クレアの気持ちを代弁するように、トーマスが先に声を上げた。
それは、まるで野外パーティーの会場だった。
即席の遊園地でも作られているかのように、色とりどりの三角旗をぶら下げたロープが、張り巡らされ、パタパタと風に靡いている。
単純な飾り物だが、昔ながらのサーカス団でお馴染みの演出は、陽気な雰囲気を醸し出すには、非常に効果的だ。
「ここで、間違いないわよね」
クレアは、リップマン書記官が差し出した地図を眺めながら、尋ねた。
「確かに、ここのはずですが」
この世界では、調停とはこのような雰囲気で行うものなのかと一瞬疑ったが、彼らの怪訝そうな様子を見ると、そうではないらしい。
「やあ、よく来たね、お嬢さん、待っていたよ」
クレアたちが入り口付近で、進むのを躊躇っていると、奥の方からビスマルク本人が歩み寄ってきた。
「さあ、皆さんも、どうぞ」
ビスマルクの案内で先に進んでいくと、周りではパーティーそのものの準備が進んでいる。
バーベキューでも行うのか、炭を起こした焼き台のようなものがあちこちに設けられ、傍らには、さまざまな食材が積まれていた。
「よう、お嬢さん、また会えたね」
ビオロンの持ち主のカルロが準備の手を休めて声を掛けてきた。
「やあ、クレア」
やはり準備のために立ち働いていたジェニファーが、調理器具のようなものを手にしたまま、クレアの元にやってきた。
「これは何なの?」
「見ての通り、パーティーさ」
クレアの疑問の声に、ビスマルクが振り返りながら答えた。
「パーティー? 調印式は?」
「もちろん、調印はするけど、そんなの終えるのに、1タイムもかかからないうちに済んじまうだろ」
1タイムというのが、どれぐらいの長さかわからないが、かなり短いことは容易に察することができた。
「今夜は、スパーキーレインだぜ、楽しまないとな」
「え? 夜までパーティーをやるの?」
「もちろんさ、また、例のビオロンを聞かせてくれよ。
おい、カルロ、持ってきてるよな」
「へい、ちゃんと持ってきてますよ、お嬢さんがここに来ると聞いて、ボディや竿も十分に磨いておきました」
ボディを磨くよりも、できれば、弦を張り替えてほしいところだったが、そう思っている自分に、クレアは、はっとなった。
「ちょっと、待って、何が何だか、よくわからないんだけど」
「T国とY国が停戦を結ぶんだ。そのあとは、仲良くパーティーってのが、相場だろ? お嬢さんの方の仲間は、たったこれだけかい。もっとたくさん人を呼んでくるのかと思っていたのになあ」
ビスマルクは、手を額の上に翳してクレアが伴ってきた連中の姿を見まわした。
「ねえ、ビスマルクがさっき言っていた、スパーキーレインって何?」
クレアはジェニファーと歩きながら、小声で尋ねた。
「ああ、説明するよりは、その目で実際に見てもらった方がわかるさ。夜になればすぐに見られるから、楽しみに待ってなよ」
そう言いながら、ジェニファーがウインクした。
レインというからには、何らかの「雨」が降り出すのだろうか。
ここが異世界であるからには、自分には未知の気象現象があっても不思議ではない。
肝心の調印式は、それこそあっという間に終わってしまった。
調印式の会場は、テントすら張られていない、青空の下、小さなテーブルを挟んでビスマルクとクレアの座る2脚の椅子が用意されているだけの実に簡素なものだった。
一緒に付いてきたリップマン書記官は、クレアの座った傍に立ち、携えていた書類鞄から厳かに黒い革張りの台帳を取り出すと、両国の停戦分を記した書面を読み上げ、両者に内容を確かめさせた。
しかし、クレアにはその書面に何が書いてあるのか、この世界の文字が読めないため、実のところ、さっぱり理解できなかった。
事前に停戦を記した内容であることをリップマンから聞かされていたので、内容を 読み上げたときに、「間違いありません」と宣言して、サインするだけでいいと教わっていた。
「ねえ、サインはどう書けばいいの?」
「あなたが使っている国の『文字』で書いて下されば結構です」
そう言われて書いた『玉那覇クレア』という、たぶん日本でもあまり一般的ではない漢字とカタカナのサインをリップマンは、しげしげと珍しそうに眺めていた。
「よし、ではこれで終わりっと」
ビスマルクは、ささっと、筆記体で自分の名前を書類の隅に記すとすぐさま席を立って、パーティー会場の方へと戻ってしまった。
リップマンは、物足りなそうな顔で、その様子を見ていたが、仕方なさそうに互いのサインのされた二冊の台帳の一つを自らの鞄にしまい、もう一方をT国の書記官に手渡した。
T国の書記官もやれやれという顔をしてリップマンに同情するような顔をしてみせた。
「世話が焼けますな、お互い」
T国の書記官は調印書の台帳をジュラルミンのような金属製らしき書類ケースに収めて、別の秘書らしき人物に渡して立ち上がった。
「では、これで」
T国の書記官たちは、パーティに出席するつもりはないのか、パーティー会場の方ではなく、出口方面に向かって歩いていた。
「では、我々もこれで退散させていただくとします」
クレアには、彼らを無理に引き留める理由はなかった。
当のクレアとしては、Y国へ戻ったところで、何か予定があるわけではない。
自分は別にY国の人間というわけでもないし、ワルキューレがいないのあれば、急いで帰ったところであまり意味はない。
むしろビスマルクたちに対して親しみを感じていた。
ここは素直にパーティーに呼ばれることにしよう。
「あなたたちは、どうするの?」
トーマスはクレアに尋ねられて、躊躇っていた。
「無理には止めないけど、パーティーに参加しても損はないと思うけど」
「そうですね、では、お呼ばれすることにします」
トーマスはそう言うと、相好を崩した。
本当は参加したくて仕方なかったのかもしれない。
彼の状況を考えれば、これまで相当なストレスを抱えながらの生活だったろう。
たまにはこうした催しで羽目を外すのもいいだろう。
「君たちも、参加したいものはここに残りたまえ」
「では、お言葉に甘えて」
こうしてトーマスほか、数名の兵士たちがクレアとともに、ビスマルクの主催した『停戦パーティー』へ参加することになった。
「あはははっはは」
ビスマルクの高笑いが聞こえた。
「君らは、本当に馬鹿だねええ」
「?」
クレアは疑心暗鬼に陥った。
「まさか?」
「僕たちのことを本当に信用したのかい?
さて、君らは人質となったわけだが」
クレアの周りは、T国軍の兵士たちが取り囲んでいた。
銃こそ向けられてはいなかったが、ここから逃げることは叶いそうになかった。
パーティーに参加するということで、クレアを護衛してきた兵士たちは、自分たちが身に着けたいた武器はすべて相手が言う通りに、傍らにきた従者たちに預けていた。
「メシア、どうするんですか」
トーマスはいつも以上に青ざめた顔でクレアの方を振り向いた。
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