パーミアンスグリーンな木曜日(その3)

 ワグナーはビオロンという楽器を知らないらしい。

 ワグナーという名前なのに、ビオロン、つまりバイオリンを知らないということに、クレアは何か皮肉めいたものを感じていた。

 王宮に戻る車中で、クレアはワグナーにできるだけわかりやすく、ビオロンについて説明した。

 不覚にもT国の海軍をY国の海軍と勘違いしてしまったこと。

 そして、水夫の一人が持っていた楽器を半ば無理やり持たされて、自分の世界で知っている曲を奏でたこと。

 そのときに弾いた楽器がビオロンだということを簡単に話して聞かせた。

 ワグナーは「なるほど、そうですか」と言ったきり、ビオロンという楽器についてはあまり関心を示すこともなかった。

「それにしても、大胆な奴らですな。我が国の港に乗り込んで酒盛りを始めたり、挙句の果てにクレア様に妙な楽器を演奏させたり」

 ワグナーは運転手の隣の助手席で前を向いたまま、クレアに語りかけた。

「あなたを盾にされて逃げられてしまったことについては、全くもって面目ない」

「いえ、私も油断してました。そんなに謝らないでください」

 助手席で頭を下げ続けるワグナーをクレアは宥(なだ)めた。

 

  *


 港でビスマルクを取り囲んだ兵士たちは、ワグナーとクレアの乗った車を護衛するような形で、王宮まで進んでいった。

 まさに大名行列か、パレードかという感じの物々しさで、クレアは、車の中からも、通りを行きかう人々の視線が自分たちに向けられているのを感じざるを得なかった。

「なんだか、恥ずかしいわね」

「そうですな、でも、しかたないでしょう。あなたをこれ以上危険な目に晒しては、彼らもメンツが立ちませんからな」

 ワグナーは、前を行く隊長の乗った車の方を顎で示しながら、面白そうに言った。

 彼にとっては、かつては指揮官として、こうした大名行列はお馴染みのことだったかもしれない。

 そうした過去の栄光を、ワグナーは懐かしんでいるかのように、道行く人々が振り返る姿を目を細めながら見ていた。


 王宮に戻ると、入り口では、使いの者が待ち構えていた。

 ワグナーが車を降りるやいなや、使いの者は駆け寄ってきて告げた。

「これからT国との戦闘に向けて、緊急の作戦会議を行うので、『紅蝙蝠(べにこうもり)の間』に集まるようにと、軍部からの言付けです」

「私が、その場に出向いてもいいのかね?」

 ワグナーは皮肉っぽく言ったつもりだが、使いの者には、通じなかったのか、あえて無視したのか、返答はなかった。


「ねえ、なんでベニ・コウモリの間って名前なの?」

 王宮のエントランスに向かう階段を上りながら、クレアがワグナーに尋ねた。

「特に意味はありません。広間を識別するためのただの名前です。

 ここには、先ほどエンゲルス様にお会いした大広間の「金獅子の間」のほか、これから会議を行う「紅蝙蝠の間」と「紫狐の間」「青ウサギの間」「黄色狼の間」の4つの広間がございます」

 クレアをエスコートするように、エントランスへ進みながら、ワグナーが教えてくれた。


 使いの者は、クレアの後ろに付いて歩きながら、「クレア様には、王宮内の客室をご用意させていただきましたので、そちらの方にお移りください。なお、勝手ながら、ホテルの部屋からお荷物を王宮の客間の方に移させていただきましたので、ご了承ください」と述べた。

「クレア様も、お部屋で少しお休みを取られたあと、広間の方にいらっしゃってほしいとのことです」


 *


 紅蝙蝠の間には、軍服姿の連中が集まっていた。

 円形に組まれたテーブルの中央に座っているのは、白い髭を蓄えたいかにも偉そうな軍人だ。

 胸にたくさんの勲章を付けているところを見ると、かなり位も高そうだ。

 きっとワグナーがこうした中央の位置に座っていたこともあったのだろうが、今はほぼ末席の位置で、クレアが広間に入ってくるのを見守っていた。

 クレアは部屋にいたすべての連中の視線を浴びながら、進んでいった。

 案内に立っていた従者に促されて席に着いたが、そこは部屋のほぼ中央で、自分の前にはテーブルがなく、何かの事件の被疑者として、これから尋問でも受けるかのような感じだった。

 クレアは急に不安になり、ワグナーの方を見たが、ワグナーは大丈夫というふうにクレアに頷き返した。


「さて、皆さん、お集りのようなので、早速、作戦会議を始めたいと思います。

 私が議事進行役として、司会を務めさせて頂きます……、

 ええ、改めてご紹介するまでもありませんが、ここにおられる何人かの方とは、初めてお会いすることになりますので……」

 テーブル席から一人の男が立ち上がり、そう述べながら、ホワイトボードの前まで進み、自分の名前らしき単語を書き並べた。

 当然のことながら、クレアには何と書いてあるのかわからない。

「司会進行役の、ヘーゲルです」

 ヘーゲルと名乗ったところを見ると、ホワイトボードに書かれているのは、きっと、彼のフルネームなのだろう。

「ヘーゲル大佐、我々も自己紹介するのかね」

 席の中央にいた白い髭の男が、ヘーゲルに尋ねた。

「ああ、ブラウン中将、私が、ここのメンバーをざっと順番にご紹介させていただきますから、少々お待ちを」

 なるほど、中央の席の人は、ブラウンさんか、それがわかっただけで、クレアには十分だった。

 たぶん、この会議でキーとなる人は、この司会進行役のヘーゲル大佐と、白い髭のブラウン中将に違いないと、クレアは思った。

 

「で、そちらが、ワグナー、…元将軍です」

 ヘーゲル大佐は、テーブル席に着いた最後の一人のワグナーを紹介すると、クレアの方に向き直った。

「そして、そちらのお嬢さんが、今回、この世界に救世主として、招かれた、えーと…」

「タマナハ・クレアです」

 ヘーゲル大佐が、手元の資料を見返したので、クレアが立ち上がって先に答えた。

 クレアが名乗っても、席にいた連中は無反応だった。

 クレアとしても、別に拍手とかを期待していたわけではないが、もう少し何かリアクションがあってもよいのではないかと、少し残念な気持ちになった。

「さて、今回の戦闘ですが、皆さま、すでにご承知のことと存じますが、掻い摘んでご説明申し上げておきます。

 そもそもの遠因となっているのは、我が国とお隣りのT国、そしてO国との歴史的な関係にあります」

 広間の白い壁一面をスクリーン替わりとして、プロジェクターのような画像が映された。

 そこに現れたのは、日本列島のような形の島国の地図だった。

 クレアが想像した通り、このY国は、神奈川県、さらに静岡、愛知、三重辺りと同じような場所に位置しており、T国は、東京都、さらに埼玉、千葉、茨城、栃木、群馬の関東一円の地域が一つの国なっていた。

 O国は、奈良、京都、大阪から山口まで、西日本のほぼすべてが一つの国になっている。

 ちなみに、北海道は、SP(サッポロ)国、東北は、SD(センダイ)国、四国はSK(シコク)国、九州はH(ハカタ)国と略称されていた。

 つまり、この世界では、日本が7つの国に分割されて、統治されていることになる。

 T国とY国は隣国として接している関係上、近年まで良好な関係を結んでいたが、Y国がO国と新たな同盟関係を結ぼうとする動きに、T国側は嫌な顔を見せ始めた。

 T国とO国は、Y国を挟んで互いに敵対し合っていたからだ。

 それが先の戦いの原因ともなっていたが、エンゲルスが救世主として現れたことで、ひとまず決着が付いた。

 しかし、T国とY国とは遺恨を残す結果となり、境界線となるタマ川べりには壁が築かれ、現在に至っている。


 ヘーゲル大佐は、今回のいきさつを話すついでに、このY国の事情について、クレアに説明してくれたのだろう。

 そうしたゲストへの配慮をよそに、席に着いている何人かの軍人は、ヘーゲルが説明を始めてしばらくすると、あくびを噛み殺したり、居眠りを始めたりする者もいた。


「…以上が、これまでの経緯となります」

 ヘーゲルの説明によると、クレアが遭遇した戦いの数日前から、すでにT国、Y国の両軍ともに、幾つかの部隊を国境沿いに配置し、臨戦態勢に入っていた。

「ただ、我々Y国軍とT国軍の部隊とでは、決定的な違いが存在しております。

 それが、T国軍における『獣人兵』の存在です」

 壁のスクリーンには、クレアが最初の襲われた黒い羽根の生えた兵士の姿が映されていた。

「T国には、こうした獣人兵、特に羽根を持って鳥のように空を飛べる兵士の部隊のいることが確認されております。

 残念ながら、我が国には、こうした空を飛べる獣人兵がおりません」

「いなければ、作ればいいだろう、その獣人兵の部隊とやらを」

 野次のような声が出席者から飛ぶと、部屋中がざわつき始めた。

「皆さん、ご静粛に。

 我が国にも、『獣人』は確かに存在しますが、兵士の数は部隊を編成できるほどおりません。

 確認できたところによると、T国の獣人兵の数は、5万人と推測されています。そのうち9割の4万5千ほどが、空を飛べる鳥人系の獣人兵のようです。

 一方、我が国の獣人兵は微々たるもの。狼系、馬系、鳥系の三族合わせて、百人にも満たないほどです」

 ヘーゲル大佐がまるでT国の戦力を誇るように、得意げに述べた。

「我が国の鳥系兵は、何人いるんだ」

 震え声で聞き返す声がした。

「さあ? それこそ数えるぐらい、23人が確認されております」

 手元の兵士リストを見ながらヘーゲルがそう答えると、広間は静まり返った。

「そこでお願いしたいのが、こちらのクレア様ということになります」

 ヘーゲルがクレアの方を振り返ったので、出席者全員の注目を再び集めることになった。


(ええ? 私に5万人に近い兵士の相手をしろというの?)


 声にこそ出さなかったが、クレアは心の中で悪態を吐(つ)いた。

「クレア様には、ワルキューレの部隊が付いています。

 獣人部隊は、彼女たちに食い止めてもらいます」

「ちょっと、ヘーゲルさん、勝手なことを言わないでください」

 クレアはこの席に着いてから初めて声を上げた。

「おやおや、クレア様、あなたはエンゲルス様のご依頼を引き受けてくださったと聞いておりますが」

「そんな依頼は受けていません」

「ですが、この戦いに協力して頂けるということは、ワルキューレには、獣人兵をなんとかして頂くということにほかなりませんよ」

「確かに彼女たちは、一騎当千と聞いています。

 私もこの目で、彼女たちが黒い羽根の兵士を相手に戦う姿を目にしました。

 彼女たちなら、一人で百人を相手に戦うことも可能でしょう。

 でも、5万人の兵士を相手に戦うとなると、さすがに無理です」

 クレアは先の爆弾騒ぎでワルキューレの一人が傷つくのを目撃している。

 女神ということだが、彼女たちも不死身ではないようだ。

 エンゲルスから、ワルキューレの部隊は千人程いると聞いているが、今回の戦いで全軍が出撃できるとは思えない。

 出撃できたとしても、せいぜい百人程度か…。

 たとえ全軍出撃できたとしても、相手が5万人では、彼女たちとて、力尽きてしまうだろう。

 ヘーゲル大佐は、自分たちを捨て駒として考えているとしか思えない。

「これは困りましたな。私はこの提案を喜んで引き受けて頂けると思っておりましたが……」

 ヘーゲルは、ワグナーの方を見ながら、いかにも困ったような表情を作ってみせた。

「ヘーゲル大佐、失礼ながら、クレア様は、救世主としてこちらに召喚されたのです。

 前線に立って、獣人兵を食い止めるというのは、筋違いではないかと」

 ワグナーはそう意見を述べると、ポケットからハンカチを取り出して額の汗を拭いた。

「いえいえ、クレア様に前線に立てとは申しておりませんよ。

 前線は別の部隊が引き受けます。

 クレア様とワルキューレの部隊は、この位置まで進み、獣人兵たちがこのライン以上に立ち入らないように、食い止めて頂きたいのです」

 スクリーン上には、具体的な部隊の配置が示されていた。

 確かに前線ではないが、危険な位置まで進むことに変わりはない。

 クレアは改めて思う。


(これが彼ら軍人が考える、救世主としての自分の役割というわけか……)

 クレアには一つの決意があった。

 前線ではないということがわかれば、それでいい。


「わかりました。ヘーゲル大佐。

 その作戦、お引き受けします」

 まだ何か抗弁しようとワグナーが身構えたとき、クレアが申し出た。

「クレア様、よろしいんですか?

 前線ではないとはいえ、大変危険な位置には違いありませんよ」

 ワグナーが目を丸くしてクレアを見返した。

「では、クレア様は、ワルキューレと連絡を取って、早速準備を進めて頂きたい。

 出発は明朝、予定時刻は6時。

 具体的な作戦内容については、貴殿にお任せします。

 では、次」

 ヘーゲル大佐はそれだけ述べると、各小隊の作戦計画の検討に移った。

 先ほどまで居眠りをしていた軍服の一人が「はっ」と敬礼しながら立ち上がり、自分の部隊の作戦計画を述べ始めると、ヘーゲルが「ちょっと待て」と手で制した。

「ああ、クレア様は、もう退席されて結構です。

 では、カイル少尉、先を続けて」

「はっ、我々第十三部隊は、現在、西方面、マチダ地区よりK098地点に陣を構えております。これより部隊は……」

 追い出されたような形になったが、これ以上具体的な作戦計画について聞かされていても、確かに無意味だ。

「クレア様……」

 クレアが退席を決めて広間から廊下に出ると、後ろからワグナーが付いてきた。

「本当によろしいんですか?」

「ワグナー、そのことについて私に考えがあります。

 ちょっと相談したいことがあるので、私の部屋までお願いします」

 例え軍事的な相談とはいえども、ワグナー一人だけでクレアの部屋に入るのは、憚られた。

「誰か、別の者も同席させたいのですが」

「いえ、内密に相談したいので、ワグナー、あなた一人でお願い」

 クレアはそう言ってから、ワグナーの気持ちを察してちょっと考えた。

「そうねえ……、では、あなたが信用できる人をもう一人呼んでください。

 5分、いえ、10分後に私の部屋へ来てください」

 あまり間を置くと、疲れていることもあり、横になってそのまま眠ってしまいそうだ。

部屋に戻る途中、やっぱり5分後でもよかったのではないかと、思い直した。


 *


 10分後、クレアが簡単に身支度を整えていると、部屋のドアをノックする音が聞こえた。

 ワグナーに違いない。

「どうぞ」

 クレアが返事をすると、ワグナーが女性の従者を従えて入ってきた。

「クレア様、こちらは、娘のイゾルデです」

 金髪で端正な顔立ちの女性だ。

 黒いメイド服を着ており、ワグナーの娘だと紹介されて、一瞬戸惑ってしまった。

「ああ、申し遅れましたが、こちらの宮殿でメイドをしております。

 クレア様のことを少々お話した際、ぜひお会いしたいと申しておりましたので、この機会にお連れしました」

 クレアはワグナーと最初に会ったときに、娘がいるのを聞いたことを思い出していた。

 美しいがどこか陰のある女性だ。

「イゾルデです。クレア様」

 スカートの裾を少し持ち上げて丁寧に挨拶したイゾルデは、必要以上に語り掛けてこない。

 メイドとしての教育が行き届いているに違いない。

 本来であれば、将軍の娘として、幸せな人生を歩めたかもしれないのに、今は一メイドとして、こうして宮廷で日々労働に励んでいるのだ。

 だが、下手な同情はすべきではない。

 ワグナーも言っていた通り、Aクラスの者に見初められれば、さらに逆転の人生だってあり得る。

 

「では、明日の出陣について、具体的な作戦を練るとしますか。

 イゾルデは、そちらの隅で待たせておきます」

 陸路をどのように進むべきか、この世界の地理に詳しくないクレアは、ワグナーの意見が聞きたかった。

「やはり、ここまでは車で行くしかないのかしら」

 ワグナーが持参した地図をテーブルの上に広げながら、クレアは尋ねた。

「いえ、正直申しまして、この世界の車は戦闘には、不向きです。

 ちなみに、クレア様は、馬に乗ることはできますか?」

 乗れないと、答えようとしたが、実は乗馬経験ならクレアにはあるのだ。

 近年は乗っていないが、小学生の時は、馬術の手ほどきを受けたことがある。

 自信はないが、いざとなったら乗れないこともない。

「クレア様は、騎馬隊と一緒に行動を共にして頂きましょう。

 直接の乗馬は難しいでしょうから、戦地には馬車で向かわれるとよいでしょう」

 クレアがすぐに答えないのを見て、乗馬は無理と悟ったのか、ワグナーは、馬車に乗ることを提案した。

 なるほど、陸路を進むには、『馬』という手があったのだ。

 騎馬隊は、この打ち合わせが済み次第、ワグナーが手配してくれると約束してくれた。


「そうなると、話は早いです」


 クレアは、ワグナーが騎馬隊のアイデアを出してくれたお陰で、自分の考えていた作戦が、さらにうまく運びそうだとの確信を深めていた。

「では、私が考えた作戦をお話します」

 クレアが切り出した。


  *


 ワグナーはクレアの立てた作戦を聞き終えると、しばらく無言のままでいた。

 クレアは自分の作戦について、話す前までは、ワグナーの同意をすぐに得られると確信していた。

 しかし、ワグナーがなかなか返答しない様子に不安になった。

 この急場で、こんな小娘がふと思いついた作戦など、うまく行くわけがない、そう思っているのかもしれない。


「クレア様、今お話しされた作戦ですが、私個人の意見を申しましょう」

 クレアは必要以上に眉間に皺を寄せて地図を睨みつけているワグナーから、どんな意見が飛び出すのか、心配になった。

「私個人としては、この作戦が成功すれば、喜ばしいと申しておきましょう」

「ただし、この作戦が成功するかとなると、それは五分五分という気がします。

 いや、むしろ、危険ですらある。

 なぜなら、今のあなたが、この国においてそれほどの信頼を得ているかということです」

「つまり、個人としては賛成だけど、政治や軍事の専門家としては、辞めておけということ?」

「辞めておけとは言いません。

 あなたが立てた作戦ですから、私は協力を惜しみません。

 成功するにせよ、失敗するにせよ、覚悟があるなら、やるべきです」

「覚悟というのはどういう覚悟かしら?

 もっと具体的に聞かせてください」

「つまり、元の世界には戻れないかもしれない。

 もっと言えば、『死』を覚悟しているかということです」

 今度はクレアが黙る番だった。

 失敗すれば、死ぬこともあり得る。

 しかも失敗する確率はかなり高いかもしれない。

 薄々は気づいていたけれど、頭の中でこの作戦を立てた時点では、自分のアイデアに酔っていて、自分が死ぬことまで気が回らなかった。

 改めてワグナーから冷や水を浴びせられて、考えざるを得なかった。

 果たしてこの世界のために、自分は死ぬことができるのか。


「では、その作戦は、辞めておきますか。

 明日は、通常の作戦で……」

 ワグナーが立ち上がりかけたとき、クレアは決意した。

「待ってください。

 迷いは吹っ切れました。

 今私がお話した通りの作戦でいきます」

 クレアが引き留めるように、そう言うと、ワグナーはしばらくじっと立っていたが、気を付けの姿勢をとって敬礼した。

「了解。

 では、明日はその作戦を実行します」

「イゾルデ、行くぞ」

 ワグナーと打ち合わせしていた間、控えの間にいたイゾルデには二人の話は筒抜けだったに違いない。

 だが、クレアは一目見たときから、彼女のことは信用していた。

 大丈夫、明日はきっとうまくいく。


  *


 疲れはピークに近かったが、まだやるべきことがある。

 明日の作戦をワルキューレたちに話しておかねばならない。

 クレアは、ワルキューレを呼ぶために、宮廷の屋上を目指して急ぎ足で階段を上っていった。

 宮廷の屋上にたどり着くと、いつの間にか夕闇が迫り、すでに月が上っていた。

 きっと満月に近いのだろう。金色に輝く丸い月は、自分の世界の月と変わらない気がした。

 クレアは、空を見上げて、彼女(スクルド)に『思念』を送った。

 青白い空がほとんど闇に飲まれる頃、月の光を背に受けて、白い翼の影が近づいてくるのが見えた。

 最初に見たときは、恐怖しか感じなかったその影に、今は感じるのは心強さだけだ。

 ふわりと目の前に降り立ったスクルドに縋りつきたい、あるいは抱きしめたいという衝動を抑えながら、クレアは、言った。

「明日の戦いについて、スクルド、あなたに話しておきたいことがあります」

「? なんだ、救世主(メシア)よ、泣いているのか?」

「え、泣いてなんかいません」

「そうか、ならいいが、頬が濡れているぞ」

「泣いてなんか、いない」

 クレアは、勝手に涙が流れていたことに自分でも驚いていた。

「泣いてなんか、いないんだから」

「わかったから、もういい」

 スクルドは、クレアの肩を抱き寄せて軽く背中を叩いてやった。

 クレアは遠慮なく、スクルドの胸に顔を埋めると、さめざめと泣き始めた。

 スクルド自身、なぜそうしてやったのかわからない。

 そんなことをした覚えは、生まれてからこれまでに一度もなかった。

 救世主と呼ばれてこの世界に来た人間は、男女ともに、精神的に何かしら強いものを持っていた。

 クレアも例外ではなく、強い心を持っているとスクルドは感じている。

 だが、彼女には、最初に見たときから、妹に対するような懐かしさを感じていた。

「ごめんなさい。もう大丈夫」

 ひとしきり泣くと、クレアはぴたりと泣き止んで、スクルドの体から離れた。

 クレアは、スクルドの胸元が自分の涙で濡れているのに気づいて恥ずかしくなった。

「本当にごめんなさい」

 ハンカチは持っていなかったので、反射的に素手でスクルドの胸元を拭ったが、その仕草にスクルドが顔を赤らめた。

「大丈夫だ、気にするな」

 スクルド自身、なんでこんなことで恥ずかしがってしまったのか、よくわからない。

 戦闘の際、兵士たちに幾度も胸元を掴まれたり、時には露わになることもあったが、恥ずかしいという気持ちを抱いたことはなかった。

「まあ、いいから、明日の戦いのことを聞かせてくれ」

 スクルドに促されて、クレアは仕切り直した。

「では、改めて、明日の作戦について、話しておきます」


 やがて銀色に輝き始めた月が生み出した、宮殿の屋上に並んだ二人のシルエットを、二人の男が部屋の窓から眺めていた。

 一人はワグナー、そしてもう一人はエンゲルス王、その人だった。

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