パーミアンスグリーンな木曜日(その2)
「海がパーミアンスの日は、魚がよく獲れるのだ」
ハイネは面白くもなさそうな顔でそう言うと、ビールの盃を飲み干した。
「滅多に口に入らない珍しい魚が獲れるときもある。この間は、50ミーツのハマ・ダイが10匹以上も釣れたよ」
「ミーツ」とは何の単位なのか、クレアにはピンとこなかった。
「ああ、そうか、お嬢ちゃんは、この世界の人じゃないから、単位のことはよくわかんないよね」
ビスマルクは、クレアのことをいつの間にか「ちゃん付け」で呼んでいた。
「うん。50ミーツってのは、お嬢ちゃんの背丈のちょうど半分ぐらいの大きさかな」
「いや、50ミーツは、こんぐらいだぞ」
ハイネが手を両手を広げて示したサイズは、だいたい50センチほどだ。ミーツという単位は、『メートル』と同じぐらいらしい。
ということは、ビスマルクは、クレアの身長を1メートルぐらいだと思ったのか。
「ビスマルクさん、私の身長、そんなに低くありませんよ」
「まあ、似たようなものだ」
ハイネはクレアの頭の天辺からつま先までをざっと見て、納得したように頷き、先を続けた。
「だが、そうしたハマ・ダイのように滅多に取れない魚も、わしら庶民が口にすることはまず無理だ。真っ先にA級市民様の食卓に上るというわけだ」
ハイネは、クレアがぶら下げていたIDPに気づくと、皮肉を込めたように言った。
クレアはこの世界に来て間もないわけで、もちろん、そんな高級魚を食べたことはない。
しかし、ハイネにそう言われて、クリスタルのIDPを着けている身として、何か癪に障った。
「ハイネさんたちは、それで生計を立てているわけでしょ。高級魚を高いお金で買う人がいることで、商売が成り立っているんじゃないの?」
クレアはつい勢いで口に出してしまった後で、ちょっと言い過ぎたかなと反省した。
「もちろん、珍しい魚ということは、数が少ないわけで、すべての人に平等に与えることはできない」
ハイネは、漁師ならではのゴツい手で皿に盛られていたクルミのような木の実を掴み、指先でバリっと割って中身を取り出すと、口の中に放り込み、ビールと一緒にボリボリと噛み砕いた。
「いいかね。珍しい魚が一部の金持ち連中の口にしか上らないとしたら、どうすればいいか。この世界にわずかしかない貴重なものを、平等に分けることができないとしたら、どうすればいいのか」
それは仕方がないことだと、クレアは直観的に思った。
自分の住んでいた世界でも、貴重な宝石は高いお金で取引されていて、一部の金持ちしか手に入らないものも多い。
しかし、それで文句を言っても始まらない。
貴重なものを手に入れるには、お金が必要だし、お金がなければ稼ぐしかない。
それがクレアの住む世界にある『資本主義』の原理というものだ。
平等を求めるなら、うまくいくか、いかないかは別として、共産主義の道を歩むほかない。
「いいかね、最良の方法はな……」
クレアが答えあぐねているの見て、ハイネはゆっくりと口を開いた。
『いいかね』というのは、ハイネの口癖のようだ。
「貴重なものには、手を出さないということだ」
「手を出さない?」
「そう、一切手を付けないことだ。貴重なものは、貴重なままで崇めておく。そうすれば、人々は平等なままでいられる」
「それは無理じゃないかしら。貴重なものは誰もが手に入れたいと思うわけでしょ? 現におじさんは、貴重な魚を捕まえているわけで、すでに存在しているものを無視するわけにはいかないんじゃないの?」
ハイネは、クレアが言い返すのを、口元で冷ややかに笑いながら聞いていた。
「だから、戦争が起こるのだ。貴重なものだけではないぞ。人々は、どんなつまらない物でも、欲しくなれば、それを奪い合う。分かち合うことができないから、争いが起こる」
宮廷の庭園にいた庭師のユングと同じようなことを言う。
この国の連中は理屈屋が多いのだろうか、それと、たまたまそういう人と遭遇してしまっただけなのか。
「いいかね、分かち合えないものは、無理に分かち合う必要はない。貴重なものとして『神』のように崇めておればいいのだよ」
クレアは、ハイネの言い分は何か答えになっていないという気がした。
漁師を営んでいるのに、貴重なものには手を出すなというのは、どこか矛盾している。
そう思うのなら、貴重な魚は最初から捕らなければいいではないか。
クレアと同じような疑問を抱いたのか、ビスマルクが口を挟んだ。
「ハイネさんよ。理想論ばかり言ってもらっちゃあ、困るなあ。そういう争いごとがあるのが、人の営みってものなんだよ。
このお嬢ちゃんの言うように、あんたがハナ・ダイを釣ってきたのは、それを自慢したかったからだろ?
本当にそう思うのなら、貴重な魚を釣ったときは、すぐに逃がせばいい」
ハイネはそれを聞いて高らかに笑った。
「ハナ・ダイじゃなくて、ハマ・ダイだよ。
まあ、それはいいとして、そうさ、あんたの言う通りだよ。
わしだって、漁師として生計を立てているんだ。貴重な魚を捕まえることができれば嬉しいもんさ」
この連中は、こうして酒を酌み交わしながら、言葉遊びをしているだけなんだろうか。
ハイネの話をまともに聞いているのは、ビスマルクとクレアぐらいのものだ。
クレアの隣にいるジェニファーも、途中からロペスら数人がしている別の会話に入り込んでいる。
テーブルにいる連中は皆で同じ話をしているのではなく、数人のグループに分かれ、それぞれの話題で盛り上がっていた。
「それで、でっけえ、タコの足みたいなのが、海上にバーンって現れてさ、前を走っていた船があっという間に叩き壊されちゃったんだよ」
「ああ、それ、俺も見たよ。あれは、きっとクラーケンってやつだよ」
時折、大声で相槌を打つ声がする。
テーブルをバンバン叩いて大笑いする男がいる。
巷の酒場でよく見られるワイワイガヤガヤという言葉がぴったりの雰囲気だ。
ビスマルクは自分たちを海軍と言っていたが、この連中の姿はどう見ても海賊だ。
クレアは、これ以上酔っぱらいの相手をするのは、辞めようと思った。
*
「興も乗ってきたことだし、ここいらで歌でも唄おうか」
ふいに、ビスマルクが船員たち全員に呼びかけた。
「おう、歌おう、歌おう」
ビスマルクの呼びかけに、皆が賛同した。
「なあ、カルロ、一つ伴奏を頼む」
「よしきた!」
ビスマルクに請われて、カルロと呼ばれた男が、傍らにあった黒いケースから、小型の楽器を取り出した。
クレアはそれを見て驚かないわけにはいかなかった。
それはどう見てもバイオリンだ。
カルロはそのバイオリンに似た楽器と、弓を取り出すと、少しだけチューニングを合わせて、弾きだした。
それはクレアの耳からはお世辞にもうまいとは言えなかったが、歌の伴奏としてはまあまあ聞けるものだった。
「じゃあ、まずは、みんなで『あれ』をやろう」
「よっしゃあ、『あれ』ね」
カルロがリズムよく伴奏を始めた。
♪~俺たちゃ、船乗り
生まれたときから、船乗り
死んでも船乗り
海で生きるのさ
食べるものは、いつも魚
港で酒を仕入れ
パンを齧れば幸せ
船に穴が開きゃ コルクで塞ぎ
風がなきゃ オールで一漕ぎ
岸が近づけば 笑い
波が高けりゃ 騒ぐ
そうさ、俺たちゃ、船乗り ~♪
皆が声を合わせて歌う中、クレアとハイネだけが黙って聞いていた。
陽気な歌声とは裏腹に、歌詞には船乗りたちの哀愁が籠っていた。
ハイネはこの歌を知らなかったのか、あえて参加しなかったのか、無表情のまま、ビールを飲み続けていた。
クレアはもちろん初めて聞く歌だったが、歌詞はともかく、どこか懐かしいメロディのような気がした。
イギリスの古い民謡にこんな節回しがあったような気がする。
カルロのバイオリンの弾き方も、どこか、バグパイプを彷彿とさせるような間合いの取り方だった。
「もしかして、あの楽器に興味があるのかい?」
隣にいたジェニファーがクレアに問い掛けた。
「え? どうして?」
「食い入るように見ているからさ」
「うん、私が知っている楽器にとてもよく似ているものだから」
それを聞いてジェニファーが、カルロに呼びかけた。
「なあ、カルロ、このクレアが、ちょっとその楽器、弾かしてくれってさ」
クレアは驚いて、ジェニファーの方を振り返った。
「ええ?」
「弾けるんだろ、あの楽器」
カルロは、ジェニファーの呼びかけに、「よっしゃあ、お嬢ちゃんの知ってる曲、聞かしてくれよ」と言いながら、近づいてきた。
気づくとクレアはバイオリンと弓をカルロから手渡され、立たされていた。
「よっ、今度は、お嬢ちゃんの番か、いいぞ」
酔っ払いどもがはしゃいでいた。
幼い頃から培われた一連の動作は、呼吸をするのと同じように、無意識のうちに、起動するようだ。
クレアは弓のフロッグ(毛箱)部分を人差し指と親指で軽く握って、ブラブラと振った。
クレアは顎と左の鎖骨でバイオリンの胴を挟み込むと、弦のチューニングをし直した。
カルロのチューニングは、本来の音よりも半音低い。
その仕草を見ただけで、周りの連中は、クレアの楽器の扱い方が只者ではないことを感じ取ったようだ。
ざわざわとしていた空気は、波が引くように静まり、やがて固唾を飲んでクレアが弾き始めるのを待った。
クラシックのコンサートが始まる前の一瞬の静寂に似た瞬間だった。
クレアはバイオリンを渡されてから準備をする間、どんな曲を演奏すべきか、考えていた。
これまで練習を重ねてきた曲は、それこそ五万とあったが、この場で弾くべき曲となると、ちょっと悩むところだ。
バイオリンをソロ楽器として奏でる場合、あまり技巧的な曲では、ピアノやオーケストラの伴奏がない場合、独り善がりの演奏になりがちだ。
例えば、チゴイネルワイゼンをバイオリンだけで弾いても、初めてこの曲を聴く人にはピンとこないに違いない。
これまでピアノの伴奏が入っている曲を聴き知っている人は、ソロを聞いた時も、鳴っていない伴奏のピアノやオーケストラの音を補いながら、聞いているものだ。
ハーモニーやリズムを頭の中で補いながら聞いているので音楽として感じることができるのだ。
だが、初めて聞く曲を、単音のメロディだけで奏でたとしても、たいていの人は、それを音楽として感じにくいものだ。
クレアは、そうした音楽に関する聞き手の心理的な部分についても、これまでの経験からある程度は心得ている。
クレアにだって、バイオリンを長年に亘り弾いてきたという自負がある。
下手に弾いて場を白けさせるのは、プライドが許さない。
チューニングを終えて、クレアは弓の毛を若干張りなおした。
これは、やはり自分の世界にあるバイオリンとほとんど同じ楽器だ。
毛にはすでに松脂が塗ってあったが、若干ムラがあり、できれば、塗り直したいところだ。
でも、贅沢は言ってられない。
久々に弾くので、スケールをなぞりたかったが、周りの連中のまさに一挙手一投足を見守る視線の中で、手慣らしとしてスケールを弾くわけにもいかなかった。
これから居合抜きで青竹を割って見せようというときに、「ちょっと待って」と言って、素振りを始めるようなものだ。
(よし、弾くべき曲は決まった)
クレアは鼻で深呼吸すると、右手の弓を静かに弦に当てて、最初の音をレガートで奏で始めた。
『タイスの瞑想曲』
小学生の時の発表会で弾いた思い出の曲だ。
テクニック的には難しい曲ではないが、それだけに、腕の差がもろに出てしまう。
ビブラートは控え目にして、レガートを丁寧に……。
弾いている最中、クレアはひたすら目を閉じていた。
歌劇『タイス』の中で、ヒロインの娼婦タイスが瞑想するシーンを思い浮かべながら。
どれぐらいうまく弾けたのか、自分ではよくわからない。
久しぶりに弾いたこともあり、高揚感もあった。
ミストーンはなかったと思うが、楽器のコンディションがいまいちだ。
弾き終えて目を開けてみると、誰もが目を丸くして、静まりかえっていた。
バイオリンを貸してくれたカルロは、口をあんぐりと開けていた。
しばしの静寂のあと、周りにいたほぼ全員から嵐のような拍手が起こった。
「素晴らしい!」
「へえ、やるじゃない」
ジェニファーが妹を褒めるように、クレアの肩を揺すぶった。
腕組みして見守っていたビスマルクも感心したように、にこやかな表情をしていたが、
「やるな、おい」と、祝福の替わりに、隣にいた船員の背中をバンバン叩いていた。
「それ、なんて曲だい。とても美しいメロディだな」と船乗りの一人が尋ねたとき、
「お嬢ちゃんが自分で作った曲かね」と、仏頂面のハイネが被せて訊いてきた。
拍手こそしなかったが、心の中では感動していたのだろう。
「私の世界の曲で、ジュール・マネスという人が作った曲です」
「マネス?」
「お知り合いですか?」
「いや……」
この人が、あのハイネだとしても、マネスが生まれたのは、かなり時代が後なので、知っているはずがない。
クレアは自分でも馬鹿なことを尋ねてしまったと思ったが、心に引っかかるものがあったのか、ハイネはしばらく何かを考えているように黙っていた。
クレアから楽器を返されたカルロは、初めて手渡されたもののように、竿や胴体を不思議そうな顔で、しげしげと眺めていた。
近くにいた連中もカルロのそばに寄ってきて、「カルロが弾いているのと同じ楽器とは、とても思えないな」と冷やかすように笑っていた。
カルロは、クレアにもう少し弾いてもらいたかったのか、教えを乞うつもりだったのか、「なあ」と呼びかけて楽器を突き出したが、クレアの表情を見て躊躇した。
それは、たった今美しいメロディを弾き終えた少女とは思えないぐらい険しい顔つきだった。
*
「キャプテン、そろそろ」
テーブルの向こうで飲んでいた男の一人が何やら気配を察したように立ち上がり、ビスマルクの元にやってきた。
彼がビスマルクにそう告げたのとほぼ同時だった。
通りの向こうから、『ドカドカ』と、大勢が駆け寄る靴音が響いてきた。
靴音が鳴りやむと、建物の陰から、ワグナーを先頭に、制服姿の連中が現れた。
(視察が終わるまでここに来ないでほしいと言ったのに)
クレアはちょっと腹が立って、ワグナーの元へ抗議に行こうとしたときだ。
その腕をむんずと掴まれて立ち上がりかけた椅子へと引っ張り戻された。
「静かに」
クレアの腕を掴んでいたのは、ジェニファーだった。
「クレア様!」
ワグナーがそのようすに気づき、慌てた顔をクレアの方に向けていた。
よく見ると、現れた連中は、ワグナーの着ている警備員の制服とは異なる格好をしていた。
ボウガンらしき銃を携えた兵士らしき姿をしていた。
彼らは、ワグナーとは別の司令官らしき人物の号令で横に広がり始めた。
前方に片膝をついた兵士が一列に並び、後ろに立った兵士がさらに一列に並んだ。
まさに、ビスマルクたちに向けて、攻撃態勢を取っていた。
「え? どういうこと……」
クレアは、わけがわからず、その様子を見守るだけだった。
ジェニファーは腰に付けていた短剣を取り出し、クレアの首の辺りに軽く当てがった。
片方の腕でクレアの体は後ろから羽交い絞めにされていた。
「大丈夫、大人しくしていれば怪我はない。我々が船に乗るまでの間、ちょっと付き合ってもらうだけさ」
ビスマルクが小声でクレアに告げた。
これは人質にされたということだろうか。
「おい、きさまがビスマルクか。先ほど、本部から緊急連絡が入った。クレア様を放して大人しく投降しろ」
ワグナーは、拡声器のような円錐形の筒を口に当てて、ビスマルクに呼びかけた。
「いやいや、本当に笑わせるよねえ。
そんなこと言われて、『はい、そうですか』と大人しく投降するやつなんていないよねえ」
ビスマルクがそう言うと、テーブルに付いていたハイネ以外の全員が立ち上がり、身支度を整え始めた。
「ちぇえ、俺はまだ三杯目だぜ」
「文句言うんじゃねえ、カルロ、帰ってから飲み直せばいいだろ」
名残惜しそうにジョッキを手放さないカルロと呼ばれた男は、ロペスから頭を小突かれて、しぶしぶテーブルから離れた。
クレアはワケがわからず、ジェニファーに促されるまま立ち上がると、短剣を突き付けられたまま、船員たちとともに少しずつ後ろ向きに下がっていった。
「これはどういうことなの? あなたたち、反乱でも起こしたの?」
ジェニファーはそれを聞いて、説明してもいいのかと了解を得るように、ビスマルクの方を向いた。
ビスマルクはジェニファーを見て、いいよというふうに頷いた。
「私たちは、Y国じゃなくて、T国の海軍よ」
クレアはそれを聞いて、『えっ?』と声を漏らした。
確かにビスマルクもジェニファーも、自分たちがY国の海軍とは一言も言っていない。
そういえば、宮廷でエンゲルス王とワグナーが海軍について話をしていたとき、ビスマルクの名前が挙がっていたような……。
クレアはそれがT国軍かY国軍のどちらの提督だったのか、はっきりと覚えていなかった。
ジェニファーが身の上話をしていたときに、ロペスが肘で突いたのは、話の中で身バレしそうに感じたので、注意したのかもしれない。
「待って。なんでT国の海軍がY国の港にいるの?」
「なんでって、普通に、Y国の港を偵察しに来たってところかな」
ビスマルクは悪戯っぽく笑った。
いくら何でも、それは大胆過ぎると、クレアは思った。
しかし、会ったばかりではあるが、ビスマルクから受けた印象では、そんな大胆な行動を起こしても不思議ではない気がした。
クレアの知っている、あのヨシムラ先生にそんな大胆なところががあるとはとても思えないが、時代や背景が違えば、そんなものかもしれない。
ビスマルクの手下たちは、すでにそのように訓練されているのか、Y国軍の兵士が構えるボウガンの矢じりを背中に受けないように、ほぼ一列に並び、全員が器用に後ろ向きで船の前まで進んだ。
そして、ジェニファーに羽交い絞めにされたクレアを弾避けとして次々と船に乗り込んでいった。
ワグナーはクレアが人質に捕られているので、如何ともしようがなかった。
横に整列したY国軍の兵士たちとともに、ただ手をこまねていて見ているだけだった。
一方のクレアは、ジェニファーにナイフを突きつけられているとはいえ、まったく危険を感じていなかった。
彼女がクレアを傷つけるつもりがないことはハナから承知していた。
むしろ、クレアはジェニファーから後ろから片手で抱き付かれている形に心地良さに近いものを感じていた。
彼女に対しては最初に見かけたときから好感を持っていた。
よく見ると、ワルキューレの黒髪の一人になんとなく似ているような気もした。
クレアが身の危険を感じていないせいか、当のワルキューレの姿が上空に現れることはないだろう。
クレアは少し酒臭いジェニファーの吐息と汗の混ざった匂いを嗅ぎながら、少し酔ってしまったのだろうか。
信じられないことに、眠気まで感じ始めていた。
「お嬢ちゃん、まだ、ちょっと付き合ってもらうよ」
ジェニファーとクレア、すぐ後ろにいたビスマルクの三人を残して全員が乗船してしまうと、ビスマルクがクレアに囁いた。
「さて、Y国軍の皆さん、お疲れ様です」
ビスマルクが声を張り上げた。
「本日、こちらの港に立ち寄らせてもらったのは、ほかでもない。
これから貴国との戦闘が始まるとの報告を受けて、貴国の港の様子を探らせてもらいに来たわけです」
ビスマルクは真面目ぶっていたが、その発言の中身はかなりふざけていた。
ビスマルクもかなり酔っていたのかもしれない。
「その結果、わかったことが二つ」
「あやつ、ふざけおって」
ビスマルクを野次るワグナーの声が、クレアの耳にも届いた。
「Y国のビールは実にうまいということが一つ」
ビスマルクはそこまで言うと、クレアの横に並び、目配せしてから言い放った。
「噂の救世主は、とてもチャーミングなお嬢さんだということ、以上です」
ビスマルクは、クレアにウインクすると、ジェニファーに小声で 「もう放してやれ」と落ち着いた声で命令した。
ジェニファーは言われて通り、クレアからさっと離れると、ビスマルクとともに、船の乗降のため岸に渡されていた吊り橋をあっという間に駆け上がっていった。
クレアが振り返ってみたときは、吊り橋はすでに外されてスルスルと引き上げられていく最中だった。
その素早い動きは感心するほかなかった。
「クレア様、お怪我はありませんか」
ワグナーが駆け寄ってきたが、手を貸してほしくなかった。
クレアは大丈夫というふうに近寄るワグナーを手で制し、自ら立ち上がった。
見上げた船はすでに出航を始めていた。
駆け寄ったY国軍の兵士たちは、ボウガンを船目掛けて射ったが、何か申し訳程度の攻撃という感じがした。
矢の幾つかが、舩の側面に突き刺さっていたが、あまり意味はなさそうだ。
隊長らしき人物が、「撃ち方、止め」と合図を送ると、兵士たちはビスマルクの船を見送るような形になった。
ビスマルクが船上に顔を出し、
「また機会があれば、お会いしましょう。ごきげんよう」と告げて、手を振っていた。
「ああ、それから、お嬢ちゃん」
遠ざかる船から、ビスマルクが最後に叫んだ。
「また、ビオロンを聞かせてくれ!」
あのバイオリンは、この国では、ビオロンと呼ばれているのか、とクレアは思った。
「最後までふざけたやつだ。酔っぱらいめ」
ワグナーは悔しいどころか、むしろビスマルクの態度に好感さえ持っているかのように苦笑いを漏らして、そう言った。
「それにしても、ビスマルクの奴、クレア様が救世主という情報を、すでに掴んでいたようですな」
そう考えると、クレアの素性を知っていて、近づいてきたのかもしれなかった。
「もしかすると、ヤツの目的は……」
ワグナーはわざとらしく、顎を撫でながら、先を続けた。
「クレア様、あなたを見に来るのが本来の目的だったのかもしれませんね」
クレア自身も、もしかして、自分を見に来たのではないかと、感じていたが、そうなると、クレアがこの港に来ることをビスマルクは、あらかじめ知っていたのだろうか。
いや、そんなはずはない。
T国からこの港までは、隣の国といえども、あのタイプの帆船に乗って来るには、それなりの時間が掛かるはずだ。
あらかじめ情報を掴んだとしても、クレアがこの港を見ると決心したのは、彼らが出航したあとのはずだ。
Y国の偵察がてら、噂の救世主をついでに見ることができれば、それに越したことがないということか。
「恐れながら」
近くにいた軍の指揮官らしい男が、クレアとワグナーのやり取りを聞いていたのか、いないのか、そばに来てこう告げた。
「軍本部からの情報によりますと、ビスマルクの一行は、実はT国からではなく、遠征から戻って来る途中、Y国に立ち寄ったとのことです」
そういえば、先ほどの酒宴の席で、クラーケンの話をしているのを少しだけ耳にした。
それは海外遠征で起きた話だったのかもしれない。
ビオロンも、遠征に行ったときに、どこかの港町でカルロが手に入れたのだろう。
「もしかすると、クレア様がこちらに向かわれるということを、この近辺に潜んでいたスパイがキャッチし、この近くを航行していたビスマルクに伝えたということも考えられます」
「なるほど、それは一理ありますな」
ワグナーが指揮官の意見に相槌を打った。
いずれにせよ、クレアは今回の一件で、海上からT国へ向かうというワグナーが提案したアイデアは諦めていた。
ビスマルクのような海軍を相手にしては、勝ち目がない気がする。
それ以上に、ビスマルクやジェニファーたちと敵同士に分かれ、これから一戦を交える気にはなれなかった。
「ワグナー、せっかくの提案でしたけど、船でT国へ向かうのは、辞めにします」
「そうですか。まあ、ビスマルクが相手となると、ちょっと手強い気もしますな」
ワグナーは、クレアの決断に食い下がることはなかった。
「では、どうなさいますか?」
「真向から行きましょう」
クレアは特に思案することもなく言った。
「真向ということは、陸路を行くということですか」
クレアは頷いてみせた。
ワグナーはそれに対して、何も意見を言わなかった。
空がダメで、海がダメとなると、それ以外に道はない。
地下という選択もあるが、すでにトンネルでも掘られているのでなければ、それは無理な話だ。
いずれにせよ、どんなルートを選んだとしても、戦いに臨む限り、リスクは必ず付きまとう。
命を失う危険は避けようがない。
完璧ではないにせよ、クレアもその覚悟はある程度しつつあった。
「では、一旦、パレスサイドに戻るとしますか」
ワグナーが本部と連絡を取る間、クレアが先ほどまで大勢が屯していたテーブルの方を振り返った。
テーブルの隅では、ハイネが眉間に皺を寄せて、ぽつんと一人、ビールの盃をまだ傾けていた。
「ところで、クレア様、ビオロンとはいったい、何のことですか?」
ワグナーが思い出したように尋ねた。
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