決戦の金曜あるいはヘプタゴンの変

決戦の金曜あるいはヘプタゴンの変(その1)

 王宮は空から見ると、七角形の形をしていた。

 つまり、城壁には七つの角が設けられているのだ。

 そのため、王宮は別名『ヘプタゴン(七角形)』とも呼ばれていた。

 クレアの、つまり我々の世界でも、古今東西、五角形に組まれた城壁は多い。有名なところでは、函館の五稜郭や、アメリカのペンタゴンがある。

 イタリアの城塞は、星形要塞とも呼ばれ、正確には五角形ではないが、5つの頂点を結んだ設計は、防御の点、また、美しさの点からも、為政者たちに好まれてきた歴史がある。

 こうした城は、イタリアだけでなく、スペインやフィンランド、スイス、アジアではベトナムなど、世界各地にみられる。

 どれがオリジナルかというものでもなく、人々が潜在的に持っている美的感覚に照らして自然に築かれた『形』といえるだろう。

 しかし、この国の王宮は、七角形という中途半端というか、特殊な形状をしていた。

 ただし、それは上空から見た場合にそう見えるのであって、地上で生活する者たちに、その全貌を表すことはない。

 クレアも、ワグナーから王宮の見取り図を見せてもらうまでは、この城が七角形であることに気づかなかった。

 街の外から城の中に入るときに、確かに城壁の角度が90度よりも緩やかな角度だということに感づきはしたが、それが七角形だとは知る由もなかった。


「ねえ、なぜこの城は七角形をしているの?」


 クレアは、城の見取り図を見て、自然に湧いて出た質問をワグナーにぶつけてみた。

「はっきりとした理由は私にもわかりかねます」

 ワグナーにもその理由はわからないらしい。

「きっと、設計士の気まぐれかもしれませんな。

 この方が美しいと感じたのか、奇抜なアイデアが王族に受けると思ったのか、はたまた、最初にこの城を築城した王様自身の気まぐれか。

 いずれにせよ、合理的な理由はないと思いますが」

 この世界では、己の歴史というものにそれほど関心を払わないのだろうか。

 だが、クレアのいた世界も似たり寄ったりだ。

 エジプトのピラミッドやインカ文明など、失われてしまった古代文明には謎が多い。

 クレアもそれ以上、この城の形状については、追及することはしなかった。

 この王宮の七つの角のそれぞれには、尖塔が建てられている。

 正面の門の左手には、最も大きな見張り塔となる尖塔が一つあり、残り6つの角にはそれよりも小ぶりの尖塔が建っていた。

 見張り塔は鐘楼になっており、天井から大きな鐘がぶら下がっていた。

 ヨーロッパのように、ある時刻になると鳴らされるような鐘ではなく、危険が迫ったときにのみ鳴らされるいわゆる『警鐘』の役目を果たしていると、ワグナーは説明した。


「この数年、この鐘が鳴らされたことはありませんでした。

しかし先日、T国の軍勢がわが領土まで潜入した際に、打ち鳴らされることになったのです」

 スペクタルな映画を見た後で、己が感動したワンシーンを語って聞かせるかのように、ワグナーは興奮気味に話した。

 その数時間後、クレアはその城塞の屋上に立っていたが、そこは、見取り図で見ると、七角形の一辺、つまり城壁の一部となっていた。だが、壁と言っても、その厚みは学校の校舎ぐらいはある。

 横幅は少なくとも10メートルはあろうか。

 城壁の内側はクレアも当てがわれていた客室などの部屋になっていた。

 ワグナーとの打ち合わせを終えたクレアは、運ばれてきた夕食もそこそこに、部屋着の代わりにエミリアから貰った白いブラウスに着替えて部屋を抜け出すと、廊下の突き当りの階段を上って、城の屋上を目指した。

 らせん状になった階段を上っているときは、果たして城の屋上へ出られるのか心配になったが、最後はビルの昇降口のような建物があり、無事屋上にたどり着くことができた。

 鉄の重い扉が付いていたが、定期的に出入りしているのか、建具などが錆び付いていることもなく、軽々と開いた。

 出てきた建物を振り返ってみると、それは城塞の尖塔だった。

 そして見上げた先には、すでに日は沈み満天の星空が広がっていた。


(スクルド、今すぐ、ここに来て!)


 クレアは、スクルドに心の中で念じた。

 念じ方としてはとてもシンプルだ。

 果たしてそれで彼女が応じてくれるのか、疑問に思うことはなかった。

 それは、一緒に隣を歩いている友達に話しかけたり、電話で相手を呼び出すのと同じ感覚だった。

 逆に少しでも、その呼び出し方に疑念を抱くようなことがあれば、スクルドは来なかったかもしれない。

 間もなく、クレアが見上げていた天空の一点にぼんやりと光る物体が現れた。

 それはやがて、月の光の下で銀色に輝く翼の形となって近づいてきた。


   *


 自分はホームシックに罹っているだけだと、クレアは思った。

 たった四日間、別世界に迷い込んだだけで、自分のいた世界が恋しいなんて、自分でも不思議なくらいだ。

 なぜあんな世界が恋しいのか。

 友達も少ない、将来の目的もはっきりしない、工学部の授業に毎日せっせと出席して、時間のある時は、アルバイトに向かうだけのそんな単調な日々。

 それでも、その世界は自分が生きる世界なんだと、クレアははっきりと悟った。

 自分が生きるのは、この世界ではない。

 普段はつまらない世界だと思っていたのに、いざその世界から離れてみると、こんなにも恋しいのだ。

(ダージリンのような高級茶葉じゃなくていい、スーパーで売っているような安物のティーパックでいい、普通の紅茶が飲みたい)

 クレアは、スクルドの胸に顔を埋めながら、本気でそう思った。

(元の世界に帰ったら、まず紅茶を飲もう。

 そうだ、もうちょっとの辛抱だ)


「ごめんなさい。もう大丈夫」


 クレアが顔を上げると、そこには少しだけ頬を紅くしているスクルドの姿があった。

 スクルドの胸元が自分の涙で濡れているのを見て、クレアは素直に謝った。

「本当にごめんなさい」

「大丈夫だ、気にするな」

 スクルドはなぜかしきりに照れていた。

 それを見ていると、クレアは落ち着きを取り戻すことができた。

(なんか、すごく人間らしいのね)

 人間らしいというか、少女らしいというか、スクルドがとても可愛く見えた。

「まあ、いいから、明日の戦いのことを聞かせてくれ」

 スクルドは照れを隠すように、クレアに促した。

「では、改めて、明日の作戦について、話しておきます」


   *


 クレアが作戦を話し終えると、スクルドはワグナーと同じように押し黙っていた。

 ワグナーは眉間に皺を寄せてしばらく考え込んでいたが、スクルドは驚いたように目を丸くしたまま、クレアを見つめていた。

「メシア、いや、クレアと呼ばせてもらおう」

 スクルドは、何事か決意したような様子で、腰にぶら下げていた太刀をその鞘と、それを吊っていたベルトごと腰から外すと、クレアの目の前に差し出した。

「クレア、この剣を“お前”に貸そう」

 スクルドは、ついうっかり、クレアのことを『お前』と呼んでしまったが、訂正はしなかった。

 クレアが、それはどういうことかと、質問する前にスクルドが話し始めた。

「私は……、クレア、あなたが立てたその作戦に反対することはない。

 どんな決断を下そうとも、この世界にいる限り、精一杯あなたを支援すること、それが我々の使命だから。

 しかし……」

 スクルドは片手で剣を差し出しながら、さらに続けた。

「今聞いた限りでは、かなり危険な作戦だと思う。

 その作戦が成功するように、可能な限り協力はするが、万が一のこともある。

 その時は、その剣を使え」


「万が一って、それは、どういう時かしら?」


 クレアに尋ねられて、スクルドは少しだけ間を置いた。

 そして月を仰ぎ見ながら言った。

「そうだな、あまり深い意味はない。

 護身用だと思ってくれ」

 スクルドの言う、万が一とは、作戦が失敗したときに、自害することも辞さないという意味も含むのだろう。

 それ以上尋ねるのは、むしろ野暮というものだ。

 スクルドが差し出した剣は、何の変哲もない、ごく普通の剣に見えた。

 宝石や彫刻のような飾りはなく、柄にエンジ色の布が巻かれたシンプルなものだった。

 クレアはスクルドが差し出した剣をもらい受けると、鞘から刀身を抜き出してみた。


「ちょっと、待て!」


 注意する前にクレアが躊躇うことをなく刀を鞘から抜いたので、スクルドは慌てた。

 刀身は幅の広い鞘に比べて細く、月光を受けて鈍く光っている。

 両手で扱う『ツーハンド・ソード』の一種だが、それほど大型ではない。

 刃渡り90センチといったところか。

 刃の先の方が、幾分、血を薄めたように赤みがかっており、獲物を刻んだばかりのような光り方が、少々不気味だ。

 それにしても、思ったよりも軽い。

 最初にネルバから貰ったアルギュペオスの弓矢もそうだったが、クレアがこの世界で手にした武器は、見た目以上に、軽いのだ。

 クレアの力が、この世界では通常よりも強いというわけではない。

 なぜなら、歩いたりしても普通に疲れるし、食事の際に食器を手に取った時も自分の世界と同じで、特に軽いと感じることはない。

 ところが、アルギュペオスの弓や、今スクルドから授かったこの剣は、バイオリンやバイオリン・ボウを扱うように、とても軽く感じられるのだ。

 クレアは右手で柄を持ち、テニスのバックハンドのように、剣を真横に軽く振ってみた。


「ピュン!」


 自分でも驚くぐらいの鋭い音で剣の刃が鳴った。

 剣を振るった先の空間が、柔らかいゼリーにナイフ入れたときのように、スパッと切れたかのようだ。

「へへっ」

 クレアは満更でもない気分でニッコリしながらスクルドの方を振り返ったが、その顔は目の前で大惨事でも目撃したように口が開いていた。

「どうかした?」

 スクルドがあまりに驚いているので、クレアは少し不安になった。

「……いや、クレア、“お前”は、剣術の心得があるのか?」

「別にないけど」

「そうか……、ならいい。

 ちなみに、そいつは聖剣“ブラッド・パール”という代物だ」

「ブラッド・パール? 血の真珠ってこと?」

 だから刃の一部が血のように赤いのか。

「そうだ。かつてこの地にいた、“とある戦士”が使っていた剣だ。

 私が譲り受けて護身用として身に付けているものだ」

「そんな大事な剣を借りてもいいの?」

「むろんだ。今見てわかった。

 そいつを扱うには、私よりもむしろ、お前の方が合っているようだ」

 かつてブラッド・パールを操っていた“とある戦士”とは、

 人間ではなかった。

 人間ではないとは、文字通りの意味で、“彼女”は神の一族だった。

 この世界を、まだ“神”が統治していた最後の時代に生まれ、人間が統治し始めた最初の時代を生きた伝説の戦士。

 彼女は、この剣を操り、人間同士の争いを諫めた。

 それは大きく分けて、世界の『東』と『西』との戦いだった。

 しかし、不幸なことに、彼女は、その両陣営の争いの最中に戦死を遂げた。

 人間、もとい人類のために戦ったにもかかわらず、皮肉にも人類が放った矢によって、命を落とした。

 これは同時に、神をも殺す“矢”を人類が発明したことによって、神に替わって人類が世界を治めることの始まりを告げる事件でもあった。

 そして、残されたこの聖剣は、一時は人の手に渡り、代々の支配者たちの“宝物”として保管されてきたのだ。

 だが、この剣は、神族でなければ扱えないものだった。

 歴代の王の中には勇ましくも、この聖剣を手にして戦いの場に臨んだ者もいたが、勇者のシンボルとしての役割を果たすことはあっても、実戦向きではなかった。

 鞘に納めた状態では、普通の剣となんら変わるところはない。

 だが、鞘から抜いた途端、その刀身からは“神的エネルギー”が放たれはじめ、人の手には負えなくなる。

 王たちは、宝物の一つとして、鞘から抜くことはなく、ある時は金持ちの好事家のコレクションの一つとなったり、再び王族の手に返ったり、まさに数奇な運命をたどり続けてきたのだ。

 やがて、信心深い一人の王の手に渡り、彼は、人の宝から、神の元へと返還することを希望した。

 さらに巡り巡って、スクルドの愛刀の一振りとして、現在に至っていた。

 そのエネルギーの出方は異常で、神族の戦士であるスクルドでさえ、コントロールが難しい代物だったのだ。

 この夜、クレアに呼び出されたスクルドは、普段は持ち歩かないこのブラッド・パールを躊躇うことなく、腰に巻いた。

 最終的な戦いに臨むにあたり、この聖剣をクレアに『貸与』しようと思ったのだ。

 クレアがこの剣を扱えるか、どうかは深く考えていなかった。

 歴代の王たちと同じように、シンボルとしての役割を果たせば、それでよいぐらいのつもりだった。

 ところがどうだろう、クレアはなぜか、この聖剣が放つ凄まじい神的エネルギーをコントロールしているのだ。

 クレアが聖剣の柄を握っていると、ブラッド・パールは本来の輝きである“血の色”で収まっている。

 普通の人間であれば、聖剣の放つ“テオス・エネルゲイア(神のエナナジー”で吹き飛ばされてしまうだろう。

 クレアは剣を鞘に納めると、鞘を釣っているベルトを腰に巻いた。


「む、なかなか似合っているぞ、クレア」

 スクルドは、自分の見立てた服を試着した妹の姿に満足した姉のように腕組みしてクレアを眺めた。

「それと、明日の出陣に備えて、鎧などの防具も必要だな。

 今はもう遅いので、明日一揃えを持ってくるとしよう」

「防具なら、ワグナーが用意してくれたのが、もうあるんだけど……」

「いや、人間が使っている防具では、軟過ぎる。

 こいつと同じ、我々が使っている鎧を貸そう」

 そう言って、スクルドは自分の胸元を親指で示した。

 よく見ると、ワグナーが用意してくれた鎧とはどこか違う。

 金属のような光沢は保っているが、軽そうに見える。

「私の体に合うような小さなサイズはあるの?」

「この鎧は、サイズというものがないのだ。

 特殊な素材で、装着した人の体型に合わせて、独りでに形が変わるようになっている。

 一見、弱そうに見えるかもしれないが、こいつなら、人間が使っている刀剣程度なら、たいていのものは避けることができる」

「このブラッド・パールならどう?」

 クレアの言葉に、スクルドは、にやりと笑った。

「いい質問だ。

 それは、その剣の使い手にもよるだろう。

 クレア、お前がその剣を振るうなら、この鎧さえ、打ち砕けるかもしれんな」

 そう、バイオリンなどの楽器でもそうだ。

 ストラディバリウスのような名器が、必ずしも『いい音』で鳴るわけではない。

 演奏者次第でいい音も出るし、ひどい音しか出ないこともある。

 きっと、この聖剣も使い手によっては、岩をも打ち砕く一方、凡夫では、紙さえも満足に切れないに違いない。

 クレアは、ブラッド・パールがどんな剣であるか、その由来を知るよしもなかったが、自分がかつて弾いていたバイオリンに当てはめて考えることで、スクルドの言わんとすることを理解した。

 しかし、クレアがなぜこれほどまでにこの剣を振るうことができたのか、クレア自身はもちろんのこと、スクルドにもよくわからなかった。

 だが、考えても答えは出そうにない。

 たぶん、クレアが異世界の人間であり、選ばれた救世主だから、なんだろう。

 黙ってはいたが、スクルドは、そう納得することにした。

「では、私はいったん、戻るとしよう」

「スクルド」

 飛び立とうとした彼女をクレアが呼び止めた。

「なんだ?」

 特に言い残したことはなかった。

 何か名残惜しい気がしただけだ。

 本音を言えば、最後の一夜になるかもしれないこれからの数時間、もう少し彼女と一緒にいたかった。

 だが、自分の借りている部屋に彼女を招き入れるわけにもいかない。

「来てくれてありがとう」

 クレアは再び涙が溢れそうになるのを堪えてそれだけを伝えた。

「礼には及ばん。

 明朝は少し早いが、5時にまたここで落ち合うとしよう。

 その時は、私のほかのワルキューレも、何人か連れてくるつもりだ。では」

 スクルドは後ろを振り返ることなく前を向いて浮かび上がると、来た時よりも数倍の速さで飛び去っていった。

 しばらくの間、独り屋上に佇んでいたクレアは、スクルドが残していったブラッド・パールの刀身を再び抜いてみた。

 月の光を浴びて赤みを帯びていた刃は、月の白さが増すとともに、さらに輝きを増したように見えた。

 柄を両手で握っていると、クレアは妙な気分に襲われた。

 別に人を切りたいと思ったわけではない。

 ただ、この剣で何かを切り刻んでみたい、そんな衝動がふいに襲ってきたのだ。

 しかし、手近なところに“試し切りできるもの”は何もない。

 今度は、大上段に構えてみた。

 スイカ割でもするように縦一直線に剣を振り下ろす。


「ビュッ!」


 偶然ではなかった。

 先ほどよりもさらに音が鋭さを増して、空気を切り裂くような感触があった。

 この瞬間のクレアを他人、そして本人でさえ、見たら、驚くに違いない。

 黒い瞳が血のように赤く染まり、LEDを仕込んだかのように光を放っている。

 ブラッド・パールの放つエネルギーを吸収したためか、コントロールしているために起こった生体反応なのかは定かでないが、別の人格に替わったかのようだった。

 しかし、それも一瞬のことで、剣を振り下ろしてしまうと、瞳の色も表情も元のクレアに戻っていた。


(明日、この剣を実際に振るうことになるのだろうか?)

 その時は、作戦が成功したときなんだろうか、それとも失敗したときなんだろうか。

(考えても始まらない)

 剣を鞘に納めると、クレアは、元来た階段をゆっくりと降りて行った。


 後日、クレアが剣を振るった向かいにある、ヘプタゴンの七つの尖塔の一つに横と縦に一直線ずつ、『十文字』型に刻まれた傷跡が見つかった。

 刀傷のようにも見えるが、硬い石造りの尖塔が、まるで柔らかい粘土に釘で引っ搔いたように彫られていたのは、謎だった。

 いったい、誰がこのような傷を付けたのか、皆目見当がつかなかった。

 のちに、人々は『これは神が付けた印だ』と噂した。


  *


 その夜は、妙な夢を見た。

 クレアは、自分がワルキューレになって、空を飛んでいた。

 一緒に飛んでいるのは、たぶん、スクルドたちだ。

 いや、そう思っているだけで、自分がスクルドになっているのかもしれない。

 空からは下界が一望できた。

 人々が蟻の群れのように前後左右に移動していた。

 仲間の合図で、地上に降り立った。

 クレアたちワルキューレを見ると、人々は叫び声をあげながら逃げまどい始めた。

(なぜだ。私たちは、人々を救いに来たのに、なぜ彼らは逃げるのだ)

 クレアは納得がいかなかった。

 だが、その理由はすぐに判明した。

 仲間の一人が、槍を構えて人々を串刺しにし始めた。

 それを合図のようにして、ほかのワルキューレたちも人々を襲い始めた。

 ある者は弓を構え、ある者は剣を抜き、老人や子供、女性なども見境なく蹂躙した。

「おい、辞めないか」

 そう呼びかけたクレア自身が、腰にぶら下げていた太刀を抜いて人々に向かって突進していた。

 自分の意志とは無関係に刃を振り下ろしていた。

 刃を振るった先で、鮮血が飛び散った。

「辞めてくれ!」

 自分に向かって叫んでいた。

 なぜ、人を切るのだ。

「どうした? クレア。

 お前は、“神”なんだぞ。

 人々を罰するのは、当たり前じゃないか」

 そう言っているのは、スクルドの声だ。

 神は人々に罰を与えるものなのか?

 罰とは、人々を傷つけることなのか?

 やがて、クレアたちの周りに立っている人の姿はすべて消えていた。

 周りにいた人間たちは皆殺しにされたからだ。

 地面には切り刻まれた死体だけが散乱していた。

「見るがよい。

 人は死ねば、このように、ただの肉塊に過ぎなくなる。

 嘆き悲しむことはないのだ」

 クレアは納得がいかなかった。

 どうして人を殺めなければいけないのか?

「クレアよ、

 勘違いするな。

 人を殺めるのは、神だけはない。

 これまでも、人間同士でさんざん殺め合ってきたではないか。

 我々は、そんな罪深き人間どもに、罰を与えただけなのだ」

 クレアの隣に、今度ははっきりとスクルドが立っていた。


「さあ、次の目的地へ向かうぞ。

 これから、さらに我々の手で、

 罪深き人間どもを駆逐するのだ」

 スクルドは、そう言い残して飛び立っていった。

 クレアにはスクルドの後を追いかけるだけの気力は残っていなかった。

「違う。私は“神”ではない。

 私は人間なんだ。

 たとえ愚かな人間であったとしても、

 人間として、これからも生きていかなければいけないのだ」

 次の目的地へと飛び去っていったワルキューレたちに向かって叫んだところで、クレアは、はっとして目覚めた。


 窓の外はすでに明るかった。

 陽はまだ上っていなかったが、スクルドとの約束の時間が迫っていた。

(これは夢だ。

 スクルドたちワルキューレは、確かに“神族”かもしれないが、人間に対してそんな考えを持っているはずがない)

 クレアはベッドから跳ね起きると、支度を整えて屋上への階段を上っていった。

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