水曜のアクロポリスとシークレットガーデン(その3)

 王宮の庭園には、さまざまな大きさや形、赤や黄、白、ピンク、薄紫など、色とりどりのバラがまさに咲き誇っていた。

 見学している人がいてもよさそうなものだが、戦時中ということもあるのか、はたまた、王宮内ということで、一般人は立ち入ることができないのか、クレアとネルバ以外に、この園内を歩く者はいなかった。

 ただし、人っ子一人いないというわけではなく、数人の庭師が水を蒔いたり、剪定したりなどの作業をしていた。

 その中の一人がクレアとネルバの姿に気づいてチラリと顔を向けたが、特に興味がなかったのか、すぐに元の作業に戻っていた。


「こんにちは」


 彼らのそばに近づいたとき、そのまま素通りするのも悪いような気がして、クレアは一番年上に見える髭面の男に声をかけた。

髭にはかなり白髪が混じっているので、歳は取っているようだけけど、五十代か六十代か、はたまた七十を超えているのか、年齢はよくわからない。


「あんた、バラは好きかね」


 不機嫌そうな顔のまま、男は挨拶も返さずにいきなり尋ねてきた。

 クレハは咄嗟に尋ねられて、「嫌いじゃないけど」と答えて、果たしてその答え方で正解なのかわからず、相手の出方を待った。

 男は近くにあった真っ赤なバラの花を一輪、少し枝葉を付けた状態で切り取ると、「ほれ」と言ってクレアの方に差し出した。

 どうやら、くれるようだが、クレアが躊躇っていると、ネルバが「もらっておきなよ」と肯定するように無言で頷いた。

 クレハは「ありがとう」とお礼を言って差し出されたバラを両手で受け取った。

 こちらの世界のバラにも、自分の世界と同じように棘があるんだなと、クレハは思いながら、その美しい花びらを眺めた。

 棘が刺さらないように指先で枝を摘まんでいると、バラ独特のむせ返るような香りが鼻先に漂ってきた。

 薔薇の香りにはリラックス効果があると聞いた気がするが、この花のには、ある種神経を逆撫でするような類の香りが混じっていた。

 クレアにはむしろ、後者の方の香りの方が強く感じられた。


「これはなんていう名前の薔薇かしら?」


 クレアが独り言のように尋ねると、男は妙な顔をした。

「お前さん、今、その花の名前をバラと呼んだではないかね」

「いえ、そうだけど、この薔薇の名前は何ていうのかと思って」

「この世界では、薔薇に名前なんか付けたりはしないのさ。バラはバラでしかない」

 こういう男は、クレアの苦手なタイプだ。

 人の意見に対して、まず否定的に述べたりする。

 相手の意見に異を唱えることが会話だと思い込んでいる。

「そうなんですね。私のいた世界では、薔薇にもそれぞれ品種というのがあって、個人の名前が付いていたりするんです」

 クレアは、この世界にはそうした習慣がないのかと思った。

「うむ。品種というのは確かにあるが、個体名というのはないな。それはきっと、お前さんの住む世界の『文化』に属する風習に過ぎないのだろう。学術的には何の意味もない」

 確かに、あちらの世界の薔薇には、個人の名前が付けられた品種もあり、それが果たして、学術的な品種として正しいのかどうかはわからない。

 こちらの世界でイングリッド・バーグマンというハリウッド女優の名前が付けられた薔薇の品種は、実際にあったとしても、きっと意味をなさないだろう。

 薔薇は、フランスの王宮で盛んに交配が行われたことで、品種が格段に増えたという。

こちらの世界で同様の交配が行われていなければ、存在すらしないかもしれない。

「ねえ、ユング、このクレアは、『この世界』の新しい救世主なんだ。あまり虐めないでくれるかい」

 庭師とクレアとの間に白けた空気が流れ始めたところで、ネルバが横から助け舟を出してくれた。

 クレアはユングという名前を聞いて、あの心理学者のことを思わずにはいられなかった。

「あの、おじさんは、ユングさんとおっしゃるのですか?」

 クレアは思わず「おじいさん」と呼びそうになったところを、すんでのところで留めることができた。

「キミはさっきから、質問ばかりだね。キミの世界の会話というのは、質問することで成り立っているのかな」

 皮肉のつもりだろうが、自分だって、質問ばかり返しているじゃないと、クレアは思ったが口には出さなかった。

「こんな綺麗な庭園なのに、見に来る人は誰もいないんですね。それとも、今日は休園日なんですか?」

 また、質問してしまったが、もう別に構わないことにしようとクレアは思った。

「いや、別に休園というわけではない。昨日の今日だし、戦争が始まれば誰も美しいものに関心を払っている暇などないさ」

 確かに、ユングの言う通りに違ない。

「まあ、普段でもそんなに人は来ないけどね。このようにバラが咲き誇る庭を最初は誰しもが美しいと思うが、見慣れてしまうとそれほどの関心を払わなくなるものさ」

 ユングはハサミを持った手を休めることなく、語り続けた。

「ところが、薔薇の花がだんだん萎れたり枯れてきたりすると、人々は途端に、汚らしいと不平を言い始める。庭師が手入れを怠ったせいだと、なじられる」

 さすが、ユングという名前の人だけのことはあると、クレアは心の中で思った。

 ただし、皮肉屋で僻みっぽいのは名前のせいではなく、単に歳のせいかもしれないが。

「ユングさん、薔薇が枯れるのを庭師のせいだなんて、誰も思ったりしないわ」

「キミは何もわかってないようだね。薔薇が枯れるのは確かにしかたない。だが、枯れる時期を遅らせるように、コントロールすることは可能なんだ。それを怠っているとなると、それは庭師の責任ということになる」

 クレアは、自分がいた世界でも庭師はそのように薔薇の花が長く咲いているようにコントロールしているのか知らなかったが、この世界の庭師であれば、確かにそれぐらいの技術は持っているだろうとは思う。

「だがね、美しく咲いた薔薇は必ず枯れるものなんだ。それを人間のエゴでコントロールすべきではない。薔薇は美しく咲いたあと、必ず醜くなって枯れ落ちる。それが自然さ」

 一体、このユングという庭師は何を伝えようとしているのか、クレアは少し面倒な気分になっていた。

 そろそろここを離れて、エンゲルスへの返事についてゆっくり考えたいと思った。

 しかし、ユングの言葉は休まることはなかった。

「美しさとは、醜い時期があってこそ、映えるのだ。わかるかね」

 相手に言わせたままにしておくのも癪だ。

 この男に反論を試みたくなった。

「でも、それって、変じゃない。醜く散った後に再び咲く薔薇は、別の個体でしょ?」

「その通り! 正解だ」

 ユングは初めてその手を休めてクレアの方を振り向いた。

 反論されるかと思ったら、同意されてしまう。

 変な老人だ。

「醜く枯れることを避けていては、次の世代の薔薇はいつまで経っても咲くことができない」

 ユングの眼は何か狂気じみていた。

 薔薇の譬えで何かを伝えようとしていることはクレアにもわかる。

 この男は、一体、この国の状況について、どこまで知っているのだろうか?

「薔薇だけではない、人間も含めたすべての生物、いや、モノの道理といえよう」

 そこまで言うと、再びはハサミを薔薇の方に向けた。

「人間は、自分が美しい時期を迎えると、それをできるだけ長く保とうと焦り出す。美しさをどんなに求めてもそれは害でしかない。次の者へ、譲らなければならない」

 クレアはユングのその先の言葉を待ったが、一向に言葉を発しようとしなかった。


 横にいたネルバが頃合いを見計らって言葉を発した。

「さあ、そろそろ行くとしようか」

 ネルバに肩を押されるようにして、クレアはユングの元を離れて歩き出した。

 二人が歩き出した背後から、ユングの声がした。


「最後に、お前さんに、ヒントをあげよう」 


 クレアが振り返ると、ユングはハサミを握った片手を振り上げて、言った。

「お前さん、弓を持っているだろ。そいつを誰に向けるのか、よく考えてみることだ」

 弓? 最初に受付のエリスから渡されたあの弓のことだろうか。

「なんで、そんなこと知っているんですか?」

 クレアが隣のネルバを見ると、ネルバは特に何の反応も見せていなかった。

 クレアは歩きながらネルバの耳元に囁いた。

「ねえ、弓を向けるって、あの弓のことよね?」

「たぶん、そうだろうね」

 ネルバは、答えながら、スキップのような歩き方をし始めた。

「ねえ、あのユングって人は、何者なの?」

「ただの庭師だよ。それ以外の何者でもない、今はね」

「今は?」

「そうだね、あまり詳しい話は、ここではできないけど、ワグナーと同じ、前政権の生き残りとでも言っておこう」

 なるほど、ワグナーと同じように、エンゲルスの恩赦があって、庭師としてここで仕事をすることを許されているのかと、クレアは察した。

 ならば、救世主が扱う弓のこと知っていてもおかしくはないだろう。


「ところで、あの弓はただの弓じゃないんだよ」

 クレアは「そうなんだ」と曖昧に相槌を打った。


「アルギュペオスの弓、別名、アルテミスの弓と呼ばれる弓だよ」


「あるぎゅぺおす? それってどういう意味?」

「ギリシャ語で銀という意味さ。つまり、銀の弓。月の女神、アルテミスがアポロンを射殺したとされる弓さ」

 クレアは思わず立ち止まっていた。

「あれって、そんな大そうなシロモノなの? そうは見えなかったけど」

「まあ、本物ではないだろうね。あくまでも伝説さ。でも、この世界には、僕のような妖精も実在してるし、ワルキューレだっている。神話の弓が現存していたとしてもおかしくないだろ」

 ネルバはスキップらしき変な歩き方を続けながら、クレアの前に出た。

 サーカスの道化師がお道化てみせるときのような、変な動き方だ。

 クレアは「アルテミス」という言葉に、頭の天辺を雷に打たれたような衝撃を感じていた。

 世界全体を支えていた一本の鎖が、100円ショップで売られている安っぽいメッキのキーチェーンだったと打ち明けられたような気分だ。

 確かに威力はあった。

 クレアの非力な力で、ウイリアムテルが放った一矢のように、最初に降り立ったあの乾いた空間を切り裂いていった。

 ただし、相手にはまったく当たらなかったけれど。

 あの時に弓を引いた感触がまだその手にははっきりと残っていた。

 そうだ、確かにあれは、アルテミスの弓なのだ。

 あの弓を引いた瞬間、実をいうと、クレアは一人の女性の幻影を感じていた。

 それはワルキューレとは違う。

 そうだ、あれは『アルテミス』だったのだ。

 もしかして、自分はアルテミスの生まれ変わりではないのか、とクレアは瞬間的に考えたが、それは違うとすぐに否定した。

 自分がいた世界では、神話は神話だ。

 アルテミスなど、実在しない。

 この世界に自分が最初からいたのなら、それもあり得るだろうが……。


「え?」

「どうかしたかい」

 クレアは、こちらの世界に、かつて自分が存在したのではないかという突然浮かんだ自分の考えに驚いていた。

 隣にいたネルバに確かめてみたかった。

 思い切って尋ねてみようと辺りを見回したとき、ネルバの姿は再び消えかけていた。

「ああ、また消えようとして。そんなのずるいわよ」

「ちょっと、急用ができたんだ。申し訳ない。用事が済んだらまた来るよ」

 ネルバは消えかけた体を少し元に戻して、思い出したように付け加えた。

「時間はもう少しあるから、エンゲルスへどう返事するか、これはとても大事なことなので、じっくり決めてくれたまえ」

 言い終えると、ネルバは片手を後ろ手に組み、もう一方の手を頭の上にあげて「じゃあ、また」と言って姿を消した。


 後に残されたクレアはまだ薔薇の花の手入れをしているユングとは顔を合わせないように、ゆっくりと庭園の外周を廻った。

 見上げた空には、向こうの世界とは何ら変わらない、水色に近い青をバックに白いウロコ雲が広がっている。

 本当に別の世界なんだろうか、自分はまだ、あの受付嬢とネルバの着ぐるみに騙されているのかもしれない。

 ユングの仲間、果たして彼の同僚なのか、弟子なのかわからないが、職人の一人が庭園にホースで水を蒔く音がした。

 遠くから聞こえる水音がクレアの体にとても心地よく響いた。

 音楽が聴きたいと思った。

 クレアは普段、クラシックばかり聞いていたが、たまにロックも聴く。

 今は、オルタナ系の何か尖がった音が聞きたい気分だった。

 だが、ここにはオーディオの機材が何もない。

 試しに持っていたスマホの音楽アプリを開いてみたが、まったく反応しなかった。

 ここは自分がいた世界とは、やはり別の世界なのか。


 しかたなく、一時期よく聴いていたアークティック・モンキーズのファーストアルバムの曲を頭の中で鳴らしてみた。

 ザ・ビュー・フロム・ジ・アフタヌーン。

 日本語に直すと、『午後からの眺め』でいいのかしら。

 でも、歌詞の中身は、夜会について。

 リムジンとか、うさ耳、悪魔の角の飾りとか、セレブのパーティーを思わせるような歌詞だけど、人々の期待と失望が変に入り混じった、どこか斜に構えた目線の歌だ。

 自分は希望していないのに、無理に放り込まれた世界で、どうふるまうのかなんて、決断できるわけない。

 それは、自分に関わりのない世界の出来事だからだ。

 しかし、自分たちの元の世界だったとしても、もし、世界とか日本のために戦ってくれと総理大臣やアメリカ大統領に頼まれて「はい、わかりました。クレア、参ります」と言って、素直に戦うことができる、わけがない。

 自分に関係あること、例えば、自分が戦わなければ、パパやママの命が危ないとしたら……。

 そんなこと、想像もつかない。

 まだ30分も歩いていないのに、クレアは全身に疲れが出て、どこかに座りたくなった。

 王宮から一番離れた位置に木製のベンチが空いていた。

 日本の公園なんかでも見かけるような細い木材を組み合わせて作ったシンプルなベンチだ。

 ベンチの隣りには低い生垣があって、ここにもたくさんの薔薇の花が開いていた。

 薔薇で美しく飾られてはいたが、肝心のベンチは座面が固いので、長いこと座っていられない。

 だか、疲れていたクレアはベンチの背もたれに体中の重みを任せてぐったりと座り込んだ。

 先ほどのユングからもらった薔薇の花を手に持ったまま座っていると、再び独特の香りが鼻孔の辺りをくすぐった。

 切り取って少し時間が経ったせいか、最初のときよりも優しい香りがした。

 少し目を瞑っていると、このまま眠り込んでしまいそうになる。

 実際、数分ぐらいは眠っていたかもしれない。

 その様子を傍から見たなら、黒い衣装を着けた、等身大の美少女フィギュアか、フランス人形かが、薔薇園の片隅に飾られているかのように見えただろう。

 

  *


眠りから覚めて、辺りを見回すと、薔薇の手入れはすっかり終わったようで、ユングたちの姿が見えなかった。

 その代わりに、箒を持った男がすぐ近くで忙しそうに庭を掃いている姿が目に入った。それは紛れもなく、昨日、下の町でクレアにエミリアからの手紙を渡したあの男だった。

 なぜ、ここにあの男がいるのか、クレアは驚きを抑えていると、クレアの視線に気づいたのか、男は箒を持つ手を休めて近づいてきた。

「キミは、『人々の争い』というものを是認することができるかね?」

 いきなり妙な質問を投げかけられてクレアはどう答えていいのか、まったくわからなかった。

 男はクレアが答えないことを意に介する様子も見せず、話を続けた。

「ワグナーという男には気を付けたまえ」

「え?」

 クレアは思わず聞き返した。

「おじさんは、ワグナーさんを知ってるんですか?」

「ワグナーは食わせ物だよ。彼の信念は間違った方向にある」

「おじさんは、誰ですか?」

 男は、クレアの質問を受けて何かのスイッチでも入ったかのように、かっと目を見開くと、箒を地面に放り出し、突然ラジオ体操でも始めたかのように、両手を上に翳した。

 Y字型に広げた両手をしばらくそのままにしてから、再び降ろして、煙草に似たような何かだろうか。ポケットからパイプのような道具を取り出し、口で吸いこんだ。

「お嬢さん、人に名前を聞くときは、まず自分から名乗るもんだよ」

 男は、変な質問を投げかけてくるかと思えば、急に至極まっとうなことを言い放った。

「私は、フリードリッヒ・ニーチェ。この国の清掃人だ」

「えっと、私はタマナハ・クレア。ニーチェさんは、昨日、私にエミリアから手紙を渡してくれた人ですよね。この庭園の清掃もしているんですか?」

「私は、この国の清掃人なんだ。掃除を頼まれれば、どこへでも出向くよ」

 ニーチェはクレアとは目を合わせずに答えた。

「お嬢さんは、別の世界から来たんだろう? 救世主とか煽(おだ)てられて。馬鹿な娘さんだ」

「ちょっと待って。それはいくら何でも失礼じゃないですか。別におだてられてなんかいません」

「いいかね、人間、というかこの世に生まれしもののすべては、自分の意志でこの世に生まれてきたわけではない。しかし、生きていくとは、自らの意思を持って前に進むしかないわけだ」

 このニーチェという男は、脈絡もなく、わけのわからないことを話出す。クレアは、どう対処していいのか、よくわからなかった。

 ただでさえ、疲れが溜まりつつあるのに、これ以上相手をしていたくなかった。

「ニーチェさんの言ってることは、私には難し過ぎてよくわかりません」

 クレアはロボットのように平坦な口調でそう言ったが、実のところ、言わんとすることは少しわかる。

 このニーチェという人はきっと口下手なんだろう。

 コミュケーションの取り方があまり上手ではないのだ。

そこへ、見慣れた制服姿の男が遠くの生垣の端にひょっこり現れた。

たった今、ニーチェから注意を受けたワグナー当人だ。


「クレア様、大変です。一刻の猶予もございません」


 地グロのため、青ざめては見えなかったが、焦った様子のワグナーが小走りに近づいてきた。

 赤いバラの花を一輪、両手に持ってベンチに座っているクレアと、まったくそぐわない老年の男の姿に、ワグナーは一瞬だけハッとして動きを止めたが、すぐに言葉を継いだ。


「T国が再び、我が国に攻撃を仕掛けてくるとの情報が入りました」


 クレアには、そうなることが予想できていた。

 T国内でクーデターが勃発し、Y国に攻撃してきたとするなら、T国の司令部は、すでにそうした反乱分子を抑制することができないということを意味する。

「もしかして、T国ではすでに反乱軍が指導権を握っているのかしら」

「お察しの通りです」

 ワグナーはクレアの聡明さに特に驚いた様子は見せず、ニーチェに一瞥を加えると、彼の存在を無視するかのように先を急ぎながら、頷いてみせた。

「いいかね、さっきの忠告を忘れるなよ」

 ワグナーの後に続くクレアの背中ごしにニーチェの声が聞こえた。


 クレアはすでに決意を固めていた。

 この世界を救うとは、どういうことか。

 それはクレアにとって意味のあることでなければならない。

「クレア様、差し出がましいようで申し訳ありませんが、エンゲルス様へのご返答はもうお決まりですか」

 クレアは、ワグナーへの返答の替わりに、ニッコリと笑って見せた。

 ワグナーはそれを見てほっとした様子で王宮の居間へ戻って行った。

        *


 エンゲルスは先ほどと同じようにすでに椅子の上に腰を下ろしていた。

 クレアとワグナーが駆け込んできたのを見ると、待ちかねたように立ち上がった。

「クレア、すでにワグナーから聞いていると思うが、時間がない。早速だが、返事を聞かせてくれ」

 クレアは今の自分がどんな顔をしているのか知りたかった。

 笑っていないことだけは確かだ。

 もちろん、泣いてもいないし、怒ってもいない。

 緊張しているかといえば、最初にエンゲルスに対面したときよりも、むしろリラックスしている。

 きっと化粧をするときに鏡を覗くように、無表情に近いかもしれない。

「王様、喜んで、貴国のためにこの身を捧げとう存じます」

 言葉遣いは、果たしてこれであっているのか、クレアにはよくわからない。

 初めて口にする言葉だが、頭の中で特に反芻することもなく、スラスラと飛び出してくれた。

 ドラマか、映画か、はたまたアニメか何かで、こうしたセリフを聞き知っていたのかもしれない。

 エンゲルスは「ありがとう、感謝する」と礼を述べて、「これよりT国軍を迎え撃つための準備に入る」と言いながら退場した。


「で、私は、具体的に何をすればいいのかな」

 クレアは、傍らにいたワグナーが、すでに自分の軍師か参謀であるかのように、持っていた薔薇の花をワグナーの前に差し出して尋ねた。

 ワグナーは反射的に薔薇の花を受け取って、数秒間だけぼんやりとその花を眺めていたが、はっと我に返り、これまでにないような生き生きとした眼つきでクレアの顔を見返すと、力強く宣言した。


「では、作戦会議とまいりましょう。クレア様」



 

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