モッズヘアと火曜の散歩道

モッズヘアと火曜の散歩道(その1)

 最近のクレアは、眠りにつくまでそれこそ羊を数百匹も数えながら、ベッドの中で体を左右に捻ったり、瞼を幾度も閉じたり開いたりした挙句、目覚まし時計の針が三時を廻ったのを確かめて眠りにつくという日々を送っていた。

 普段の生活では、それほど寝つきが悪かったのだが、この世界に来た最初の夜は久々にぐっすり眠ることができた。

 マチルダは早番だということですでに家を後にしていた。

 エミリアに肩を揺すられたとき、そこが姉妹の家であることをクレアはすぐに思い出した。

 正直まだ寝たりない気がしたが、他人の家で世話になっている身で寝坊するわけにもいかず、まだぼんやりとする頭でマチルダが用意してくれていた朝食に手を伸ばした。

 キッチンのダイニングテーブルには、きっと昨夜のシチューに入っていた鶏と同じ種類の卵で作った目玉焼きと、スライスしてトーストしたパンに、オレンジジュースに似た色と味がする飲み物が用意してあった。

 テーブルの片隅には新聞らしき印刷された紙束が置いてあった。

 どうやら昨夜見せてもらった図鑑と同じ文字で書かれているようで、当然のことながらクレアには読めなかったが、一面のトップの写真には昨日の戦闘の様子が映っていた。

 空に現れた黒の軍団を白の軍団が迎え撃ったところだろうか、こうした写真と記事があるということは、この世界にも、従軍記者や戦場カメラマンという職業の人がいるのだろうか。

「ところで、昨日の戦闘だけど、なんであなたたちの国とお隣の国は争っているわけ」

 マーマレードのようなジャムを乗せたパンを齧りながら、クレアはエミリアに訪ねた。

「私たちの国と向こうの国との争いの原因は複雑だけど、昨日の戦闘に関しては、ちょっと驚くことがその新聞には書いてあるわよ」

 エミリアが含みのある言い方をしながら笑った。

「ちょっと最初の部分を読むわね。

『午前9時過ぎ、ヨコハマ国B03地区で向かい合ったT国軍とY国軍は、一色触発の状態だったが、T国軍の兵士の一人は戦場の片隅に民間人の少女を発見したため、保護しようと近寄ったところ、少女から弓による攻撃を受けた。これが原因で両軍の戦闘の火蓋が切って落とされた』とあるわ」

 クレアはエミリアの読んだ記事の内容を聞いて、飲んでいたジュースを吹き出しそうになった。

 気管支の方に入りそうになり、むせ返って咳をしながら「どういうこと」と抗議に近い声が飛び出した。

「この記事によると、今回の戦闘はあなたが原因ということになるわね」

「冗談じゃないわ。私はあの黒い軍団の兵士に襲われそうになったのよ。それを迎え撃っただけじゃない」

 そこまで口にして、果たしてそうだったのかと、思い直した。

(あの兵士に襲われそうになったというのは、相手がこちらに近づいてきたからだ。確かにあの兵士の方から先に襲ってきたわけではない。いや、待て待て。あのときはこちらから攻撃しなければ、相手から先に攻撃を受けていたかもしれないではないか)

 クレアは、記事に書いてあることが本当なのか、自分の判断の方が正しかったのか、わからなくなっていた。

「そうだわ、なんであの兵士が私を保護しようとしてたとわかったの。この記事を書いた人は、あの兵士から直接話を聞いたわけじゃないでしょ。だって、この兵士は、そのすぐあとにスクルドに殺されているのよ」

「スクルドですって?」

 新聞を畳み、すでに出かける支度を始めていたエミリアが驚いて振り返った。

 クレアはエミリアのあまりの驚き方に「ええ、そうよ」と小声になって返事した。

「まさか、スクルドが現れるなんて。ということはほかのワルキューレも現れたのね」

 クレアはスクルドをはじめ、3人のワルキューレに助けられたことを簡単に説明した。

「それで、ワルキューレは、あなたのことを救世主と呼んだわけね」

 クレアはそこまで話し終えて、果たして会ったばかりのエミリアにワルキューレのことや救世主と呼ばれたことまで話してよかったのだろうかと少しだけ不安になった。

「新聞にはワルキューレのことは一言も書いてない。それはわざと隠しているということか」

 エミリアは、拳を顎に乗せて思案気にしていたが、「ワルキューレのことはほかの人に話さない方がいいわ」とクレアにアドバイスした。

 エミリアによると、ワルキューレは戦いのときにだけ現れる「女神」だという。この世界で神々と呼ばれるのは、人間ではない生き物たちのことで、その正体はエミリアたち市民には、よくわからないらしい。

「この世界のことや今回の戦争について、もっと話してあげたいんだけど、私はこれから昨日負傷した兵士たちの面倒を見に、この先の病院へ行かなければいけないの。あなたは、好きなだけゆっくりしていてね」

「私もそうのんびりしてられないわ。早くネルバを見つけて元の世界へ帰らなきゃ。昨日教えてもらったクリムトさんを早速訪ねてみようと思うの」

「わかったわ。でもクリムトが店に来るのはたぶん9時以降だからもう少し後の方がいいよ。出かけるときは鍵を玄関の郵便受けの中に入れておいてね」

 そう言い残してエミリアは出て言った。

 9時過ぎ、クレアはエミリアに書いてもらった手書きの地図を頼りにクリムトのレストランへと向かった。


      *


 この国の名は「ヨコハマ」ということだったが、この町に限っていえば、元いた世界の横浜とはまるで違う。

 横浜にも明治期に作られた西洋風の建物は残っているが、この町の作りは、ヨーロッパの街のそのものだ。

 石畳の街路を取り囲むように石造りの建物が立ち並ぶ。建物の一階部分には、店らしきところがあり、看板を出しているところもあれば、まったく看板が出ていない店もある。

 クリムトのレストランは、網の目のように張り巡らされた街路の一角にあった。目立った看板はなく、小さな表札に「レストラン・クリムト」と書かれていて、エミリアの書いてくれた地図がなければ確実に見過ごしてしまうだろう。

 入り口は普通の住居のようで間口が狭く、窓から覗く内部も暗くて開店しているのか閉店しているのかもわからない。

 クレアが思い切ってドアのノブを回してみると、手ごたえはなく、鍵は掛かっていないようだった。

 簡単に内側に開いたので、「ごめんください」と言いながら、思い切って店の中に足を踏み入れてみた。

 返事はないが、西洋料理に独特のコンソメのような香りが漂ってくる。きっと厨房の方で、誰かが仕込みをしている最中に違いない。

 自分でも大胆だと思ったが、レストランにあるテーブル席の横を通り抜けて厨房がありそうな店の奥へと進んで行った。

 店の中が暗かったため、厨房に向かう途中でサイドテーブルに乗せていた水差しに体が触れてしまい、危うく倒しそうになった。

 慌てて手で押さえたが、水差しに入っていた水を床にこぼしてしまい、思わず、短い悲鳴が出た。

 クレアの悲鳴に気づいたのか、店の中の照明がぱっと明るくなり、奥の方から「誰だ」という男の声がした。

 厨房の方から現れたのは、背の高い頬がこけて痩せた感じの男だった。

 白衣を着ているので料理人とわかるが、カールした髪を後ろで結ったところは、一九八〇年代のロックミュージシャンのようだ。

「こ、こんにちは。クリムトさんですか」

 クレアは思わずどもってしまった。

 男はにこりともせず、クレアをじっと見ていたが、「店はまだ開店しておりませんが」と言いながら、壁にあった掛け時計を見上げた。

「いえ、食事ではなくて、クリムトさんに、ちょっとお尋ねしたいことがあったので」

「あいにく、ウチはレストランなので、食事をしていただかない人には、何もお話しできませんねえ」

 このレストランのランチは一体いくらぐらいするのだろうか。

 エミリアのうちで朝ご飯は食べてきたが、昼食のことまで考えていなかった。

 すぐに元の世界に帰れる保証はないし、この先、食事をしなければ飢え死にしてしまう。

 ずっとマチルダ・エミリア姉妹のお世話になるわけにもいかないし、クレアは急に不安になった。

 クリムトはクレアのことを観察するような眼で見ていたが、やがて胸元に下げているIDPに気づくと、「おや?」といって、近寄った。

「なんだ、お金なら持っているじゃないですか。あなたになら、ぜひウチの店のランチを味わって頂きたい。あなた、どこか外国の方かなにかですか」

 クリムトはこれまでの態度とは一変して、急に笑顔になった。

 奥にいた給仕を呼びつけ、クレアのために席を用意させた。

「ささ、こちらへお座り下さい」

「ええと、開店時間にはまだ間がありますから、まず、お飲み物でもお持ちしましょう。見たところ、お酒はまだダメなようですから、ソフトなもので」

 メニューを開いて目の前に出されたが、クレアにはやはりさっぱり読むことができなかった。

「ごめんなさい。こちらの文字が読めないもので」

 給仕にそう断って見上げると、どこかで見た記憶のある顔がそこにあった。

 モッズヘアの男の子は、確か、ヨシムラ先生の授業で、ワルキューレを見たときの講義室で隣に座っていた学生だ。

「あ、キミだ」

 クレアは給仕に呼びかけたが、モッズヘアからは怪訝な顔をされるばかりだ。

「文字が読めないのでしたら、ソフトはもので、当店おすすめのスペシャル・ソーダはいかがでしょうか」

 クレアは炭酸が苦手だったが、おすすめだというので、試しに頼んでみることにした。

 出てきたのは元の世界の「クリーム・ソーダ」に似たソフトドリンクだった。

 炭酸はそれほどきつくなく、バニラアイスのような白いアイスクリームを少し溶かして飲むととても美味しかった。

 やがて白衣から白いドレスシャツに着替えたクリムトが現れて、クレアのテーブルの向かい側に座った。

「お待たせしました。ランチタイムまではまだ時間があるので、私が知る限りのことをお話しましょう」

 改めてクリムトにそう言われると、クレアは何から訊いていいのか、困ってしまった。

「率直に言うけど、私、この世界の人間じゃないの」

「ほう」とクリムトはそれほど驚く様子はみせずに、「それは興味がありますな」と言ってテーブルの上に両手を組み合わせてクレアの方に少しだけ寄った。

 クレアはクリムトに寄られた分、後ろに椅子を引いてスペシャルソーダの残りを口にした。

 クレアはこの世界には、昨日来たばかりで、ネルバという妖精と、ネルバの一味らしき、エリスという受付の女性から騙されて、元の世界から見れば、異世界であるこの世界に転送されたことを話した。

 しかも、新聞によると、昨日の戦闘は自分が引き金となって始まったという「濡れ衣」まで着せられていることを話した。

 ただし、エミリアの忠告を守り、戦いで助けられたワルキューレについては話さなかった。

「なるほどね」

 クリムトは考え込むようにしていたが、やがて給仕に言いつけて水を持って来させると、グラスに注ぎ、一息で飲み干すと、手相をいていた占い師が判定結果を告げるように言った。

「それはズバリ、この世界にあなたが必要とされたから呼ばれたということですね」

 スクルドに自分が救世主と言われたことに通じるものがあって、クリムトの言葉に納得しそうになった。

 しかし、それだと合点がいかない点が多すぎる。

 なぜ、自分一人を置き去りにして行ったのか。

 必要として呼んだのであれば、もっと助けてくれてもいいのではないか。

「あなたを置き去りにしたのは、そのネルバという妖精が、この町というか、この国であなた一人の力でどれほどのことができるのか、見極めたいと思ったからでしょう」

「クリムトさんは、ネルバという妖精をご存じないんですか」

「私は、妖精のことは知っていますけど、ネルバという妖精にあったことはありません。というよりも、直接妖精にあった人は、この国ではたぶん、エンゲルス王ぐらいでしょう」

「話によると、あなたは王様の食事も作っているので、妖精とも会ったことがあるのかと思ったけれど」

「いえいえ、王の食事を作っても一緒に会食するわけではありませんよ」

「でも、見たことはあるでしょ。ネルバって妖精を」

 そこでクレアはコドモミュージアムのチラシのことを思い出した。

 なぜ、今まで気づかなかったのだろう。

 それを見せれば一発ではないか。

 服は洗濯が済むまでエミリアから借りたものを着ていたが、ポシェットはぶら下げている。

 その時になって、ネルバから与えられた弓はどこにしたのだろうかと、初めて気づいた。

 それよりもまずは、チラシの方だ。

 クレアはポシェットの中にチラシがありますようにと、祈るような気持ちで蓋を開けた。

「ない!」

 チラシはあの時、二つの違いを見比べるために、受付のカウンターの上に置いてきたのだ。

 がっかりしたのも束の間。

(そうだ、絵に描いて見せればいいのだ)

「クリムトさん、鉛筆とか持っていないの?」

「もちろん、ありますよ」

 不敵な笑みを見せてクリムトは立ち上がると、厨房のある裏手に入り、しばらくしてから筆記用具と紙を持って現れた。

「さあ、お好きなのをどうぞ」

 それは24色の色鉛筆のような筆記用具だった。

 持ち手の辺りに金の刻印らしきものが施されており、こちらの世界でもかなりの高級品に違いない。

「クリムトさんって、やっぱり絵を描いたりするの?」

「さあ、それほど上手というわけではありませんが、趣味程度にね」

 クレアの言い方に首を捻りながら、クリムトは答えた。

 クレアはクリムトが描いた絵をぜひ見せてほしいと思ったが、それより先にやることがある。

 ネルバの着ている悪趣味な紫と黄色のチェッカー模様とか、猫耳の被り物など、思い出せる限り再現して描いてみた。

 我ならが下手くそな絵だ思ったが、情報が伝わればそれでいい。

「はいはい。確かに、こんな妖精を王の会食で見かけたことがありますよ。ただ、宮廷に入るところは見たことはありませんねえ。なぜなら妖精は姿を消せるんです。だから彼らは姿を消したまま王宮の広間や食堂に現れたりする。それゆえ、会ったことも見たこともない人の方が多いんです」

 クレアは戦いの場に放り出されたときに、姿を消してゆくネルバのことを憎々しげに思い出していた。

 クリムトから得られた妖精に関する情報はそれぐらいのものだった。

 クリムトも妖精とはなにか、詳しいことは知らないらしい。

「さあ、そろそろ昼食の時間です。フルコースにしますか、それともアラカルトにしますか」

 クレアは妖精についてではなく、もう一つ重要なことを訊いておきたかった。

「ねえ、クリムトさん。さきほど、私がお金を持っているといっていたけど、この昼食の支払いは、どうすればいいの?」

 クリムトは探るような眼でクレアを見てから説明を始めた。

「なるほど。本当に知らないようですね。あなたが首から下げているそのIDPは、いわゆる『お財布』にもなっているんですよ」

 かつてはこの国にも紙幣や貨幣など、いわゆるお金が存在していた。ところが科学技術の発展と、経済制度の改革によって、モノとしての紙幣や貨幣はなくなったそうだ。紙幣や貨幣は、いわゆるデジタル通貨にすべてとって替わったということだ。

 いまや国内のどの店にも清算用のカードリーダーがあり、IDPを翳せば決済ができる仕組みだ。

「CクラスからEクラスまでの一般市民は、普通の労働者階級として「お金」を稼いで貯蓄しなければいけません。それはこれまでと一緒です。しかし我々、BクラスやAクラスの人間は、ちょっと違う。お金に関しては、無尽蔵に供給されるんです」

「無尽蔵というのは、どういうこと? なくならないってこと?」

「そう、早い話が好きなだけ使えるということです。もちろん使ったお金はきちんとカウントされて、請求は政府の方に行きますけどね」

 クリムトは自慢げに笑った。

「私の場合、Bクラスなので、どんなお金を使っても減ることがない一方、増えることもありません」

「いいご身分ね」

 クレアは精一杯の皮肉を言ったつもりだった。

「しかし、毎月きちんと規定の労働をしないとBクラスからCクラスに転落することもありますからね。だから一生懸命ですよ、僕らBクラスの人間は」

 クリムトはすぐにその皮肉を跳ねのけた。

「それよりも、特権的なのは、あなたが付けてる、そのAクラスです」

 クレアはクリムトの目が何やら憎悪を含んでいるようなで、少々びくっとした。

「そのAクラスは、何をしてもはく奪されることはない。生まれながらの特権クラスなんです」

 クリムトが言葉を切って黙っているので、クレアは飲んでいたソーダのグラスを指先で強く握った。

 グラスのひんやりとした感触がクリムトの沈黙の冷たさのように感じられた。

「そのAクラスのIDPを持っているのは、この国では、王や妃などの王族、それと神に仕える聖職者、そして、『救世主』と呼ばれる人だけです」


        *


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