月曜のヌクレオチド(その3)


      *


 どれぐらいの間、クレアはその場に立っていたのだろうか。

 三十分から一時間ぐらいの長い時間だったような気もするし、四、五分ぐらいの短い時間だったような気もする。

 まさに呆然自失という言葉の通り、戦いを終えたばかりの荒野で傷ついた人々が力なく動く様子をぼんやりと眺めていた。

 この場合敢えて「人」と表現するが、クレアが矢を放った黒い兵士たちの側は、ワルキューレと同じように背中から羽が生えた種族で、片方には羽のない、我々人類と同じ種族のように思えた。

 彼らは戦いが、スクルドの言葉を借りると「一時休戦」状態になると、今までの戦闘が嘘のように、互いにいがみ合うようなこともなく、傷ついた味方の兵士を自陣の方に黙々と運んでいく。

 またある者は、戦いで亡くなった者たちの亡骸をその場に穴を掘って埋めていく。

 埋め終わった土塊の上には墓標替わりだろうか、兵士の使っていた剣や槍を十字架のように突き立てておく。

 そうした即席の墓の塚がみるみるうちに出来上がって、アフリカの荒野を思わせていた平坦な大地は、コブのように盛り上がった塚でいっぱいとなった。

 クレアの前方に、仲間を担いで自陣に引き上げていく兵士が横切っていくところだった。

 背中からは、雨の日に使って乱暴に閉じた折り畳み傘のように皺くちゃになった黒い羽が垂れていた。

 自分を襲撃した方の兵士だったので、クレアは瞬間的に身構えた。

 クレアに気づくと、兵士は疲れた体を休めるように立ち止まり、肩に担いだ仲間をそっと卸して腰の辺りからハンカチのような布地を取り出し、額の汗を拭った。


「お嬢ちゃんも兵士なのかい」


 クレアはまだ左手で弓を握りしめていた。もちろん戦う意思はとっくに失せていたが、指先が強張って弓が手から離れなかった。


「その格好で戦っているということは、急に駆り出された民間人ってところかな」


「敵」の方から優しい口調で話しかけられたのは意外だった。

 ふと見ると、そのすぐ横の方では、白い軍団の兵士の一人が死者を葬るための穴を掘り進めていた。

 クレアがそちらの方へ注意を向けたので、黒い兵士の視線も同じ方に動いた。

 二人の兵士は互いに目が合ったので、どうなることかと冷や冷やしたのも束の間だった。

 二人は旧知の仲のようににっこりと顔を見合わせ、「よう」と声を掛け合った。

 白い兵士は再び穴を掘る手を動かし始め、黒い兵士は「よっこらしょ」と気合を入れて仲間を担ぎ直し、再び重い足取りでクレアの前から遠ざかっていった。

 このように戦いを終えた兵士たちは、土木工事を行う作業員のように、黙々と自分たちの仕事をこなしていった。

 粗方の作業が終わりに近づき、閉園時間が迫った遊園地のように兵士の姿も疎らになった。

 最後に残った数名の白い兵士たちも引き上げ始めたので、クレアは兵士の一人に追い縋るように駆け寄った。


「待って。私も一緒に連れて行って」


 クレアはこの言葉が適切かどうかわからなかったが、知らない世界に放り出されてしまった以上、味方と思える方の兵士に助けを求めるほかはない。

 兵士はクレアの頭からつま先までをざっと見ると、不思議そうな顔をした。

 自分でもとても場違いだと感じている。

 きっとこの世界でも、十九歳の乙女がゴスロリファッションで弓を片手に戦場に立つというのは、異質なはずだ。せめてスクルドたちのような鎧は身に着けておかないと危険だ。


「こんなところに、お嬢さん、どこから来たんだい」


 コドモミュージアムから「この世界」に来たと言っても、クレア自身がまだ信じられないのだ。

 どこから来たのか、クレアには説明のしようがない。


「まあ、いいや。これから町に戻るから付いてきな」


 兵士の男はそれ以上尋ねても無駄だと思ったのか、静かに歩き出した。

 白い兵団がやって来て再び戻って行く先は、クレアが放り出されたところから見て左手の方だ。

 太陽の位置からすると、西の方角ということになる。

 コドモミュージアムがあった辺りからは、横に連なるレンガの低い壁が万里の長城のように、ずっと伸びていたが、近づいてみると通り抜けできる切れ目の部分が幾つもあった。

 一番手前の切れ目を抜けると、死角で見えなかったが、すぐ後ろには町が広がっていた。

 壁の向こうには、見下ろすような形で町があったのだ。

 フランスのパリのように分度器の形で、道路や建物が町の中心から外へと広がっていた。

 元の世界では、コドモミュージアムやキャンパスがあった辺りは海に近くて平坦な場所だったが、ここは高台だったのだ。戦場の方が隆起したのか、もしかすると、町の方の地盤が沈んだのかもしれないが、かなりの高低差があることだけは確かだ。

 逆に町の方から見れば、この戦場は町外れの丘の上ということになるのだろう。

 白い兵団はこの高台へ上り、東の方から飛んできた黒い兵団を迎え撃ったというわけだ。

 町の中心にはエッフェル塔や凱旋門のような巨大な建造物はなく、少し離れた小高い丘の上に宮殿らしき白亜の建物があった。

 兵士に案内されなくとも、少しうろついていれば、この町を発見できたかもしれないが、この世界に不案内なクレアには一人でこの町を訪ねる勇気はない。

 兵士たちの後に続いて町へと下る坂をゆっくりと歩を進めながら、頭が冷静に戻っていくにつれ、クレアはだんだんと腹が立ってきた。

 なぜ、自分はこんな目に合っているのか、さっぱりわからない。

 ネルバと受付嬢のエリスはどこに消えたのか。

 きっとエリスは元の世界のコドモミュージアムに戻り、一仕事終えたということで休憩室かなにかでダージリンでも飲みながら一息吐いているに違いない。

 ネルバはまだこの世界にいるのだろうか。

 今度会ったら、タダじゃおかない、本気でどついてやろうと思っていた。


 坂を下り終えて通りを抜けると、円形の広場があった。

 中央に彫刻を設えた噴水があり、ところどころにベンチが置いてある。

 日本ではあまり見かけないが、ヨーロッパの街でよく見る広場と同じ造りだ。

 普段なら一般市民が集うはずの広場には、傷を負った兵士たちが所狭しと並べられていた。

 カーペットというよりも、ゴザと呼ぶべきか、粗末な布地が一面に敷かれ、その上に怪我人が寝かされたり、疲弊した兵士たちが腰を下ろしている。

 その合間をまだ元気が残った兵士や、救護班らしき人々が忙しなく動き回っていた。

 救護班らしき腕章をつけた女性の一人がクレアの姿に気づくと慌てて近寄ってきた。


「あなた、大丈夫。あら、腕に怪我してるじゃない。今治療するから、こっちへ来て」


 クレアは怪我をしていない方の腕を引っ張られて広場の隅に張られたテントの中に連れて行かれた。

 女性はテントの中にいた看護師らしき女性に、クレアの腕をみるようにテキパキ指示すると、再びテントの外へ飛び出していった。


「今の人、なんか松島さんに似てたなあ」


「マツシマサン?」


「いや、なんでもない」


 看護師らしき人は、スクルドが止血のために巻いてくれた布をそっと解くと「ちょっと染みるけど、我慢してね」といって消毒液のようなもので傷口を拭いた。

 槍が掠ったときよりは幾分かましだったけれど、傷口から響いた痛みで思わず呻き声が漏れた。


「これは、縫った方がいいわね」


 看護師は銀色のケースの中から道具を取り出し、すぐさま縫合を始めた。縫合するのに麻酔はしないのかとクレアは思ったが、とにかく痛いのは我慢するしかない。縫合されるときの痛みは全身に走るほど強く、ネルバとエリスへの怒りが再び込み上げてきた。

 看護師が傷口の縫合を終え、真新しい包帯を取り出して巻き始めたとき、クレアはこれまでの疲れも加わって、横に寝そべりたくなった。


「ちょっと横になりたいんだけど、いいかしら」


 拒否されたときは、テント外の地面でもいいから、横になるつもりでいたが、看護師はあっさりと「そこで少し休むといいわ」といって、隅にあった白いシーツを敷いた台を指差した。

 本来はテーブルかもしれないが、すでに治療を終えた兵士のベッド替わりとして使われていた。

 状況が状況だけに、クレアは満員電車のシートで隣合わせに座ったときのように、目に包帯を巻いた男の隣に腰を下ろすと同じような姿勢で仰向けに寝転んだ。

 できれば枕がほしかったところだが、贅沢はいえない。治療した右腕を上に左手を枕替わりにして横を向いた。すぐ近くに男の顔があったが、それほど気にならなかった。

 目を閉じていると軽い眩暈を感じた。そしてクレアは短い眠りに落ちた。


           *


 クレアは目を覚ましたとき、そこがどこなのか、一瞬わからなかった。

 大学の講義室でうっかり寝てしまったのかと思ったが、薄暗いテントの中を見回して、そこが「異世界」であることを思い出した。

 そして肩に痛みが走ったことで、すべてが夢ではなかったことを改めて知った。

 クレアは手当てをしてくれた看護師の姿を探した。

 今は忙しさもひと段落したのか、看護師は椅子に座り、腕を組んで休んでいた。

 クレアが起きたことに気づくと看護師も立ち上がった。


「具合はどう?」


「ねえ、ネルバって妖精のこと、あなた知ってるかしら」


 クレアは看護師に向かって思わず尋ねていた。


「ネルバ? 私たち、妖精のことはあまり知らないのよ。もちろん、存在しているのは知っているけれど、妖精は私たちの前にあまり姿を現さないから」


 看護師は申し訳なさそうな顔で答えた。


「でも、町には妖精のことに詳しい人もいるから、訪ねてみるといいわよ」


「誰なの、その妖精に詳しい人って」


「例えば、王様とか」


「王様なんかに直接会えるの?」


「あとは王様に仕えている大臣とか、役人とかね」


 クレアは看護師が教えてくれた人々が会えそうにない階級の人ばかりなのでがっかりした。


「大丈夫、あなたなら王様だって、きっと会ってくれるはずよ」


 クレアが不安そうな顔をしているのを見て、看護師が言った。


「あなたが首から下げているそのIDPが何よりの証拠だもの」


 クレアは、エリスから授けられたメダル型のペンダントを思い出して手に取った。

 よく見ると、最初に受け取ったときと少し感じが違う。丸いクリスタルの中心部分がLEDのように赤く小さく光っていた。

 受付カウンターのカードリーダーにタッチしてときか、もしくはこの世界への扉が開いたときに光り始めたのだろうか。

いずれにせよ、このペンダントが、この世界では「特殊な何か」であることは間違いなさそうだ。


「このメダルは何なの?」


 看護師は自分が首から下げていたペンダントを服の中から取り出して見せた。丸い部分の色はクレアとは違う。透明ではなくオレンジ色をしていた。


「このように、ここの市民であれば、大抵の人は「これ」を持っているわ。ただ、種類がいろいろあって、あなたのように透明なのはAクラスの特権階級の人だけが持っているのよ。ちなみに私のようなオレンジ色のはCクラス」


 看護師は少し恥ずかしそうにしてペンダントを仕舞った。


「じゃあ、盗まれたりしたら大変ね」


「あなた、もしかして、この世界の人じゃないわね」


 看護師は笑いながら説明を続けた。


「そのIDP(ペンダント)は、個人のデータがすべて打ち込まれているので、他の人が使うことは一切できないの。盗んだところで何の役にも立たないわ。なぜ、あなたがそれを持っているのかは知らないけれど、少なくとも、Aクラスの特権階級であることは間違いないわね」


 水戸黄門の印籠のようなものかとクレアは思った。

 でも、これを身に着けていたとしても、敵に襲われることは避けられないようだ。


「ねえ、ネルバ、というか、妖精について教えてもらうには、誰を訪ねればいいかしら」


 看護師にも尋ねてみたいことは山程あったが、クレアは一刻も早くネルバに会って、元の世界に帰して貰いたかった。

 エリスはすでに元の世界に戻っているだろうから、ここで会うことはまず無理だろう。


「急いでいるようだけど、明日の朝にした方がいいわね。今日はもう夜も遅いし」


 その時になってクレアは自分がかなり長い時間ここで眠っていたことを知った。

 そういえば、テントの中にはランプが灯っている。

 クレアはポシェットからスマホを取り出して時刻を確かめてみた。スマホのデジタル表示は十一時七分を指していた。

 コドモミュージアムでIDPをカードリーダーにタッチしたときから、時刻はまったく変わっていないようだ。スマホの時計機能が壊れてしまったのか、それとも、この世界と元の世界が分断されてしまったせいなのか、画面を何度か確かめてみたが、11:07というデジタル表示に変化はなかった。


(ここで一夜を過ごさなければいけないのか……)


 クレアは目に包帯を巻いて仰向けに寝ていた兵士がまだそこいることに気づいた。先ほどは気にならなかったが、包帯に血が滲んで時より呻き声を漏らしている男性の横で再び眠りにつくのは躊躇われた。


「私はそろそろ交代だから、あなたさえ良ければ私の家に来る?

 この時間だと、もう宿屋もチェックインできないだろうし」


 クレアが周りを見回して困っていると、看護師の方から申し出があった。

 クレアにそれを断る理由は微塵もない。素直に感謝して看護師の後に付いていくことにした。


「私はエミリア、よろしくね」


「タマナハ・クレアです、今日はいろいろ、ありがとう」


 改めて礼を述べるのはとても照れ臭かった。感謝の言葉など、普段の生活で言いなれていないせいかもしれない。

 思い返してもここ最近、家族や仲間に対してお礼の言葉を述べた記憶がない。

 この町の夜は、街灯が少なくとても暗かった。

 その分夜空には星がたくさん見えた。

 クレアは夜道を歩きながら空を見上げたのも随分久しぶりだと思った。

 そして、果たして自分の世界で見る星と、この世界の星は同じなのだろうかと単純に考えた。


「ねえ、ここは地球なの? 年号はいつ? それより、ここは何という国なの?」


 クレアはエミリアの家へ向かう途中、矢継ぎ早に尋ねた。


「ちょっと焦らないで。まず地球というのは、この惑星のことよね?

 確かにここは地球よ。

 年号は「こちらの国」ではエンゲルス3年。

 現在の王エンゲルスが即位してから3年目ということね。

 ここはY国、正式な国名はヨコハマよ」


「横浜? もしかして、今日戦った相手の国というのは、東京かしら」


「そう、お隣はT国、トーキョーよ、その名前は知ってるわけね」


 すると、ここは日本ということね、とクレアは言葉に出かかったが、どうもそうではなさそうだ。

 第一ここにいる人々は日本人には見えない。名前の呼び方も町の作りも欧州に近い。

 クレアが元いた世界とはいろいろな面で異なっているようだ。

 時間軸はクレアの元の世界の西暦2022年5月と同一なのか、それともズレているのか、確かめようはなさそうだ。

 もしかすると、ネルバとエリスなら知っているかもしれないが。

 やはり元の世界に戻るには、癪だけどネルバの力が必要だ。


「さっきの話の続きになるけど、明日私は誰を訪ねればいいのかしら」


「ちょっと待って。家に着く前に姉に連絡しておかないと」


 エミリアはIDPを取り出すとどこにスイッチがあるのか、スマホのように指で表面を擦ってから電話のように話し始めた。


「ああ、姉さん、今から帰るんだけど、お客さんも一緒に来るからよろしくね。うん、姉さんも知っている人、もちろん女性だよ」


「あなたのお姉さんが私のことを知っているって、どういうこと?」


「それは着いてからのお楽しみ。さあ、家はここだよ」


 エミリアが指差したのは、姉に連絡するために立ち止まった通りの目の前にあるドアだった。ヨーロッパによくあるタイプの集合住宅の扉だ。


 この世界でクレアのことを知っている人と言えば、まだ数はそれほど多くない。スクルドはワルキューレで、たぶん人間ではないだろうし、ネルバはさすがにエミリアの姉ではないだろう。すると、まさかのエリス?


 エミリアは共同になっている玄関のドアを開けて短い廊下を進むと、左手の階段を上り、二階の廊下の突き当りのドアをノックした。


 エミリアの後に付いて行ったクレアは、扉の向こうで「はーい」と高い声で返事した女性の声の主が誰なのかさっぱりわからず、扉が開くまでドキドキしていた。


「いらっしゃい」と言いながら扉を開けたのは、広場に着いたときに、最初に救護用のテントまで連れて行ってくれた女性だった。


「お客さんを連れてくるなら、もっと早く連絡しなさいよ、エミリア」


「ごめん、ごめん、お客さんを連れてくるなんて滅多にないからさ、連絡するの忘れてた」


 エミリアはリビングに入ると、中央にあったソファに乱暴に腰を下ろして、一人掛けのチェアを指差しクレアにも座るよう勧めた。


「怪我の具合はどう?」


 お茶のセットをテーブルに乗せながら、姉がクレアに尋ねた。


「なんとか、大丈夫です。エミリアに手当してもらったおかげで」


 エミリアはテーブルにあったクッキーを齧りながら「私がすぐに縫ってあげたからもう平気よ」と先ほどテントでテキパキと立ち回っていた女性とは思えないほどリラックスしながら答えた。


「御免なさい、紹介が遅れまして。私はマチルダ。このエリスの姉です」


 マチルダは松島さんによく似ている。マチルダは日本人ではない、というか東洋人ではないが、表情というか仕草というか、松島さんそっくりだ、とクレアは改めて感じた。


「えーと、玉那覇クレアです」


「タマナハ・クレアさん」


「はい、クレアでいいです」


 クレアはエミリアが勧めてくれたクッキーに素直に手を伸ばした。

 甘さが少し強い気がしたけれど、疲れている体にはちょうどいい気もした。

 考えてみると、ここ数時間、何も口にしていない。クッキーを口に頬張ると急にお腹が空いてきた。恥ずかしいことにお腹がキュルキュルと音を立てて鳴った。


「ちょっと待っててね、何か口にできるものをすぐに用意するから」


 お茶を入れ終えたマチルダが笑いながらキッチンへ向かった。

 クレアは顔を赤くしながら、先ほどの話の続きをエミリアと始めた。


「明日の朝は、最初にクリムトっていう料理人を訪ねてみるといいわよ」


 クリムトは町でレストランを経営しているが、宮廷で王に食事を供する料理人も兼任している。本人曰く、宮廷料理人の方が本業だという。

 クレアはクリムトという名前を聞いて、画家のクリムトを連想した。王の名前がエンゲルスというのも何か引っかかる。そうした疑問は伏せて話を続けた。


「そのクリムトさんという人は、妖精について詳しいの?」


「宮廷料理人というのは、階級がかなり上なのよ。Aクラスではなく、Bクラスだけど、王様は妖精としょっちゅう会っているし、会食もしている。クリムトはそうした会食で供される食事を担当しているから妖精についてもよく知ってると思うわ」


 そんな話をしていると、マチルダが食事を運んできた。

 イタリアのフォカッチャに似た丸いパンと、クリームシチューに似たスープだ。皿に盛り付けられるやいなや、クレアは遠慮なく口にした。

 シチューのような料理には鶏肉に色や味、触感がよく似た肉が入っていた。クレアはそれが何の肉なのか聞くのが怖かったので敢えて訊くことを避けていたが、味は悪くなかった。

 その様子に気づいたのか、マチルダが「それは鶏肉よ」と教えてくれた。

 エミリアは「ちょっと待ってて」と、食べていたスプーンを置いて、リビングの棚にあった動物図鑑のような本を手に取ってきた。

 エミリアはページを捲って「鶏」の写真を見せてくれた。それはクレアが知っている鶏と同じ姿なので安心した。

 ところが、クレアが何気なく図鑑のページを捲っていくと、見たこともないような動物の姿がいろいろと出てきた。

 羽の生えたトカゲのような動物は、クレアの世界では「ドラゴン」と呼ばれる空想上の生物だ。


「まさか、これ食べたりするの?」


「少なくとも、私たち人間は食べないわね」


 マチルダが笑った。こちらの世界でも人間が食料としている動植物はほぼ一緒のようだ。

 そこでクレアはおかしなことに気が付いた。図鑑に書いてある文字がまったく読めないのだ。ローマ字やギリシャ文字とも違う。ロシアで使われているキリル文字に近い形をしているけれど、それとも違う。


「これ、なんて書いてあるの?」


 クレアは、蛇のような体に翼のある生き物の写真の下に書かれたキャプションを差してマチルダに尋ねた。


「オピオンよ、いわゆるドラゴンの一種ね」


「ねえ、私ここに書いてある文字がまったく読めないんだけど?」


「さっきも聞いたけど、クレアはこの国というより、この世界の人じゃないみたいね」


「なのに、私、あなた方とは「日本語」で話しているわよね」


「ニホンゴ? 普通に「会話体」で話しているだけよ」


「どういうことなの?」


「あなたが付けているそのIDP、それがあれば、「今」は世界中の誰とでも会話ができるのよ。

 でも、もっと昔はそうじゃなかった。

 世界中にはさまざまな言語があって、お互いに通じない時代があった。

 もちろん、学習すれば話せるようにはなったけど、それでは限りがあるし、個人の能力によってコミュニケーションが取れたり、取れなかったりするでしょ?

 IDPに「会話」機能を付けたお陰で、誰とでもコミュケーションが取れるようになったの」


 クレアはそんな優れた「工学技術」がこの世界にあるのかと素直に関心した。

 その技術を元の世界に持ち帰って生かすことができれば、画期的な発明になりそうだ。これは「翻訳機」どころの騒ぎではない。


「つまり、あなたたちが話している言葉を日本語と認識しているのは、このIDPのお陰で、実際の言語は日本語じゃないということね」


「クレア、あなたとても勘がいいのね。その通りよ」とマチルダが関心して言った。


「だから、あなたの知識にない単語は、当然のことながら、あなたが使う言葉に翻訳できないわけね。例えばこの「オピオン」って単語、あなた知ってた?」


「確かに初耳ね。そうした単語は当然、訳せないわけか」


 そんな話をマチルダとしていると、エミリアがきちんと畳まれた服を一抱え持ってきてクレアの横の椅子に重ねた。


「クレア、これに着替えて。あなたが今着ているものはクリーニングしておくから。サイズはたぶん私と同じぐらいのはずよ。姉さんだとちょっと合いそうにないけど」


「エミリア、ちょっとあなた、失礼ね。でも、クレアには私よりエミリアの服の方が似合いそうね」


 エミリアが持ってきた服はクレアの好みに合っていた。ただし、色合いはどれも淡い色で、黒いものは一つもない。


「あなたが着ているような服は、あなたの世界では「普通」かもしれないけど、こちらの世界では、普段着ではなくて、どちらかというと「ヨソイキ」のファッションね」


 元いた世界でも、クレア以外の人には普段着ではないかもしれない。だが、ここは説明が面倒なので避けておいた方がよさそうだ。


「明日はたぶん、今日のような戦いはないはずだから、この服装で大丈夫。王様に会うなら、その服の方がいいけど、それまでには綺麗にしておくわね」


 それにしても、クレアは彼女たちがとても親切なことに驚かされた。

 何か裏があるのではないかと少しだけ勘繰ってはいたが、この世界に自分は独りぼっちであることを考えると、多少の裏があるにせよ、彼女たちの親切は素直に嬉しかった。


「ただし、ごめんなさい、ご覧のようにこのウチは狭いので、客室がないのよ。リビングのソファをちょっと直すから、ベッド替わりに使ってね」


 マチルダがソファの上にシーツをかけて毛布を用意してくれた。


「エミリア、明日は早番なので、先に寝るわね。クレア、おやすみなさい」


「おやすみなさい」


 シチューとパンで腹が満たされると、先ほどあれだけ眠ったのにまた眠気が襲ってくる。


「腕を怪我しているからシャワーは無理かもしれないけれど、寝る前に、これで体を拭くといいわ」


 エミリアがテントにいたときと同じように、洗面器とタオル、石鹸のようなもの、控えの歯ブラシなどをテキパキと用意してくれた。

 クレアはエミリアのパジャマに袖を通すとソファの上に横になった。サイズはほぼぴったりだったけれど、クレアには袖がちょっと長かった。

 時間は果たして何時だろうか。よく見ると、リビングの棚の上に長針だけが付いた時計があった。


「これ、何時かしら?」


「時計の見方は、真上がゼロ時。いまの季節だと深夜かな。昼は一回りして真昼ぐらいがやはりゼロ時。数字はどう翻訳されているのかよくわからないけど」


 クレアはエミリアの説明でだいたいの検討が付いた。

 こうしたときにアナログ時計は便利だ。デジタル表示だと、こちらの文字を覚えなければ時間が読めないけれど、アナログならば、針が差すところ見れば時間がわかる。

 時計の円周に刻まれたドットの数は全部で10個。つまり十二進法ではなく、この世界では、十進法で時間を表していることになる。それでいくと、ここの現在の時間は1時、クレアの世界では、だいたい1時20分ということになる。


「エミリアは明日は何時に起きるの」


「この時計で行くと、この針のところ辺りかな。時間になったら起こしに来るよ、それまではゆっくり寝ていてね」


 エミリアが指差したのはこの時計で7時の辺りだ。元の世界なら7時40分ぐらいか。

「では、おやすみなさい」


 エミリアが寝室に消えると、眠気は襲っているのに、脳の一部はまだ興奮したままだった。

 目を瞑ると瞼の裏にワルキューレの姿が現れた。はっとして目を開けたが、すぐにまた目を閉じた。 目を閉じると、翼を大きく広げて近づいて来るワルキューレの姿が再び映った。

 だが、もう気にしない。

 講義室の窓から見えたのとは違い、これは疲れているので見える幻影だ。

 自分はもう夢の中にいるのかもしれないと、クレアはぼんやりとした意識の中で思った。

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