月曜のヌクレオチド(その2)
キャンパスの外の光はクレアには強すぎた。
行き交う学生の数も疎らな構内を足早に抜けて、正門の前の大通りを左へ曲がる。
チラシの地図によると、最初の交差点の横断歩道を渡ったすぐのところに、コドモミュージアムはあるらしい。
クレアはその恰好に似つかわしいとはいえない駆け足で教室から正門までの間を移動していった。パーティーに遅れまいと屋敷から飛び出してきた淑女さながらに、しかし、クレアが向かう先にはかぼちゃの馬車も、運転手付きのベントレーも待っていない。
正門を通り抜ける前に空を見上げた。先ほどまでクレアが学んでいた校舎の八階辺りを振り返ってみても、横浜港や千葉の陸地とを結ぶライン上に飛行体らしき影はない。
ワルキューレのコスプレをした女性がサーカス団よろしく吊り下げられていたなら、たかがコドモ博物館のイベントでそこまでするとは思えないが、驚きはすれど、それはそれで納得するだろう。
だが、五月の青空には今のところカラスもスズメも、民間機も自衛隊機も見当たらない。
クレアは上空をさっと見渡してから、正門の赤レンガの柱の横に立っていた警備員に、さも本日の天候を伺っていたかのように「お疲れ様」とにこやかに挨拶して先を急いだ。
五月の街中では白を基調とした色合いの服が多い。
クレアのようにこの季節にまで黒をベースに着飾っている人は、やはり少数派だ。
クレアがゴシックロリータ系のファッションに憧れを持つようになったのは中学生のときだ。
はっきりとしたきかっけは思い出せない。
アニメやゲームの影響があったわけではない。
ネットや雑誌などでゴスロリファッションを眺めているうちに、自分もそういう格好をしたいと単純に思うようになった。
日常生活から離れて非現実的な世界を楽しむいわゆる「変身」を遂げるコスプレとも違って、ふだんの日常生活もその手のファッションで暮らしていきたいと考えていた。
しかし、その手のファッションに近づくことは、周りの環境がなかなか許さなかった。
両親はその手の文化に理解があるとはいえない。
高校に入ってからも日頃は制服で過ごすことが多かったし、家ではトレーナー姿で、土日などの休みの日に私服で遊びに行くこともほとんどなかった。
大学に入ったら、たとえ両親が反対しても、その手の服を揃えたいと考えていたが、クレアが両親から受け取る小遣いだけでそうしたファッションを揃えるのはまず無理なことがわかった。
趣味と実益を兼ねてロリータ系カフェとかメイドカフェでバイトすることも考えてみたが、コミュ障気味のクレアに接客業はできそうになかった。
悩んだ末にクレアが選んだのは、ゲーム会社の仕事だった。
アルバイト情報の募集要項には初心者歓迎とあるし、工学部の学生ということが有利に働くかもしれないと考えて応募してみたが、面接でプログラミングができるか尋ねられ、正直にできないと答えたので、これは不採用だなと思っていた。
しかし数日後、なぜか採用されたという連絡が入り、なぜだろうかと訝っていたが、任された仕事はプログラミングではなく、デバッカーという制作中のゲームのテストを行う仕事なので納得はいった。
採用された女子はクレアを含めて三人だった。
よろしくお願いしますと、互いに挨拶を交わした他の二人は化粧気っけもなく、オシャレとは無縁な感じで、その点はまだデビュー前の自分も似たり寄ったりだとクレアは感じた。
ある程度資金を貯めたクレアが、いきなり黒装束に身を包んでバイト先に現れたときのことだ。
バイト仲間の二人は目を丸くしてクレアを見ていたけれど、最初の休憩時間に「黒猫みたいで可愛い」と一人がクレアの姿を評価した。
クレアはそのときは黒猫というゴスロリ系のキャラクターがいることを知らず、動物の黒猫のことだと思って一日中妙な気分でいたが、後になってそれが誉め言葉だとわかって満更でもなかった。
クレアがデバックを担当したのは、いわゆる「乙女ゲーム」「乙ゲー」というやつだ。
この手のゲームをするのは未経験だが、仕事の上では問題はない。
ゲームをしていく中で「バグ」がないかどうかを見るのが仕事なので、むしろ新規ユーザーの目線でテストできる方が望ましいともいえる。
クレアが仕事でしょっちゅう見ているパソコン画面には、さまざまな「イケメン」たちは登場するが、「ワルキューレ」や「ヴァルキリー」という非現実的な乙女たちは登場しない。
チラシに描かれたイラストの少女は、剣を携え、左手に槍を持ち「強そう」に描かれているが決して筋肉質ではない。
実際にこんな少女がいても、あっという間にやられてしまうに違いないと、コドモミュージアムの前の横断歩道で信号待ちをしながら、筋肉量でいえば自分と同じぐらいの少女が背負わされた割と過酷な運命に同情を覚えた。
コドモミュージアムの入口付近まで行くと案内のビラを配っている着ぐるみが出迎えてくれた。
それがチラシに描かれていた「ネルバちゃん」だということはすぐにわかった。
デフォルメされたイラストの比率通りの着ぐるみで、いったいどこから外を見ているのだろうか、こういうのを見て「なかのひと」の都合を真っ先に考えてしまうところが、自分もすでに大人なんだなとクレアは思った。
念のため「ネルバちゃん」の配っていたビラを受け取ってみると、クレアが持っていたチラシと、中身は一緒だ。ただし紙の大きさが違っていて、クレアが今朝受け取ったのはB5サイズでいま受け取ったのはA4サイズだ。
2種類のチラシをゲットしたからといって何か特典があるわけではないだろうが、クレアが種類の違う二つのチラシを持っていたので、傍らにいた男の子が羨ましそうに見ていた。
それに気づいたクレアは男の子に笑いかけたつもりだったが、目が合うと少し離れていた母親らしき女性のそばへ逃げるように駆けていった。
そして母親の手を引っ張るように掴むと振り返りざまにアカンベーを返してきた。
(なんて憎たらしい子なのかしら。最近「ベー」なんかされたこと一度もないのに)
憎らしいと思いながらも、クレアはいつになくウキウキした気分になっていた。
この男の子はクレアのような年上のお姉さんを見かけて、きっと照れ臭いだけなのだ。
いや、もっと単純に「ネルバちゃん」からチラシを受け取った自分に嫉妬しているだけのことか。
二つのチラシを重ねて団扇のようにパタパタ振りながら、クレアは館内へ通じるガラスの自動ドアの前に立った。
しかし、自分のような年齢で果たしてコドモミュージアムに入館してもよいのだろうか。
ドアの横にあった立て看板には一〇時から七時までの入館時間と月曜定休としか書かれておらず、特に年齢は書かれていない。
先ほどから見ていると、親子連れのほか、孫を連れたおじいちゃん、おばあちゃん、小学生や中学生、高校生はもとより、クレアと同年代、あるいはそれ以上と思しき少年少女、まさに老若男女がいた。平日にもかかわらずそれなりの混雑ぶりだ。
この場にいるクレアを奇異な目で見る人は少ない。クレアの格好なら、むしろ工学部のキャンパスで見かけることの方が奇異であることをクレアは忘れかけていた。
(私がここに入っても、大丈夫よね)と自分に言い聞かせながら、ガラスの扉を抜けて館内へと足を運んでいった。
*
ガラスの扉の向こうはまるでホテルとかオフィスビルのような雰囲気で、ミュージアムという語の定義が何だったか、クレアは一瞬わからなくなりかけた。
ミュージアムとは、美術館もしくは博物館のことだったはず。
美術館といえば、壁一面に油絵とかが飾ってある空間を想像するが、それはむしろギャラリーというべきか。
確かに美術とは絵画だけではない。壺だとか皿だとか、茶器だとか、近代アートでいえば、便器だって立派なアートだったりもする。
だが、入り口を抜けたここには、それらしき作品は見当たらない。
人でごった返したいわゆるロビーとでもいうべき空間が広がっているだけだ。
吹き抜けの天井には、シンプルなデザインのダウンライトが灯っている。
数メートル先にガラスで仕切られた壁らしきものがあるが、そこは空港のロビーのようなでもあり、そこを抜けると、ハワイ行のジェット機にでも搭乗できそうな雰囲気だ。たぶん、このガラスの向こうに何らかの展示物があるのだろう。
左手を見ると、大きな円形の受付らしきカウンターがあった。
カウンターには女性が一人座っていて、来客相手に何やら受け答えをしている。
勝手がわからないクレアは受け取ったチラシを片手に受付まで進んでいった。
受付にいた先客は先ほどクレアにアカンベーをした子供とその母親らしき二人連れだった。
子供がクレアに気づいたので、今度は先にクレアがベーを返してやった。
子供はそれを見て怯んだのか、「ママ」と甘えた声を出して母親の服の裾を引っ張った。
クレアは勝ち誇った気分でカウンターの女性に話しかけた。
「すみません、このチラシを見てきたんですけど」
クレアがチラシを差し出すと親子連れ相手に今までにこやかに対応していた女性の顔が急に強張った。
「少々お待ちください」と言いながら女性は席から立ちあがると後ろにあったパソコンのような端末のキーボードをいきなりパチパチと叩き始めた。
「あなた、お名前は?」
「玉那覇クレアです」
反射的に個人情報をばらしてしまった。
しかし、それ以上のことは何も訊いてこない。とりあえず住所や電話番号はいいらしい。
一体どうしたというのだろう。クレアはまだ具体的に何も尋ねていないのに、慌ただしく働き始めた受付嬢を怪しんだ。
見るとその女性の横顔は、今朝駅前でチラシを渡した女性とよく似ていた。
「あの、すみません。ちょっとお尋ねしたいんですけど」
クレアはキーをたたき続ける女性にもう一度声をかけたが女性はそれを無視して作業を続けた。
やがて一通りの作業を終えたのか、女性は向き直って、笑顔を作り直した。
「お待たせしました。クレアさん、あなた、世界を救いに来た方ですね」
チラシには確かにそう書いてある。
「えーと。世界を救いに行ってもいいんですか、私でも」とクレアは年齢的に大丈夫なのかというつもりで尋ねた。
受付の女性は「もちろん」と言って相好を崩した。
「いや、ここはコドモミュージアムなので、年齢的に大丈夫なのかなと」
相手が誤解していると困るので、ここはストレートに訊いておこうと思った。
「年齢制限は特にございません」と女性は冷ややかに言い放った。
「あなた、そのチラシをもう一度見せて下さる」と真顔になってクレアに詰め寄った。
クレアがチラシを差し出すと、受付の女性はカウンターの上に束になって置いてあったチラシを一枚とって、「さあ、ご覧になって」と言って並べて見せた。
クレアが今朝受け取ったチラシと、その横に並べたチラシとは明らかに違う箇所があった。
キャッチコピーの文字の色、そして何より書かれている文言が違う。
クレアが持っているチラシの文字の色は緑で、横に置いたのは青だった。
そして緑色の方は「さあ、キミも世界を救う旅に出よう!」とあって、青色の方は「さあ、キミもネルバの世界を探索しよう!」と書いてある。
受付の女性は探るような眼つきでクレアの顔をじっと見ていた。
「チラシは2種類あったのね」と苦笑いを浮かべて相手を見返したが、受付嬢の顔は緩んでいなかった。
クレアは何か違和感があったが、その正体がすぐには掴めない。
「あっ」と思い出して入り口の着ぐるみから受け取った方のビラをよく見ると、そこにあった文言は「ネルバの世界を探索しよう!」だった。
(おかしいな、最初に見比べたときは、書いてある言葉は同じだと思ったんだけど)
「2種類というよりも、正確にはあなたが今朝受け取ったチラシはそれ一枚切りなのです」
不審がっているクレアに受付嬢が説明を加えた。
「わかった。この文章が書かれた方が『当たり』ってことね」
「当たりとはちょっと違いますが、まあ、いいでしょう。ところで、あなた、先ほど、ワルキューレをご覧になったでしょう。そのチラシを受け取ったあなたにだけは見えたはずです」
受付嬢の言葉が核心を突くように耳に入った。
ここに来ればすべての謎は解けるか、あるいは永遠に解けないかもしれない。
そう思いながら教室を飛び出してきたが、その謎はすぐにでも氷解しそうだ。
しかしまだ心の準備ができていない。
具合が悪くなって病院を訪ねたところ、注射器を持った女医が受付に急に現れた、そんな気分だ。
「時間がないので、単刀直入に申します。クレア様には『ある世界』をぜひ救ってほしいのです」
「ちょっと待って、それってイベントの話よね。ある世界って、よくわからないんだけど」
話がどんどん進んで行きそうなので、どこかで一息つかせてほしかった。
(なるほど。すでにアトラクションは始まっているわけね)
ここは受付嬢のノリに合わせておく方が賢明だと悟った。
「えーと、まず、ここの入場料は幾らになるのかしら」
「大人800円、子供が500円です」
受付嬢はブースの横に置いてある券売機を指差しながら、事務的に答えた。
この手の施設にありがちだが、コドモミュージアムなのに、大人の方が料金が高い。
「学割は効くかしら」
「学割はないです」
受付嬢との間にしばし沈黙があった。
800円あれば、学食の豪華Aセットが食べられる。
エビフライの日は油っこくてあまり好みじゃないけれど、メニューがチーズ乗せハンバーグのときは、なかなかいける。
クレアは今日が月曜日で、確かハンバーグの日だったことを思い出した。
「世界を救ってくださるのであれば、入場料はいりません」
クレアの逡巡を読み取ったのか、受付嬢が先に言葉を放った。
クレアは(当たりを引いた人の特典なんだわ)と勝手に決めつけて「それ(タダ)なら参加してもいいわよ」と即答した。
「では、引き受けて頂けるということでよろしいですね」と受付嬢は再び笑顔になって、カウンターの下からストラップの付いた透明のペンダントのようなものを取り出した。
「まずこれを首から下げてください」
クレアは受付嬢から渡されたストラップを素直に首から下げた。
ちょっと見ると、何かの大会で優勝したときの記念のメダルのようにも見える。
(バイオリンコンクールで優勝したときにこんなようなメダルを受け取ったことがあったような、なかったような)
材質は透明なアクリルかクリスタルのような感じだが、窓ガラスのように向こう側を透かして見ることができなかった。
「それは一種のIDカードのようなものです。こちらに帰還するまでは必ず身につけておいてくださいね」
帰還という言葉に多少引っかかるものを感じたが、アトラクションを盛り上げるための用語の一つだろうとあまり気にしないことにした。
「では、参りましょうか」
クレアは首からぶら下げた『IDメダル』をまだしげしげと眺めていたが、それにはかまわず、受付嬢はカウンターの下から四角いカードリーダーを取り出した。
「ここにそのクリスタルの部分を当ててください」
クレアは言われるまま、メダルをカードリーダーに当てると、ピッという電子音が短く鳴った。
数秒後、大掛かりな芝居のセットの書割が開くように、カウンターの後ろにあったガラスの扉がゴーという唸り声を上げて開き始めた。
思わず耳を塞ぎたくなるような大きさだった。
開いたのは、ガラスの扉だけではない。
天井までがドーム球場のように巨大な卵の殻が割れて二つに分かれるように、左右に離れて行く。
思わず耳を塞ぎたくなるような大きさだった。
次の瞬間、クレアは眩暈を覚えた。
大地が揺れている気がして、地震が起きたかと思ったが、少し違う。
高層ビルの上階からエレベーターに乗って地上へ降りるときのような体の軽さと、貧血に陥ったときのような感覚が同時に起きた。
気分が悪くなり、思わず目を瞑って、しゃがみ込んでしまった。
「クレア様、大丈夫ですか?」
一体どれぐらいの時間が経ったのだろう。
数秒か、それとも数分か。
受付嬢からそう言われて目を開けたときには、先ほどまで感じていた気分の悪さはすっかり消えていた。
辺りを見回したが、先ほどの親子連れも、一緒に入った女子や男子のカップルやグループも、クレアと受付嬢のほかは誰一人としていなくなっていた。
ガラスの扉が開いたその先は「外の世界」だった。
*
コドモミュージアムの建物が二つに割れて、クレアと受付嬢の二人は、いきなり屋外に放り出されてしまったかのようだ。
最初に錯覚したように、飛行場でも現れたのかと思うぐらいに広大な大地が広がっていた。
ただし、そこは飛行場のようにアスファルトで整地された場所ではなく、むき出しの「土」の大地だった。
遥か遠くに低い茂みのような影が見えるだけだ。象やライオンが住むアフリカ辺りなら日常的に見られる光景かもしれない。
「クレア様、次はこれをお持ちください」
クレアが呆然と辺りの様子を伺っていると、背中越しに声があった。
受付嬢がウイリアムテルの寸劇で使う小道具のような弓と矢を手にしてクレアの前に突き出した。
「ここはY市? まさか市原じゃないわよね」
「イチハラ? いいえ、ここはヨコハマです。もっともこの世界では、ヨコハマ市ではなくて『国』ですが」
アトラクションのセットにしては大掛かりだと、クレアは思った。
「もしかして、さっきのワルキューレもこのセットもVRなの?」
「VRとは違うよ」
クレアが尋ねて振り返ると、受付嬢とは別の声が返答した。
受付嬢の横に入り口にいた「ネルバちゃん」の着ぐるみと同じような衣装のコドモが立っていた。
先ほどの着ぐるみはつま先から頭の天辺までが2メートルはありそうだったが、こっちの子は「ネルバちゃん」と呼ぶにふさわしいぐらいの可愛さだ。
1メール55センチのクレアよりも若干身長が低い。
入り口に立っていた着ぐるみは頭まですっぽりと覆われていたが、こちらは顔の部分がむき出しで、頭巾のような被り物だった。
「やあ」とネルバちゃんは右手を挙げて挨拶した。
「僕の名前はバーミリオン・ネルヴァ。発音しにくいだろうから、名前を呼ぶ時は、ネルバでいいよ」
僕と名乗っているけど「中の人」はどうみても女の子よねとクレアは思った。
着ぐるみと同じ黄色と紫のチェッカー模様は着ぐるみのようなフエルト製ではなく、サテンのような光沢のある生地のせいか、チラシのイラストよりも幾分か上品に見える。
「はじめまして、私は玉那覇クレアよ」
クレアは自分の方が年上だと思い、子供に接する感じで握手を求めた。
「ふん、キミ、僕のこと馬鹿にしてるでしょ」
ネルバはクレアの手を跳ねのけて後ろ手に組んだ。
「僕はね、この世界では妖精なんだ。キミなんかより。ずーっと年上だぜ、たぶん」
ネルバはちらっとクレアを見て言った。
「そんなことより、タマハ様には、まずこれを受け取って頂かないと」と受付嬢が間に入って先ほど手渡そうとした弓と矢をネルバに渡した。
「そうそう、これを受け取りなよ、タマハ・クレヤ」
「タマナハ・クレアよ、言いにくそうだから、クレアでいいわよ」
「ごめんよ、日本語は難しくてね、クレア」
ネルバは、知らん顔をしている受付嬢の方をキッと睨んでから「さあ」と弓と矢を突き出した。
クレアが弓を受け取ってみるとアトラクションの小道具にしては意外としっかりした作りであることがわかった。矢じりの先端は触れると指に穴が開きそうなぐらい鋭かった。
「これ、なんか危なくない」
「矢じりには無闇に触れないようにね、ケガをするから」
ネルバはニコニコしながら説明した。
「今からここへ、兵士たちがわんさか押し寄せてくるので、その弓と矢で相手を迎え撃ってほしいんだ」
「これ、当たったらケガするんじゃないの?」
ネルバは「ぷっ」と噴出した。
「当たれば、ね。それより、そろそろ準備した方がいいよ。矢を撃った経験はあるかい?」
クレアはバイオリンの弓なら扱うことに慣れていたけど、同じ弓でもこれは勝手が違う。弓道の心得も経験もないが、取り敢えず弦に弓をつがえて構えてみた。
「おお、いいじゃない。でも、練習では撃たないでね。何せ本数が少ないから」
ネルバが言い終わらないうちにクレアは大地の向こうに矢を射っていた。
矢はクレアが想像したようなゆったりした軌跡ではなく、メジャーリーガーの4番が160キロの直球をライナーで打ち返したようなスピードで飛んでいった。
飛距離は少なくとも100メートル以上はありそうだ。
「ああ、言ったそばから、あれじゃ取りに行くのも面倒だな」
ネルバは大げさに呆れてみせた。
「ごめんなさい。でも練習しとかないと、撃てないじゃない」
クレアに特別腕力があるわけではないので、この弓の威力はチート気味だけど、クレアはすでに始まっているアトラクションが妙にリアルにできていることに興奮を覚えた。
ネルバの方を振り返ってみると、「では、私はこれで」といいながら受付嬢は逃げるように後ずさりし始めていた。
「じゃあ、またね。エリス」
ネルバは受付嬢に手を挙げて挨拶した。
受付嬢の名前はエリスっていうのかと、クレアは思いながら、その様子を見て、何か変だと思った。
受付嬢が踵を返したのが合図となったかのように、上空で蜂の飛ぶような音が聞こえてきた。
その蜂のような羽音の方が気になって、受付嬢がどこへ消え去ったのか、クレアは最後の行方を見定めることができなかった。
「さあ、来るよ」
ネルバは大空の一点を見つめながら真顔になった。
羽音が一段と大きくなるにつれ、消防車がサイレンを鳴らしながら徐々に近づいて来るときのような緊張感を覚えた。
まず逃げる場所を探さないといけない、ただならぬ危機を感じたクレアの本能がそう告げていた。
クレアはもう一度周りを見渡した。
ミュージアムがあった辺りには古代遺跡のようなレンガ積みの丸いドームのようなものがある。中央には部屋のドアが嵌りそうな長方形の穴が開いている。いざとなったらあそこに逃げ込めそうだ。
「これから戦うのに、もう逃げることを考えているのかい」
ネルバがクレアの心を見透かしたように言った。
「違うわよ、念のためよ。隠れる場所だって、戦いには重要でしょ」
やがて黒っぽい灰をまき散らしたように、羽音の出元となっている一群が現れた。
先ほどクレアが見たワルキューレと似ているが、羽の色はカラスそのもので逆光のせいか漆黒の一群は西洋の悪魔のそれを思わせた。
最初、その一群はクレアの方に向かってくるのか思っていたが、そうではなかった。
クレアから見て右手から現れ、左の方へ飛んで行く。すると今度は、羽音より低い地鳴りのような響きが右手から起こった。
騎兵らしき一群が砂埃を巻き上げながら現れて漆黒の一群を迎え撃つかのように止まった。
クレアは、これは自分の出る幕ではないと直観した。
「ねえ、このアトラクションのルールはどうなっているの」とクレアはネルバに訊いた。
「ルールは特にないよ、戦うだけさ」
「これはあくまでもゲームよね。戦うといっても、本当に殺し合うわけじゃないわよね」
「これはアトラクションじゃないし、ゲームでもない。現実さ」
クレアはもう一度手にした矢じりをじっと見た。
これは確かに本物の武器だ。
「これで相手から攻撃されたら、こっちも怪我するわよね」
そう訊きながらネルバの方を振り返ってみると、満月が雲に隠れるように、その姿がだんだん薄くなり始めていた。
「まさか、死ぬことはないわよね」
薄くなっていくネルバに向かって、クレアは念を押すように尋ねたが、最後の言葉を言い終えたときには、その姿はどこにもなかった。
一人取り残されたことで、クレアはパニックに襲われた。次にどのように体を動かせばいいのか、さっぱりわからなかった。
右手から空を飛んできた漆黒軍は次々と地上に降り立ち、左手の騎馬軍団と数十メートルぐらいの距離を置いて向かい合わせの形になった。
どちらの軍団も筋骨隆々とした兵士ばかりで身長も裕に2メートル近くはありそうだ。
その様子を見て、クレアは体がブルブルと勝手に震え始めた。
これまでに経験したことのないほどの危険が迫りつつあるのを感じて体が震えているのだ。
十九歳の女の子がこんなわけのわからない戦場に急に放り出されてしまったわけだし、これは仕方がないことだ、別に臆病なわけではない、とクレアは自身に言い聞かせた。
この睨み合いはいつまで続くのかと思っていた矢先、漆黒軍の一人がクレアの存在に気づき、翼をばっと広げて低空飛行で近づいてきた。
その様子に驚いたクレアは、反射的に弓に矢をつがえ、飛んできた黒い兵士目掛けて撃ち放っていた。
矢は先ほど練習で射ったときと同じように速いスピードで飛んでいったが、兵士のかなり手前で縦にカーブを描きながら地面に落ちた。
あの鋭い矢じりが相手に当たらなかったことでほっとすると同時に、さらに状況が悪化したと感じた。
矢を向けられた兵士はさらにスピードを上げてクレアに向かって挑んできた。
手にした槍の先をクレアに向けて真っすぐに構えている。
クレアには次の矢をセットする余裕がなかった。
弦に指をかけて構えたとき、兵士の槍の先が右肩の辺りを擦った。
槍の先をかわそうと反射的に身を捩ったが、次の瞬間には激痛が走った。
見ると黒いブラウスの肩のところが破れ血が滲んでいた。
(本当にアトラクションじゃないみたいね)
相手が槍を構え直して振り上げたとき、クレアは(殺される)と覚悟して目を瞑った。
頭を抱えるようにして伏せたが、次の一撃がなかなかやってこない。
びくびくしながら薄っすら目を開けてみると、クレアの上に兵士が圧し掛かってきたので、慌てて横に避けた。
クレアの支えを失った兵士は、ドスンと鈍い音を立ててうつ伏せに倒れた。
そしてそのまま動かなくなっていた。
よく見ると、背中のちょうど羽が生えている真ん中辺りには、兵士が持っているものよりも倍ぐらいの太さの槍が突き刺さっていた。
槍の手元の方へ視線を移していくと、クレアの目に、ヨシムラ先生の講義の最中に、教室の窓の外で見たあの「天使」の姿が飛び込んできた。
北欧系を思わせるプラチナブロンドの髪を後ろで一本に編み込んでいるせいか、やや吊り上がったサファイアブルーの眼(まなこ)で、すでに絶命していた兵士を睨みつけていた。
「ワルキューレ!」
長年離れて暮らしていた実の姉と再会したような喜びに近い声を、クレハはあげていた。
ワルキューレは兵士の背中に刺さった槍を片手で軽々引き抜くと、手元の方を杖のようにして地面に突き立てた。
「あなたがこの世界の救世主というわけか」
クレアはキュウセイシュと言われて、言葉の意味がすぐには掴めなかった。
(ああ、救世主のことね。でも、救われた自分の方が救世主とか、おかし過ぎるわね)と思った。
「私は、玉那覇クレア、あなた、ワルキューレでしょ」
「私はスクルド。ワルキューレの一人だ」
「さっき、横羽大学工学部のキャンパス目掛けて飛んで来なかった?」
クレアは、ここが戦場ということも忘れてスクルドに質問した。
「いや」とスクルドはクールな声で否定した。
「それはきっと幻影だろう。だが、ただの幻影ではない。我々が仕掛けておいたトラップにあなたがちゃんと反応したということだ」
「トラップ? ということは、私はあなたたちに捕まったというわけね」
きっと、受付の女性、確かエリスと呼ばれていた女性と、突然消えた妖精のネルバ、この二人にまんまと騙されたわけだ。
「それは違う。トラップとは「罠」とか、別に悪い意味で言ったのではない。救世主を探し出すための仕掛けということだ」
クレアたちの後方では、すでに両軍が戦いの火蓋を切っていた。
スクルドは、腰に下げていた剣をさっと抜き取り、後ろから襲ってきた別の兵士の一振りを一撃で交わした。
「すでに戦闘は始まってしまったようだ。話の続きはこの戦いが一段落してからだな」
クレアは、先ほど兵士から受けた槍の刃先で切った傷が痛みだした。
この戦いがバーチャルではなく、現実の出来事と知るには十分過ぎる痛みだった。
切れたブラウスの部分を捲ってみると袖の生地のかなりの部分が傷口から染み出た血で濡れていた。
スクルドはそれを見て「かすり傷だ、心配するな」と芝居によくあるようなセリフを吐いて唇の端を釣り上げた。
「かすり傷のわけないでしょ、早く手当しないと化膿しちゃうかも」
怒ってみせようと声にしたが、勝手に泣き声に変わっていった。
泣き顔で傷口を覗き込んでいると、「やれやれ」と言いながら、スクルドは腰に巻いていた帯の布地の一部を引き裂き、クレアの肩口に包帯のように巻き付けた。
痛みはすぐには消えなかったが、出血の方はそれで少し抑えることができた。
「立てるか」と言ってスクルドは地べたで腰砕けになっているクレアの手を掴んで引っ張り上げた。
クレアを抱えたまま飛ぼうとしたが、さすがに無理だったようで、スクルドは剣を左右に大きく振りかざして、上空にいたほかのワルキューレたちに助けを求めた。
その合図に気づいて二人のワルキューレがクレアの前に降り立った。
黒髪とダークブラウンの髪の色の違いはあったが、スクルドと三人で姉妹のように、顔立ちが似ていた。
「彼女が此度(こたび)の救世主だ。すでに怪我を負っている」
スクルドがここまで言うと、二人は合点がいったように互いに顔を見合わせてそれぞれの武器を構えてクレアをガードするように前方に立った。
相手の兵士たちは、ワルキューレが手強いことを知っているのか、スクルドが片付けた二人のほかに襲ってくる様子はなかった。
戦いは激しさを増していったが、どちらが優勢なのかさっぱりわからなかった。
最初は剣と槍、そしてクレアが与えられた弓といった「刃」だけの戦いかと思っていたが、そのうち、かなり近い場所で黒い煙が上がったのを見て、火薬も使われていることがわかった。
ひゅるひゅると打ち上げ花火のような音が聞こえ、一瞬だけ静かになる。
次の瞬間爆音がして地面が揺れた。
兵士たちの戦う叫びがかき消され、砲声ばかりが目立ち始めた。
やがて、角笛のような甲高い音が遠くで鳴った。
それが合図となったのか、砲声が途絶え、兵士たちの雄たけびや叫び声、剣が触れ合う金属音も消えた。
「一時休戦だ」
狼煙のような細い煙があちこちで上がったのを見てスクルドが呟いた。
「取り敢えず我々はこれで引き上げる。クレア、また会おう」
言い終わらないうちに三人のワルキューレは地上から飛び立っていた。
クレアは痛みが残る肩を抑えながら、彼女たちの飛び去る方向をただ見送るしかなかった。
気づくと、辺りには傷ついた兵士と動かなくなった兵士の体が幾つも散乱していた。
動ける兵士は動けなくなった兵士の肩に手を貸したり、怪我をしているのか、すでに亡くなったのか、意識のない兵士の足を持って体ごと引きずっていく者もいた。
なぜ戦いが始まったのか、どうして戦うのか、クレアにはこの状況が一体何なのか、さっぱり理解できなかった。
荒涼とした大地で戦いが始まり、ある兵士は傷を負い、ある兵士は死に、そして戦いは終わった。
その事実があるだけだ。
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