月曜のヌクレオチド

月曜のヌクレオチド(その1)


「つまり、パーミアンスは、リラクタンスの逆数になります」


 男にしては、ちょっと甲高いヨシムラ先生の声が講義室に響いている。

 玉那覇(タマナハ)クレアは、午後一番の電磁気学の講義で、P=1/Rとホワイトボードに書かれた関係式をぼんやり眺めていた。

 連日のバイトでパソコンの画面を睨み続けていたせいか、肩のあたりがちょっと重い。


「そういえば、ヌクレオチドって何のことだっけ」


 クレアは、急に頭に浮かんだ電磁気学とはまったく関係のない単語を机の上に置いたスマホを指先で弄りながらググってみた。


「確か、DNAにまつわる単語だったような……」


 数年前に高校の生物で習った記憶を掘り起こしながら、ヌクレオチドという「物」の具体的なイメージが浮かばないことにクレアは苛々(いらいら)した。


「ヌ・ク・レ・オ・チ・ド、と」


 スマホの画面には『ヌクレオチドとは、塩基と糖がグリコシド結合によって結合した配糖化合物』と教科書的に書かれている。


 検索しても具体的な形がさっぱりわからない。


「しかもそんな複雑なものが、自分の身体(からだ)を構成しているなんて、気味が悪いわ」

 クレアは欠伸を噛み殺しながら、スマホの画面を閉じて机の上に寝そべった。


 講義を受けていたのは満席で50人ほどが入る階段教室だ。

 定員に対して3分の2程度が埋まっている。

 前の方の席は空いていたが、敢えてそこへ座る気はしない。

 ヨシムラ先生は嫌いな方じゃないけど、講義中に目が合う回数はできるだけ少ない方がいい。

 クレアはこの教室に入ると、たいてい左側の窓際に座る。

 十階建ての校舎の八階の窓からは、どこかの城の天守閣から眺めたときのように街の様子が一望できた。


「じゃあ、あの辺にディズニーランドがあるわけ」


 クレアが訊くと「たぶん、そう」と松島さんは答えてくれた。

 同じクラスの女子の松島さんが、入学したばかりの頃に「あっちの陸地は千葉県なんだよ」と訊かれもしないのに教えてくれた。

 それまでは、その陸地が千葉だということをクレアは知らなかった。

 だけど、後でスマホのマップで検索してみるとディズニーランドはもっと東京寄りにあって、この教室から正面に位置しているのは市原あたりだった。

 市原には「ぞうの国」と呼ばれる象専門の動物園があって、象が海水で水遊びしたり体を清めているシーンをテレビのニュースかドキュメンタリー番組かで見た覚えがある。

 そんなことを想い出しながらクレアが薄目で捉えていた景色の中に、異変が起きた。


 市原の上空辺りの雲の隙間に小さな発光体がゆらゆら動いている。

 観測気球とか飛行機とか、太陽に照らされてそれっぽく見えるやつ、よくUFOと間違われるやつだとクレアは思った。

 川沿いの土手を子犬でも連れて散歩している途中だったら「あ、ユーフォーだ」と指差してみるところだけど、今はヨシムラ先生の講義中だし、UFOじゃないこともわかっているので騒ぎはしない。

 でも、それがこちらにだんだん近づいてくるので、欠伸が出そうなほどまどろんでいた気分はすっかり消えた。

 全体に白いので、この辺でよく見かける烏やトンビの類ではない。 コントロールを失ったグライダーかハングライダーが海からの風に乗って来たのか。

 上空を通り抜ける飛行機よりもかなり低く、真っすぐこのキャンパスに向かって飛んでくる。


「ぶつかる!」


 机から跳ね起きて思わず叫んだ。

 クレアが発した声に、周りの聴講生たちは、居眠りしていた学生が寝ぼけて叫んだと思ったに違いない。

 クレアが指差すその先にあったのは、車が立てるタイヤの軋み音やか細い鳥の鳴き声が微かに響く、五月晴れの穏やかな日常の世界だ。

 我が日常、特に異状なしと確証したほとんどの学生たちは再び教科書やホワイトボードへと意識を戻していった。


 だが、クレアの日常だけは、異常な状態を保ったままだった。

 数メートル先のキャンパスの敷地内に差し掛かったその影の主体は、自分が知っているいかなる飛行体とも形が違っていた。

 グライダーやハングライダーではなかった。

 動物園で見たコンドルのように大きな羽を広げ、しかも翼の中心に当たる部分には、半裸の女性らしき体がぶら下がっていた。

 それはイラストやアニメで見たような天使の姿に似ていた。

 ただ身体は白衣ではなく、胸と腰が水着のような形をした鎧のようなもので 覆われて、腕や腿などの地肌がむき出しになっている。

 映画やアニメで見たなら何の違和感もなく、自然に見える姿形も、現実世界に現れたとなると、恐怖以外の何物でもない。

 クレアはその本来であれば美しいであろう姿に恐怖を覚えながらも、割と冷静に思考を巡らせていた。

 昔、子供の頃に怖い夢を見て飛び起きたことあるけれど、あれに近い感覚だ。

 現実に起こり得ることであれば、こうした類の恐怖は感じない。

 例えば、突然の大地震。

 この校舎がマグニチュード6以上の揺れで倒壊して瓦礫の下敷きになるとか、高さ20メートル以上の津波に襲われて街が水没するとか、巨大隕石が空から落ちてきて大地に直径10キロメートルのクレーターを穿つとか、某国から大陸間弾道ミサイルが飛んできて海沿いの石油コンビナートを直撃するとか、可能性は低くても、現実にはあり得ないことではない。

 しかし、現実には存在しないとクレアが確信している、神とか幽霊とか、悪魔とか、超能力、宇宙人、もっと言えばフィクションの世界で活躍するどんなヒーロー、ヒロインであろうとも、突如、この現実世界に現れたとしなら、それらすべては、恐怖の対象へとカテゴライズされる。

 それは現実には絶対「あり得ない」ことだからだ。

「あり得ること」に対しては、どんな災難や災害であろうとも、納得できるし、この手の恐怖は感じない。

 クレアの上げた悲鳴の先で、その「天使」はブレーキをかけたようにスピードを落として窓ガラスの直前で止まった。

 脈拍は早まっているのに、血液は脳から引いていくような感覚に襲われ、座ったまま気絶しそうになった。

 一方で、クレアの中にいる別の誰かがこの不可思議な現象を最後まで見届けよと命じるかのように眼が離せなくなっていた。

 そのように辛うじて繋ぎとめていた精神の糸をプツンと断ち切るかのように、天使のような影は雨上がりの虹が掠れて消えていくように忽然と見えなくなってしまった。

 見えているうちは恐怖しか感じなかった現象も、霧消してしまうと、今度は「待って」と叫びたくなってしまう。

 その姿がすっかり消えてしまうと、クレアは隣に座っていた男子学生の白いシャツの袖口を無意識に掴んで引っ張っていた。


            *


 三剣早人(ミツルギ・ハヤト)は、授業が始まる寸前に駆け込むように教室に入り、自分の左隣に滑り込んできた女子学生が玉那覇クレアだとわかって大いに慌てた。

 一年のときからキャンパスで見かけ、同じ講義を幾つも受けていたというのに、クレアとはこれまでろくに挨拶すら交わしたことがなかった。

 我ながらちょっと情けないと思っていたが、衆目を集めつつある工学部のアイドルに日常の挨拶といえども気軽に声をかけられないのは、早人でなくともこの学部の男子なら普通のことだ。

 そんなクレアがまさか今日の授業で自分の隣に来てくれるとは、これはいい一日になりそうだと感じた。

 隣に座ったクレアから匂ってくる少し汗の混じった香水の匂い。  トップノートではなく数時間ほど経ったときのミドルノートというのだろうか、いかにもゴスロリ系の女子が好んで付けそうなパフュームの香りを吸い込みながら、早人は自分の顔面が勝手に熱を帯びてくるのを感じた。

 クレアは座席の隣にリュック型のカバンを置いたので、自分と彼女との間には、ほぼ学生一人分の距離が空いている。

 並んで座っているとまではいえない距離かもしれないが、クレアの存在を感じ取るには十分な近さであった。

 だが、彼女の存在をあまり意識しすぎるのもよくない。

 例えば、授業中に万が一トイレに行きたくなったら、これは大変なピンチだ。

 右隣には自分の友人も含めて5、6人の男たちが陣取っていたので、トイレに立つためには、クレアに一旦席をどいてもらうほかない。

 そんなことにでもなったら恥ずかしすぎてクレアとは当分どころか二度と顔を合わせられなくなるかもしれない。

 せっかく隣にクレアが来てくれたのだ。悪い印象を与えることだけはなんとしても避けたい。

 できるだけ講義に集中しようと努めていたが、左側から聞こえてくるカバンを開け閉めするガサゴソ音とか、シャーペンの頭をノックするカチカチ音とか、教科書の紙を指で擦るスリスリ音とか、クレアが立てるわずかなもの音、すべてに聞き耳が立ってしまう。

 が、そんな音もほどなくするとピタリと止んだ。

 あろうことか黒衣の少女は腕を枕に机に突っ伏して寝てしまったようだ。

 クレアに具体的なイメージを抱いていたわけではないが、彼女への認識に若干修正を加える必要がありそうだと、早人が考えていると、突如がばっと起きた少女は「ぶつかる」と声をあげて窓の外を指差した。

 早人は反射的に窓の外へ目をやったが、特に変わった様子はない。

 そこへ建物の上の方から地面に向けてカラスらしき黒い影がよぎったので、(カラスかよ)と苦笑いしながらクレアの方を見たのだが、ゴスロリファッションに身を包んだ黒髪ストレートの顔面は、ネットサーフィンをしているときにブラクラ画面に遭遇してしまったかのように青ざめていた。


 やがて、思い出したように左袖を引っ張られた早人は、「ねえ、あのカラス、何とかならないの」と怒気を含んだ言葉が飛び出すのではないかと、あらぬ妄想が瞬間的に浮かんだが、そんな予感を飛び越えて「あなた、見なかった?」と訊かれた。


「え、カラスでしょ?」と質問に質問で返してはいけないというどこかで聞いた会話での原則を破ってしまい、自分でも愚かだなと思いつつ、しかしそれ以外に返答しようもなく、早人は予期せずしてクレアと見つめ合う形となった。


 少女は「こんな簡単な問題も解けないなんて、この人、大丈夫かしら」という目をしていたので、早人は慌ててもう一度窓の外を確かめた。

 のんびりとしたこの海沿いの街の景色の中に何かが隠されているのか。


(それとも、この娘、ヤバイのかな)


 頭の病気とか、薬のやり過ぎとか、その手のことを勘ぐっていると、早人の隣に座っていた友人が、クレアとのそうしたやり取りを見て、持っていたシャーペンでノートの端にささっと何やら書いて、肘で早人に合図を送って突き出してきた。


(お前に気があるんじゃないか)という友人の殴り書きの横に、早人はすかさず(そんなワケないだろ)と書き足した。

 だが、妙な形ではあったが憧れのクレア嬢とお近づきになれて、早人としては光栄しごくといったところだ。


            *


 クレアは、隣にいた前髪をパッツンと切ったモッズヘアの男子学生に、窓の外に何か見なかったかと質問したけれど、このヘラヘラ顔の男子学生に見えたのはいつもこの辺に屯しているカラスだけで、どうやらあの天使は見えていなかったらしい。

 これでは自分だけが幻覚を見ていたということになってしまうではないか。

 クレアが叫び声を上げて窓の外を指差した瞬間、学生たちの注意がホワイトボードから窓外へと移ってしまい、教壇に立っていた助教授の吉村は、しかたなく講義を止めて窓の近くまで歩み寄った。

 クレアの周りがまだざわついているので、ご丁寧に窓を全開にして校舎の上から下まで身を乗り出して覗き込んだが、一羽の烏らしき黒い鳥が地面に舞い降りたのが見て取れるだけだった。

 吉村は(彼女なら寝ぼけて烏に驚くことも十分あり得る、やれやれだな)と思った。

 クレアは首を伸ばしてまだ表の様子を探っていたが、それには構わず「それでは授業を続けます」と一言述べて、パーミアンスとリラクタンスについての講義を3分ほど前まで遡って再開した。

 この教室は女子学生の数が圧倒的に少ない。

 男子学生ばかりの中で玉那覇クレアの存在は特に目立つ。

 吉村はその手の服装に詳しくないので、ダークなフランス人形風というか、もしかすると何かのコスプレなのかとも思ったが、よくわからない。

「それ系」の黒っぽい服装でいつも講義を受けに来ているので、厭が追うにも覚えてしまう。

 いつも彼女一人で授業を受けていて、周りには特に知り合いらしき人もいない。

 吉村が授業を終えると、片づけを始めた自分の元へよく質問しにやってくる。

 吉村にとっては基本的過ぎる質問ばかりだったが、自分の講義をそれだけ真剣に聞いてくれている証拠でもあるのだ。

 感謝の気持ちを込めてできるだけ丁寧に答えようと決めた。

 最初の頃は、吉村があまりに熱心に答えてしまったためか、彼女が無表情で話を聴いていることに気づき、これはまずいと感じた。

 それ以降、質問への答えはできるだけ手短に纏めて話そうと彼なりに気を配るようになった。

 そんな吉村の努力も空しく、クレアはいつもつまらなそうな顔をして聴いているので、冷や汗が出る思いだった。

 しかし最後は「どうもありがとうございました」とにこやかにお辞儀をして去っていく。

 その笑顔で吉村はほっと胸を撫でおろしながら彼女の後ろ姿を見送るのだ。

 それにしても今日の彼女はどうしたことか。

 授業中机に突っ伏したり、寝ぼけて声を上げたり、挙句は隣の学生と無駄話を始める始末で、表面上は冷静に講義をしながら、吉村は内心腹が立っていた。

 クレアの隣にいる男子とはいつから知り合いになったのだろうか、これまで他の男子学生と親しくしていたのを吉村は見たことがなかっただけに苛々させられた。


      *


 ヨシムラ先生が窓を開けたとき、クレアも同じような姿勢で近くの窓から首を伸ばし、消えた「天使」の形跡が残っていないか探したが、それらしき跡は見当たらなかった。


「このカラスじゃないことだけは確かよ」


 自分自身に言い聞かせるようにクレアは言った。

 カラスが舞い降りて木製のベンチの横にあるごみ箱の近くをぴょこぴょこと軽くジャンプしながら小さな獲物を漁りはじめたとき、今見た天使と同じ「絵柄」をつい先ほど見たことを想い出した。

 ポシェットに中に折りたたんであった縦15センチ横10センチほどのチラシだ。

 キャンパスのある駅から改札を抜けて少し歩いたところで、青いウインドブレイカーを着たポニーテールのお姉さんから手渡されたものだ。

 美容室とかエステとか、スマホのショップとかのチラシが配られているのをよく見かけるが、受け取ることはあまりない。

 この日はチラシを配っていたお姉さんの渡し方がうまかったのか、気づいたら指先でつまんでいた。

 中身をよく確かめることもなく、あとでゴミ箱に放り込もうとポシェットに仕舞っていた。

 授業の再開を告げるヨシムラ先生の声がして席に戻ったクレアはたすき掛けにしていたポシェットから畳んだ紙片を取り出して机の上で開いてみた。

 隣にいた早人が横目で覗き見しているのに気づいて、チラシの表を早人の方に向けて「あった、これよ」と左上に描かれた天使のようなイラストを指差した。


「このイラストと同じヤツが・・・」


 飛んできたという言葉をクレアは飲み込んで相手の顔をちらっと見た。

 それが思いのほか大きな声となってしまったのか、ヨシムラ先生がこちらを向いたので、クレアはご免なさいと謝るつもりで頭を下げた。


「このイラスト、見たことない?」とクレアは質問の仕方を変えた。


 早人は、このキャラクターに見覚えがあった。

 確かワルキューレとかヴァルキリーと呼ばれる女性戦士の姿のはずだ、まったく同じものではないが、ゲームやアニメで似たようなものを見た記憶がある、と早人は思った。


「これはワルキューレだな」と早人は独り言のように呟いた。


「ワルキューレ」

 と、お菓子の名前でも呼ぶようにクレアは繰り返した。


「ワグナーのワルキューレの騎行って曲、知ってるかな」


 早人がワルキューレについての説明を始めようとしたので「知ってるわよ、馬鹿にしないで」とクレアはすぐさま答えた。

 クレアは幼い頃からバイオリンを習っていた。

 中学時代には幾つかのバイオリンコンクールで優秀賞を取ったこともある。

 バイオリンの先生はクレアの才能を見込んでプロになることを薦めてくれたこともあるが、クレア自身はあまり乗り気ではなかった。

 バイオリンを弾くことは好きだったが、プロにまでなる気はない。

そんなに甘いものではないと子供ながらに感じていた。

 プロを目指したとしてもきっと一流にはなれない。

 一流になれないのであれば、プロになってもしかたがない。そういう思いがあった。

 母親は先生の言葉を鵜呑みにして一時はクレアに音大まで行くことを薦めたこともあるが、父親は渋い顔をしていた。

 クレアはバイオリンを弾くのと同じぐらいに機械いじりが好きで、特に高校に進学してからはコンピュータや電子系の機械への興味が高まった。

 だから工学部へ進むことは自然な選択肢だった。

 そのような経緯もあって、クレアにとって音楽といえば、クラシック音楽のことであり、ワグナーを知らないわけがない。

 ワルキューレの騎行といえば、ニーベルングの指輪というとてつもなく長い楽劇の第二部「ワルキューレ」の序章で演奏される曲だ。

 コッポラの地獄の黙示録という映画に使われて有名になったことも知っている。

 だが、そこに描かれている女性はクレアが知っているワルキューレとはかなり違う。

 クレアが絵画を通じて知っているワルキューレは兜をかぶり馬に乗っていた。

 剣を携えた勇ましい出で立ちこそ共通しているが、自らの背中に羽が生えていては「天使」ではないか。

 納得がいかなそうなクレアの表情を読み取った早人は、スマホの画面に、アニメやゲームに登場する「ワルキューレ」や「ヴァルキリー」たちの画像を映して差し出した。

 なるほど、そういうことか。クレアはすでにゲームやアニメのヒロインと化している女性たちの姿を見て納得した。

 クレア自身、最近までゲーム会社のアルバイトでデバックの仕事を手伝っていたが、この手のゲーム、いわゆるRPGについてはあまり詳しくなかった。

 それにしても、どうしてこの女性の幻を自分は見たのだろうか。

 クレアはイラストを眺めて、自分の記憶にない姿であることをもう一度確かめた。

 するとチラシの裏にはワルキューレのほかに、動物の着ぐるみを着たような変なキャラクターも描かれていることに気づいた。

 耳が長いことから、ウサギなのか、身体は二頭身でデフォルメされている。

 イラストの下に小さな文字で「ネルバちゃん」と書かれている。

 これがこのキャラクターの名前なのか。

 ネルバってどういう意味なんだろうと、クレアは思ったが、「眠るバニー、略してネルバ」みたいな、よくある下らない語呂合わせかなにかで、特に意味などないに違いない。

 どこにでもあるようなイラストだが、それは色というか柄に特徴があった。

 紫と黄色のチェッカー柄で、黒と白を基調としたクラシカルロリータファッションを愛するクレアからすると悪趣味そのものといえた。

 そのイラストがあまりに印象的なため何が目的のチラシなのか判然としなかったが、右に書かれたキャッチコピーらしきものにはこう記されていた。


「さあ、キミも世界を救う旅に出よう!」


 旅行代理店のコピーかと思ったが、表に刷られている文字はその一文だけで、具体的にどこへ旅するのかさっぱりわからない。

 チラシの下の方には、Y市コドモミュージアムの住所と電話番号、それに場所を示す簡単な地図が添えられていて、イベントの期間は今月五月のほぼ一か月間、集合時間は午前十一時と書いてあった。

 クレアがスマホで時間を確かめると、デジタルの数字は十時四十三分を指していた。

 あと七分ぐらいでヨシムラ先生の講義が終わる。

 だが、420秒という、今のクレハにとっては途轍もなく長い時間をこの席に着いたままじっとしていられそうになかった。

 コドモミュージアムというのは行ったことがなかったが、地図をみると大学のキャンパスのすぐ隣だ。

 このキャンパスに通い始めて二年目になるが、道を挟んだ隣にそんな施設があることを知らなかった。

 幻のように飛んできてぱっと消えたワルキューレとこのチラシに書かれたイベントとは何か関係がありそうだ。


 クレアはチラシを見ながら「パーミアンス、リラクタンス、ヌクレオチド、ワルキューレ」とまるで関係ない単語が脈絡もなく頭の中で繰り返されているのに気づいて「これじゃまるで馬鹿の子だわ」と自分でも呆れてしまった。

 高校まではかなり勉強ができたと自負しているし、弁護士の父の手前、実は法学部の試験も受けていたし、合格もしていたのだ。

 しかし、クレアが行きたいのならと、工学部へ進むことを父親は笑顔で許してくれた。でも、父は内心ではかなりがっかりしていたに違いないと感じる。

 そこまでして選んだのに、最近になってクレアは工学部に進んだことに迷い始めていた。

 機械をいじることは相変わらず好きだが、大学で学ぶ工学の理論や知識がどうも苦手になりつつあるのだ。

 さらに学部の中になかなか友達が増えないことにも焦りを感じていた。

 同じ学部の男子たちはクレアにほとんど話しかけてこない。

近寄りがたいと感じていたのか、女子に対して奥手であったり、真面目過ぎる連中が多いのか。

 クレアから男子に話かけようとしたこともあるが、高校は女子高で彼氏もなく三年間を過ごしてきたクレアにはハードルが高すぎた。

 どちらかといえばコミュ障に近いクレアだったし、多少の年齢を重ねたところで、同年代の男子に気軽に話しかけるだけの勇気は湧いてこなかった。

 もっと女子の多い例えば文学部や英米語学科とか、あるいは父が望んだように法学部に進んでいたら、どんな学生生活だったのかと思いを馳せることがあった。

 一流のバイオリニストになれないのなら、音大に進んでも意味はないと思っていた。

 弁護士は果たしてどうなんだろう。

 一流の弁護士になれなくても、弁護士になるという目標だけで何年間も学び続けることができたのだろうか。

 正直なところ、クレアは法律にはほとんど興味がない。


 チラシに書かれた「世界を救う旅」というイベントと、イラストに描かれたワルキューレとはいったいどんな関係があるのか。

 今日は講義の内容に一向に集中できていない。

 でも、大丈夫。パーミアンスはリラクタンスの逆数のこと、これだけは今日の授業でしっかり覚えた。

 ヌクレオチドは、塩基と糖がグリコシド結合によって結合した配糖化合物。化学アンド生物の知識もバッチリだ。


 クレアはチャイムが鳴る前に席を立つとヨシムラ先生の方へつかつかと進んで行った。


「先生、すみません、ちょっと急用ができました」


 クレアの言葉に瞬間、ヨシムラ先生は表情を曇らせたが、すぐに何かを察したように、「わかった、すぐに行きなさい」と扉の方を指差した。

 その時、早人は「一緒に来て」とクレアから誘いの言葉がかかるのを、わずかながらも期待していたが、クレアの黒いリュック型の鞄を背負った後ろ姿は、すでに教室から消えかけていた。

 クレアを見送ったあとで、ふと目が合ったヨシムラが自分を睨みつけていたので、早人はぎくっとした。

 ヨシムラは銀縁眼鏡の端を片手で押し上げると、ホワイトボードに書かれた関係式の数字や文字に目を戻した。

 睨まれたのは気のせいかと思ったが、それよりも、クレアがいなくなってからヨシムラの口元がにやけたように吊り上がっているのが、早人には不気味に感じられるのだった。

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