第37話 隠し部屋にて

 すっかり熟睡していたメリザンドは、『侵入者』に肩を揺すられてようやく覚醒する。けれども意識は半分夢の中。瞼も重く、まなこは開かない。


「ごめん、なさい……もう、朝食の時間、かしら?」


 危機感を微塵も抱かせぬほど、侵入者の所作は優しかったのだ。プルヴェ邸の女中の誰かが、起床を促しにきたに違いないと。

 客人として無礼があってはいけないという義務感が、メリザンドにようやく薄目を開けさせた。


「……ん、真っ暗ね。今朝は雨なの?」


 それにしては暗すぎるが、未だ冴えぬ頭はさしたる疑念を生じさせない。何者かが手にしているランプの明かりのみが、暗闇の中で淡く輝いていた。


「メリザンド……夜半に申し訳ありません。起きていただけますか」


 柔らかく耳に囁かれ、すぐさま正体を察知した。驚きに身体が跳ね、その勢いのまま起き上がる。


「あっ、わっ──プルヴェ夫人?!」

「静かに」


 と、夫人は口元に人差し指をかざした。ランプに照らされる彼女の様相は、いつもの何倍も強張っているように見えた。メリザンドは緊張に息を呑む。


「な、なにか緊急の用件でしょうか?」


 女中ではなく、夫人本人が起こしにやってくるなんて只事ではない。しかも暗殺者のように息をひそめて。


 プルヴェ夫人は、メリザンドを安心させるように微笑を浮かべた。けれど未だ表情は硬い。


「誰にも知られぬよう、あなたに会わせたい人がいるのです。手短に身支度を整えてください」

「……わかりました」


 メリザンドは多くの疑問を胸中で押し潰しながら、素早く寝台から抜け出す。髪を梳き、簡素な部屋着をまとい、大判のショールを羽織った。


 それからプルヴェ夫人の持つランプの明かりだけを頼りに、暗い室内を進む。隣室に設えられた本棚の位置が変わり、横に小さな隠し扉が現れているのを視認したとき、驚きに「えっ」と声が漏れた。


 隠し扉自体は、公式寵姫の部屋にも存在しているため、見慣れたものだった。しかしまさか、プルヴェ家別荘の客間にまで同様のものがあるなんて、思ってもみなかった。


「なにも尋ねないのですね」


 扉の前で夫人は言った。メリザンドからは、彼女の後ろ姿しか見えない。


「ええ。この扉を抜ければ、すぐにすべてがつまびらかになるのでしょう? 余計なおしゃべりをしている時間が惜しいですわ」


 わずかに言葉に棘が混ざった。心の中には、昼間夫人に言われた台詞がぐるぐると渦巻いている。


『わたくしはあなたのことが好きです。そばで助けて差し上げたいと思っています』

『──けれど、場合によっては……』


 このときの夫人の言葉は、今宵のことを指していたのだろう。


 ──こんなにも早く『伏線』を回収してくるなんて、夫人ったらせっかちさん。


 動揺をごまかすため、あえておどけたことを考える。しかし、こんな状況下で会わせたい人物とはいったい……。


 さすがに扉の先でグサリとやられたりはしないだろうが、それでも相応の覚悟が必要だろう。


「どうか、なにがあっても声を荒らげないで……」


 念押ししながら、プルヴェ夫人が扉を開ける。

 その先に待ち受けていたのは、談話室風の小部屋。燭台の蝋燭が煌々と輝き、部屋に満ちる闇を押しのけていた。


 据えてあるのは、丸いテーブル、二脚の椅子。片方に、目深にフードをかぶった男が腰かけていた。

 その背格好、放たれる雰囲気……彼が誰なのか、メリザンドにはすぐにわかった。


 ──なぜ……。


 疑問と共に数多の感情が噴出しそうになったが、淡々としたプルヴェ夫人の言葉がメリザンドの心を落ち着かせた。


「言うまでもありませんが、ここは密会用に作られた部屋です。奥にある扉の先は通路になっていて、わたくしの寝所や裏庭に通じています。ですが複雑に入り組んでいるので、決して一人で進んではなりませんよ」

「は、はい」


 神妙な返事をしたあと、フードの人物へと声をかける。


「リュシアンさま」


 男は意外そうに身じろぎしたが、すぐにフードを取り払った。銀の髪がはらりと揺れ、白皙の美貌があらわになる。しかしその表情に、複雑そうな色をたっぷりとたたえていた。


「これはどういうことでしょう?」


 メリザンドはリュシアンから目線を外し、プルヴェ夫人へと尋ねた。夫に質問をぶつけても、不愉快になるだけだとたっぷり学んできたから。


「どうしてこんな夜更けに、こっそりと……。しかも夫人のお手を煩わせて……」


 非難がましさを隠さず言うと、夫人は諭すような声音で答えた。


「公式寵姫がその役目を外されている間に、本来の夫が尋ねてきたとなれば、どこでどんな噂が立つかわかったものではありませんから。醜聞の種になりえるものは、些事でも避けるべきです」

「それはそうですが……」


 プルヴェ夫人の言いたいことは理解できるが、十全に納得できない。さらなる質問をぶつけようとしたが、夫人の視線はすでにメリザンドから外れていた。


「さあバルテ侯爵。心の内を存分に吐露なさいませ。わたくしはあちらにおります」


 と、メリザンドが元いた客室へ引っ込んでしまった。扉が小さな音を立てて閉まると同時に、メリザンドは小さく嘆息する。


 それからようやくリュシアンを顧みると、眉間にたっぷりしわを寄せたまま押し黙っていた。メリザンドは夫の美貌を堪能しながら、内心で腹を立てる。


 ──早くなにか言って欲しいわ。まさか、わたしに口火を切らせるつもり?


「あの」

「元気そうで……なによりだ」


 おずおずと告げられた第一声に込められた響きは撫でるように優しく、メリザンドは思わず目を丸くした。

 やがてリュシアンの緑の双眸がゆっくりと動き、メリザンドを捉える。二人の視線が、久方ぶりに交わった。


「プルヴェ夫人から聞いた……。王宮暮らしは息が詰まると」

「……ええ」

「慣れぬ暮らしを強いて、悪かった」


 夫から向けられるぎこちない優しさに、メリザンドは何度も何度もまばたきをした。頭の中に大量の疑問符が浮かぶ。


「……どういう心境の変化です? あるいは、わたしの目の前にいらっしゃるのは、本物のリュシアンさまではないのでは?」

「あんまりな物言いだな」

「わたしたちは、『そういう夫婦』だったはずです」


 つんけんした態度で答えると、リュシアンはわずかにムッとしたようだったが、すぐに苦笑のようなものを浮かべた。


「そうか……そうだったな。すべて、わたしが悪い」


 と、髪と同色の細い眉をわずかに歪めた。途端、彼の美貌が得も言われぬ愁いを帯び、メリザンドの心臓をドクドクと激しく収縮させた。


 ──ああ、これは……苦しい!


 胸を掻きむしりたくなるようなこの想いの正体を、メリザンドは必死で見て見ぬふりした。


「せっかくプルヴェ夫人がくださった機会だ。どうか、腰を据えて話をしてはもらえないか」


 夫の冷静な声に、なんとか我に返る。


「そう……ですわね。夫人の顔を立てましょう」


 そんな建前を述べずとも、リュシアンの提案はメリザンドの望むところだった。きっと今なら、『普通に』話ができるはずだ。


 心身ともに離れ離れだった夫婦は、数か月の時を経て、小さな談話室で真っ直ぐ向かい合った。

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