離宮にて
第36話 王宮を離れて
ヴィクトワールとの別れからほどなくして、メリザンドは王都近郊にある離宮へと身を移すことになった。
身重の王妃が産み月に入ったためである。
それは、公式寵姫制度にまつわる慣習の一つ。愛人不在の王宮で、王妃が安心して出産に臨めるように。
そして、万が一王妃が出産で命を落とした場合、公式寵姫は喪が明けるまで王宮に近付くことを許されない。
一見すると不健全な公式寵姫制度だが、その中には王妃の誇りを守るための決まりがしっかりと組み込まれている。歴代の王と寵姫がそれを遵守してきたからこそ、他国では類を見ない制度が数百年に渡ってまかり通っているのだろう。
「ねぇプルヴェ夫人、王妃殿下の出産は、大勢の方々に公開されるというのは本当なのですか?」
緑豊かな離宮の庭を散策しながら、メリザンドは隣を歩く夫人へ尋ねる。
「それは昔の話ですよ。現在は、厳選された女性数名のみが立ち合います」
「そうですか……」
他人のことながら、ほっと胸を撫で下ろさずにいられなかった。誘拐や取り換えを防ぐためとはいえ、衆人環視の中で出産するなんてたまったものではない。
心配事が一つ晴れたメリザンドは、上機嫌で夫人へ身を寄せる。王宮とは違い、他人の目を気にする必要がないからだ。
「ねぇプルヴェ夫人、あなたのお家の別荘も、この近くにあるんでしょう? 今度招待してくださいませ」
「ここよりもずっと手狭ですよ」
「構いませんわ。大切なお友達に招待いただくことにこそ意味があるんですもの。そのときは、お泊りしてもよろしい?」
「あらあら、もちろんです」
微笑ましそうなプルヴェ夫人につられて、メリザンドも笑みをこぼす。今は余計な取り巻きたちもおらず、姉のように慕う夫人と二人きりで、心が弾む。
ここへ来たばかりの頃は、何人ものご婦人たちが遊びに来てくれたのだが、周囲には自然以外なにもなく、みんなすぐに飽きて王都へと帰ってしまった。
メリザンド自身は、この風光明媚な土地をいたく気に入っているのだが……。
「国王陛下と離れ離れになって、寂しいですか?」
唐突なプルヴェ夫人の問いかけに、メリザンドは思わず足を止めていた。即答することができず、ただ目をぱちくりさせる。
「……え、ええ、そうですね……」
かろうじてそれだけ絞り出してから、取り繕ったように続ける。
「い、一番心配なのは王妃殿下のことですわ。無事にお生まれになればいいのですが」
「七人目ですもの、すっかり慣れたものでしょう」
しかし、何人目であろうと出産が命がけであることに変わりはない。
ゆえに多くの貴婦人は、妊娠が判明すると自らの肖像画を描かせるのだ。もちろん、遺影として。王妃も、妊娠のたびに子どもたちとの家族画を描かせていた。
それだけでなく、遺書さえ書く者も多いと聞く。
──本当に、何事もなければいいけれど……。
感傷的な気分になったメリザンドは、つい己の真情を吐露していた。
「ごめんなさい、夫人。本当は、長期休暇をいただいたかのように自由な気分なのです……。寂しいという気持ちはありません」
責められるかと思ったが、プルヴェ夫人はメリザンドの背に優しく手を置く。
「あなたの気持ち、わかります。王宮暮らしは息が詰まりますものね」
「ええ……」
小さな離宮での暮らしは、静かで簡素なものだが、不満はほとんどない。
好きな装いをして、好きな時間にお茶を飲んで、好きな時間に散策をして。まごうことなき『自由』だ。
なにより、王の夜伽を務める必要がないことが嬉しかった。男女の行為は決して苦痛なわけでないが、欲求不満になるほど好んでもいなかったのだと改めて実感させられた。
王からは、「いざとなればこれを使え」といかがわしい道具を持たされたが、絶対に日の目を見ることはない。
それらのことに罪悪感を覚えはするが、束の間の自由を満喫したってバチは当たらないはずだ。
「そのカメオのネックレス、久しぶりに見ましたわ」
プルヴェ夫人に言われ、鎖骨のあたりを押さえる。そこで揺れているのは、公式寵姫になる前に王から賜ったシェル・カメオ。椿の花を髪に飾った乙女が彫られている。
「ええ、とても気に入っているのですが、宮中で着るような華美なドレスには合わなくて……」
王からしてみれば、このカメオは膨大な贈り物の中の一つに過ぎず、特別に気に掛けるものではなかったのだろう。彼の前では一度も身に着けていないにもかかわらず、それを問われることはなかった。
もしかすると、側近が適当に選んだものなのかもしれない。
それだけでなく、公式寵姫として王宮にあがってからは、椿の花の贈り物さえなくなってしまった。宮中にも椿はほとんど見られず、わずかな品種が温室の片隅にあっただけ。
──王宮に戻ったら、もっと椿を増やしてもらおうかしら……。庭の花に口を出す権利くらい、行使してもいいわよね。
小さなため息と共にそう決意したとき、プルヴェ夫人が声をかけてきた。
「メリザンド、あの……」
「どうなさいました?」
隣を歩く彼女を窺うと、眉尻を下げ、なんだか思い詰めたような表情をしていた。わずかな沈黙のあと、意を決したように口を開く。
「メリザンド、以前も言いましたが、わたくしはあなたのことが好きです。傍で助けて差し上げたいと思っています」
「い、いきなりどうなさったの?」
戸惑いながら尋ねると、プルヴェ夫人はメリザンドからふいっと視線を逸らした。
「けれど、場合によっては……」
そこまで言って、プルヴェ夫人は口をつぐむ。彼女の灰色の瞳に宿るのは、追及を拒絶するような冷たい光。
さっきまで穏やかに会話をしていたのに、どうして彼女は
胸中が不安でいっぱいになったが、メリザンドはあくまで冷静に答えた。
「わかっております、夫人。誰だって、常に他者のために行動できるはずがありませんもの。ことさら、宮廷で賢く立ち回ろうと思ったら、自分本位の行動をとらざるを得ない場合もあるでしょう」
「メリザンド……」
「夫人、わたしは覚悟を決めておきます。だから、どうぞあなたの思うままに行動なさって」
あっさりとこの台詞を言えたことには理由があった。
実のところ、メリザンドはプルヴェ夫人のことを十全に信頼しているわけではない。
リュシアンとの結婚の真実を知りながら、それをひた隠しにされていたことを、完全に許しているわけではないのだ。
プルヴェ夫人を姉のように慕いながらも、ごくわずかな距離を置いている。
だからきっと、夫人がメリザンドを『裏切る』ときが訪れたとしても、メリザンドは彼女を嫌いにならずに済むだろう。
***
それから数日後、プルヴェ伯爵家の別荘に招待されたメリザンドは、裏庭の池にボートを浮かべたり、詩を朗読したり、使用人たちを巻き込んで夜遅くまでカードゲームに興じたりと、存分に羽を伸ばした。はしゃいだ、と言った方が正しいかもしれない。
環境が変われば、なんてことないお遊びにも特別感を覚え、心が高揚するものだ。
日付が変わってからようやく寝台に潜り込む。
プルヴェ夫人が用意してくれた客間はとても居心地がよくて、遊び疲れていたこともあり、すぐに深い眠りに落ちた。
ゆえに、小さな音と共に、間続きになっている隣室の本棚が動いたことになど気付くはずがなかった。そして、寝室の扉がギィと開いたことにさえも。
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